結火の目の前で、しのぶがにっこりと微笑みながら、注射器を取り出した。
「……それを使って、毒を投与するのですか?」
「ええ。……静脈から投与した方が、効果が速いのですが……、今回は初めてなので、皮下から投与しましょう。なるべくゆっくりと吸収されるように」
しのぶはそう説明しながら、薬液や消毒薬を準備した。そんなしのぶに、結火は小さく声をかけた。
「――あの。一つ、頼みがあります」
「はい?なんですか?」
首をかしげるしのぶに、結火は淡々と言葉を重ねた。
「――この事は、内密に。誰にも言わないでください。……胡蝶様にも」
結火の言葉に、しのぶは肩をすくめた。
「ええ。姉さんには言いませんよ。こんなことをしているなんて、バレたらなんと言われるか……」
「あの方は絶対に反対するでしょうね」
結火が頷くと、しのぶは笑顔を崩して、大きくため息をついた。
「――ああ、本当に腹が立ちます」
「はい?」
突然の言葉に、今度は結火が首をかしげた。
「まるで姉さんの事を、よく分かっているようにそんなことを言って……姉さんを、一番に分かっているのは私なんですよ」
「……それは、」
「だって、私は、妹ですから」
「……」
結火が口を閉ざすと、不意にしのぶが結火を強く睨んできた。
「結局、あなた、姉さんの事をどう思っているんです?」
「……それ、は」
結火は言葉に詰まり、思わず下を向いた。
気まずい沈黙が流れる。胸の奥がちくちくと痛んで、何も答えられない。返答しなければ、と思うのに、どうしても声が出なかった。
やがて、しのぶが再び大きく息を吐いた。
「まあ、いいです。腕を出してください」
「……」
結火は唇を強く結びながら、しのぶに右腕を差し出した。
しのぶは結火の右腕を消毒しながら、言葉を続けた。
「前にも説明しましたが、これは毒の一種です。投与すれば、頭痛、吐き気、倦怠感、めまいなどの症状が出る恐れがあります。それに、あなたの身体に合わなければ、肺の機能への効果は出ない、という事も十分にあり得ます。そして、……命を奪う危険性もある、大変恐ろしい毒です」
しのぶの手が止まった。結火が顔をそちらへ向けると、しのぶは真っ直ぐに結火の瞳を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「最後の確認です。―――この毒を、あなたの身体へ投与しても本当によろしいのですね?」
ひやり、と一瞬だけ全身が冷たくなった。思わず目を閉じる。様々な想いが、情景のように目蓋の裏に浮かぶ。
怒った父の顔、もうこの世にはいない杏寿郎の笑顔、自分を信じてくれている千寿郎、そして―――
「……」
なぜか、胡蝶カナエの顔が脳裏を掠める。結火はそっと瞳を開いて、しのぶの顔を見つめ返した。
「――お願いします」
結火の言葉に、しのぶはゆっくりと注射器を握った。そっと結火の腕の皮膚をつまむように持ち上げ、針を構える。結火は思わず息を呑んだが、針から目をそらさなかった。
腕の皮膚に針が刺さり、小さいが鋭い痛みが走る。毒はゆっくりと結火の身体に入っていった。
痛み以外の感覚は、全くなかった。針が皮膚から抜けると、しのぶはゆっくりと結火の腕から手を離す。そして、結火をじっと観察するように見つめながら、口を開いた。
「――今、どうですか?」
「……」
結火は注射針が刺さった腕を、しばらく無言で見つめる。やがて、小さく頭を横に振った。
「今は特に何も」
「――まあ、投与してすぐには何も出ないでしょう」
しのぶは頷いて、立ち上がりながら言葉を重ねた。
「とりあえずは今日はここまでにしておきましょう。少量ずつ、毎日投与していきます。恐らくはこの数日の間に、肺の機能は向上していくとは思いますが……何か症状が出てきたら、すぐに教えてください」
結火も立ち上がりながら小さく返事をした。
「はい」
異変が生じたのはそれから数時間後だった。
「……っ」
突如、波のように吐き気が襲ってきて、口元を抑えた。必死に声が漏れるのを堪える。その場に誰もいなくて幸いだった。急いで厠へと向かう。
酸っぱい匂いがして、一気に胃の中の物が込み上げるのを感じた。そのまま一気に吐き出すが、吐き気は全然消失しない。息を整えているうちに再び悪心が喉元を上がってくる。同時に突き刺されたような痛みを頭に感じて、クラクラした。
「――よ、もや、よもや、だ」
予想はしていたがこれほどとは。
結火はフラフラと厠から出て、顔をしかめた。扉の前で必死に深呼吸を繰り返す。
落ち着け、落ち着け、と心の中で何度も自分に言い聞かせる。これくらいの症状、覚悟していたはずだ。死ぬほどの苦しみではない。これを乗り越えれば、きっとまた、戦える。
だから、落ち着け。
「……」
一瞬だけ目を閉じて、唇を強く噛み締める。すぐに開いた。
再び大きく深呼吸をする。そして、ゆっくりとしのぶの部屋へ向かって歩き出した。
「吐き気、頭痛、めまい……想定はしていましたが、やはり出ましたか」
結火が出現した症状を報告すると、しのぶはすぐに診察をしてくれた。結火の全身を観察した後、しのぶは首をかしげながら口を開いた。
「我慢はできますか?できればあまり他の薬は使いたくないのですが……」
しのぶの問いかけに、結火は軽く頷いた。
「大丈夫です。これくらいであれば、十分自制内なので……また、何かありましたら、報告します」
そして、ペコリと頭を下げて診察室から出ていった。
しのぶは結火の後ろ姿を無言で見送った。
夕方になると、少しずつ吐き気は治まってきた。しかし、まだ鈍い頭の痛みは続いている。仕事中は、いつも通り、感情を顔に出さないように振る舞った。幸い、結火の症状に誰も気がついてはいないようで、結火はホッとした。
しかし、それは間違っていたらしい。それが分かったのは、仕事終わりの事だった。備品庫で処置や治療に使った道具の後片付けをしていると、不意に後ろから声をかけられた。
「結火さん」
振り返ると、カナエがそこに立っていた。その顔に、いつもの華やかな笑顔がなくて、結火は僅かに眉をひそめた。
「――胡蝶様、何か仕事が残っていますか?」
結火が問いかけると、カナエは結火の顔を覗き込むように見つめながら口を開いた。
「……結火さん、体調が悪い?」
結火は静かにカナエを見つめ返し、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。特には」
「……でも、なんだか、いつもとちがうような気がするわ。ちょっと診察しておきましょうか」
「診察なら」
結火はカナエから目をそらし、小さな声を出した。
「蟲柱様にしていただきましたので……問題ありません。特に、何もありませんでした」
「……」
カナエが不思議そうに首をかしげた。
「診察を?しのぶに……?」
「……」
しまった。余計なことを答えてしまった。カナエは、しのぶが結火の診察をしたことを不自然に思っているらしい。無理もない。しのぶは結火を嫌っている。今まで結火の診察をしていたのはカナエだった。
どう誤魔化そうか、と結火が思考を巡らせていると、カナエが先に口を開いた。
「――体調は、大丈夫なのよ、ね?」
「……はい」
結火の返答に、カナエはようやくホッとしたように笑った。
「よかった。……なんだか、今日の結火さん、とっても気分が悪そうな感じだったから」
「……お気遣い、感謝致します」
カナエの顔を見るのが気まずくて、顔をそらしたまま、ボソボソと言葉を続けた。
「結火さん」
不意に甘い声で名前を呼ばれて、結火の肩がビクリと震えた。
カナエが結火の後ろへ回り、耳元で囁く。
「髪が、少し乱れているわ」
「……」
「結び直すわね」
結火の返答を待たずに、カナエが髪に触れる。結っていた髪がほどかれて、散るように肩へと流れた。
「うふふ。私が上げた髪紐、使ってくれてるのね」
「……」
カナエが嬉しそうに結火の黒髪を結い直していく。結火は何も言わずにそれを受け入れた。
「結火さんの髪、長くなったわね」
「……切っていないので」
「前の短いのも良かったけど、長い髪も素敵だわ」
カナエの手によって、結火の黒髪が丁寧に整えられ、結われていく。
「ねえ、もしかして、なんだけど……髪を伸ばしているのは、私が前に、長く髪を伸ばした姿を見たいって言ったから?」
「……」
結火はその問いに答えなかった。しかし、何も言わなくてもカナエは答えを察したらしい。クスクスと笑いながら、言葉を重ねた。
「嬉しい……ありがとう」
不意に、首の後ろに柔らかな何かが押し当てられた。この感触には覚えがある。フワフワとした、柔らかな感触。
すぐにそれがカナエの唇だと気づいて、慌てて振り返った。
「――おやめください。誰かに、見られたら……」
「誰もいないわよ」
カナエが楽しそうに笑いながら、今度は結火の右手を取って、手のひらに唇を押し当てた。
身体が硬直して、顔が熱くなった。不思議な感情が芽生えていく。
――ああ、いつもこうだ。
――私はいつも、この方に翻弄されてしまう。
不意に結火はカナエにグッと身体を近づけた。カナエが驚いたように目を見開く。
「結火さん……?」
素早くカナエに向かって手を伸ばし、その長い髪に触れて、一房手に取る。そして艶やかな髪に、軽く唇を落とした。
「――え」
カナエが微かに声を出した。そんなカナエを鋭い瞳で見つめて、結火は囁くように声を出した。
「仕返し、です」
カナエがポカンと口を開ける。その顔がみるみる紅く染まっていき、ようやく結火は我に返った。
顔はもちろん、身体中が燃えるように熱くなっていく。それ以上カナエの顔を見ていられなくて、慌てて顔をそらした。
「――夕食に、行きます」
小さく呟いて、バタバタと備品庫から飛び出す。羞恥心でどうにかなりそうだ。鏡を見なくても自分の顔も真っ赤になっているのが分かる。走りながら、震える唇を止めるように、強く手で抑えた。
備品庫に残されたカナエは顔を紅潮させたまま、その場にヘナヘナと崩れ落ちる。そして、
「……私、今日、死んじゃうかも」
幸せを噛み締めるように、呟いた。
無限列車を見ながら書き上げました。煉獄さん……。
こちらの方も必ず完結まで書きます。もし良ければお付き合いください。