「……っ」
突然浮遊感に襲われる。踏みしめていた地面が消えて、結火は息を呑んだ。
下には何故か障子戸が見えて、咄嗟に体勢を整える。なんとか着地に成功すると、すぐに周囲を見渡した。
「ここは……」
大きな屋敷のように見えるが、空間に歪みがあり、上下左右が滅茶苦茶だ。恐らくは血鬼術で作られた異空間なのだろう。結火の他に剣士の姿は見えない。とりあえずは誰かと交流しなければ。
そう思った次の瞬間、後ろから何者かの気配を感じた。振り向き様に、刀を動かす。
「炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり」
こちらに牙を向けていた鬼の頚を一気に斬り落とした。
「……」
同時に、ビリビリとした何かが全身を駆け抜ける。
──久しぶり、だ。この感覚。
ああ、ここは間違いなく戦場だ。
死に、最も近い場所だ。
帰ってきたのだ。この地へと。
結火は大きく深呼吸をした。そして、ゆっくりと走り出した。
「……」
この異空間の、どこかにいるのだろう。
弟の命を奪った鬼が。
それを考えるだけで腹の中に耐え難い怒りが渦巻くのを感じた。
「……落ち着け」
自分の心を鎮めるように、呟く。
一番の目的、それは鬼舞辻無惨の討伐だ。
それだけは忘れてはいけない──!
その時、再び図体の大きい鬼が次々にこちらへとやって来るのが視界に入る。結火は冷静に刀を振るい続けた。
「……っ」
あまりにも複雑な構造の空間だった。鬼を斬り倒しながら進むが、鬼殺隊の人間はどこにも見当たらない。
再び目の前に現れた鬼の頚を斬りながら、結火はもどかしさのあまり大きく叫んだ。
「どこに、いるんだ……っ!?」
これでは切りがない、と思いながら再び刀を動かす。廊下を走り抜け、階段を飛び降りる。そして次々に鬼を倒していく。
「……っ、くそっ」
思わず悪態をついたその時だった。
「……あ」
前方に部屋を見つけた。とても嫌な気配がする。
結火は脇目もふらず、そこへ素早く駆けつけると、一気に扉を開いた。
初めに目に入ったのは、胡蝶しのぶだった。ひどく出血していて、膝をついている。周囲には蓮の花が浮かんだ池が見えた。
そして、しのぶの前に、1人の真っ赤な鬼。
「……っ」
見覚えのある鬼だった。だがそれを思い出す前に、結火は刀を振るった。
「おや」
結火の方へと驚きの視線を向けた鬼が一歩下がる。それに構わず結火はしのぶの身体を抱き上げると、距離を取った。しのぶが驚愕したようにこちらを見返してくる。
「なん、で……っ」
「喋るな。呼吸をして」
短く返事を返すと、部屋の隅にしのぶの身体を降ろし、素早く全身を観察した。かなり傷が深い。肺が切り裂かれたのか、口からも出血をしている。
「あれ?なんか君、見たことあるね?誰だっけ?」
赤い鬼が結火をしげしげと見つめながらそう尋ねてきたが、結火は何も返事をしなかった。ただ、鬼に鋭い視線を返す。
「まあどうでもいいや。ああ、本当にいい夜だなぁ。また綺麗な女の子が来てくれたなんて」
ニコニコと微笑みながら、鬼が扇子を広げる。
「やあやあ、僕の名前は童磨。君の名前は?」
その瞳には、左に“上弦”、右に“弐”と刻まれていた。
「……ああ」
結火は思わずため息をつく。
まさか、この鬼と再び相見えることになるとは。
「よもやよもやだ……」
まるで運命的だ、と柄にもなくそう思いながら、結火は刀を構えた。
「結火さん……」
しのぶが小さな声を出す。結火は鬼から視線を外さずに、言葉を返した。
「喋るな。呼吸で止血をしろ」
しかし、しのぶはなおも言葉を重ねる。
「冷気、吸わないで……」
その言葉に、結火は一瞬だけ眉をひそめ、すぐに小さく頷いた。
独自の特殊な呼吸をする。そのまま勢いよく腕を動かした。
「炎の呼吸 壱ノ型 不知火」
力強く踏み込み、鬼の頚を狙う。しかし──
「ありゃりゃ」
鬼は簡単にそれを避けると、穏やかに微笑んだ。
「君、全然駄目だね。そっちの女の子よりも弱い。それじゃ攻撃は届かないよ」
思わず舌打ちをする。大きく踏み込みながら鬼へと距離を詰める。そのまま再び刀を振るおうとしたのと同時に、鬼もまた動いた。
「血鬼術 凍て曇」
一瞬、霧が出たと思ったが恐ろしいほどの冷たさを感じて、結火は一気に距離を取った。
──冷気とは、これのことか!
まずい。これを少しでも吸うと肺が凍ってしまう。左手で口と鼻を押さえながら、鬼へと鋭い視線を送った。
──これが、上弦の力
──想像していた以上に、強い
どうすればいい?近づけない。少しでも近づいたら肺が凍ってしまう。
結火が自分の唇を強く噛み締めたその時だった。
「師範!」
誰かが勢いよく部屋に飛び込んできた。結火は驚いて思わずそちらへと顔を向ける。
部屋に飛び込んできたのは、栗花落カナヲだった。童磨と対峙している結火と、床に倒れているしのぶを一瞬だけ呆然と見つめる。しかしすぐに結火と同じように刀を構えた。
「また女の子が来てくれたんだ。嬉しいなぁ」
その時、童磨が何かに気づいたような顔をした。
「あれえ?猗窩座殿、もしかして死んじゃった?」
その名前を耳にした結火が、一瞬だけ肩をピクリと動かすが、その事に誰も気づかなかった。
「一瞬変な気配になったけど気のせいだよね。猗窩座殿が何か別の生き物になるような…。死んじゃったからもう分からないや」
アハハ、と童磨が無邪気に笑った。
「ごめんごめん、えーと、なんだっけ?そうそう、君達の名前は?」
その問いかけに、結火は答えなかったが、カナヲは律儀に言葉を返した。
「私は栗花落カナヲ。胡蝶しのぶの妹だ……」
カナヲもまた、童磨を睨みながら言葉を絞り出す。
「え?ホント?肉質の感じからして、血縁ぽくないけど……若い女の子はだいたい美味しいからいいよ、何でも!女の子といえば……そうそう、猗窩座殿が負けたのも仕方ないよね」
結火は童磨を睨みながら、必死に考え続けていた。どう動けばこの鬼の頚を切れる?冷気のせいで、近づくことさえできない。どうすればいいのか全然思い付かない。
だが、なんとしてでも、絶対に倒さなければ──
その時、不意に童磨が悲しそうにうつむき、突然涙を流した。
「死んでしまうなんて……。悲しい……、一番の友人だったのに」
その涙を目にした瞬間、何故か分からないがゾワゾワした。
なんだ、この鬼。
気持ち悪い──
「もういいから」
その時、静かな声がその場に響いた。
「もう嘘ばかりつかなくて、いいから」
童磨が涙を流しながら、不思議そうにカナヲの方を向いた。
「何?」
カナヲが表情を変えずに、冷たい声を出した。
「貴方の口から出る言葉は、全部でまかせだって、分かってる。悲しくなんて、ないんでしょ、少しも。あなたの顔色、少しも変わってない。“一番の友人”が死んだのに、顔から血の気が引いてないし、逆に怒りで頬が紅潮するわけでもない」
童磨はカナヲの言葉を聞きながら、扇を顔に当てた。
「それは、俺が鬼だからだよ」
「鬼は常に瞳が潤い続けるから、瞬きしないけど、人間と同じく血は巡ってるから、顔色は変化する……」
カナヲのその異常な迫力に、結火は思わず息を呑む。
「あなた、何も感じないんでしょ?この世に生まれてきた人たちが、当たり前に感じている喜び、悲しみや怒り、体が震えるような感動を、貴方は理解できないんでしょ?」
カナヲが歪に笑う。
「でも、貴方は頭がよかったから、嘘をついて取り繕った。自分の心に感覚がないってばれないよう、楽しいふり、悲しいふり……、貴方には、嬉しいことも、楽しいことも、苦しいことも、つらいことも、本当は空っぽで何もないのに……。滑稽だね。馬鹿みたい……」
「貴方、何のために生まれてきたの?」
ギチギチと奇妙な音が聞こえる。
「……今まで、随分な数の女の子とお喋りしてきたけど」
童磨の扇が、バチン、と音がたてて閉じた。
「君みたいな意地の悪い子、初めてだよ。なんでそんな酷いこと、言うのかな?」
今まで感じたことのないほどの殺気を感じた。結火は童磨を睨みながら、再び刀を構える。一方、カナヲは冷静に言葉を重ねる。
「あなたのこと、嫌いだから、一刻も早く、頚を斬り落として地獄へ送る。一つだけ、訂正しようかな。貴方って、頭よくないみたい。みっともないから、さっさと死んだ方がいいよ。貴方が生きてることに、何の意味もないからーー」
次の瞬間、童磨が動いた。カナヲの後ろへ回り込み、扇で攻撃する。
「……っ!」
あまりにも素早い攻撃だった。結火は動いたが、カナヲもまた身を屈めて避ける。結火は走りながら童磨へ刀を振り下ろした。
「炎の呼吸 弐ノ型 昇り炎天」
同時にカナヲも攻撃をしていた。童磨の腹部や肩が斬りつけられ、血が吹き出る。しかし、頚には届かなかった。
すぐに童磨が血鬼術を仕掛けてくる。蓮の花のような氷が襲ってきた。
「これを吸うな!」
結火は咄嗟に大きく叫び、飛び退いた。凍結させられそうな強烈な冷気が発せられる。必死に口と鼻を手で覆う。
「……ぐっ」
寒い。身体が震える。息が詰まる。
どうすればいいのだろう。どう動けば攻撃が当たるのか見当がつかない。
とにかく、どうにかしてこの鬼に近づかなければ。
カナヲが刀を動かした。
「花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬」
結火も後ろへと回り、攻撃を繰り出す。
「炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり」
必死の攻撃も、やはり童磨には届かなかった。
「いいねぇ、綺麗だねぇ!じゃあ、俺も!」
楽しそうに笑いながら童磨が攻撃を返す。
「血鬼術 枯園垂り」
冷気を纏った扇が近くで揺れた。呼吸を止めて一気に飛び退く。カナヲの方は再び攻撃を仕掛けていた。
「花の呼吸 弐ノ型 御影梅」
自分自身を護るように周りを囲って斬撃を放つ。
「……っ」
結火はあまりのもどかしさに唇を強く噛んだ。すごい。なぜカナヲはあのように素早く動けるのだろう。全ての攻撃を受け流して凌いでいる。結火には到底できない。
恐らく、極めて視力が優れているのだろう、という事がすぐに分かった。理解できたところで、真似はできない。その時、結火と同じくその視力の特殊性に気づいたらしい鬼がカナヲの目を狙って攻撃してきた。
「炎の呼吸 参ノ型 気炎万象」
すぐに結火がそれを防ぐために動く。童磨がうるさい蠅を見るような目で結火を見てきた。
「小賢しいなぁ、本当に……」
そしてそのまま扇を揺らす。
「血鬼術 凍て曇」
再び氷のような冷気に襲われる。再び口と鼻を覆いながら、結火は退がることしかできなかった。
しまった。目がボヤけている。
いや、大丈夫だ。まだギリギリ見える。
もう一度、動け!もう一度──!
「血鬼術 蔓蓮華」
今度はたくさんの氷の蔓が襲いかかってきた。
「……ちっ」
舌打ちをしながらり四方八方に刀を動かし、その攻撃を斬っていく。その間にも童磨がにこやかに次の攻撃に移る。
「次いくよー」
氷で二体の女の銅像のような物が発生した。女が吐息のように冷気を吐き出す。
「血鬼術 寒烈の白姫」
広範囲の技により、周囲が凍りついていく。必死に目を閉じて、足を動かした。気配だけを頼りに、動く。
「なんだ、これ……っ、くそっ!」
カナヲはどうなった?どこにいる?必死に気配を探りながら、薄く目を開いたその時だった。
「……!?」
上から何かが落ちてきた。冷たくて固い何かが次々に床に刺さる。結火は何とかギリギリで避けたが──、
「なっ!?」
目を開けたその瞬間、カナヲが呆然と立っているのが見えた。その手から刀が消えている。
「なん……っ?」
奪われたのか?そう思った次の瞬間、後ろから気配を感じ、咄嗟に結火は飛び上がった。
「あれぇ?凄いね、君。気づいたんだ」
呑気な声が響き、そちらに視線を向ける。童磨がニヤニヤと笑いながら結火を見ていた。その手には、カナヲの刀が握られている。
どうやら、童磨はカナヲの刀に続いて、結火の刀も奪おうとしていたらしい。
「くっ……」
どうすればいい?何とかして、あの刀を取り戻さなければ──
再び童磨が扇を大きく振るった。
「……っ」
結火は再び飛び上がり、距離を取る。しかし、何故かカナヲはそこから動かない。
「逃げろっ!」
結火が思わず叫んだその時だった。
「どおりゃあアアアッ!」
大きな声が聞こえた。天井がメキメキと悲鳴をあげる。
「……っ!?」
突然の乱入してきた人物にその場の全員がポカンと口を開いた。
「天空より出でし伊之助様のお通りじゃあアアア!!」
やって来たのは嘴平伊之助だった。上から攻撃を仕掛けたらしい。すぐに凍てつくような冷気は消えた。
「ドンピシャじゃねえか、鴉の道案内はよォ!!勝負勝負ゥ!!」
ウヒャウヒャと笑う声に、結火の唇は思わず引きつった。一方、伊之助は、
「んんー?」
と目に手を当てて童磨を見据えた。
「テメエ!上弦の弐だな!バレてるぜ!!」
誰が見ても分かることを大声で叫ぶ。童磨を指差して何やら意気込んでいた伊之助は、カナヲと結火の姿に気づくと、何やら怒ったような声を出した。
「つーか、お前ら何怪我してんだ!そんな無茶したらしのぶが怒るぞ!!」
ハッとして結火はしのぶに視線を向ける。微かに胸郭が動いているのが見えて、胸を撫で下ろした。一方、伊之助もしのぶの姿に気付き問いかけてきた。
「……死んだのか?」
「生きてる」
結火は短くそう答え、再び刀を構えた。
「気をつけろ。鬼の冷気を吸うな」
「うるせえ!俺に命令すんじゃねえ!!」
命令ではなく忠告をしたつもりだったのだが、伊之助はプンプンと怒りながら、勢いよく刃こぼれした刀を振るった。
「アッハッハ、無茶苦茶な技だな」
童磨の言う通り、今まで見たことのない技だった。だが、素早く大きな連撃だ。驚いたことに、伊之助はそのまま童磨に近づくと、見事にカナヲの刀を奪い返した。
結火も大きく腕を動かし、刀で攻撃を仕掛ける。
恐らく、自分にこの鬼の頚は斬れない。
だが、少しでも援護をしなければ。
伊之助の技は本当に無茶苦茶だ。だが、それでも、結火よりも強い。
「炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり」
刀を取り返したカナヲもまた、動き出した。
お互いに攻撃を繰り返す。だが──
「はいはい、君達のことも忘れてないよ」
童磨は再び氷の花を咲かせた。
「ぐっ……」
あまりにも強い冷気を右手が受けてしまった。なんとか避けたため、氷漬けにはなっていないが、手の感覚が失くなってくる。
「……っ」
先程から肺が痛い。微量の冷気を吸ってしまったのだろう。それに、左目がもうほとんど見えていない。
飛び上がって距離を取る。伊之助が再び大きく刀を振るうのが見えた。なんだ、あの技は。あまりにも荒唐無稽過ぎる。
結火は呼吸を整えながら、鬼を素早く観察する。何か、弱点はないか。
同時に近くにいるしのぶをチラリと見た。なんとか生きてはいるようだが、呼吸が浅い。
「あれー?何か見覚えあるぞぉ、君の顔」
童磨の声が聞こえて、結火は思わずそちらへと視線を向けた。どうやら、童磨が伊之助の猪の皮を奪ったらしい。素顔の伊之助が殺気だった視線を童磨に送る。
「僕達、どこかで会ったよね?」
なんだ、それは。
この鬼は一体──?
結火は眉をひそめる。その時、結火の服を誰かが引っ張った。
「ゆ……結火さん……」
ハッとして視線をそちらに向けると、血だらけのしのぶがこちらを見つめていた。
「お、おねがい……」
「喋らないで。あなたの怪我は──」
伊之助が何かを叫んでいる。童磨がニヤニヤと笑いながら、何か昔の出来事を話している。
だが、結火の耳にはそれがもう届いていなかった。
しのぶが強い瞳でこちらを見つめていたから。
「お、ねがい……」
「何を……?」
しのぶは結火にすがりつくように服を掴む。そして、唇を耳元に寄せた。
「……はっ、私が……っ」
「え?」
「私が……っ、毒をあいつに……っ」
その言葉を聞いた結火は首を横に振った。
「無理だ。もうあなたは立つことさえ──」
「で、できる……っ」
何故かは分からないが、その場の音が全て消え去ったような気がした。目の前にいるしのぶの声しか聞こえない。
ヒューヒューと必死に呼吸を繰り返しながら、しのぶが小さく囁いた。
「もう一度だけ……だから、どうか……あいつに攻撃を」
何か、策があるのだろうか。いや、そんなのどうでもいい。今の私にできるのは──
「私が攻撃をすればいいのか?」
結火が問いかけると、しのぶは弱々しく頷いた。
「隙を、作って……なんとかして……」
「承知した」
結火は小さく頷いた。
今の私にできること。
それは、信じて戦うことだ。
少しでも、役に立てるように。
鬼を見つめる。幸運なことにこちらの様子に気づいてはいない。結火は懐から素早く毒の入った注射器を取り出した。そのまま素早く自分の腕に針を刺す。
チクリとした痛みを感じた。そのまま一気に大量の毒を自分の身体に注入する。
こんなにも一気に多くの毒を身体に入れるのは初めてだった。恐らく、毒の影響で身体は壊れてしまうだろう。
だが、構わない。
結火は笑う。その様子に気づいたのはカナヲだった。しのぶが必死に指を動かしてカナヲに何かを伝える。しかし、結火はそれに構わず足を踏み込み、飛び上がった。一気に鬼に近づく。
「炎の呼吸 伍ノ型 炎虎」
鬼が軽く驚いたような顔をした。
「あれぇ?君、まだ動けたんだ?」
攻撃を避けると、すぐに扇を振るう。
「血鬼術 凍て曇」
氷のような冷気が結火を襲う。しかし、結火は逃げなかった。
──これが、最後。
──どうか、頼む……!
一瞬だけ足を止める。独自の呼吸を繰り返しながら全身を捻るように動かす。冷気が入ってきたが、構わない。
「炎の呼吸 玖ノ型 煉獄」
大きな衝撃を感じた。全身に負荷がかかる。
──どうか
骨が折れ、内蔵がつぶれる。
──どうか、当たってくれ。頼む。
口から血が流れるのを感じた。信じられないくらい、肺が痛い。
目の前の鬼が驚いたような顔をしているのが見える。手の感覚が消失している。何も感じない。ただ、ただ、苦しい。
ああ、やっぱりダメかもしれない。
そう思った、次の瞬間。
確かに、聞こえた。
『姉上』
その声を耳にした瞬間、結火は笑った。刀を持つ結火の手を、誰かが支えてくれる。
いや、これは本物じゃない。
毒の効果だ。大量の毒を身体に入れたから、これは毒による幻影だ。もう脳さえほとんど正常な機能をしていないらしい。だが……
──そうか
──共に戦ってくれるのか
幻覚でも、構わない。
「ありがとう、杏寿郎」
小さく呟いた。
眼球が凍りつく。肺が壊れていく。それでも構わない。結火は大きく刀を振るった。
「あー、あー、もうそんなに無茶して」
童磨が馬鹿にしたような声を出した。
「そんなの僕には当たらな──」
そう言葉を続けようとした瞬間、何かを感じた。
「──!」
目の前の女剣士の動きに夢中で、全く気づかなかった。
いつの間にかしのぶがすぐ近くにいた。
まだ動けたのか、と問いかけようとしたが、童磨の唇から声は出なかった。なぜなら、しのぶがそのまま喉に刀を突き刺し、天井まで突き上げたからだ。
「う……っ」
耐えきれずに童磨から呻き声が漏れた。
支えるものがないしのぶの身体は床へと落ちていく。
「はははっ!2人とも頑張ったね、えらいえらい」
天井で童磨が笑った。そして、力尽きて床に倒れこむ結火をチラリと見た。
「あー、でももう駄目だね。そっちの子は完全に肺が壊れちゃった。それに、目ももう使い物にならないね」
楽しそうに笑いながら童磨が扇を開こうとしたその時だった。
「あれ?」
童磨は感じた。自分の心臓が奇妙な音をたてるのを。
「なに……これ……?」
力が抜けていく。ガクガクと上肢と下肢が痙攣をした。息が詰まる。童磨は呆然としながら痙攣をする自分の手足を見つめた。
「カナヲ……」
しのぶが小さく囁いた。
◇◇◇
「面白い血液ですね」
そう評したのは、カナエとしのぶと共に毒の研究をしていた珠世だった。
試験管を手に、冷静な瞳でそれを見つめる。試験管には結火の血液が入っていた。
「長期間、特殊な毒を投与した人間の血液……これには微量の毒素が混じっている状態です。非常に珍しいですね。毒がこんな変化をもたらすとは……」
カナエとしのぶが顔を合わせた。
「あの……これ、危険なのでしょうか?」
カナエの問いかけに珠世は首を横に振った。
「いいえ。話を聞く限り、この血液の持ち主という方は他に症状はないようですし、大丈夫でしょう」
その言葉に、カナエがホッと息を吐き出した。
「これ、何かに使えませんかね?」
しのぶがそう提案すると、珠世は苦笑した。
「微量の毒ですから……難しいでしょうね。少なくとも鬼を殺せる毒にはなりません……あ、ですが……」
珠世は再び試験管に視線を移すと言葉を続けた。
「この毒素、非常に吸収しやすく、そして分解しにくいんです」
「ということは……」
「ええ。殺すことはできませんが……、上手く工夫すれば、あるいは、鬼の攻撃を阻害できるかもしれませんね」
その言葉に、カナエが試験管を手に取った。
「じゃあ、私がやってみましょうか」
「え、姉さん……?でも」
しのぶが何かを言おうとしたが、カナエはフワリと穏やかに微笑んだ。
「2人は他の研究に忙しいでしょう?私がちょっと頑張ってみるから、ね?」
カナエの言葉に、珠世としのぶは顔を見合わせる。確かに、鬼を殺せない毒を研究しても、意味はない。2人には鬼舞辻を倒すための薬の研究と開発という重要な役目が残っているのだから。
しのぶは少し残念そうな顔で頷く。珠世も困ったような顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
「それじゃ、任せて!」
カナエがそう言って、再び笑った。
◇◇◇
「姉さん……」
しのぶは小さく囁く。
カナエが、結火の血液から作り出した毒。これが、唯一の完成品だった。
『毒、というか劇薬みたいな感じね。鬼に投与しても、やっぱり残念ながら殺せないわ。でもね、呼吸困難と全身の麻痺を起こさせるの。それに、飛びっきり吸収が早くて分解が遅い。いざというときの足止めにはなるはず……』
カナエがこれを渡してくれた時の言葉が脳裏に甦った。
結火が攻撃をして、あの鬼の視線を引き付けてくれたから、しのぶは動くことができた。
これは、賭けだ。最後の賭けだ。
あの鬼を、倒す。絶対に。
そして、カナヲと伊之助が動き出した。しのぶはそれを見届けて呟く。
「おね、がい……」
童磨が崩れ落ちる。それと同時に目の前に巨大な氷の仏像が姿を現した。
「……っ!?」
凄まじい冷気を感じる。まだ、こんな技が残っていたなんて。
だけど、明らかに精度が落ちてる。これなら──!
伊之助が刀を投げる。カナヲが素早く動くのが見えた。
「カナヲ!」
しのぶが声にならない声で叫ぶのと同時に、カナヲが刀を振るう。そして、とうとう童磨の頚が、飛んだ。
「あ……」
それを見た瞬間、しのぶの緊張が解ける。
──よかった。倒した。あいつを。
痛くて、苦しくて、もう何も考えられない。それでも、しのぶは笑った。
──倒したんだ、私達の力で
「あ、りがと……」
小さく呟くのと同時に、氷の菩薩像が解けていくのが見えた。そしてそのまましのぶの意識もまた、闇の中へと吸い込まれていった。
「う……」
しのぶの近くに倒れていた結火は必死に動いた。呼吸が苦しい。全身から大量に出血している。眼球が凍っていて、もう何も見えない。それでも必死に手探りをする。
「う……うぅ……」
口からコポリと血があふれでるのを感じた。あの鬼は、無事に討伐できたらしい。しのぶのおかげだ。
「む、蟲柱……さま……っ」
必死に身体を動かし続け、ようやく小さな手に触れた。しのぶの手だ。弱々しく握りしめながら、結火は必死に声を絞り出した。
「蟲柱様……っ、し、しのぶ……」
手が冷たい。自分と同じくらい、呼吸が弱い。
「し、死ぬな……っ、死なないで、くれ……!頼むから……」
まるで懇願するように掠れ声で叫ぶ結火の瞳から涙が流れる。止めようとしたが、止まらない。寒くて寒くて、仕方ないのに、自分の涙だけは炎のように熱かった。
「かえ、るんだ……私達は、帰るんだ……カナエのところに……っ、だから、死なないでくれ……っ」
しのぶは握り返してこない。それどころか何一つ反応しない。だが、それ以上何も言うことが出来ず、結火は力尽きたように瞳を閉じた。
読みにくくて申し訳ありません。戦闘描写が本当に苦手で……。もう少し続きます。