「苦い?」
結火が薬湯を少しずつ飲んでいると、カナエが声をかけてきたので、そちらへ顔を向けた。
「……まあ」
そう答えて頷くと、カナエが心苦しそうな顔をして言葉を重ねた。
「ごめんなさいね、味はどうにもならなくて……。でも効果は抜群のはずだから」
「問題ありません。慣れています」
結火は肩をすくめ、それを証明するように一気に薬を喉の奥に流し込んだ。
しのぶの薬のおかげか、熱は1日で下がり、症状も治まった。すぐにでも仕事に復帰するつもりだったが、カナエからもうしばらくは休むように言われた。もう大丈夫だと反発したが、カナエは頑として首を縦に振らなかった。
「治りかけで無理しないで。油断しちゃダメよ。念のためもう少し休みましょうね」
優しい笑顔だが、有無を言わさぬ気迫に、結火は渋々引き下がった。
「……どうぞ」
「ありがとうございます」
しのぶが調合してくれたらしい、風邪薬を飲む。凄まじく苦い。嫌がらせでわざと苦くしているのではないか、と疑うほどに苦い。しかし、かつての闘病生活で慣れていた事もあり、苦痛には感じなかった。黙って黙々と飲み続ける。
「……」
ふと顔を上げると、しのぶがこちらを静かに見つめていた。珍しく何か言いたげな顔をしている。
「……何ですか?」
結火が声をかけると、しのぶは何かを言おうとして口を開いたが、
「結火さん、気分はどう?」
カナエがそう言いながら入ってきたため、言葉を出さずに口を閉じる。しのぶは、そのままカナエと入れかわるように出ていってしまった。
「……」
しのぶは何を言いかけたんだろう。なぜか様子がとても気になった。
「結火さん?どうかした?」
「いいえ」
カナエが不思議そうに尋ねてきたが、結火は適当に答えてカナエを見返した。
「……薬も飲み終わったので、部屋に戻ります」
「あ、ちょっと待って」
カナエがそう言って顔を近づけてきた。
「……」
顔には出さなかったが、驚きで身体が固まった。華やかな顔がすぐ目の前に見える。あまりにも近い距離に、息を飲んだ。そのまま、彼女は額と額をくっつけてきた。心臓が妙な打ち方をするのを感じた。微かに呼吸が乱れる。
「――うん、熱はないわね」
そう呟いて、カナエはようやく額を離した。どうやら熱を計っていたらしい。結火は額を手で抑えながら、カナエに声をかけた。
「こんな計り方、する必要あります?」
「あら、嫌だった?」
カナエがクスクス笑い、結火は顔をしかめた。そんな結火にカナエが言葉をかける。
「ねえ、体調が戻ったら、二人でお出かけしない?」
「……仕事がありますので」
「それなら、仕事を調整して休みを合わせるわ」
「……」
そうだった、今の上司はこの人だった。
結火はため息をついて、口を開いた。
「――お出かけってどこですか?」
「どこでも。あなたの好きなところがいいわ」
「……」
「考えておいてね」
カナエがニッコリ笑い、結火は何も答えず、視線をそらした。
◇◇◇
胡蝶しのぶは薬湯を手に、結火が寝ている部屋へ向かって廊下を歩いていた。その足取りは重い。気分がどんどん沈んでいく。正直言うと、彼女のために薬を持っていくのは気は進まない。でも、仕方ない。姉が望んでいるのだから。
しのぶの、現在の結火に対する心情は非常に複雑だ。
自分や姉と同じ、最強の剣士だった女性。恐らく、本来は自分よりもずっと強い人だったのだろう、と直感的に理解していた。以前感じた彼女の凄まじい気迫や反射訓練の動きから、それは明白だった。
もったいない。惜しいな、と思う。本当に。
彼女が病に冒されなければ、きっと今でも、鬼殺隊で多くの鬼を滅し、人々を救っていたのだろう。
そう思うのと同時に、彼女が憎くもある。相も変わらず姉は彼女に傾倒している。同じ屋敷に住み始めた事で、これまで以上に姉と彼女の距離は近くなった。最近のカナエが、ずっと上機嫌で幸せそうにしているのは誰が見ても明らかだ。姉の様子を思い出し、思わず舌打ちをしそうになった。お館様の頼みでなければ、彼女を今すぐにでもここから追い出したい。
しかし――、
「……はあ」
勝手にため息がこぼれた。結火の事が憎いが、それと同時に感謝もしているのだ。四年前、彼女が姉を助けた。姉の、命の恩人。彼女がいなければ、姉は確実に命を落としていただろう。
「……」
顔をしかめる。やっぱり気に食わない。
改めてそう思った時、庭の方から誰かの気配を感じた。素早くそちらへ視線を向ける。
「――あら」
しのぶは声を出した。結火が桜の木の下に立っていた。
庭へ降りて、ゆっくりと結火の方へ向かった。近い距離から静かに彼女を見つめる。
こうして見ると、弟の煉獄杏寿郎とは全く違うな、と思う。杏寿郎はいつも快活で豪快で力強く、正に炎を表したような男だった。
しかし、姉である結火は全然彼と似ていない。短いが、真っ直ぐな黒髪は夜の闇よりも美しく輝いている。降ったばかりの雪のように真っ白な肌に、気の強そうな瞳。凛とした美しさに思わず見とれた。
不思議な事に、桜の木を静かに見つめる彼女は、どこか弱々しく、目を離したらフッと消えてしまいそうな儚さがあった。
炎、というのは似つかわしくない。
彼女の姿は、まるで、少しずつ細くなり、消える寸前の小さな灯火のようだ、としのぶは思った。
その時、結火がこちらへ顔を向けた。
「……蟲柱様、どうされました?」
声をかけられて、なぜかビクリと震えたしのぶは慌てて口を開いた。
「薬湯を持ってきたんですよ。……寝ていないと、また熱が上がりますよ」
「ああ……、申し訳ありません」
結火は少し目を伏せて言葉を続けた。
「……少し、外の空気を吸いたくなって」
「部屋に戻ってください」
しのぶが命令するようにそう言うと、結火は頷いて木から離れた。
「どうして木の下にいたんです?」
結火と並ぶように歩きながらしのぶはそう尋ねた。結火は少し首をかしげるように口を開いた。
「……あの木は、いつ花が咲くのだろう、と思って」
「桜の木なんですから、春に決まっているでしょう」
しのぶが呆れたようにそう言うと、結火は少しだけ悲しそうな顔をして呟いた。
「……そう、ですね。もう、無理、だろうな……」
「……?無理とは?」
結火の言葉を不思議に思って問いかけると、結火は首を横に振った。
「いえ。なんでもありません」
そしてまた無表情に戻り、歩き続ける。
「……」
しのぶはしばらく無言で結火の顔を見つめていたが、やがて口を開いた。
「……昨日の事なんですけどね、男の子が蝶屋敷の前にいたんですよ」
「……はあ」
結火は突然の話に戸惑ったのか、僅かに眉をひそめて、しのぶの方へ顔を向けた。それに構わずしのぶは言葉を続ける。
「十二、三歳くらいの、炎のような髪を持つ少年です」
「……」
結火の足がピタリと止まった。しのぶも立ち止まり、結火をまっすぐに見つめて言葉を重ねた。
「屋敷に入ろうか迷っているような様子でした。こちらが声をかけたんですが、何も言わず、慌てて逃げてしまいました」
「……」
結火は一瞬目を閉じたが、すぐに開いた。そのまま深々としのぶに頭を下げた。
「……弟がご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
「……」
しのぶは何も答えない。やがて結火がゆっくりと頭を上げると、ようやくしのぶが口を開いた。
「あなたはご存じないでしょうけどね……、鬼殺隊で、あなたの噂が少しずつ広がっているんですよ。恐らく、弟さんはその噂を聞いたのではないでしょうか。それでうちを訪ねてきたのでは?」
「……そう、ですか」
結火は声が震えるのを必死に抑えて、うつむいた。そんな結火にしのぶが言葉を続ける。
「会わないのですか?」
「……」
何も答えられない。静かに手を強く握る。結火の様子を見つめながらしのぶが言葉を重ねた。
「きっと、とても会いたがっているでしょうね。……生前の煉獄さんのように」
その言葉に心臓を刺されたような鋭い痛みが走った。一気に呼吸が苦しくなる。血が出るほどに拳を握りながら、やっとのことで声を出した、
「……会いません。私は、弟には会いません」
「……」
しのぶの強い視線を感じる。結火はゆっくりと顔を上げて、しのぶと目を合わせた。しのぶは鋭い瞳で、結火を見据えていた。しばらく沈黙が続く。やがて、先に口を開いたのはしのぶの方だった。
「……煉獄さんはあなたをずっと探していました。あなたが絶対に生きている、また会えると、信じて……それが叶うことなく、亡くなって……、さぞ無念だったことでしょう」
「……」
「千寿郎くんも、あなたに会いたくて会いたくて、きっと勇気を出してここに来たのでしょうね……彼は姉も、兄も失くしてどんな気持ちだったか……」
目の前が暗くなったような気がした。それと共に、胸が潰れるような感覚がして、またうつむく。痛い。痛くて痛くて、それでも、必死に声を絞り出した。
「……もうやめてください」
胸の痛みを誤魔化すようにその場にうずくまる。しのぶから顔を隠すように膝に顔を埋めて、言葉を重ねた。
「会える、わけない」
「なぜ?」
しのぶの問いかけに、必死に声を絞り出して答えた。
「……こんなにも、弱くなった姿を見られたくない。強い姉を、信じている弟に、こんなにも、惨めで、弱い姿を……」
胸が苦しい。呼吸がどんどん乱れていく。
「それだけ、ですか?会いたくない理由は、それだけ?」
しのぶがそう問いかけてきて、結火は一瞬口を閉じた。体温が急激に上がったような気がした。手が震える。感情が混乱して、何かが胸の中で渦巻いていく。
そうだ。その通りだ。弱りきった姿を見られたくない。弟には、絶対に。
『姉上!』
その時、目の前に、杏寿郎の姿が見えたような気がした。あの、可愛くて朗らかな笑顔が――。
「……あ」
小さな声が漏れる。ゆっくりと顔を上げた。
目の前にいたのは、愛しい弟ではなく、無表情でこちらを見つめてくるしのぶだった。
しのぶは静かに結火を見つめている。何も言わない。無意識に、結火の口から言葉がこぼれ出した。
「……こ、怖かった」
声と同時に涙も流れそうになったが、それは必死に抑えた。それでも、声は震えている。情けない。そう思いながらも、しのぶを見つめながら言葉を続けた。
「……父を傷つけて、あの子達から父親を奪って、……家族を崩壊させてまで、剣士になったのに……、責務を果たすこともできずに、こんな身体になってしまって……」
ああ、そうだ。
今、自覚した。
「私は、弟に、失望されたくない」
誰よりも大切な弟に。
「……こんなにも、惨めで弱くなってしまった私を見たら、……弟達は落胆して、悲観して……失望するかもしれない。私は、……私という存在を、弟に拒絶されて、嫌われて、……傷つくのが、怖い……っ。もう、失いたくないんだ……弟だけは、失いたくない……っ」
最愛の家族に嫌われたら。そう考えるだけで、心が死んでしまいそうだった。
「――あの、笑顔を曇らせたくない」
大好きなあの笑顔が、絶望に染まるなどと、考えただけで吐きそうになった。
震えながら声を出す。
「……私は、やはり愚かだ」
両手で顔を抑える。
なんて自分勝手で、情けない。
何が剣士だ。何が炎柱だ。
本当の私は、こんなにも弱々しく、愚かだ。
涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。嗚咽が漏れそうになるのを必死に抑える。
その時、黙っていたしのぶがようやく口を開いた。
「本当に、愚かですね。それに思ったよりも馬鹿です」
冷静な声が聞こえて、顔から手を離した。そのまましのぶの顔を見上げる。しのぶはゆっくりと腰を下ろし、結火とまっすぐに目を合わせた。
「……あまりにも、強がりすぎて、……目の前の大切な物が、見えなくなってしまったんですね」
しのぶは懐から手拭いを取り出し、結火の顔を拭う。そして、少し怒ったような顔をして言葉を続けた。
「……弟さんの事を、こんなにも愛しているのに……自分の事しか考えていないんですね。弟さんが本当に望んでいることが、まだ分からないんですか」
「……望んで、いること」
小さく声を出す結火から目をそらすように、しのぶが素っ気なく言葉を紡いだ。
「……姉を嫌う弟などいるわけないでしょう。どんな姿になったとしても、……会いたい、と思うに決まってるじゃないですか。大好きなのだから」
まるで確信しているかのように、しのぶはそう言いきった。
そして、呆然としている結火の手を強く掴み、立たせた。
「ほら、しっかりしてください。部屋に戻りますよ」
そして結火を引っ張るようにして歩き始める。そんなしのぶを見つめながら、結火は口を開いた。
「……本当に、嫌われない、と思いますか?」
「当たり前でしょう。いくつになっても……姉という存在は、特別なものなんですから」
しのぶの後ろ姿を見つめながら、結火はまた問いかけた。
「……私は、どこで間違ったのでしょうか」
「さあ?私にもよく分かりませんよ。けれど――」
しのぶは振り向いて、結火と目を合わせる。そして、少しだけ慰めるように笑った。
「――あなたは、まだ、やり直せるのでは?家族というのは、……どんなに離れていても、必ず心は繋がっているのだから」
「……」
結火はまた泣きそうになって下を向く。そんな様子に構わず、しのぶは結火の手を引っ張って部屋へと連れていった。
◇◇◇
布団に横たわり、ぼんやりと天井を眺める。身体が怠く、頭がクラクラした。先ほどのしのぶの言葉が耳から離れない。
「……杏寿郎」
そっと、もうこの世にいない弟の名前を呼んだ。また、目の前にあの笑顔が浮かぶ。そして、
「……千寿郎」
もう一人の弟の名前を呼んだ。結火が覚えているのは、まだ幼い姿だ。ニッコリ笑う、父にそっくりな小さな弟。
あの、笑顔を、失いたくない。
「……結火さん」
その時、カナエの声が聞こえた。結火が返事をする前に静かに部屋に入ってきた。
「体はどう?きつくない?」
ゆっくりと天井から目を離して、カナエの方を見た。不思議なことに、カナエの姿を見た時、なぜかホッとして胸が温かくなったような気がした。
一瞬の後、気づく。自分が、カナエがここに来るのを待っていたことに。
カナエは結火と目が合うと、驚いたような顔をした。
「どうしたの?どこか、悪い?」
ゆっくりと起き上がった。カナエはその場に座り、結火の顔をのぞきこんできた。
「――結火さん?大丈夫?」
結火は震えながら、口を開いた。
「……ここに、いてください」
「え?」
「あなたに、ここに、いてほしい。……今だけ、で、いい、から……」
声が途切れる。また、涙がこぼれ落ちた。
ああ、情けない。また、人前で泣いてしまった。
そう思うのと同時に、突然、カナエが結火を抱き寄せた。強く抱き締められて、一瞬息が止まる。しかし、すぐに結火もカナエの背中に手を回した。温かい。そのぬくもりに救われたような気持ちになって、結火は口を開いた。
「……私は、愚かだ」
「どうして?」
「……何も、分かっていなかった。何も、見えていなかった。……どうしようもないほど、私は、愚かだ。やっと、気づいたのに……もう、あの子は、ここに、いない……」
「……結火さん」
「――会いたい。寂しい。寂しくて、寂しくて、……っ、心が砕けそうなんだ」
そのまま、結火はカナエの胸の中で涙を流し続けた。しばらく経ってから、カナエがゆっくり身体を離す。カナエが手を伸ばしてきて、その指が結火の涙を拭う。その手がそのまま結火の顔を包み込むように触れてきた。二人で静かに見つめ合う。徐々に距離が近づいた。すぐ近くにカナエの顔が見える。
そして―――、
「カナエ様!!」
突然、障子の向こうからアオイの声が聞こえて、結火は飛び上がってカナエから離れた。
今、私、何をしようとした―――?
我に返った結火は思わず座り込み、顔を両手で覆った。
一方、カナエは残念そうな顔をしたが、すぐに立ち上がり、障子を開く。
「どうしたの、アオイ?」
アオイは慌てたような声を出した。
「音柱様御一行が遊郭で上弦の鬼を倒しました!!」
カナエが大きく目を見開く。結火も驚いて、顔から手を離した。顔を見合せ、直後に二人揃って立ち上がった。
「怪我人は?」
「今から運ばれてきます。かなり大怪我らしくて――」
アオイの声を聞きながら、結火は素早く看護服を取り出し、着がえる。そして、カナエに声をかけた。
「胡蝶様、私は包帯とガーゼの準備をいたします」
「結火さんは、身体が……」
「私なら問題ありません。怪我人の処置を最優先に」
カナエは一瞬迷ったようだが、すぐに頷いた。そしてカナエと結火は二人揃って診察室へ向かった。
私生活が忙しく、6月は更新があまりできないかもしれません。気長にお待ちいただけたら幸いです。