「あれ?煉獄さんのお姉さんは、もうこちらにはいらっしゃらないんですか?」
竈門炭治郎の問いかけに胡蝶しのぶは少し困ったように笑った。
「ええ……、少し前に出ていかれたんですよ」
「そうですか……」
「何かあの方に用事でもありましたか?ごめんなさい、知っていたら引き留めたんですが……」
「あっ、いいえ!大丈夫です」
聞きたいことがあったけどまた今度でもいいか、と心の中で呟きながら、炭治郎はしのぶに頭を下げた。
「俺、柱稽古に行ってきます!」
「はい、いってらっしゃい」
しのぶはニッコリ微笑んだ。
竈門禰豆子の太陽克服以来、鬼の出没がピタリと止まった。これにより、大きな戦いが始まることが予想され、鬼殺隊では特別な合同強化訓練が始まった。最高階級の柱による稽古だ。その名も柱稽古といい、柱より下の階級の隊士は柱を順番に巡っていき、それぞれの稽古を受ける。
基礎体力の向上、柔軟、太刀筋矯正、無限打ち込みなど、いずれも恐ろしいほどに厳しく地獄のような稽古である。
しかしながら、蟲柱である胡蝶しのぶはその柱稽古に参加はしない。
なぜなら、重大な任務を任されたためだ。
「静かね……」
夕闇が徐々に薄れていき、星が瞬く夜が訪れた。
胡蝶カナエは蝶屋敷の縁側に立っていた。その優しい瞳は、空に浮かぶ無数の星屑を見つめている。
「──姉さん」
しのぶが後ろから小さく呼びかける。カナエは、
「んー?」
と短く答えたが、視線は夜空から逸らさなかった。
「姉さん、どうして……」
しのぶはやや躊躇ったようにしながらも、そのまま言葉を重ねた。
「どうして、結火さんをあのまま行かせたの?」
その問いかけにカナエは何も反応しなかった。
「……私がこんなことを言うのは筋違いだし、今更だけど……あの人の身体の状態がギリギリだってこと、姉さんも分かってるんでしょう?」
カナエの背中に向かってしのぶは問いかける。しかし、
「……」
やはりカナエからは何の答えも返ってこなかった。しのぶはそんな姉を見つめながら、言葉を重ねた。
「姉さんが止めたら、もしかしたら思いとどまったかもしれない……このまま、この屋敷で後方支援を続けることを選んだかもしれないわ……剣士に戻ることをやめて──」
「それは、ないわ」
突然、しのぶの言葉を遮るようにカナエが声を出した。
「それだけは、ない。だって、……結火さんの中では、もう既に、身を溶かすほどの炎が、燃えていたから……」
カナエは強く拳を握り、言葉を続けた。
「……結火さんの閉ざされていた道が、再び開けた……それならば、彼女は……自分の信じる道を真っ直ぐに進むはずよ。戦うことを諦めることは、絶対にない。私が怒っても泣いても、あの人は絶対に折れないだろうし……自分の信念を曲げることはないでしょう」
「──その先に待つものが、絶望であっても?」
しのぶの言葉に、ようやくカナエは夜空から視線を外す。そして、妹と目を合わせながらゆっくりと微笑んだ。
「絶望?何を言ってるの、しのぶ」
「……」
「その先にあるのは……夜明けよ」
カナエは少しだけ顔を伏せると、再び空を仰いだ。
「あの人が言ってた。未来が近くまで来ている。待ち望んでいた太陽が昇るのだと」
「……姉さん」
「……正直に言うとね、本当はすごくつらくて苦しいの。戦わないで欲しい。ずっと、そばにいて欲しい。自分の命を大切にしてほしい。だけど……あの人にとって何よりも大切なのは、誰かを護るために戦うこと、だから……」
カナエはゆっくりと瞳を閉じた。
「……ならば、私は……結火さんの生き方を、歩む道を、二度と止めることはしない。その意思を尊重するわ」
カナエは目を閉じたまま少しだけ微笑んだ。
「それに……私は信じてるの」
「何を?」
「結火さんが、ここに帰ってくることを。約束、したのよ。必ず蝶屋敷に帰ってくるって。どこに行っても、最後は、必ず、私のもとへ……」
カナエは目を開くと、しのぶに顔を向けた。
「約束したから、だから、信じてるの」
そしてカナエは微笑みながらしのぶの背中を優しく叩いた。
「さあ、そろそろお客様が来る時間だわ。準備をしましょう」
その言葉にしのぶは固い表情をすると小さく頷いた。
「うん……」
そんな妹の顔を見て、カナエは苦笑する。妹は任務とはいえ、今からここにやって来る客の事が気に入らないらしい。
できれば
それから半刻もしないうちに、蝶屋敷に奇妙な出で立ちの二人組が訪ねてきた。
一人は、着物を身にまとった美しい女性。もう一人は不機嫌そうな目の青年だった。
胡蝶カナエとしのぶの姉妹は、揃ってその二人を出迎えた。
「お初にお目にかかります」
カナエが微笑みながら、挨拶をする。女性は少し安心したように頭を深く下げた。
柔らかな笑みを浮かべて歓迎している様子のカナエとは反対に、しのぶの方は無表情だった。しかし、カナエはしのぶが怒りや憎しみを必死に抑えようとしているのに気づいていた。
彼らは鬼だ。女の方は珠世、青年は愈史郎という名前で、珠世の方は鬼舞辻無惨の支配から逃れている特殊な鬼らしい。
──産屋敷耀哉からの任務、それは薬の共同開発だった。医学や薬に精通しているカナエ、しのぶ、そして珠世は鬼舞辻を討伐するために協力することになった。
カナエは固い表情をしているしのぶの手を安心させるように軽く撫でる。そして、にこやかに笑いながら言葉をかけた。
「それでは、早速始めましょう!」
◇◇◇
同時刻。
悲鳴嶼行冥は月明かりの下で、猫を撫でていた。悲鳴嶼に撫でられている猫が機嫌よく喉を鳴らす。そんな猫の声を聞いた悲鳴嶼の表情は柔らかくなる。
その時、突然カタン、という音が聞こえた。悲鳴嶼は部屋の奥、音が聞こえた方角へと顔を向ける。
そこには、煉獄結火がいた。
「――煉獄」
悲鳴嶼の呼びかけに、結火は答えない。
ただ、荒い息遣いを繰り返しながら、何度も咳き込む。そして、胸を抑えながら、懐から小さな箱を出す。その箱を開けると、小さな注射器を姿を現した。注射器を右手で持つと、結火は躊躇いなく左の上腕に突き刺す。
しばらくすると、呼吸は少しずつ安定してきた。結火はゆっくりと深呼吸をしつつ、壁に背中を預けて目を閉じる。
「――煉獄、大丈夫か?」
悲鳴嶼の問いかけに、
「……はい」
結火は弱々しく答えた。
「悲鳴嶼さん、申し訳ありません……」
ここは悲鳴嶼の住まいだ。蝶屋敷を出た結火はこの近くの山で鍛練を積み重ねる日々を送っていた。しのぶの毒のお陰で、肺の機能が向上し、体力は徐々に戻ってきつつある。
だが、体調が安定しているとは言い難い。毒の影響で時折吐き気や眩暈に襲われる。また、発作のように呼吸困難が出現することもあった。現在も呼吸状態が突然不安定になったため、結火は鍛練を中断し、悲鳴嶼の住まいの一角を借りて、しのぶに渡された毒を自分の身体に投与していた。
「気にするな」
悲鳴嶼は首を横に振りながら、水を渡してくれた。結火はありがたく思いながらそれを受け取り、少しずつ飲む。
悲鳴嶼はチラリも注射器の入っていた箱に顔を向けてから、再び口を開いた。
「それは薬か?」
悲鳴嶼の言葉に、結火は弱々しく首を横に振って答える。
「いいえ……薬ではなく……毒、です」
その答えに、悲鳴嶼の眉がピクリと動く。結火は注射器を仕舞いながら、言葉を続けた。
「蟲柱様の、毒なんです。定期的に打たなければ、呼吸が続かなくなるので……少量ずつ投与しています」
悲鳴嶼が厳しい顔を向けて口を開いた。
「それは……本当に大丈夫なのか?」
結火は咄嗟に、
「ええ」
と短く答えた。しかし、すぐに言い訳をするように言葉を紡ぐ。
「……毒、なので……少し、身体に害はありますが」
「少しではないのだろう、本当は」
結火は悲鳴嶼の顔へと視線を向ける。そして、ゆっくりと顔を伏せた。
「仕方ないんです……私が、戦うには……これがどうしても必要で……」
結火の言葉に、悲鳴嶼は顔をしかめると、ゆっくりと結火の正面に座った。
「――煉獄」
「はい?」
「私は……お前が戦うのは反対だ」
その言葉に、結火は悲鳴嶼から思わず顔を背けた。
「もう十分すぎるほど、身体を酷使しているだろう……このままでは、お前の身体は壊れてしまう。諦めたくないお前の気持ちは分かる……だが、お前の弟だってそんな事は望んで――」
「悲鳴嶼さんだったら」
結火は悲鳴嶼の言葉を遮るように問いかけた。
「悲鳴嶼さんが、私の立場だったら……諦めますか?」
その言葉に、悲鳴嶼は難しい顔をして黙りこむ。結火は微かに笑って、注射器を小箱に仕舞いながら口を開いた。
「――申し訳ありません、悲鳴嶼さん」
「……」
「悲鳴嶼さんの言うとおりです。私の身体は、もうほとんど使い物にならない。きっと、私は、ここで……やめるべきなのでしょう。だけど」
結火はゆっくりと胸に手を当てた。
「やめません。絶対に」
そして、まっすぐに悲鳴嶼を見据え、言葉を重ねる。
「ここで、まだ燃えてるんです。ずっと、ずっと……炎が」
消えかけていた心の炎が、新たに燃え始めた。これは誰にも止められない。
きっと、自分自身にさえ――
「つらいです。苦しいです。信じられないくらい、痛くて痛くて、たまらない。だけど……心の炎を消してしまうのは……死んでも嫌です。それは、杏寿郎が尊敬してくれた“姉”じゃない!だから──」
己の弱さに打ちのめされて、挫けて、この心が折れようとも。
心の炎だけは絶やさない。
燃やせ、燃やせ。
たくさんの火傷をして、燃え尽きて塵になろうとも、それでも燃やせ──!
結火は悲鳴嶼の顔を見つめながら小さく微笑んだ。
「燃やしたまま、戦います。朝日が昇る、その日まで」
結火がそう言うと、悲鳴嶼は静かに手を合わせ、涙を流す。そして、ゆっくりと口を開いた。
「お前に、何かがあれば……カナエが悲しむ……」
その言葉に、結火は眉をひそめた。
「……なぜ、今、胡蝶カナエの名前が出てくるんです?」
悲鳴嶼は軽く首をかしげると、淡々と言葉を続けた。
「お前達、いい仲なのだろう?」
悲鳴嶼の言葉に、結火は顔を引きつらせた。
「違うのか?」
「……悲鳴嶼さん、一体どこでそれを?」
「先日、宇髄がここを訪ねてきて、その時に教えてくれた」
ニヤニヤと笑う宇髄の顔が脳裏に浮かぶ。あいつ今度会った時は絶対にぶん殴る、と結火はこっそり心の中で決心しながら拳を強く握りしめた。
そんな結火に気づかない様子で、悲鳴嶼は言葉を続ける。
「驚いたぞ。まさかお前とカナエが……」
「いや、その、まあ、いろいろありまして……」
結火は曖昧な言葉で誤魔化して、悲鳴嶼から顔を背けた。その時、悲鳴嶼が結火の頭に大きな手を乗せた。結火が驚いて目を見開く。悲鳴嶼は優しく笑いながら、そのまま結火の頭をグリグリと撫でた。
「よかったな、煉獄」
悲鳴嶼の言葉に結火は唇をギュッと強く結んだ。
悲鳴嶼から、後藤と同じ言葉で祝福されたことが、自分でも驚くほどに嬉しかった。
「カナエは……何も言わなかったのか?お前が決めたことについて」
悲鳴嶼からそう尋ねられ、結火は迷いながらも答えた。
「……泣かれました。私のことを心配していて……戦わないでほしい、と言われました」
あの夜のカナエの涙を思い出して、結火は顔を伏せる。蝶屋敷に残ったカナエの事を想うだけで、心臓を痛いほど掴まれているような感覚になった。悲しみと罪悪感、そして何よりも彼女と会えない寂しさに心が潰れそうになる。その気持ちを抑えるように、結火は悲鳴嶼に向かって言葉を続けた。
「それでも、最後には理解して、納得してくれましたから」
いや、理解していても、納得していても、カナエもつらく悲しい思いをしているだろう。きっと今の結火と同じくらいに。
心から申し訳なく思う。だが、それでも、もう止めることはできない。
このまま戦うことを、自分で選択したのだ。
杏寿郎と同じように、最後まで。
「このまま、基礎体力を戻すために修練を続けます。その後は呼吸を使って剣の鍛練を……できれば柱稽古にも参加したいと考えているのですが……」
悲鳴嶼は難しい顔をしたまま首をかしげた。
「……南無。煉獄、お前、このまま蝶屋敷には戻らないつもりか?」
「いいえ」
悲鳴嶼の問いかけに結火は首を横に振りながらキッパリと答えた。
「……私の居場所はあそこです。必ず戻ります。約束したので。絶対に、最後には戻るつもりです。カナエのもとへ」
悲鳴嶼は安心したように少しだけ微笑んだ。
「そうか」
「はい」
悲鳴嶼はパンと音をたてて両手を合わせた。
「何か困ったことがあればいつでも言え。私に出来ることは何でもしよう」
「ありがとうございます」
結火は立ち上がり、深く頭を下げた。
「それでは、体調も戻ったので、そろそろ失礼します」
「ああ」
「本当にありがとうございました」
結火はもう一度深く頭を下げると、素早くその場から立ち去った。
随分と間が空いて、申し訳ありません。少しずつですが、更新していきます。最後までよろしくお願いいたします。