カナエが泣き止むまでかなりの時間がかかった。ようやく落ち着いたが、今も鼻を啜っている音が聞こえる。
「……十分だ」
結火がポツリと呟くと、カナエは首をかしげた。
「え?」
「死んでも、おかしくはなかった。……生きて帰ってこれただけで、十分すぎるくらいだ。こうして、あなたと再会できたのだから」
その言葉に、握っているカナエの手が僅かにピクリと動いたのが分かった。
結火はカナエの手を離すと、ゆっくりと息を吐いた。
「……少し、疲れた。休ませてくれ」
話をしただけなのに、ひどい疲労感で身体が重い。本当に自分の身体はかなりの痛手を負ったのだな、と結火が実感していると、カナエが声をかけてきた。
「ここに、いてもいい?」
「あなたには、仕事が──」
現在の蝶屋敷はかなりの多忙なのだろう、と想像ができた。きっと結火以外にも重傷の隊士がいるはずだ。医師であるカナエが主体となって動かなければならないだろう。
だからここにいる必要はない、と結火は言いかけたが、
「……いや」
すぐに思い直し、言葉を重ねた。
「ここに、いてくれ。私が、眠るまで、そばにいてほしい」
そう言うと、再びカナエが優しく手を撫でてくれた。
「うん。ずっとそばにいるわ」
その言葉が嬉しくて、結火はホッとしながらゆっくりと、
「ありがとう」
と言って、小さく微笑んだ。
次に目覚めた時、カナエはもういなかったが、代わりにアオイが来てくれた。
「痛みはありますか?吐き気は?」
次々に質問をしながら、何か処置を行っている音が聞こえる。どうやら包帯を取り替えたり点滴をしてくれているらしい。
合間に、結火は自分の今の状況を改めてアオイに確認する。アオイは言いにくそうにしながらも答えてくれた。
最後の戦いの終了後、大怪我を負っていた結火はすぐに蝶屋敷の個室に運ばれ、そこで一ヶ月以上も昏睡状態だったらしい。何度も呼吸が止まりかけ、高い熱を出して危険な状態になった。それを何とか乗り越え、今に至るようだ。
そして、右手の凍傷が原因で壊死を起こしたため切断したこと、やはり視力は二度と戻らないということをアオイが教えてくれた。
「……ありがとう。感謝します」
言いにくそうにしながらも正確に答えてくれたアオイに感謝を述べながら、結火はようやく動くようになった左手で、そっと目に巻いている包帯に触れた。
「……ざん、ねんだな」
「はい?」
アオイが不思議そうな声を出す。結火は苦笑しながら首を小さく横に振った。
「いえ、なんでも」
戦いに勝ったのだから視力を失くしたことなんてどうでもいい、と思っていたのに。
カナエの笑顔をもう見ることができない、という事を実感して胸が痛くなるほどの悲しみが押し寄せてきた。それを誤魔化すように結火はアオイに問いかける。
「カナエは?」
「後でこちらに来るそうです」
「……忙しいだろうから、あまり無理をしないように伝えてほしい」
結火がそう言うと、アオイはしっかりと頷いた。
「はい。結火様も、まだ容態は安定していないので安静にしててくださいね。勝手にベッドから離れるのは禁止ですよ」
「はい」
結火が頷くと、アオイは安心したような様子で再び腕に点滴を刺す。そして素早く部屋から出ていった。
それから数日の間、結火はベッドの上で治療を受け続けた。臓器の働きが全体的に低下しているらしく、熱が下がらず血圧も低い。呼吸状態も改善せず、なかなか身体状況は安定しなかった。大量の点滴を投与し、何度も輸血が行われた。何よりも身体の感覚が戻ってくると凄まじい痛みに苦しまされた。恐らくは大量に投与した毒の影響なのだろう。頭痛と吐き気で夜も眠れない。痛みには慣れているつもりだったが、それでも耐え難い苦痛だった。
カナエが仕事の合間に何度も部屋を訪れてくれるのだけが癒しだった。
「カ……ナエ」
「うん?」
結火が弱々しく名前を呼ぶと、カナエはすぐに返事をしてくれる。それが嬉しくて、痛みに苦しみながらも結火はカナエを求めて左手を動かした。
「……握って、ほしい」
「ええ、もちろん」
望むと、すぐに左手を握ってくれる。その優しさを愛しいと思いながら、全然力が入らない癖になんとか握り返そうと指を動かした。
治療が苦しくても、身体中が痛くても、カナエがそばにいるだけで、心が安らかになった。
数日後、ようやく熱も下がり、呼吸も安定してきた。心配していた再出血もなく、傷も少しずつ癒えてきているらしい。痛みはまだあるが薬でなんとか調節できており、小康状態になりつつある。
午後の点滴の時間、いつものようにカナエが部屋に入ってきた。
「点滴を、するわね」
その声に、結火は眉をひそめた。今日のカナエの声がいつもと違う気がする。
点滴のために腕に針が刺される。それを待ってから、結火は声をかけた。
「どうした?」
カナエの動きが一瞬止まる。そして、躊躇ったような様子で口を開いた。
「あのね……結火さんに、会いたいって言う方がいるの」
その言葉に結火は僅かに首をかしげた。
「私に?」
「うん。今までは、危険な状態だったから、面会謝絶にしてたんたけど……身体も安定したみたいだから、結火さんが、よければ……」
「構わない」
結火がそう答えると、カナエはなぜか気まずそうな声で、
「それじゃあ……お連れするわね」
そう言って、部屋を出ていった。
結火はできるだけ心を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。なんとなくではあるが誰が面会に来たのか予測できていた。
やがて一人の人物が部屋の前に立つ気配がした。その人物は躊躇いながらも、扉を遠慮がちにコンコンと叩く。
「はい、どうぞ」
結火がそう答えると、部屋の扉が開かれた。入ってきた人物の気配で、結火は自分の予測が当たったことを確信する。結火は見えない目を扉の方へ向けると、穏やかに呼びかけた。
「お久しぶりです──父上」
煉獄槇寿郎は結火の姿を見て、一瞬ピタリと動きを止めた。小さな部屋に沈黙が落ちるが、やがて、
「結火……」
震える声で娘の名前を呼ぶ。
槇寿郎はその場に立ち尽くしていたが、しばらくしてからゆっくりと結火の方へと歩み寄った。
「父上、申し訳ありませんでした」
槇寿郎が口を開く前に結火の方から話しかけた。結火の声を聞いた槇寿郎がその場で動きを止めるのが分かった。そんな父がどんな表情をしているか、今の結火には分からない。
「私は、やはり未熟で愚か者で……そして、弱かった。父上の言った通りでした。私は……強い剣士に、なれませんでした」
それでも、真っ直ぐに、自分の気持ちを伝えた。
「でも……後悔はしていないんです」
不思議なことに、あれほど父と顔を合わせるのがつらいと思っていたはずなのに、今の結火の心は凪いでいた。冷静な声で落ち着いて言葉を重ねる。
「恥知らずで馬鹿な娘とお思いでしょう?それでも……私は……私なりに心を燃やしました。否定されても、軽蔑されても、絶対に後悔はしない……私は、私の責務を全うできた、と思うんです。こんな娘で、申し訳ありません……」
結火の言葉を聞いても、槇寿郎からは何の言葉も返ってこなかった。静かな時が過ぎて行く。
やがて、
「恥知らずだとも、馬鹿だとも思ったことは……ない」
槇寿郎が、絞り出すように声を出した。
「……結火、すまなかった」
その声で、槇寿郎が泣いているのが分かった。あんなにも逞しく強かった父が自分の目の前で泣いているという現実が信じられなくて、結火は息を呑んだ。
「俺は……っ、お前の気持ちは、分かっていた。本当は、分かっていたんだ。お前の、剣士になりたいという思いを。だが……認めたくなかった……」
槇寿郎は声を詰まらせながらも、必死に言葉を紡いでいく。
「俺は……どうしても、お前に、死んでほしくなくて……っ、危ない目にあってほしくなくて……」
「……父上」
「お前が、いつかボロボロに傷つき、弱って、自分の限界に絶望して……自暴自棄になってしまうのではないかと心配で……っ、お前は、俺に似ているから……」
そんな言葉を父が言うのは意外だったので、結火は思わずポカンと口を開けた。自分はどう見ても母に似ているし、昔から周囲の人間にもそう言われてきたと言うのに。
「……私、父上に似ています、か?」
あまりにもこの場にそぐわない問いかけだとは分かっていたが、尋ねずにはいられなかった。槇寿郎は涙を流しながら大きく頷いた。
「ああ……昔から、そうだった。お前は、外見は瑠火に似ているが、内面は俺にそっくりだ……」
結火は左手で拳を強く握った。小さな歓喜が胸の中に満ちていくのを感じる。槇寿郎はその様子に気づくことなく言葉を重ねた。
「お前の思いを認められなくて……許せなくて……俺は親子の縁を切った。だが、ずっと、後悔していて……会うべきだと分かっていた。話すべきだと……。杏寿郎にも何度も諭されたというのに……お前が、お前が行方不明になった時は、本当に後悔して……」
ああ、自分と同じだ。結火はそう感じながら、笑いそうになった。父に会ってきちんと話すべきだ、と分かっていたのに、己の弱さからそれが出来ず逃げていた。父と、自分は同じだ。
「お前が、生き残っていて、この屋敷で働き始めたと聞いて、……本当に安堵した。なのに、やはり俺はお前と会えなかった。情けない……お前と、会う勇気がなかった」
槇寿郎は震える声で言い放った。
「本当に弱いのはお前ではなく……俺の心だ」
その言葉に既視感を覚え、結火は戸惑う。
すぐに、思い出した。かつて自分が同じ言葉をカナエに対して言った事を。その時になって初めて、自分が本当に父に似ているのだという事を認識した。
結火は小さく微笑みながら、口を開いた。
「それでも──」
穏やかな声で父に言葉をかける。
「それでも、父上は、私に羽織を贈ってくださりました……煉獄家の羽織を。その事で、私がどんなに励まされたか……」
あの羽織を父が贈ってくれたくれたからこそ、結火は自分を鼓舞できた。自分の弱さに打ちのめされ、苦しくてもつらくても、煉獄家の思いを背負って、戦う事ができたのだ。
「……私、人のために戦う剣士になりたかった。誰かに称賛されたいわけじゃない。感謝されたいわけでもない……私は、やはり誰かを護る人間でありたい」
この思いだけは、変わらない。
結火は、煉獄家の血を引く人間だ。誰かのために戦うという強い意思だけは一生折れることはない。
だが──
「でも、もう1つだけ……幼い頃から、強い願いがありました」
それは、信念ではなく、大切にしている望み。
「私は……弱いけど、それでも、……父上が誇りに思ってくれるような娘でありたかったんです」
その言葉を聞いた槇寿郎がゆっくりと手を動かす。そして結火の手を強く握った。その手は昔と変わらず、炎のように温かかった。
「誇りに思っている。昔も、今も……。お前の父になれたことを、心から嬉しく思う。お前は、俺の誇りだ」
その言葉を聞いた瞬間、視力はないというのに、目の前が明るくなったような気がした。心に形容できないほどの大きな歓喜が沸き上がってくる。泣きたいほどに幸せでたまらない。
結火は熱いものが込み上げてくるのを感じながら、そっと父の手を握り返した。
そんな親子の会話を、部屋の外でカナエは静かに聞いていた。ようやく、結火と槇寿郎が親子関係を修繕した事に心の底から安堵する。ホッと息をついていたその時、槇寿郎の小さな声が耳に入ってきた。
「結火、帰ろう」
その言葉に、カナエはハッと息を呑む。
「家に、帰ろう。千寿郎もお前を待っている……」
カナエは顔を強張らせた。その間も槇寿郎の言葉は続く。
「医師には俺から話して、許可を取る。お前は何も心配することはない。全て俺に任せておけ。家に必要な物を全て準備して、万全の体制で看病する。お前の望むものは全て叶える。──だから、帰ろう」
カナエの顔が真っ青になる。そして、強く拳を握った。
考えてみれば当たり前の事だ。結火に残された時間は少ない。その時間を家族のそばで過ごしたいと考えるのが当然だ。きっと、ここにいるよりも安らかに過ごせるだろう。
部屋にしばらく沈黙が流れる。やがて、結火の小さな声が聞こえた。
「……父上……私は──」
それ以上の言葉を聞くのがつらくなり、カナエは逃げるようにその場を離れた。
しばらく結火と言葉を交わした槇寿郎は、静かに蝶屋敷を出て自宅へと戻っていった。それを見届けて、カナエは結火の元を訪れる。
扉を叩いてから部屋に足を踏み入れた。
「結火さん……」
カナエが呼びかけると、いつも通りすぐに結火の声が帰ってきた。
「カナエ、診察か?」
カナエは首を横に振る。
「ううん。ちょっと、話したくて……あ、疲れてるかしら?」
「いや、平気だ」
その言葉に安心して、ゆっくりと結火の方へ近づいた。そしてベッドに腰を下ろすと、そのまま結火の手を優しく握り、口を開いた。
「お父様と、お話できたみたいね」
「ああ。本当に久しぶりにたくさん話をした。面会させてくれてありがとう」
結火の表情は晴れやかだった。カナエはその顔につられて笑みをこぼす。しかしすぐに暗い表情になり、そのまま顔を伏せた。その気配を感じ取ったのか結火が声をかけてくる。
「どうした?」
その声に、カナエは顔をあげて無理矢理笑顔を作った。
「あのね、結火さん」
「うん?」
「もう少ししたらね、きっと、もっと体調も安定するだろうから……だからね、お父様の待つ家に帰れるわ」
カナエの言葉を聞いた結火が驚いたように口を開けた。
「カナエ……」
結火が何かを言おうとしたが、それを遮るようにカナエは言葉を重ねた。
「看病の方法をお父様に教えなくてはね。あとは、薬も準備するわ。私も、往診するから……、だから……っ」
何かを誤魔化すかのように言い募るカナエの瞳には、涙が浮かんでいる。結火はそれを察して、必死に左手を動かした。泣くのを懸命に堪えているらしいカナエの手をそっと握る。
「カナエ」
「な、なあに?」
「……あなたに、頼みがある」
その言葉に、カナエが必死に笑顔を作り答えた。
「何かしら?何でも言って。あなたのためなら、何でもするわ」
結火はそれを聞いて、安心したように微笑む。そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ここに、いさせてくれ」
カナエが大きく目を見開く。
結火はカナエにすがりつくように声を出した。
「カナエのそばにいたいんだ。最期まで、あなたの元で……」
カナエの手の震えが伝わってくる。そして、絞り出すように声を出した。
「だけど……っ、あなたのお父様は……弟さんは……っ」
結火はカナエの手の震えを治めるように、できるだけ握っている手に力を込めて答えた。
「父は理解してくれた。私の意思を尊重してくださるそうだ。それに、千寿郎もきっと分かってくれる。だから、どうか……あなたのそばにいさせてくれ」
哀願するように、結火はカナエに思いを伝えた。
「すまない、カナエ……酷いことを言っているな、私は。残酷な事をあなたに頼んでいると、自覚している……」
これは、自分を看取れと言っているようなものだ。それを承知の上で結火は言葉を続けた。
「あなたが、許してくれるなら、この屋敷で、あなたのそばで最期を迎えたい」
その言葉に耐えきれず、カナエの大きな瞳から涙が零れ落ちた。どう答えればいいか分からず声を詰まらせる。雫が頬を伝って、結火の手に落ちた。
「ゆ、結火さん……本当に、家に帰らなくて、い、いいの?」
カナエが震えながら問いかけると、結火は小さく首を横に振った。
「私の、居場所はここだ。あなたがいるこの屋敷にいたい。あなたがそばにいてくれるだけで、私は幸せなんだ」
結火の目も熱くなっていく。包帯に包まれた瞳から、涙が漏れた。
ああ、どうしてだろう、と結火は思う。こんな時でさえ、口下手な自分は気の利いた言葉を出すことができない。浅ましくも、そばにいたいと願っている。もっとカナエに言うべき言葉があるはずだ。だけど、どう言えばいいか分からない。
だから、自分の今の気持ちを、思いを、全て正直に伝えた。
「全部、あげる。私の持ってるもの、全部。もう、ほとんど残ってないけど……あなたが好きだと言ってくれた瞳も、あなたを抱き締める腕さえ片方ないけど……残っているもの全てをあなたに捧げる。だから──」
まるで愛を乞うように、結火は願いを口にした。
「どうか……頼む。ここに、いさせてくれ。そばにいてくれ。ただ、一緒にいたい。カナエのそばにいたい。それだけでいい。他には、何もいらないから……っ」
こんなにも自分が誰かに対して愛を求めるだなんて、昔の結火だったら想像もできなかっただろう。
だが、今の結火は、全てを犠牲にしてでも愛する人のそばにいたい、と望んでいた。そんな自分の変化に自分で驚きながらも、カナエの返事を待つ。
カナエは結火の願いにしばらく何も答えなかった。やがて、ゆっくりと手を伸ばすと、結火の髪を撫でる。そして、そのまま唇を重ねた。ほんの短い、優しく穏やかな口づけだった。
「ごめんね……自分勝手なワガママになってしまうと思って、私からは言い出せなかったの」
声を潤ませながら、囁くように言葉を続けた。
「──私も、あなたと一緒にいたい」
その囁きに、心がほのかに温かくなる。光のような幸福感で感情が弾んだ。
「ずっと、ずっと、そばにいるわ、結火さん。あなたを愛してる」
あまりにも真っ直ぐに愛を伝えられて、結火は驚いたように肩を震わせる。
そして、涙を流しながら微笑むと、
「私も」
短くそう答えた。