その日は、どこまでも空が高くて、温かい日だった。柔らかな日差しが、煉獄家を照らしている。 風がふわりと吹いて、庭にある樹木から枯れ葉がひらひらと落ちた。 煉獄千寿郎は、門戸にて、箒を手に枯れ葉を掃除していた。
門戸周辺に散らばった枯れ葉を処分して、一息つく。ふと、後ろを向いた。そのまま遠くを見つめる。
兄が帰ってくるような気がした。絶対にありえないのに。
胸が詰まって、体が震える。その後に鈍い痛みが残った。世界にただ一人、置き去りにされたような感覚を覚える。
千寿郎はその痛みを誤魔化すように、門戸を大きく開いた。大丈夫。悲しみにも寂しさにも、慣れてきた。そのうちこの痛みも治まるはずだ。
そろそろ、夕餉の準備を始めよう。
そう思いながら、屋敷に入ろうとしたその時だった。
「……ん?」
何かの気配を感じて、千寿郎は振り返る。
道の向こうから誰かが歩いてくる。
誰だろう?
あの影は、どこかで見たような気が――、
そして、それが誰か気づいて、驚きで大きく目と口を開いた。口から弱々しい声が漏れる。
「……ぁ」
それ以上言葉が続かない。
道の向こうから歩いてきたのは、誰よりも会いたかった人物だった。
「あ……」
その人は、ゆっくりと千寿郎の方へ近づいてきた。
千寿郎の瞳に涙が浮かび、ポタリと零れる。手から箒が離れて、カタンと地面に落ちた。
一瞬の後、千寿郎は駆け出した。大きく叫ぶ。
「姉上!!」
涙を流しながら、結火に駆け寄る。千寿郎はそのまま姉に抱きついた。
「姉上……!姉上っ!!」
それ以上何も言葉が続かない。結火もまた、千寿郎を強く抱き締めた。
「千寿郎……」
小さな声で名前を呼ばれて、痛いほど強く抱き締められた。千寿郎は、ああ、夢ではないんだ、と思いながら涙を流し続ける。
二人の姉弟は強く抱き合い、そのまま泣き続けた。
しばらく経ってから、ようやく身体を離す。千寿郎はまだ泣きじゃくっていた。そんな弟の頭を撫でながら、結火は口を開いた。
「千寿郎……すまなかった」
そう言葉をかけると、千寿郎が絞り出すように声を出した。
「姉上……、姉上……っ、……会いたかった……ずっと、ずっと……兄上も……」
結火は小さく頷き、千寿郎の瞳を真っ直ぐ見つめる。大きな瞳だ。とても、懐かしい。予想していた通り、父と杏寿郎にそっくりだった。
炭治郎の話を聞いてから、千寿郎に会いに行くことをすぐに決心した。
小さな弟に、今までの事を謝りたかった。千寿郎は、自分の事を憎むかもしれない。恨むかもしれない。それでも、もう後悔はしたくなかった。
そして、もしも、許されるなら、私は――、
結火は深呼吸をして、千寿郎と視線を合わせた。
「お前に……話さなければならないことが、ある」
ゆっくりと口を開く。千寿郎は不安そうに結火の顔を見つめ返した。
「姉上……?」
「千寿郎……私は……」
その瞬間、喉の奥がギュッと詰まり、体が震えた。漠然とした不安が膨れ上がって、息苦しくなる。それでも、ゆっくりと深呼吸をして、震える手で千寿郎の肩を掴んだ。
「姉上……?」
「わ、私は……」
冷たい汗が流れるのを感じた。動悸が激しく鳴る。千寿郎から目を離して、うつむく。
そして、ようやく言葉を続けた。
「―――千寿郎。私は、剣士としては、もう、……戦うことができない」
その言葉を伝えると、目の前の小さな弟が身体を固くさせたのが分かった。千寿郎の顔を見ることができない。それでも、結火は震えながら小さな声で言葉を重ねた。
「……数年前、厄介な病で倒れた。治療は受けて、完治はしたが……、肺が、もう、まともに機能していないんだ。今も、呼吸どころか、……薬を飲まなければ、……通常の生活さえ送ることも、困難だ………」
ゆっくりと息を吐く。千寿郎は何も答えてくれない。それでも結火は言葉を続けた。
「……黙っていてすまなかった……そして、隠れていて、すまなかった……私は、身勝手な姉だ。お前達に、弱った事を知られたくなくて……、何よりも、失望されるのが恐ろしくて、今まで隠れていた。お前達の気持ちを考えずに、ずっとずっと……」
また涙がこぼれた。
その時、黙っていた千寿郎がようやく口を開いた。
「……どうして」
その言葉に、やっとのことで顔を上げる。千寿郎の大きな瞳から大粒の涙が零れ落ちるのが見えた。
「あ、兄上はずっと、ずっと、姉上を探して……っ、姉上が帰ってくることを信じて……、」
「……」
「どうして、どうしてどうして……っ」
「……すまなかった」
千寿郎の叫ぶような声に、結火は小さな肩から手を離し、その場で崩れ落ちた。地面に額をつけて、囁く。
「本当に、すまなかった……私の、身勝手な思いで、お前達を苦しめてしまった……」
「姉上……」
「……失望した、だろう。幻滅しただろう。こんなにも、弱い女で……、恨んでくれ、……憎んでくれ。――そ、それでも、千寿郎、私は……」
「許されるなら、私は、お前の、姉でありたい」
「……」
「ごめん、こんなにも、愚かで……本当にすまない」
「……」
「それでも、お前のことが、気がかりで……心配で……杏寿郎のような思いはさせたくなくて……」
必死に声を絞り出した。
「もう、私の顔を見たくないのならば、私はすぐに消える。もう二度と、お前の前に現れない………」
「なんでそうなるんですか!!」
突然千寿郎が大声を出して、結火はビクリと震えた。顔を上げるのと同時に、千寿郎はしゃがみこむ。そのまま結火の肩を何度も叩きながら言葉を続けた。
「姉上の馬鹿!!姉上は何も分かってない!!何も、何も……っ!!分かっていない!!」
「千寿郎……」
「後悔しているなら、もうどこにも行かないでください!!弱くってもいいんです!!戦えない事なんて、僕はどうでもいい!!どこにも行かないでください!!……っ、ずっとそばにいて!!」
そのまま千寿郎は大きな声を出して泣いた。結火は再び千寿郎を強く抱き締めて、
「すまない……本当に、すまない」
何度も謝り続けた。
しばらく経って、ようやく千寿郎は落ち着いた。大きな瞳は真っ赤になり、スンスンと鼻を鳴らしている。
「……兄上の」
「うん?」
「兄上のお墓に、何度も来ていましたよね?」
「……ああ」
結火は頷いた。
「気づいていたか」
「……誰かが来ていたのには、ずっと前から気づいていました。誰なのかは最近まで分からなくて……でも、鬼殺隊の方々の噂が……、姉上が生きていると聞いて……それで、姉上に違いないと思って……」
千寿郎は少し迷ったような顔をしてから、再び口を開いた。
「……僕も、姉上に、謝らなければならないことが、あります」
「ん?」
「……本当は、もっと早く蝶屋敷を訪れるべきでした。姉上があそこにいることを、知ってたのに……、でも、僕は、どうしても、姉上に会う勇気が出なくて……」
結火が首をかしげると、千寿郎はしばらく口ごもっていたが、やがて強く手を握りながら言葉を続けた。
「……僕は、鬼殺隊の、剣士にはなれません、でした」
「……」
「どれだけ、稽古を付けてもらっても……っ、日輪刀の色は、……変わりませんでした。僕には……姉上や兄上のような才は、ありませんでした……」
「千寿郎……」
「不甲斐ないです……申し訳、ありません……」
千寿郎がまた涙を流し、頭を下げた。その震える手を結火はそっと握った。
「……悲しかったな……悔しかったな……戦いたくとも、戦えない苦しみは、私が、一番知っている……」
「あ、姉上……」
「それでも、生きていこう、千寿郎」
強く強く、手を握りしめた。
「己の弱さに打ちのめされても、それでも生きていくんだ。前を向いて。そして、……自分が選んだ道を、進んでいくんだ。小さくても、心に火を灯して。そして、燃やしていこう。……今度こそ、一緒に」
その言葉に、千寿郎が大きく目を見開く。そして、言葉もなく、何度も何度も頷いた。
再び泣きじゃくる千寿郎の背中を、結火はずっと優しく擦り続けた。
やがて、千寿郎が顔を上げて問いかけてきた。
「……姉上」
「うん?」
「い、いつ、帰ってきますか?」
「……」
結火は言葉に詰まった。ゆっくりと屋敷へ視線を向ける。
「今は、蝶屋敷に住んでいらっしゃるんですよね?我が家には、いつ……」
「千寿郎、すまない。この屋敷に、……戻ることはできない」
千寿郎の顔が固まった。結火はそっと千寿郎の肩に手を置いて、言い聞かせるように言葉をかけた。
「……私は、もう随分と前に煉獄から縁を切られている。それでいて、己の責務を果たせなかった人間だ。……今更この屋敷に足を踏み入れるわけには、いかない。父上にも、顔向けできない」
「で、でも……っ」
千寿郎がすがりつくようにして、必死に声を出した。
「父上だって、きっと、許して……」
「……いいや、私が、許せないんだ。私は私を許せないんだ」
結火は小さな声でそう言うと、下を向いて唇を噛んだ。しかし、すぐに顔を上げて千寿郎を真っ直ぐに見つめた。
「案ずるな、千寿郎。屋敷に入ることはできないが……これからは千寿郎が望めばいつだって会える。私は常に蝶屋敷にいる。手紙も、書くから。だから、大丈夫だ」
そう言ったが、千寿郎はまだ納得できないような顔をしていた。そんな千寿郎の顔を見て、痛ましく思ったが、それでも結火の意思は変わらなかった。
父は、恐らく一生結火を認めない。家を捨ててまで戦う事を望んだ結火の事を受け入れる事はないだろう。そんな父の元に帰ることはできない。
その時、千寿郎が口を開いた。
「あの……」
「うん?どうした?」
「……父上は、恐らく姉上の事をご存知です」
「ん?」
結火は、千寿郎の言葉の意味が分からず、首をかしげた。
「どういうことだ?」
「……僕は、鬼殺隊の噂で、姉上が生きていることを知ったのですが……父上も、恐らく、どこかで姉上の事を知ったのだと、思います。何も言わないのですが……でも」
千寿郎は考えこむような表情で言葉を続けた。
「最近、父上が、……よく姉上のお部屋を見つめているんです。お部屋に入ることはないんですが……廊下から、ずっと、何かを考えるように、静かに見つめているんです……」
「え……」
結火は驚いて思わず声を出した。
「待て、千寿郎。……屋敷の私の部屋は、まだ残っているのか?」
「はい」
千寿郎が大きく頷いた。
「姉上の部屋にある、着物や私物も、全部そのまま残っております」
その言葉に結火は目を見開いた。
「……よもや。全て捨てられたと、思っていた」
「兄上が残しておくように、と。姉上がいつでも帰ってきてもいいように。父上も、特に何も言いませんでした……」
「……」
千寿郎が結火の隊服を掴んで言葉を重ねた。
「だから、きっと、父上も姉上の顔を見たら、きっと、お喜びになると思います……」
「……」
結火は何も答えることができずに固まる。ゆっくりと手を頭の方へ持っていき、赤い髪紐に触れた。そして、息を吐くと、首を横に振った。
「……やはり、今は無理だ。父上に、申し訳なくて……、合わせる顔がない」
「姉上……」
千寿郎が悲しそうな顔をするが、それでも父と話す勇気が出なかった。
父の顔を見るのが、怖い、と思った。
「……時間を、くれ。千寿郎……必ず、いつかは、父上と話すから……」
震える声で千寿郎に言葉をかける。
「……どうか、伝えてくれ、父上に……、どうか、体に気をつけて……ご自愛ください、と」
千寿郎は悲しそうな顔をしたが、それでも頷いてくれた。
結火も軽く頷き、そして、
「……私は、そろそろ行かなければならない」
そう言って、千寿郎の肩を再び優しく叩いた。
「すまなかったな、千寿郎。突然押し掛けて……」
「姉上、手紙を、書きます。蝶屋敷にも行っていいですか?」
「ああ、もちろん」
「絶対に、もうどこにも行かないでくださいね」
「大丈夫だよ、千寿郎。もう、一人じゃない。だから、安心して」
結火が微笑むと、千寿郎も笑い返した。
「お前もそろそろ屋敷に入りなさい。もう日が暮れる」
「はい」
千寿郎はその言葉に頷き、屋敷へと入る。そして、振り返るとペコリと頭を下げた。結火はそれを確認して、
「それじゃあ、また来る。ありがとう、千寿郎」
そう言って、その場から足を踏み出した。千寿郎はそのまま見えなくなるまで、結火の後ろ姿を見つめ続けた。
◇◇◇
結火は荒々しい足取りで歩き続け、やがて屋敷が完全に見えなくなってから、ピタリと足を止めた。そのまま屋敷の方を振り返り、ゆっくりと、息を吐く。また髪紐に触れて、目を閉じる。すぐに目を開けて、顎を少し上に向けて、空を仰いだ。
もう夜になる。そろそろ帰らないと、危険だ。
しかし、結火の足が向いたのは、蝶屋敷とは違う方向だった。
暗闇を突き破るように、強く足を踏み出す。
もう一つ、行かなければならない場所がある。
ポツリ、ポツリ、と糸のような細い雨が降ってきた。薄ら寒くて、寂しい雨。今の結火の心を、空が理解しているみたいだ。全身が濡れて、肌に隊服が張り付いた。生温い湿気に包まれて、体温が低下していくのを感じた。きっと、明日には、また風邪をひいてしまうだろう。それでも、真っ直ぐに前を向く。
結火は、杏寿郎の墓の前に立っていた。
「……杏寿郎」
小さな声で、弟を呼ぶ。崩れるように、その場に座り込む。
「杏寿郎」
また、名前を呼んだ。世界が崩壊していくような感覚に包まれた。
息が詰まりそう。
歪んだ現実に、ひとりぼっちで取り残されたみたいだ。
「杏寿郎…っ!」
今度は大きく叫ぶように、名前を呼んだ。雨の中、その声はかき消されて、吸い込まれていく。
ああ、会いたい
狂おしいほど、弟に会いたかった。会って、抱き締めて、頭を撫でて、そして謝りたかった。
「愚かな、姉で……すまない」
何百回も、繰り返し謝ってきた。でも、もう想いは届かない。
心臓が凍ったように、冷たくて、痛い。自分への怒りと憎しみと、そして後悔で、気が狂いそうだ。
もう終わってほしい。このまま、息を止めて。楽になりたい。終われ終われ。全て終われ。
この悲しみに、もう耐えきれないんだ。
もう何も見えない。
目の前が、真っ暗だ。
「結火さん」
声が聞こえた。
誰よりも、優しい声。
この人が来てくれるのを、ずっと待ってた気がする。
「結火さん」
顔を上げる。
いつの間にか、目の前には胡蝶カナエが立っていた。結火に傘を差し出して、心配そうな表情で見てくる。
「風邪をひいてしまうわ……」
結火はぼんやりと彼女を見つめ返した。
「胡蝶、様……」
「大丈夫?」
ゆっくりと、しゃがみこんで、結火を見つめてくる。そして、手を握ってくれた。いつも通り、温かい。
――なんで、この人はいつもこうなんだろう。
――どうして、手を握ってくれるんだろう。
指が重なる。また、涙が零れそうになった。
「結火さん」
名前を呼ばれると、またすがりつきそうになって、必死に耐えた。
ああ、この人に、抱き締められたい。
また、優しい声で名前を呼んでほしい。
手をもっと強く握って。
そうしたら、私は――
「一緒にいるわ。私も、ここに、いるから」
私は、また、生きることができるから
結火はユルユルと首を横に振った。
「……いいえ。あなたまで、風邪をひいてしまいます」
「そうしたら、一緒にしのぶやアオイに叱られましょう」
その言葉に、結火は下を向いて、カナエから手を離した。ゆっくりと立ち上がった。
「……帰りましょう。蟲柱様や神崎さんのお手を煩わせるわけにはいきません」
「……いいの?」
「はい」
結火が頷くと、カナエも立ち上がる。こちらをまだ心配そうに見てくる。
そんなカナエの手を、今度は結火の方から握った。カナエが驚いたような顔をする。
「帰りましょう、胡蝶様」
「……ええ」
二人、手を繋いだまま、寄り添うように歩いていく。湿った空気を吸い込む。いつの間にか、雨は止んでいた。
「よかった。今日は晴れそうね」
カナエが傘を閉じて、空を見上げながら呟いた。雨の匂いは残っていたが、雲は薄く伸びており、切れ目が見えていた。
もう夜明けが近い。
「……私は弱いんです」
小さく囁くように、結火は言葉を紡いだ。
「体が弱いのに、それを認めたくなくて、幸せを願ってくれた父を裏切ってまで、自分の道を進みました。……それが、正しいことだ、って信じて。今でも、あの時の決断を、後悔はしていません。私は、誰かのために戦う人間でありたい」
言葉を発するのが、怖い。ああ、やはり私は弱い女だ。
それでも――
「でも、結局、私の体は持ちませんでした。己の責務を果たせませんでした。弱い体を憎みました。恨みました。……でも」
自分の存在を、自分が肯定しなければ。
「でも、分かったんです。認めたくなかったけど。……本当に、弱いのは、私の心です」
そう言葉に出した瞬間、結火の瞳が熱くなった。
また泣いてしまった。もう前が見えない。うつむいて、声を絞り出す。
「……弱い。本当に、弱い。悔しい。もう、何も、見えない。目の前が、真っ暗なんです……」
涙を流し続けて、もうこれ以上、声が出ない。
その時、カナエが強い力で結火の手を握りしめた。
「結火さん、顔を上げて」
そう言われても、顔を上げることができなくて、首を横に振った。
「結火さん、ほら、見て」
優しく声をかけられて、ようやく顔を上げる。
「夜が、明けたわ」
その言葉に、空へと視線を向けた。いつの間にか、空が銀色に輝いていた。僅かな光が、世界を照らし始める。
「……綺麗」
その美しさに、思わず呟いた。
いつも暗闇の世界で戦っていたから、気づかなかった。夜明けの空は、なんと美しいのだろう。
世界が、新しく生まれ変わって、呼吸を始めたみたい。
「結火さん」
名前を呼ばれて、そちらに視線を向ける。そして大きく目を見開いた。
隣で微笑むカナエが、なぜか美しく光って見えた。
「苦しかったら、寂しくなったら、私を呼んで。そうしたら、必ず駆けつけるから」
優しい声で、囁かれる。
「また、こうやって、手を握るわ。あなたが寂しくなくなるまで、ずっと離さない」
「……本当?」
震える声で聞き返すと、カナエは大きく頷いた。
「ええ、絶対に。それに、ね。ほら、空を見て。どんなに、前が見えなくなっても……」
「明けない夜はないわ。どんなに苦しくても、悲しくても、明日は必ず来る。どんな未来でも、……必ず太陽は昇るの」
「それを知っていれば、大丈夫。きっと、また、強くなれるから。昨日より、ちょっとずつ、進んでいけるから」
結火は目を見開いた。そして、また空を仰ぐ。
太陽のキラキラとした輝きが強くなってきた。
そして、またカナエに視線を向ける。結火と目が合ったカナエがまた微笑む。
唐突に、気づいた。
どうしてこの人に、抱き締められたい、と思ったのか。
名前を呼んでほしいと思ったのか。
手を繋ぎたいと思ったのか。
そんなの、理由は一つしかないじゃないか。
「……はっ」
結火は声に出して、笑った。
「結火さん?」
カナエが驚きで大きく目を見開く。それに構わず、結火は涙を流しながら、カナエに向かって微笑んだ。
「ありがとう」
カナエの呆然とした顔が赤くなっていく。その顔を見つめながら、結火は言葉を重ねた。
「ありがとう……カナエ」
自分の顔も熱い。きっとカナエと同じくらい赤くなっているのが分かった。それでも、その顔を隠すことなく、手を強く握る。前に進む。
「……あなたが、そばにいてくれて、よかった」
結火がそう呟くと、カナエの顔はますます赤くなった。
そのまま、二人は寄り添って、手を繋ぎながら蝶屋敷へと戻った。
翌日、当然結火は風邪をひいた。思ったよりも熱は高くないが、体が怠い。
「まったく!何を考えているんですか!!雨の中、傘も差さずにずぶ濡れになるなんて!」
「すみません……」
アオイが怒りながらも、結火にお粥と薬を運んでくれた。
「まあまあ、アオイ。そんなに怒らないで、はい、結火さん、あーん」
結火の隣では、アオイを宥めながらも、楽しそうにカナエがお粥を匙で掬って結火に差し出してくる。結火は大人しくそれを口に含んだ。
「美味しい?」
「……はい」
「よかったぁ。まだ食べれるかしら?はい、あーん」
「……」
口を開けて、お粥を食べながら、チラリと部屋の外に視線を向ける。そこには、柱の影に隠れて、しのぶがこちらを睨んでいた。
「姉さんに、姉さんに、……あ、あーんをしてもらうなんて!!私だって、子どもの頃にしかしてもらったことないのに……!」
しのぶの射殺さんばかりの視線を浴びて、結火はため息をつきそうになる。その時、
「あ、あのー、すみません……」
竈門炭治郎がやって来た。
「あら、炭治郎くん、どうしたの?」
カナエが声をかけると、炭治郎はオズオズと口を開いた。
「えっと、俺、刀鍛冶の里に行くことになって……その前に煉獄さんのお姉さんに聞きたいことがあったんですけど……」
「私に?どうした?」
結火が声をかけると、結火の様子を見た炭治郎が慌てて手を横に振った。
「あ、いえ、いいんです!!体調が悪いみたいですし……また、里から帰ったら、ここに来ます!気にせずゆっくり休んでください!!」
その言葉に、結火は軽く頷いた。
「すまないな。……体調が戻ったら、また話をしよう」
「はい!」
元気よく返事をして、その場から立ち去ろうとする炭治郎に、結火は声をかけた。
「竈門少年」
結火の呼びかけに、炭治郎がギョッとした顔で立ち止まった。
「は、はい?」
「……君には、心から感謝している。……弟の事、忘れないでくれ。歩みを止めるな。どんなに苦しくても辛くても、前を向け。諦めるな。君は、君のままで強くなってくれ。そして、戦ってくれ……私も、また、君を信じる」
そして、手を伸ばして、一瞬だけ炭治郎の胸に触れた。
「心を、燃やせ」
すぐに、手を離す。
炭治郎が大きく頷いた。
「はい!」
結火も頷く。その隣では、カナエが相変わらず優しく微笑んでいた。
◇◇◇
食事が終わると、カナエは後片付けのために出ていってしまった。ほんの少し寂しさを感じながら、結火は布団の中で瞳を閉じる。静寂の空間に包まれて、ウトウトとしていると、誰かの気配を感じた。考える前に、口を開く。
「……何かご用でしょうか、蟲柱様」
目を開けると、すぐにしのぶが音を立てずに部屋へと入ってきた。結火はゆっくりと身体を起こす。気だるさを感じながら、再び声をかけた。
「……先ほどから、こちらを見ていましたね」
「……」
「胡蝶様の事でしたら……」
「姉さんの事ではありません」
てっきりカナエとの事で何か言われるのだろうと思っていた結火は、しのぶの言葉に困惑して眉をひそめた。
「……いえ、姉さんの事で言いたいことはいっぱいあるんですが……できることなら今すぐにでも拷問したいくらいなんですけど」
ブツブツと物騒な事を言いつつ、しのぶは大きくため息をついてから、その場に正座をした。
「少し話がありまして」
「……何でしょうか」
しのぶは結火を真っ直ぐに見つめてから、懐から何かを取り出した。
「……?」
それは、小さな箱だった。しのぶが何も言わずに、それを開けて、中身を結火に見せてきた。薬液の入った注射が納められていた。結火は戸惑いながらそれを見つめた。
「それは……?」
「ちょっとした研究をしていて、……その研究の副産物と言いますか……、偶然生まれたもの、なんですけどね」
「はあ……」
しのぶは注射器を箱から取り出して、少し怪しげな微笑みを見せた。その様子に首をかしげていると、しのぶが言葉を続ける。
「これ、肺の機能を飛躍的に高める作用を持つんです」
結火は息を呑んだ。
「あなたが望めば、これを投与してあげますよ……恐らくは体力も戻るでしょうし……再び、鬼と戦える可能性もあります」
結火は注射器の中の薬液を穴が開くほど強く見つめた。
「あなたの、意思次第です」
しのぶは微笑んで、軽く首をかしげる。そして、耳元で小さく囁いた。
「……さあ、どうします?」
これにて、この章は終わりです。
なんかちょっと暗くなってきたので、予告はしておりましたが、次は気晴らしに、キメツ学園パロ書こうと思います。