その日から、結火はカナエとの関わる事をできるだけ避け始めた。
仕事は今まで通りきちんと正確にこなすが、カナエとの接触だけは頑なに拒む。
「――結火さん」
カナエが躊躇いながら声をかけてくる。それを、結火は聞こえないふりをして無言で逃げた。
しのぶやアオイ、他の娘達も心配そうな表情でこちらの様子を窺っている。分かってはいたが、素知らぬ顔でそれを無視した。
蝶屋敷の主人であり、自分の上司でもあるカナエを避けるのは難しいが、できるだけ顔を合わせないようにしながら、日々の仕事をこなす。カナエは何度も結火に話しかけてこようとしたが、結火は徹底的にそれを避け、逃げ続けた。
「……」
心の中では後悔をしていた。自分の失言を。カナエに対して、言ってはいけない言葉を言ってしまった事を。
それに、本当は分かっている。カナエの言葉は間違ってはいない。カナエはただ結火の身体を心配しているだけだ。毒を身体に取り入れるという事は、命を脅かすかもしれない。結火の決断した事を、カナエが怒るのは当然だ。そんな事は、承知している。
それでも、考えて、考えて、考え抜いて、結火は決断したのだ。それを簡単に否定されたのが、たまらなく嫌だった。
「あ、結火様ー」
後ろから声をかけられて、振り向くと、そこには後藤が立っていた。結火の顔を見て、驚いたように目を見開く。
「えっ、ゆ、結火様?どうされたんですか?なんか、痩せました?」
結火は顔を伏せながら首を横に振った。
「――いいえ。少し疲れている、だけです」
毒の投与を中止して数日経ち、身体の調子は少しずつ良くなっていた。頭痛はまだ時々あるが、吐き気と眩暈はもうほとんどない。
「大丈夫、ですか?」
「はい。……後藤さんは、どうしてこちらに?」
禰豆子が太陽を克服してからというもの、鬼の出没がピタリと止まった。怪我人が出ないため、最近は剣士はもちろん、隠達も蝶屋敷を訪れることが少なくなりつつある。
「竈門のお見舞いです。あいつが目を覚ましたって聞いて」
「ああ……」
結火は何度か頷いた。刀鍛冶の里での戦いで、酷い怪我を負っていた竈門炭治郎が意識を取り戻したのはつい先日の事だ。今は少しずつ身体も回復してきている。
「――あの少年は、どんどん強くなっているんですね……羨ましい、事です……」
結火が顔を伏せてポツリと呟くと、後藤が首をかしげた。
「あのー、どうかされました?」
「……いいえ。なんでも、ありません」
結火を見つめながら、後藤は心配そうに言葉を重ねた。
「なんでもないって顔じゃないですよ」
「……」
「何かありました?」
「……」
「もしや、胡蝶様関連ですか?」
後藤の言葉に結火が顔を上げた。その顔は強張っている。
「――私、……」
結火が小さな声で言葉を紡ぐと、
「はい」
後藤はしっかりと頷いて結火の言葉に、耳を傾けてくれた。その事になぜか安心して、結火はポツポツと話し始めた。
「……私、胡蝶様に、……失礼な、事を言ってしまって……とても、後悔していて……」
「……」
「――謝らなければならないと、分かっているんです……きちんと、話すべきだって……でも、……」
一瞬だけ言葉が詰まる。後藤は静かに結火の言葉を待ってくれた。
「――どう、話せばいいのか、分からない……分からないんです。自分がこんなにも弱くて臆病だなんて、思いもしなかった。怖い……」
「何が、怖いんですか?」
後藤の問いかけに、結火の顔が凍りついたように固まる。その答えを、どうしても口にする事はできなかった。
――酷い言葉を言ってしまった。あの人に嫌われたかもしれない。それが怖い、だなんて、とても、言えない。
後藤が少しだけ笑っているのに気づいて、結火は眉をひそめた。
「――なぜ笑っているんですか?」
「あ、すみません」
後藤は慌てたように軽く頭を下げたが、微笑んだまま言葉を続けた。
「――昔は、どんなに恐ろしい鬼に対しても、絶対に怯まず、立ち向かっていたあなたが、……こんなにも、大きく変わって……その、驚きました」
「……」
後藤の言葉に、結火は何かを言い返そうとして口を開いたが結局言葉は出なかった。顔を伏せた結火に、後藤が言葉を重ねる。
「あの結火様がこんなにも変わるだなんて、思いもしませんでした」
「――私は、」
「とても素晴らしい事ですね。どう言えばいいか分からないんですけど……俺、昔の結火様よりも、今の結火様の方がすごくいいと思います」
その言葉に、結火は少しだけ目を見開いた。
「――臆病で弱い今の私が、ですか……?」
後藤はますます目を細めながら、結火の肩を軽く叩き、口を開いた。
「取りあえず、時間は巻き戻りません。今、やるべき事をやりましょう」
「……」
「時間はかかってもいいから、落ち着いて自分の気持ちをゆっくり整理してみてはいかがでしょう?それで、今後どう行動すればいいか考えるんです。結火様もこのままの状態が続くのは嫌なんですよね?だったら、一歩ずつ、前に進みましょう。大丈夫です。胡蝶様は、きっと受け入れてくれますよ」
「……」
「自分の気持ちに正直になりましょう。思いは言葉にしないと伝わりません。伝わらないまま、終わってしまうなんて、絶対にダメです」
結火は静かに顔を伏せたが、すぐに口を開いた。
「――ありがとう、ございます、後藤さん。……よく、考えてみます」
ペコリと頭を下げて、その場から足を踏み出す。そんな結火に後藤がまた声をかけた。
「――結火様。結火様は臆病でも弱くもありませんよ。昔も、今も。だって、……本当は、もう心を決めているんでしょう?自分がするべき事を、分かっているんですよね?」
ハッとして振り返ると、後藤と目が合った。しばらく沈黙が続く。後藤はニッコリと笑い、
「頑張ってください」
と言って、大きく頷いた。
結火は、もう一度深く頭を下げる。
「ありがとうございました。……先輩」
そして、今度こそ、その場から立ち去った。
「……」
後藤と別れた後、結火は一人で診察室へ入り、掃除を行う。窓を拭きながら、後藤からの助言をもう一度思い出していた。
「気持ち……自分の、気持ち……」
頭の中に、カナエの悲しげな顔が浮かび、すぐに消える。
結火は首を大きく横に振った。
――ちがう。私は、こんな顔をあの人にしてほしくはなかった。
「……思いを、言葉に――」
思いを、気持ちを伝えなければならない。そして、前に進む。進む、なんて、言葉は簡単だけど、大いなる困難だ。だけど、ここで終わるわけにはいかない。始まってしまったから、もう途中で投げ出すわけにはいかない。
考えて。
考えて。
考えるんだ。
自分の、本当の気持ちは、――想いは、なんだ?
結火は唇を噛み締めた。
いや、ちがう。ちがうだろう。
本当は分かっているはずだ。後藤さんの言う通り。
結火は、それをもう心の奥底でもう見つけている。
あの人に言わなければならない思いがある。
でも、怖くて、それを言葉に出来ていない。それだけ、なんだ。
それだけ―――
「結火さん、終わりましたか?」
突然しのぶの声が聞こえて、結火の思考が止まった。素早く扉の方へ視線を向けると、しのぶがそこに立っていた。
「……はい。掃除は終了いたしました」
結火が小さく言葉を返すと、しのぶが頷きながら再び口を開いた。
「アオイが、そろそろ食事の準備をするそうなので、そちらを手伝ってもらっていいですか?」
その言葉に、結火は無言で頷き、掃除道具を手にする。そのまま扉の方へ足を進めようとしたその時、しのぶが再び声をかけてきた。
「……申し訳ありませんでした」
その言葉に、困惑しながらそちらへ視線を向けると、しのぶが気まずそうな顔をしていた。
「何が、でしょうか?」
「……あの時、上手く姉さんを誤魔化せなくて……私が、きちんと対処するべき、だったのに」
その言葉に、すぐに察した。毒の投与をカナエに発見された時の事を言っているのだろう。
「いいえ。私の不徳のいたすところです。私も、少し興奮して……冷静さを欠いていました。――きちんと、胡蝶様に話すべき、でした」
結火がそう言いながら頭を下げると、しのぶが言いにくそうにしながらも再び口を開いた。
「――姉さんと、話さないんですか?」
その言葉に思わず笑いそうになる。
「蟲柱様は、あまり私に胡蝶様と話してほしくはないのでは?」
その問いかけにしのぶは顔をしかめた。
「そりゃあ、まあ……あなたと姉さんの事は気に入りません。気に入りませんけど、……このままなのは、なんと言いますか、流石に少し気が咎めるというか……私のしたことが一因でもありますし……」
そして、結火をまっすぐに見つめながら言葉を重ねた。
「べ、別にあなたの事なんてどうでもいいですけど……姉さんが、元気がないんです。屋敷の空気も悪いし……あなたと姉さんが元通りになってもらわないと、困るんですよ」
「……」
「だから、――さっさと仲直りしてください!ああ、もう、なんで私があなたにこんな事を……っ」
結火は少しだけ唇を緩め、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
しのぶは、フンと鼻を鳴らしてその場から逃げるように去っていった。
◇◇◇
夢を見た。
暗闇の中で、目の前に美しい炎が見える。
なんという温かさ。
なんという優しい揺らめき。
きっと、世界で一番美しい輝きだ。
衝動的にそれを抱き締める。
抱き締めた瞬間、あまりの心地よさに息を呑む。
ああ、そうだ。
私は、ずっとこうしたかった。
こうやって、抱き締めたかったのだ。
そう思いながら、結火は涙を流した。
◇◇◇
それから数日後。蝶屋敷の住人達が寝静まった真夜中、結火は一人で縁側に座っていた。
澄み渡る夜空に、星影がキラキラと鮮やかに輝いている。月は銀色に淡く光り、蝶屋敷の広大な庭を照らしていた。月光を浴びながら、結火が静かに庭を眺めていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。
その足音が結火の近くでピタリと止まる。そちらを見なくても、足音の主が誰なのかすぐに気づいた。結火は無言で顔を伏せる。やがてゆっくりと顔を上げて、再び庭へ視線を向ける。そのまま口を開いた。
「――先日、言ったことは……嘘だ」
すぐそばに佇む胡蝶カナエが、息を呑むのを感じた。
「……すまなかった。あなたの、優しさを、……嫌い、だなんて、思ったことは、一度もない……」
小さな声で言葉を重ねる。
「あなたの、思いは、分かっている。私を心配してくれている、という事も知っている。……毒のこと、黙っていて、すまなかった」
一度言葉を止めて、深呼吸をした。必死に自分の心を奮い立たせ、言葉を続ける。
「……本当は、……ギリギリまで迷っていた。毒を、投与することを。……寸前まで悩み、考え抜いて、決断したんだ……きっと、私の思いはあなたには理解できないだろう。それでも、……私の選んだ道を、――否定してほしくは、ない」
しばらく沈黙が続く。やがて、カナエが口を開いた。
「……あなたは、すぐに決断をしたのだと思っていた。どうして、迷ったの?」
その問いかけに、結火の身体が震える。思わずうつむきそうになったが、
「言って、結火さん。お願いだから。……あなたの気持ちを知りたい」
カナエの言葉に、結火は思わず泣きそうになりながら答えた。
「――昔の私ならば、即座に決断していた。毒を投与することを。当たり前、だ。剣士として戦い、そうして死ぬこと。それが、私の生きる意味だったから。ずっと、ずっと、死にたかった……だけど、わ、私は」
声が震える。情けない。
それでもここで止まるわけにはいかない。
「私は――」
本当の気持ちを伝えなければ。
「私は、愚かにも、思ってしまった。――死にたくない、と。このまま、あなたと生きていきたい、と」
横にいるカナエが動揺したのが分かった。その顔を、どうしても見ることができないまま、結火は小さな声で言葉を続けた。
「このまま、戦わずに、この屋敷であなたと共に、穏やかに生きることができたら、どんなに幸せだろう、と考えてしまった。煉獄家の人間として恥ずべき考えだ。……情けない。私は愚かだ。本当に。それでも、どうしても、その考えを、捨てられ、なくて……」
強く拳を握る。あまりにも強く握りすぎて、痛みを感じた。
「――それは、その言葉は、どういう意味……?」
カナエの問いかけに今度は笑いそうになる。もう答えなんて分かっているだろうに。
だけど、言わなくてはならない。後藤の言う通りだ。思いは言葉にしないと伝わらない。
「――あなたの、そばにいたい」
その気持ちは、何も特別なことではない。
誰にでもある、ありふれた感情で。
「あなた以外、何も欲しくない」
だけど、どうしようもないほど、熱い想いだ。
もう、自分でも止められない。止まらない。
「――もう、どうしようもないほどに、……あなたが……あなたのことが……」
結火はゆっくりと顔を上げた。カナエの大きな瞳と視線が交わった。そのまま、まっすぐにカナエを見つめて、結火は囁くように、ゆっくりと想いを言葉に乗せた。
「―――愛しくて」
自分の気持ちを、言葉に出す事がこんなにも苦しいなんて、思いもしなかった。結火はとうとう顔を伏せた。心臓が早鐘を打つ。息をするのも困難だ。胸の中で、たとえようもない感情が湧いてくる。
その時、手が伸びてくるのが見えた。カナエに強く抱き寄せられて、結火は目を見開く。
そして、自分もゆっくりとカナエの身体に腕を回して、強く抱き締めた。
どちらからともなく立ち上がり、結火の私室へ入る。障子を閉めた瞬間、再び抱き合い、そのまま唇を重ねた。
駄目だ、と分かっているのに、もう止められなかった。寝静まる住人達を起こさないように、声を殺しながら抱き合う。カナエが幸せそうに微笑みながら、何度も口付けてくる。唇を何度も重ねて、様々な場所をお互いに触れ合った。結火は何度もカナエの名前を呼んだ。カナエは何度も「好き」と囁いた。
また強く抱き締められて、結火はぼんやりと自分もカナエの背中に腕を回した。白い肌に顔を埋める。心ゆくまで抱き合う。あまりにも幸福で、ドロドロに溶けそうなほど、溺れているのを感じた。
「どうして、泣いているの……?」
いつの間にか、カナエがこちらを見つめていた。ゆっくりと頬を撫でられる。目が熱い。知らず知らずのうちに、涙を流していたらしい。カナエが戸惑ったような様子で、再び問いかけてきた。
「嫌だった……?」
結火はカナエに向かって手を伸ばす。その柔らかな頬に触れて、自分からそっと口付けをして、小さく呟く。
「……分かるんだ。今なら」
「……?」
カナエが不思議そうな顔で首をかしげる。結火はその様子に、涙を流しながら笑みを漏らした。そして、言葉を紡ぐ。
「――今なら、分かる、気がする。お館様が、なぜ私を蝶屋敷へ行かせたか……」
きっと、こうなることを、あの方は分かっていた。結火の幸せを願ってくれたのだ。耀哉様らしい、と結火は思った。
不思議そうな顔をするカナエの頬を、結火は笑いながら、そっと両手で包んだ。
「――炎だ」
「え?」
「あなたは、炎だ。私の中で燃えている。美しくて、優しくて、温かな揺らめき……私の炎だ」
そのまま再びカナエを強く抱き締める。
「誰にも、渡したくない……」
「……とっくの昔に、あなただけのものよ」
カナエの言葉に歓喜が湧くのを感じて、結火はまた涙を流した。涙と一緒に、言葉も洪水のようにあふれ出す。
「ここに、いて……私のそばに、いてほしい……ずっと、ずっと……」
カナエがそっと結火から身体を離す。そして、花が咲いたように顔を綻ばせて、口を開いた。
「あなたの瞳に、私が映ってる……」
結火の目をまっすぐに見つめながら、言葉を続けた。
「私が、私だけが映ってる……嬉しい……」
お互いに見つめ合い、やがてゆっくりと結火は微笑んだ。泣いてしまいそうなほどの喜びが心を満たす。あまりにも幸せで、今なら死んでもいいとさえ、思った。
「もう、あなたしか見えない……あなた以外、何も欲しくない……」
震える声でそう囁くと、カナエも幸せそうに微笑んだ。
「ええ……私もよ。あなただけが、ずっと欲しくて欲しくて……ようやく叶ったわ」
心臓が痛い。視界がぼやけて、また何かが胸にあふれてくる。
それが、愛なのだと、今さら気づいた。
「――ずっと、ずっと、前から、そうだった」
彼女に言わなければ。
「言わなかった、だけだ。怖くて、言えなかった。……」
伝えなければ。自分の気持ちを。
カナエが首をかしげる。結火はその瞳をまっすぐに見つめたまま、囁いた。
あなたが好きだ、と。
これにてこの章は終わりです。ここに来るまで長かった……。
次は番外編を書こうと思います。