大きな戦いが、幕を閉じた。
鬼舞辻無惨は鬼殺隊の剣士達によって完全に滅された。長きに渡る戦いは漸く終結し、夜明けを迎えた。
多くの隊士が命を落とした。柱でさえ、生きて帰った者は少ない。
「お湯を持ってきて!あとは包帯とガーゼも!」
「はい!」
「アオイ、そっちは私がするから薬の準備をお願い!」
「承知しました!」
蝶屋敷にて、胡蝶カナエは他の少女達に指示を出しながら治療に奔走していた。
屋敷全体が血の匂いに満ちている。怪我人がとにかく多い。中にはかなり危険な状態の隊士もいる。
仲間の死を悲しむ時間はない。勝利を喜ぶのはまだ早い。
生き残っている者達をなんとか助けなければならない。それが、カナエの責務なのだから。
あまりにも怪我人が多すぎて、手が空いている隊士の手も借りて、総出で治療を続けていたその時だった。
「重症の方々です!治療をお願いします」
その声が耳に届いたカナエとアオイは駆け足で玄関へ向かう。頭の中で空いているベッドの場所を思い出しながら、怪我人を運んできてくれた隊士へ近づき声をかけた。
「ありがとう、それじゃあ、とりあえずは奥のベッドに──」
その時、怪我人を見たアオイが動揺したように声をあげた。
「カ、カナエ様!!」
「え?」
その様子に眉を寄せながら、カナエは怪我人へと視線を向ける。そして大きく息を呑んだ。
「あ──」
あまりの驚きに一瞬心臓が止まったような感覚になる。
新たに運ばれてきたその怪我人は、2人の女性隊士だった。傷だらけで出血も多い。一目で危険な状態だと分かる。
それは、胡蝶しのぶと煉獄結火だった。
◇◇◇
寒い。
結火は不意に目を開けた。
辺りは真っ暗だ。どこまでも闇が広がっていて、何も見えない。
「……あ」
いつの間にかほとんど全身がドロドロとした何かに包まれていた。まるで沼の中に浮かんでいるみたいだ。闇に向かって右手を掲げるように上げるが、何も掴めない。ひんやりとした空気だけを感じる。
ただただ、冷たくて、寒い。
ここはどこなのだろう?
──夢の中なのだろうか?
「よもや……」
──もしくは、自分は、結局死んでしまったのだろうか?
「愚かな……」
全身の力が抜けるような感覚がして、右手を降ろした。
──ああ、本当に馬鹿で愚かな女だ。
結局、何もできなかった、なんて。
ゆっくりと自分の身体が沈んでいくのを感じる。
ここから出なければいけない、一瞬そう思ったが、身体が動かなかった。全身が重くて仕方ない。
──ああ、疲れた
──このまま眠ってしまいたい
結火はゆっくりと瞳を閉じる。
そのまま身を任せようとしたその時だった。
「駄目だよ」
微かに、声が聞こえた。ハッとして目を開ける。一瞬のうちに結火は身体を起こした。声を主を探して、辺りを見渡す。だが、やはり周囲は真っ暗で何も見えない。
幻聴だったのだろうか、と思ったが、再び声が聞こえた。
「まだ終わりではない。君は分かっているはずだ」
声は穏やかに、だがキッパリと言葉を重ねた。結火は震えながら、ゆっくりと立ち上がる。
「任務を与えよう、結火。──帰りなさい。自分の居場所へ」
それは、間違いなく、産屋敷耀哉の声だった。
「御意」
考えるよりも前に、結火は返事をする。
どくん、どくん、と。
自分の心音が聞こえるような気がした。真っ直ぐに前を向く。
──そうだ
──私は、帰らなければならない
結火は大きく息を吐き出すと、足を動かし始めた。
必死にドロドロとした沼の中で一歩を踏み出す。息が乱れて苦しい。それでも必死に身体を動かし続ける。
「帰らなければ……」
結火は小さく呟く。まるで自分に言い聞かせるように。
「帰る……っ、帰るんだ!私は……っ」
瞳が熱い。大粒の涙が零れる。
泣いてはいけない、と思ったが止められなかった。
「帰り、たい……っ」
なぜ?そんなの決まってる。
『結火さん』
誰かが名前を呼ぶ。誰よりも愛しい声が。
『苦しかったら、寂しくなったら、私を呼んで。そうしたら、必ず駆けつけるから』
ああ、そうだ。
そうだったな。
あなたは、いつもそうだった。
「カナエ……」
いつも優しくて、温かくて、ひだまりのようなあなた。
あなたは私を信じてくれた。
あなたとの約束が、私を前に進ませてくれた。
あなたが、待っていてくれる。
だから、私は、それに応えなければ。
結火は自分に言い聞かせるように叫ぶ。
「会いたい……から、帰るんだ!」
ここで終わってたまるか、と結火は歯を食い縛り足を進めた。
終わらせない。まだまだ、終わりを迎えるには早すぎる。
「……っ、会いたい、カナエに……会いたい!」
湿ったような闇の中で、愛しい名前を呼ぶ。
どこまでも広がる暗闇で、結火の声に応える者はいない。それでもひたすら結火は足を動かし、名前を呼び続けた。
「カナエ……っ、カナエ……」
どうか、待っていてほしい。
必ず、あなたのもとへ帰るから。
次の瞬間、誰かが結火の手に触れた。結火はビクリと震える。誰の手なのか、暗闇の中で見えないため分からない。その手は結火の手を強く掴む。そして導くように手を引っ張った。
その手の温かさを思い出して、思わず結火は笑った。頭の中で、いつかのカナエの声が甦る。
『また、こうやって、手を握るわ。あなたが寂しくなくなるまで、ずっと離さない』
「ははっ!」
結火は声に出して笑った。
涙が流れるのに構わず、大きな声で叫ぶ。
「よもやよもやだ!!」
あなたはやはりすごい人だ、カナエ。
あなたがいつも道を示してくれたから、私はこうして戦えた。
だから、帰ろう。
あなたの待つ場所へ。
温かい手を力強く握り返す。それと同時に遠くで光が見えた。
間違いない。あそこだ。
あそこが、結火の進むべき場所だ。
「ありがとう」
結火は大きな声でそう言うと、一気に駆け出した。
◇◇◇
まず初めに感じたのは、痛みだった。ズキズキと頭が痛む。覚醒したはずなのに、身体が動かない。信じられないくらい重くて、苦しい。
不思議なことに、目を開けたはずなのに何も見えなかった。それでも、誰かが自分の手を握ってくれているのだけは感じた。
「……ぅ」
小さく声を出すと、結火の手を握っている人物がハッと息を呑むのを感じた。
「結火さん……?」
その声が聞こえて、結火はたまらず唇を綻ばせた。
「カ……カナエ……」
名前を呼びかけた瞬間、カナエが大きく叫んだ。
「結火さん!目覚めたのね!!」
そのまま結火の手を強く握る。結火も握り返したかったが、腕どころか指さえも動かすことができなかった。そんな結火の手に水のような何かが落ちるのを感じた。きっと、これはカナエが流した涙だ。
「結火さん……っ、よかった……!」
泣きじゃくりながら喜ぶカナエの声に、結火は必死に言葉を返した。
「た……だい、ま」
「よかった。本当に……。随分と長い間、意識が戻らなかったのよ」
少し落ち着いてから、カナエは現在の状態を教えてくれた。
「たくさん薬を使ったのだけど、本当に危険な状態だったの……今は蝶屋敷のベッドの上よ。まだたくさん点滴をしているわ」
それを聞いて確かめようとしたが、やはり何も見えなかった。そんな結火の様子に気づいたのか、カナエが慌てて説明を続けた。
「あのね、大きな怪我をしてるから、目に包帯を巻いてるの。だから、しばらくそのまま辛抱してね」
カナエの声を聞きながら、結火は悟っていた。
あの氷を操る鬼に、自分はあまりにも近づきすぎた。眼球が凍りついたため、恐らく、もう二度と視力は戻らないだろう。
だが、自分の目など、どうでもいい。今一番気になるのは……
結火は恐る恐るカナエに問いかけた。
「戦いは……どうなった?」
それは何よりも結火が知りたかった事だった。
カナエは結火の手を握りしめながら、鬼舞辻無惨との戦いの事を全て話した。鬼舞辻が討たれ消滅した、という話を聞いた結火は大きく胸を撫で下ろす。しかし、すぐにハッとして再びカナエに問いかけた。
「カナエ……蟲柱様……お前の妹は……?」
カナエは結火を安心させるように軽く手を撫でた。
「助かったから、大丈夫。大怪我で傷も深いし後遺症も残るだろうけど……無事よ。少し前に目覚めたわ。あなたのおかげよ」
その言葉に結火は泣きそうになりそうなほど安堵した。
「そう、か……」
そんな結火を見つめながら、カナエは少し躊躇ったように顔を伏せる。そして、何かを決心したように声を出した。
「あのね、結火さん……」
「私は」
カナエの声を遮るように結火は問いかけた。
「私の身体は、あと、どのくらいもつ?」
その言葉に、カナエが動揺したように小さく震えた。
しばらく沈黙が満ちる。やがて、カナエの震える声が結火の耳に届いた。
「……そんなに長くは……」
覚悟していたはずなのに、それでも胸が詰まったように一瞬だけ苦しくなった。
カナエは小さく震えながら、それでも言葉を重ねた。
「傷はなんとか塞がったけど……いつ再出血してもおかしくないの……呼吸状態が悪いから、酸素も身体に送っているし、脈拍や血圧も不安定で……何よりも、毒の影響が、かなり深刻なの。肺だけじゃなくて、臓器も弱っている。正直、こうやって話ができているのが奇跡的なくらいで……」
か細いその声に、結火は一瞬だけ、どう答えようか迷い、ゆっくりと息を吐く。そして、
「ありがとう、カナエ」
穏やかに微笑み、小さく言葉を続けた。
「正直に教えてくれて、ありがとう」
そう言うと、再びカナエが泣く気配がした。
「大丈夫、大丈夫だよ、カナエ」
「……う、ひっく、ご、ごめんね、結火さん……うぅ、ごめんなさい……っ」
泣き崩れるカナエに、結火は言葉をかけ続けた。
「泣かないでくれ、カナエ」
自分のために、泣いてくれるカナエを抱き締めたいのに、それが出来ない自分の身体が恨めしく、もどかしかった。
「う、うぅ……ぅ、あなた、が、いちばん、つらいのに……っ、ごめんなさい……っ」
「つらくないよ。大丈夫だから……私は、大丈夫」
そう繰り返すことしかできない。
死ぬことは決して怖くない。元より、覚悟していた事だ。死はいつも近くにあった。だから、自分の生命が終わることに対しては、何も感じない。
それよりも、今の結火にとって何よりもつらいのは、自分のためにカナエが泣くことだった。
「すまない、カナエ……」
「う、うぅ……ふっ……」
ようやく手の感覚が少し戻ってくる。そのまま泣きじゃくるカナエを慰めるように、結火はそっと手を握り返した。