目覚め
―――チリン
優しい音が、聞こえた。
まるで祝福のような、懐かしい音。結火の好きな、風鈴の音だ。
昔から、風鈴が好きだった。柔らかな風に揺られて空へと吸い込まれるように響く、涼やかな音。ずっとずっと、一日中だって聞いていられるほど、大好きだった。
ああ、これは、きっと夢だ。夢の中で、風鈴が揺れているんだ。
心地よさを感じながら、ゆっくりと瞳を開ける。一番に視界に入ってきたのは胡蝶カナエの美しい寝顔だった。心臓が高鳴り、思わず小さく息を呑む。結火の腕の中で、カナエは穏やかに眠っていた。その姿に、しばらく見とれる。
あまりにも、美しかった。閉じられた長い睫毛も、愛らしい唇も、布団に広がる艶やかな黒髪も、全てがこの世のものとは思えないほど美しかった。カナエの身体は、細くて柔らかくて、そして温かかった。
柔らかな頬を、そっと撫でる。一瞬だけカナエがピクリと動いたが、起きる様子はなかった。再び優しく抱き締める。それだけで、泣きたくなるくらい、心が満たされているのを感じた。
やがて、カナエから手を離し、結火はゆっくりと身体を起こす。そのまま服を着ようと、布団のそばにあった隊服へと手を伸ばしたところで、
「……ん?」
結火は違和感を感じ、自分の胸を抑える。そして、大きく目を見開いた。
『カナエ』
彼女が、自分の名前を呼んでくれる。それだけで、愛おしさが込み上げてくるのを感じた。
結火の燃えるような瞳。その瞳に、自分だけが映っているという現実は、カナエが想像していたよりも、ずっと甘くて、泣きたくなるほど幸せだった。
「……ん」
そして、朝の目覚めもまた、心地いいものだった。随分と長く眠ったような気がする。甘い痺れを感じながら、瞳を開けた。
「……あら?」
ハッと身体を起こす。隣で寝ていたはずの結火が消えていた。
慌てて服を着てから、厨へと向かう。
「あ、カナエ様、おはようございます!」
厨では、アオイが忙しそうに朝御飯を作っていた。カナエが来たことに気づいて元気よく挨拶をする。
「あ、お、おはよう、アオイ。あの……」
結火さんは?と尋ねようとしたその時、
「おはよう、姉さん……あれ?どうして着がえてないの?」
しのぶが入ってきた。寝間着姿のままのカナエを不思議そうに見つめてくる。
「あ……ちょっと、ね……」
誤魔化すようにカナエが曖昧に笑ったその時だった。
「おはようございます」
「あ……」
淡々と冷たい声を出しながら、結火が厨に入ってきた。その顔はいつも通り、硬く澄ましており、何の感情も浮かんでいない。
一方、カナエは結火と目が合うと、ほんのりと顔を紅潮させた。しのぶはそんなカナエの表情を見て、眉をひそめた。
「お、おはよう。あの……」
「神崎さん、茶碗を運びますね」
カナエが何かを話そうとしたが、それを遮るように結火はアオイに声をかけると食器に手を伸ばす。そして、素早く厨から出ていった。
「……」
「姉さん?どうしたの?」
「……ううん。……着がえて、くるわね」
カナエが気落ちしたように自室へと足を踏み出す。その様子を、しのぶとアオイが不思議そうな表情で見送った。
「……」
胡蝶しのぶは朝食の後、診察室で書類に文字を綴りながら、物思いに耽っていた。
なんだろう。なんだか、モヤモヤする。
その原因は明白だ。朝のカナエの様子。姉の様子は、どう考えてもおかしかった。朝食を食べながらも、落ち着かない様子でソワソワしていたし、何度も結火をチラチラと見ていた。
それに、カナエのあの表情。なんと表現すればいいか分からないが、奇妙な表情をしていた。今まで見たことがない、姉の顔だった。
「……あの2人……まさか」
しのぶが声を出したその時、コンコンと軽い音が響いた。
「はい?」
しのぶが返事をすると、ガチャリと扉が開き、結火が入ってきた。
自然としのぶの視線が鋭くなる。
「あら、何かご用でしょうか?」
しのぶがそう尋ねると、結火は一瞬だけ顔を伏せた。しかし、すぐにしのぶをまっすぐに見つめ、口を開いた。
「……蟲柱様……お話が」
一方、カナエは一人で縁側に座り込み、ため息をついていた。
「はあ……」
せっかく心が通じ合ったというのに、結火との距離が縮まっていないのが、カナエは不満だった。結火は今日もいつも通り、礼儀正しく、そしてカナエに対して従順だった。その姿は、硬く、毅然としており、全く隙がない。これでは、上司と部下の関係のまま、前と全然変わらない。カナエは寂しさを感じて、また一つ、大きなため息をついた。
それに、朝から結火と全然二人きりで話せていない。少しでいいから、二人きりで話して、触れ合いたかった。
仕事で忙しいから仕方がない、ということは分かっている。分かってはいるが―――
「……ちょっとくらい」
二人きりになりたい、と。
小さくこぼそうとしたその時だった。
「何が、ちょっとくらい、ですか?」
後ろから声をかけられて、勢いよく振り返る。そこには、結火が包帯を手に持ち立っていた。
「ゆ、結火さん……」
「胡蝶様、神崎さんが先ほど探していました。早く診察室へ戻った方がよろしいかと」
カナエの動揺をよそに、結火は淡々と言葉を紡ぐ。
「私は療養者の方の処置がありますので、失礼します」
そう言ってその場から立ち去ろうとする結火の腕をカナエは慌てて掴んだ。
「あの、結火さん……」
「何でしょうか?」
結火はカナエを真っ直ぐに見据える。昨夜の燃える炎のように輝く瞳は、どこにもない。
どこまでも鋭く、真っ直ぐな、冷たい瞳だ。
そんな彼女を見ていると不安になってくる。
もしかしたら、昨日のあれは、カナエが見た都合のいい夢なのかもしれない、とさえ思う。
カナエが思わず泣きそうになって顔を伏せると、結火の瞳が僅かに揺れた。それに気づかず、カナエは震えながら口を開く。
「あの、私……」
小さく声を出したその時、結火の手がカナエの手を包むように握った。
「……あ」
カナエが顔を上げる。間近に結火の顔があり、体温が一気に上がるのを感じた。鼓動が速くなり、身体が硬直する。
やっぱり綺麗な人だ、とカナエはその顔に見とれた。昨夜、カナエが何度も口づけた赤い唇が開く。
「――大丈夫」
強く手を握られる。それだけで、心が溶けていくような感覚がした。その後に、言い表せないほどの愛おしさが胸元を突き上げてくる。
「大丈夫だ、カナエ」
何が大丈夫なのか、結火は言わなかった。名前を呼ばれただけで、カナエの心は焼き尽くされそうになる。
「……ありがとう」
小さく呟くように、カナエが言葉を返すと、結火は軽く頷いた。そして、手を離すと、ゆっくりとその場から立ち去る。
その姿を見つめながら、カナエは安心したように少しだけ微笑んだ。
その数分後、廊下にて。
仕事のために、カナエを探していたアオイは、大きな足取りで歩いてこちらへやってくる結火に気づいて、声をかけた。
「あ、結火様、カナエ様は……」
「縁側の方にいらっしゃいました。すぐに来ると思いますよ」
早口でそう答える結火を見て、アオイは首をかしげた。
「結火様、何かありましたか?」
「……。何か、とは?」
少し間を開けて、結火がそう答えると、アオイは戸惑いながら言葉を返した。
「顔、真っ赤になってますけど……」
アオイがそう言うと、結火は一瞬言葉を詰まらせたが、
「……今日は、暑いので。そのせいでしょう。……失礼します」
そう言い放つと、素早くどこかへと走り去った。