「結火様ー!」
名前を呼ばれて振り向くと、きよ、すみ、なほの三人娘が駆け寄ってきた。カナエに頼まれた作業を止めて、三人と話すために腰を屈める。
「どうされました?」
「そろそろ夕食の時間です!一緒に行きましょう!」
そう言われて、頷いた。三人と共に食堂へ向かう。
「結火様、仕事には慣れましたか?」
「何か分からないことはありませんか?」
「困ったことがあったらいつでも言ってくださいね!」
三人娘の言葉に感謝しながら、結火は口を開いた。
「ありがとうございます……あの、何度も言っていますが、私に“様”をつける必要はありません……」
そう言うと、三人はとんでもないと言うように首を振った。
「無理ですよ!」
「そんな失礼なこと!」
「絶対にできません!」
その言葉に結火はため息をつきそうになった。この屋敷の少女達は、カナエとしのぶを除いて結火の事を“様”をつけて呼ぶ。自分の立場がかなり微妙であるという事は分かっているため、そう呼ばれるのは、なんというか、心苦しいのだ。
――本当に“様”はいらないのにな。
結火はそう考えながら三人娘についていった。
夕食の後、アオイや三人娘は療養者達に薬を渡しに行ったので、結火は一人で食器を洗う。淡々と皿や御椀などを洗い終え、大きく息を吐いた。
「終わった?」
声をかけられて、振り向く。カナエが厨房に入ってきた。結火は静かに頷き、口を開く。
「他に、仕事は残っていますか?」
「備品の整理をお願いできる?今日はそれで終わっていいから……」
そう言われて、結火は軽く頷いた。早く終わらせて私室へ戻ろう。そう考えた時、突然カナエが結火の手を取った。結火は困惑して声を出す。
「胡蝶様?」
「結火さん、手が荒れてきたわね」
「ああ……そうですね」
その言葉に結火は無言で頷いた。水仕事が多いため、手の皮膚が荒れて、ガサガサしていた。
カナエが結火の手を見つめた後、懐から何かの包みを取り出した。
「……胡蝶様、それは?」
「保湿のための、軟膏よ。これを塗ってみて。こまめに手入れをしたほうがいいわ」
「……ありがとうございます」
結火がお礼を言ってそれを受け取ろうとしたが、
「あ、待って。私が塗りたいの」
「はい?」
カナエの言葉に首をかしげる。それに構わず、カナエは指で軟膏をすくうと、それを結火の手に塗り始めた。
「……」
結火はカナエの行動に驚きながらも、どう反応すればいいのか分からずそのまま固まる。カナエは指先で丁寧に軟膏を塗り広げていった。
「……」
その柔らかな手の動きに、優しさと労りを感じて、不思議な気分になる。
「……結火さん?なんだか手が熱くない?」
カナエの言葉に眉をひそめた。
「……そうですか?」
「ちょっといい?」
そう言ってカナエが結火の額に手を当てた。
「……少し熱っぽいわね。風邪かしら?」
「特に気分の悪さはありませんが……」
カナエが少し考えてから、そのまま結火の手を引っ張った。
「ちょっと診察するから、こっちにきて」
「まだ仕事が……」
「そんなのいいから。とにかく診察室に行きましょう」
カナエの様子に、拒否しても無駄だと分かった結火は無言でそのまま付いていった。診察を受けて、恐らくは風邪だろう、と診断された。
「身体を冷やさないようにして、もう休みましょうね」
そう言われて、大人しく頷いた。
翌日、高熱が出て、結火は寝込んだ。とても仕事には出られそうもない。
「結火さん、大丈夫?少しでも水分をとって」
「……」
カナエに介助してもらいながら、結火は無言で水を飲んだ。荒い息遣いで返事をするのも辛い。
息苦しくて身体の節々が痛い。全身が熱くてぼんやりする。
カナエが結火の額に冷たい手拭いを当ててくれた。それに感謝しながら、やっとのことで声を出す。
「……私は、大丈夫なので。もう仕事にお戻りください」
「ダメよ。ここにいるから」
「……寝てたら、治ります。胡蝶様にはお仕事があるでしょうから」
少し強めにそう言うと、カナエは少し迷いながらも立ち上がった。
「……分かったわ。でも時々様子を見に来るから」
「……」
無言で頷くと、カナエは心配そうな表情をしながらも部屋から出ていった。それを見送って、結火はゆっくりと目を閉じた。
誰かが額の手拭いを交換してくれた。ひんやりとして気持ちいい。そのまま、その誰かは頭を撫でてくれた。心地いい。もっとこうしてもらいたい。誰だろう。ああ、そうか。この温かい手は――、
「……ぇ」
「はい?」
聞き覚えのある声が聞こえて、パッと目を開ける。そこにはしのぶの姿があった。
「……」
「……」
お互い無言で見つめ合う。最初に口を開いたのはしのぶだった。
「こんにちは。今、なんと言ったんですか?」
「……いえ。なんでもありません。お気になさらず。それよりも、蟲柱様がこちらにいらっしゃるとは、どうされました?」
その問いかけに、しのぶが不貞腐れたような顔をした。
「……蝶屋敷は人手不足なので、早く治ってもらわないと困るんですよ」
そう言って、どこからか注射器を取り出す。
「……?それは?」
「解熱の薬です。さあ、腕を出してください」
そう言われて、結火はゆっくりと布団から腕を出した。しのぶが注射器を腕に当てる。チクリと微かな痛みを感じた。
「これで、熱は下がると思います」
「……ありがとう、ございました」
結火が小さな声でそう言うと、しのぶは軽く頷き、部屋から出ていった。
失敗したな、と結火は思う。高熱ででぼんやりしていたせいか、幼い時、同じように風邪で寝込んだ時の事を思い出してしまった。幼い自分を看病をしてくれたのは、母だった。そのせいで、思わず「母上」と呼んでしまった。しのぶは聞き取れなかったようだが、もしかしたら、聞こえないふりをしてくれたのかもしれない。
それにしても意外だった、と結火はぼんやり思った。姉のことで、自分を嫌っているらしいしのぶがこんなことをしてくれるとは思わなかった。カナエが頼んでくれたのだろうか。
そう考えながら、また目を閉じる。すぐに意識は遠くなった。
次に目を覚ました時、外は真っ暗だった。どうやら真夜中らしい。
「……ん?」
誰かの気配を感じて、横に目を向けると、部屋の壁にもたれてカナエが眠っていた。どうやら、仕事の後もずっと結火の看病をしてくれたらしい。
ゆっくりと身体を起こす。熱は下がったようで、すっきりしている。少し咳はでるが、身体はもう痛くない。しのぶの薬の効果だろう。
寒気を感じたため、箪笥から羽織を取り出し、身につける。そのまま、ゆっくりと厠に向かった。
部屋の外に出ると、冷ややかな空気が肌を刺す。羽織を持ってきて正解だったな、と感じながら廊下を歩く。用を足してから、まっすぐに私室へと戻った。
ふと、外に目を向けると、真夜中のため当然だが、蝶屋敷の庭は静まりかえっていた。暗闇の中、手入れが施された草木や花が見える。結火はゆっくりと、誰もいない庭に降りた。
上を見上げると、雲一つない夜空には無数の星が光っていた。空気が澄んでいるおかげか、星がいつもより近くで輝いているような気がする。
綺麗だな、と思いながら星に見とれていたその時だった。
「――ユウさん!」
手を強く掴まれた。驚いて振り向くと、カナエがそこに立っていた。なぜか走ってきたように、息切れをしている。
「……胡蝶様?どうされました?」
「そ、それはこっちが聞きたいわ。目が覚めたらあなたがいないから、心配で――」
「ああ……」
結火は頷いた。
「申し訳ありません。厠に行っておりました」
「……そう。もう戻りましょう。身体は大丈夫なの?」
「はい。もう熱も下がったようで……」
「でも、ここにいたらまた熱が出ちゃうわ。早く部屋に戻りましょう」
その言葉に結火は大人しく頷いた。
カナエが結火の手を強く握り、部屋へと引っ張っていく。結火はカナエから手を離そうとしたが、カナエがそれを許さなかった。
「……あの、胡蝶様。手を……」
「……ダメ」
カナエがますます結火の手を強く握った。その力の強さに驚いて声を出す。
「胡蝶様?」
「……い、今、怖かったの」
「何が、でしょうか?」
結火が困惑しながら尋ねると、カナエが震える声を出した。
「星を見ている、あなたの後ろ姿が、……あまりにも儚げで……そのまま、消えてしまいそうで……」
その言葉に、結火は目を見開く。そして、
「――ふふっ」
思わず笑った。カナエが驚いて振り向くが、一瞬で結火の表情は仏頂面に戻っていた。
「……今、笑った?」
「はい。慌てるあなたが、なんだか可笑しくて。……先ほど、私の事を、前の呼び名で呼んでいましたね」
「……あ、そうだったかしら?」
「それほどまでに、混乱してたのですね」
カナエが少し膨れて、口を開いた。
「当たり前でしょう。あなたが、いなくなったら、私……」
「いなくなりません」
結火はキッパリと言った。
「私が生きる場所は、ここです。どこにも行きません」
「本当?」
「はい」
それでもカナエは不安そうな顔を消さなかった。ようやく部屋にたどり着いて、結火は布団に入る。
「何をそんなに心配してるんです?」
「……私ね、時々、思うの。知らないうちに、あなたが、いなくなってしまうかもしれないって。私を置いて……どこか遠くへ行ってしまうような気がして……」
暗い表情でうつ向く。そんなカナエを結火はぼんやりと見つめた。布団に入ったら眠くなってきた。ウトウトしている結火を見つめて、カナエが言葉を重ねた。
「……どこにも行かないでね。そばにいてね。ずっと、ずっと一緒にいて」
小さな声でそう言うカナエは、まるで小さな子どもみたいだった。夢の世界に半分足を踏み入れながら、結火は彼女を見つめる。カナエの様子を見て、急にいじらしさを感じた。寄り添いたい、と思った。その瞬間、結火の口は勝手に動いていた。
「カナエ」
その言葉に、驚いたようにカナエが顔を上げる。結火の瞳はほとんど閉じていたが、それでも言葉を続けた。
「……約束しよう……例え、どこかに行っても……必ず、ここに、帰る……」
そのまま、結火の意識は遠くなった。カナエはしばらく呆気に取られてその姿を見つめていたが、徐々にその表情が綻ぶ。そして、
「……約束よ」
そう呟いて、結火の手に自分の手を重ねた。
目が覚めたら、残念ながら真夜中の出来事は全て記憶に残っていた。
「……」
自分の言動を思い出して頭を抱える。夢うつつでぼんやりした状態だったとはいえ、なんということを言ってしまったんだ。頭を抱えながら、障子を開けると、そこには既にカナエが立っていた。
「おはよう、結火さん。もう身体の調子は大丈夫?」
「……おはよう、ございます、胡蝶様。身体の方は問題ありません。ご迷惑をおかけしました」
笑顔が眩しくて、思わず顔をしかめる。反対にカナエは楽しそうに言葉を続けた。
「あら、もう呼んでくれないの?」
「……何のことでしょうか」
「うふふ。本当は覚えているくせに」
「ですから、何のことでしょうか」
「ねえ、もう一回、呼んで?」
「拒否します」
「やっぱり覚えてるじゃない」
言葉を交わしながら、二人並んで厨房へ向かった。
◇◇◇
胡蝶しのぶは任務を終え、疲れきった身体で街を歩いていた。蝶屋敷を目指して歩みを進める。
とにかく疲れた。帰ったら風呂に入って、少し休もう。その時、不意に結火の事を思い出した。あの人の体調がまだ悪いのなら、薬を追加した方がいいかもしれない。
そう考えながら歩いていると、ようやく蝶屋敷が見えてきた。門戸へと進んだその時、
「あら……?」
門戸の近くの影で、小さな人物が立っていた。炎のような黄色と赤の髪、大きな瞳を不安そうに揺らせ蝶屋敷を見つめている。彼は確か――、
「おはようございます」
しのぶが声をかけると、彼はビクリとして振り向いた。
「何かご用ですか?」
優しく微笑んで尋ねるが、彼は動揺したように目を白黒させて、
「あ、あの、……っ、その、あ、あね、……あのっ」
口を開いたが、言葉を詰まらせる。そして、
「……っ、失礼しました!!」
そう大声で叫んで走り去ってしまった。しのぶは特に引き留めず、その後ろ姿を静かに見送った。