新章です。
主人公の心境が少しずつ変化していきます。
提案
心の奥底で、火が灯った
小さくて、弱々しい火
その輝きは少しずつ強くなっていき、
美しく燃ゆる炎となる
今まで見たことがない、炎だ
温かくて、優しい、静かな揺らめき
自分の心に、こんなにも優しい炎が存在するなんて、
知らなかった
◇◇◇
早朝、煉獄結火は隊服を身にまとい、看護服を上から装着した。私室の鏡の前に立ち、鏡の中の自分と目を合わせる。
「……」
熱はもうないが、まだ少し顔色が悪い気がする。顔をしかめて、ゆっくりと髪を結うために赤い髪紐を手に取った。背中にかかるほど伸びてきている黒髪を適当にまとめて、髪紐を結ぶ。そして大きく息を吸って、部屋から足を踏み出した。
「結火さん」
廊下で名前を呼ばれて、結火は振り返る。胡蝶カナエが後ろに立っていた。
「はい。なんでしょうか」
小さな声で言葉を返すと、カナエが首をかしげて頬に手を当てた。
「もう身体は大丈夫?もし、まだ気分が悪いなら、今日まで休んでも……」
「大丈夫です」
カナエの言葉を遮るように、結火は声を出した。
「問題ありません。なんなりと、ご用命ください」
そう言うと、カナエは不安そうな顔をしたが、小さく頷いた。
「……それじゃあ、患者さんの包帯の巻き直しをお願いできるかしら?」
「はい」
「でも、結火さんの身体がきつかったら、すぐに言ってね。無理しちゃダメよ」
「はい」
結火がしっかりと頷くと、安心したようにカナエは微笑み、診察室へ向かった。
ふと、視線を感じて、振り返る。いつの間にいたのか、廊下の向こうから、胡蝶しのぶがこちらを見ていた。
「……」
「……」
しばらく、お互いに無言で見つめ合う。
しのぶの顔は何を考えているのか分からない。そのままクルリと背を向けて、どこかへと行ってしまった。
結火はその後ろ姿を静かに見送る。そして、昨夜のしのぶの話を思い出していた。
◇◇◇
「――何を、考えているんですか?」
結火の問いかけに、薬液の入った注射器を持ったしのぶが、キョトンと首をかしげた。
「何、とは?」
「……そのような、貴重な薬を――」
結火がそう言うと、しのぶが少しだけ笑った。
「あら、あなたなら、もっと喜ぶかと思っていましたが」
結火は真っ直ぐにその顔を見つめて、口を開いた。
「……何が目的ですか」
困惑の質問に、しのぶは大きなため息をついた。
「――提案したらすぐにでも飛びついてくると思ったんですけどねぇ……残念残念」
しのぶはゆっくりと、その注射器を結火に見せるようにしながら言葉を続けた。
「これ、実は薬ではないんですよね」
薬ではない、という言葉に結火は困惑して眉をひそめる。しかしすぐに、目の前にいる蟲柱の戦い方を思い出して、目を見開いた。
「――毒」
「正解です」
しのぶがにこやかに頷いた。
「当初は、鬼に使う毒として開発していたんですが、ちょっと失敗してしまいまして……残念なことに、弱い毒なので、鬼には効果はないんです。ところが、きちんと調べてみたところ、人間に対して使用すると、いろいろと面白い効能があることが発覚しました。そのうちの、一つが、肺の機能の向上です」
結火の身体は硬直し、唇が震えた。そんな結火を見つめながら、しのぶは言葉を続ける。
「……これを使えば、あなたの身体は、また元通りに戦えるようになる可能性がありますよ。あなたの病自体は、完治しているので……あとは、呼吸法に耐えられるくらい肺の機能を高めて、体力さえつければ問題ないでしょう」
「でも、……毒、なんですよね」
結火の問いかけに、しのぶが初めて視線をそらした。
「……まあ、そうですね」
「――何か、隠していませんか?隠さないで、きちんと話してください」
しのぶがムッとしたように結火に鋭い視線を送った。
「隠すだなんて、そんなつもりはありませんよ……そりゃあ、私はあなたの事は気に入りませんけど、そこまでの極悪人ではありませんから」
しのぶは大きなため息をついて、少し拗ねたような顔で言葉を重ねた。
「……あくまで、戦える“可能性がある”だけです。絶対ではありません。単純に、これがあなたの身体に合わない可能性もあります……その場合、効果は出ないでしょう。それに、弱いとはいえ、毒なので……肺の機能は、飛躍的に高まりますが、同時に頭痛、吐き気、倦怠感、めまい……神経系の症状として、幻覚、幻聴などもでる可能性があります。それに、……脳への影響も否定できなくて……多量に投与すれば、最悪、昏睡状態になって、……死ぬ可能性も」
“死”という言葉に、結火の肩がピクリと反応した。ゆっくりとしのぶへ言葉を返す。
「……だから、鬼殺隊の剣士には使用せず、私に、投与しようと……」
「誤解しないでくださいね。別に強要するわけではありませんよ。言ったでしょう?あなたの意思次第だと。肺の機能が高まるとはいえ、流石にあまりにも危険すぎるので」
しのぶの言葉に、また注射器へと視線を向けながら、再び問いかけた。
「――しかし、なぜ、私に……何が目的なのです?」
しのぶが少しだけ唇を尖らせ、口を開いた。
「……これでも、あなたには同情しているんですよ。不本意な事で、剣士としての道を絶たれて……何もかもを失くして……本当にお気の毒だと思っています。それに、姉はあなたのお陰で命が助かったので……まあ、見返り、といいますか……」
ブツブツとしのぶは呟くように言葉を出した。
「……あなたが剣士として復帰すれば、鬼殺隊としても助かりますし……正直、医師として、この毒が人間の身体にどこまで影響を及ぼすか、興味もありますし、ね」
「私の、命と引き換えに?」
「はい。……分かっていますよ。私はあなたにとても酷い提案をしている、と」
しのぶはまた微笑んだ。
「でも、あなただって、欲しいでしょう?鬼との戦いに耐えられる、強靭な身体が、……力が……。このまま何もせずに朽ち果てるよりも、一か八かの可能性に賭けてみてはいかがですか?」
「……」
「ちなみに姉さんには何も話していません。絶対に反対するでしょうから。どうするか、あなたが決めてください」
「……」
結火は強く唇を結ぶ。そんな結火の姿を見つめながら、しのぶは、
「それじゃあ、返事をお待ちしていますね」
と微笑みながら、部屋から出ていった。
◇◇◇
結火は洗濯物を干しながら、しのぶの言葉を思い出していた。
しのぶの提案は、正直悪いものではない。再び、戦える可能性がある。また、鬼を斬ることができるのだ。誰かのために、刀を握ることができるかもしれない。そう考えるだけで、身体が震えた。その震えを誤魔化すように、結火は洗濯かごを抱えて足早に屋敷の中へ戻った。
廊下を歩きながら、また物思いに耽る。
毒を投与したら、この身体はどうなるのだろう。どのような症状に苦しめられるのだろうか。もしかしたら、死ぬかもしれない。
いや、ちがう。そんな事はどうでもいい。
結火は唇を噛んだ。死ぬことは、どうでもいいのだ。結火にとって、死は身近なものだ。死ぬことは怖くない。戦うために、命を懸けるなんて、鬼殺隊隊員として当たり前の事だ。ずっと、そうやって戦ってきた。結火の生きる理由だった。
以前の結火なら、すぐにしのぶの提案に飛び付いていただろう。悩むことなく、毒を投与する事を選択していたことだろう。
当然だ。結火の、たった一つの希望の道が、再び示されたのだから。もう不甲斐なさと無力感に苦しめられるのは、うんざりだ。
それでも、今、結火は迷っていた。悩んでいた。
思考が乱れて、心が揺れる。それでも、決めなければならない。選ばなければならない。
人生は選ぶことの繰り返し。
答えは一つしかないのに、自分はそれを選択するのを躊躇っている。
なぜなら―――
唇を痛いほど噛み締めたその時、誰かの笑い声が聞こえて、結火はハッと顔を上げた。声がした方へと顔を向けると、そこにはカナエと風柱・不死川実弥が立っていた。カナエは楽しそうに笑っており、不死川も穏やかな顔で何かを話していた。
その姿を見た瞬間、結火の胸が針で刺されたように痛んだ。クラクラとめまいがするほど、足元がおぼつかない。不思議な感情が心の中で渦巻き、熱を帯びていく。
その感情の正体は、もう自分で気づいていた。
「あ、結火さん」
カナエがこちらに気づいて名前を呼ぶ。カナエと不死川の二人と目が合い、結火は黙って会釈をして、背中を向けると、逃げるようにその場から走った。
「――あいつは」
「煉獄くんのお姉さんよ」
二人の声が聞こえたが、構わずに立ち去る。
診察室へ入り、息を大きく吐いた。同時にフラフラとその場に座り込む。
逃げてしまった。情けない。きっと、カナエと不死川は呆れている。
それでも、あの場に留まるのは嫌だった。
結火は膝を抱えて、顔を埋めた。
胸が痛い。嫌な感情が込み上げてきて、気持ち悪い。
自分に、こんな感情があるなんて、知らなかった。
その時、診察室の扉が開いた。
「結火さん」
カナエの声が聞こえて、肩がピクリと震えた。顔を上げることができない。
「結火さん、どうしたの?」
カナエが結火の正面にしゃがみこんだのが分かった。肩に優しく手が置かれる。
「具合が悪い?」
ちがう。結火は顔を膝に埋めたまま、横に振る。
言いたくなかった。
カナエが不死川と楽しそうに話している姿を見るのが、たまらなく嫌だ、なんて。
「ねえ、顔を上げて」
「……拒否します」
「どうして?」
「……」
答えるのが嫌で、無言で首を横に振る。
その時、カナエが何かに気づいたように声を出した。
「もしかして、……ヤキモチ、焼いてる?」
その言葉に顔が熱くなるのを感じた。きっと、顔が真っ赤になっている。ますます顔を上げられない。
「……ねえ、顔を、見せて」
カナエが耳元で囁いた。
「……」
「今の、結火さんのお顔、見たい」
「……お断りします」
小さな声で答えたその時、カナエが結火の腕を握った。
それを振り払おうとして、思わず顔を上げる。こちらを見つめてくるカナエとまともに目が合ってしまった。
「……う、」
短く声を上げて、顔を伏せようとするが、カナエがそれを許してくれなかった。顎に手を添えられて、顔を上げさせられる。唇が震えて、ますます顔が熱くなったのを感じた。
「――離して、くださ……」
「イヤ」
キッパリとカナエがそう言って、こちらをうっとりと見つめてきた。
「結火さん、かわいい」
「……」
「今、自分がどんな顔をしてるか、分かってる?すごく、かわいい」
あまりの羞恥心に、どうにかなりそうだった。カナエから視線を外し、消え入りそうな声で、
「……もう、勘弁してください……」
と呟く。カナエが微笑みながら、ようやく顎から手を離した。しかし、腕の方はまだ掴んだまま、嬉しそうに問いかけてくる。
「結火さん、私が不死川くんと話すのが嫌だったの?不安になった?」
「……」
結火は一瞬だけカナエに鋭い視線を送るが、すぐにまたそらし、ボソッと呟いた。
「……穴があったら、入りたい……」
カナエがますます嬉しそうに笑う。そして、
「……え、」
フワリと何かが額に触れて、結火は思わず声をあげた。それが、カナエの唇だと気づいたが、なんの反応もできずに、全身を硬直させる。カナエは結火の様子に構わず、愛おしそうに見つめながら、また額に唇を落とした。そのまま、今度はゆっくりと鼻筋へと唇を押し当てられ、そして頬へと触れる。ようやく全身の硬直が解けた結火は、慌てて掴まれてない方の手でカナエの顔を抑えた。
「な、にをしてるんです!?」
「だって、あまりにもかわいかったから、つい……」
カナエがまた顔を近づけてきて、結火は必死に手で抑えて抵抗した。
「お止めください!」
「もう一回だけ、ダメ?」
「駄目です!!」
「ちょっとだけ、ね?ほんのちょっと」
「本当に怒りますよ!」
もう怒ってるじゃない、と笑うカナエが、結火のもう片方の手を強く掴み、壁に押さえつける。強い力に、結火は驚いて抵抗するが、カナエはそんな様子に構わず再び顔を近づけてきた。思わず目をギュッと閉じる。
その時、ガタッと扉が開く音がした。
結火は目を開き、音がした方へ視線を向ける。そして小さく声をあげた。
「あ……」
カナエも同時に声を出した。
「あら」
扉の向こうでは栗花落カナヲが一人で立っていた。カナヲは、カナエが結火を壁に押さえつけている姿を見て、大きく目を見開く。
「……」
カナヲはしばらく固まっていた。しかし、すぐに何かを学んだような顔をして、大きく頷く。そして、頭を深く下げた。
「失礼しました。……どうぞ続きを」
小さくそう言って、パタンと素早く扉を閉めた。
「……」
結火はしばらく呆然としていたが、
「――ちょ、ちょっと、待ってください!栗花落さん、誤解です!!」
慌ててカナエの手を振り払って、叫びながら立ち上がる。そのまま扉の方へ駆け寄ろうとしたが、カナエがそれを止めた。
「まあまあ、結火さん」
「こ、胡蝶様!!」
「心配しなくても、大丈夫よ」
「大丈夫って……っ、蟲柱さまに知られたら、殺されます、……私が!!」
「カナヲは口が固いから大丈夫」
「いや、だからって――」
モゴモゴとする結火の身体を、カナエは今度は包むように抱き締めた。結火は驚いて声をあげる。
「は、離してください」
また顔が熱くなるのを感じた。カナエは結火を安心させるように優しく背中を何度か叩いた。
「大丈夫、大丈夫」
甘い匂いと優しい声にクラクラした。心臓が激しく波打ち、唇が震える。
「……うぅ」
思わず呻くと、今度はカナエが背中を撫でながら耳元で囁いた。
「ねえ、明日、二人でどこかに行きましょう」
その言葉に、顔を上げる。カナエと目が合って、また心臓が高鳴った。
「前に、約束していたでしょう?二人でお出かけしましょう」
「……仕事が」
「明日はしのぶもいるし、午後からなら大丈夫。だから、ね?」
結火は迷うように目を泳がせて、やがて無言で頷いた。カナエが顔を輝かせて、結火の身体から手を離した。そして、楽しそうに呟く。
「うふふ。逢瀬、楽しみだわ~」
結火はまだ赤い顔を抑えながら、カナエから視線を外す。
「……」
そして、高揚していく心を誤魔化すように、大きく息を吐いた。
次回は二回目のデート編です。