気がつくと、目の前に光があった。
いや、光ではない。これは、炎だ。
美しく真っ赤な炎が、結火のすぐそばでメラメラと燃えている。
──すぐにこれが夢なのだと気づいた。
目の前の炎へと手を伸ばすと、結火の手が触れる前に炎はゆらりと揺れた。あまりにも美しいその揺らめきに結火は目を見開いた。炎は燃え盛りながら、少しずつ人の形を作っていく。
そこに現れたのは、弟である杏寿郎だった。どこか晴れやかな顔で微笑んでいる。
結火もそっと微笑み返す。傷のおかげでもう墓参りをすることはできない。だから、こうやって夢の中へ自分に会いに来てくれたことが、心から嬉しかった。結火はゆっくりと手を伸ばした。そのまま杏寿郎の頭を優しく撫でる。
「ありがとう。お前のおかげで、私は私の戦いを終えることができた」
杏寿郎は何も答えない。ただ結火の手を受け止め、嬉しそうに笑い続ける。
「すまなかったな、結局お前の仇は取れなかった。だが、お前の意思を継ぐ者がちゃんと仇を取ってくれたよ。だから、安心してくれ」
杏寿郎は何も答えない。ただ結火を真っ直ぐに見つめ、微笑み続ける。
結火はそんな弟を見返し、すぐに顔を伏せると声を絞り出した。
「……ごめん、杏寿郎。私は、まだそちらに行けない」
自分の命は、もう長くはもたない。自分の身体のことは、分かりきっている。あまりにも無理をしすぎた。酷使した自分の身体は、もう完全に回復することはない。遠からず、死ぬのだろう。
やり残したことなどない、と思っていた。死ぬことは、決して怖くはない。ずっと前から死ぬ準備はできている、と思っていた。
だが──
「好きな、人がいるんだ……」
脳裏に浮かぶのはカナエの姿だった。もう決して見ることが叶わない想い人の笑顔を思い浮かべながら、結火は言葉を重ねる。
「好きなんだ。本当に、心の底から彼女の事を、慕っているんだ。もう少しだけ、あの人のそばにいさせてくれ……」
口に出すと、なぜか夢の中なのに涙がこぼれ落ちそうになった。涙が流れるのを必死に抑えながら、ゆっくりと顔を上げる。
結火と目が合うと、杏寿郎は一瞬だけ寂しそうな顔をする。しかしすぐに微笑んで大きく頷いた。
そんな弟の笑顔を見返しながら、結火も少しだけ微笑み、頷く。
「近いうちに、私もそちらに行く。だから、どうか待っててくれ……」
結火はそっと杏寿郎の胸に手を当てる。
「私は、最後まで、心を燃やす」
杏寿郎がそっと結火の手を握る。父と同じくらい熱い手だった。
結火は真っ直ぐに弟の瞳を見つめ、再び頷く。
杏寿郎は微笑んだまま瞳を閉じた。すると突然、杏寿郎の身体から光のような炎が姿を現した。そのまま炎に包まれるように、杏寿郎は燃える。
そして、フワリと燃え尽きるように姿を消した。
◇◇◇
ふと、自分の手に誰かが触れているのに気づく。それと同時に、結火は眠りから覚醒した。
「カナエ?」
そう声をかけると、ピクリと手が動いたのを感じた。
「おはよう、結火さん」
「……ああ、もう朝なのか」
窓があるらしき方向へと顔を向ける。僅かに光のような気配を感じた。
「何か、夢を見ていたの?」
カナエの問いかけに、結火は小さく頷く。
「ああ……夢に、杏寿郎が出てきたんだ」
「まあ、本当に?」
「うん。……いい夢だった。久しぶりに会えてよかった」
結火が嬉しそうな声を出す。そんな姿を見たカナエも微笑みながら結火の手を握った。
「結火さん、よかったわねぇ」
そんなカナエの手を軽く握り返す。すぐにその手で今度はカナエの髪に触れた。そのまま一房の髪を手に取ると唇で触れる。カナエが驚いたように息を呑んだ。
結火はその反応に少しだけ笑うと、口を開いた。
「杏寿郎に……」
「うん?」
「杏寿郎に、あなたのことを伝えたら、少し寂しそうにしてた。最後には笑っていたけど」
カナエがクスクスと笑った。
「あらあら。私も挨拶したかったわ。結火さんと2人で」
「……大騒ぎするかもしれないぞ。わっしょい、わっしょいって大声を出して」
「まるでお祭りみたいね」
「祭りより騒がしくなる、きっと……」
カナエと会話を交わすだけで、心が温かい。溶けるような幸福感に胸が満たされていく。結火がぼんやりとそれを実感していたその時、カナエが声をかけてきた。
「結火さん、眠い……?もう少し寝る?」
その問いかけに、結火ははっきりと、
「いや」
と首を横に振り、言葉を重ねた。
「……もったいない」
「え?」
「眠る時間が、もったいない。時間が許す限り、あなたと過ごしたい、から……」
その言葉にカナエの動きがピタリと止まる。すぐに優しく抱き締めてきた。
「ごめんね、お仕事があるから、ずっとは難しいけど……できるだけここに来るようにするわ」
「うん……。すまない。あなたに負担をかけるな」
「そんなこと、気にしないで。私が──」
その時、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。
ハッとしたカナエがすぐに結火をベッドに寝かせ、扉に近寄る。
「失礼します。すみません、お話し中に……」
「どうしたの?」
やって来たのはアオイだったらしい。何かボソボソと話す声が聞こえ、結火は首をかしげた。
やがて、アオイと何か話していたカナエがこちらに声をかけてきた。
「結火さん」
「うん?」
「あのね、お父様と弟さんがいらっしゃったみたい」
それを聞いた結火の顔が微かに輝いた。
「ああ……通してくれ」
カナエは結火の顔を見て少し微笑むと、すぐに頷いた。
「分かったわ」
そのままアオイと共に部屋を出て行く。結火はベッドに横たわったまま静かに待っていた。
やがて、再び扉の向こうに人の気配を感じて、結火はそちらに顔を向ける。
扉を叩く音が聞こえ、
「どうぞ」
と答えるとすぐにそれが開かれた。
「姉上!」
すぐに駆け寄ってきたのは千寿郎だった。
ベッドの上に横たわる結火の姿を見て一瞬固まるが、それでもすぐに手を握った。
「よかった、僕、ずっと心配で……ずっとお会いしたくて……っ」
「うん。久しぶりだな、千寿郎。心配かけてすまない」
結火も千寿郎の手を握り返し、言葉を重ねた。
「来てくれて、ありがとう。お前と再び会えて、本当に嬉しい」
「姉上……」
千寿郎はポロポロと涙を流す。結火は手探りしながら、そんな弟の頭を撫でた。
そんな結火に、千寿郎と共に入ってきた槇寿郎も声をかけてきた。
「結火、具合はどうだ?」
「はい、今日はとてもいいです……」
父の声を聞いた結火の表情が柔らかくなる。そんな彼女の姿を、カナエは安心したようにしばらく見つめて、すぐに部屋から立ち去った。
父親と弟と言葉を交わした結火は一息ついてから、千寿郎に声をかけた。
「千寿郎、こちらにおいで」
「はい……?」
千寿郎は言われるまま結火に近づいてきた。そんな幼い弟の胸に、結火は手を当てる。そして小さな声で囁いた。
「すまない。私は、近いうちに逝く。……その前に、お前に伝えたい言葉がある」
その言葉に千寿郎が大きく息を呑む。そんな姉弟の姿を、槇寿郎はそばで静かに見守っていた。
「忘れるな。私は、お前が弟であってくれたことが嬉しくて、幸せだった。千寿郎、才能や強さなんて関係ないよ。お前は永遠に、私と杏寿郎の愛しい弟だ。お前が、この先どんな生き方を選んだとしても、どんな道に進もうとも、私達の弟である事実は変わらない。大切な弟だ──」
残していこう。
言葉を、気持ちを。
真っ直ぐに伝える。
決して、二度と隠したままにはしない。
「つらい時、苦しい時は立ち止まってもいいんだ。だけど、うつむくな。前を見て、そして心を燃やせ。離れていても、私の心はお前と共にある」
大切な弟へ、想いを繋げる。杏寿郎の分まで。
「千寿郎、お前を心から誇りに思っている」
「はい……っ」
千寿郎が涙を流す。言葉は発しなかったが、何度も頷いた。そんな千寿郎の頭を結火は優しく撫でた。
きっとこの小さな弟も父親そっくりに育つのだろう。杏寿郎と同じように、熱い心を宿した立派な男性へと、成長する。そんな未来を見守ることができないという事実が悲しくてたまらない。
そんな自分の心を抑え込み、結火は泣きじゃくる千寿郎の頭を撫で続けた。
槇寿郎と千寿郎はその後も少し話したが、すぐに帰ることにした。
「結火、また来るからな」
「姉上、お大事になさってください」
あまりに長い面会は結火の身体に負担となる。2人に、結火は微笑み小さく頷いた。
「ありがとう。また来てください」
その言葉に、槇寿郎と千寿郎は軽く手を撫でるように答える。そしてそのまま名残惜しそうな様子をしながらも部屋を出ていった。
槇寿郎と千寿郎が部屋を出ると、すぐにカナエが近づいてきて声をかけた。
「お帰りですか?お話はできました?」
「ああ」
槇寿郎は頷きながら、少し複雑そうな顔をする。一瞬だけ顔を伏せ、そのまま深く頭を下げた。
「娘を、よろしくお願いします」
カナエは動揺したようにその場に立ち尽くした。そんなカナエに向かって、千寿郎もまた頭を下げる。
「姉上を、よろしくお願いいたします」
「あの……私──」
カナエが言葉を返す前に、千寿郎は頭を上げてニッコリと笑った。
「胡蝶様、姉上はここにいることが幸せなのですね」
カナエがハッとしたように動きを止める。そんな彼女を、千寿郎は泣き腫らして真っ赤になった瞳で見つめながら、言葉を重ねた。
「本当は、姉上に帰ってきてほしい気持ちは、あります。だけど、胡蝶様のそばで過ごすことが姉上の幸せに繋がるのであれば……寂しいけど、僕はそれを叶えてあげたい、と思います」
千寿郎の言葉に、カナエは目を閉じて深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。責任を持ってお預かり致します」
そう言ってゆっくりと顔を上げる。カナエと目を合わせて、槇寿郎は大きく頷き、千寿郎は再び小さく頭を下げる。そしてそのまま蝶屋敷から去っていった。
◇◇◇
その翌日、再び結火の元をある人物が訪ねてきた。
「ゆ、結火様……」
隠であり、結火の元上司でもある後藤だった。
「ああ、後藤さん。お久しぶりです」
「ど、どうも。この度は、その……ええと……」
後藤は、包帯だらけで更にたくさんの点滴をしながらベッドに寝ている結火を見て、動揺を隠しきれない様子だった。アワアワとしながら、言葉を続ける。
「ゆ、結火様……大丈夫、なんですか?」
結火はその問いかけに苦笑した。
「面目ない、です。これでもなんとか体調は安定していて……」
「そ、そうですか」
「後藤さんも、本当に大変だったようで……」
「あ、いえ、まあ……」
最後の決戦にて、結火の知らないところで後藤もまた大いに奮闘したという話は聞いていた。
結火と挨拶を交わした後藤は、近くの椅子に腰を下ろし、大きく息を吐き出した。
「よかったです。命が助かって……俺、結火様が毒を投与してまで戦ったって聞いて、本当に心配で……」
そんな後藤の言葉に感謝しながら、結火は恐縮したように言葉を返す。
「本当に申し訳ありませんでした。後藤さんにあんなにお世話になったのに、何も言わずに……」
そんな結火を見つめながら、後藤は再び問いかけた。
「身体は回復してるんですよね?あとどれくらいで退院ですか?」
後藤のその質問に、結火は困ったように笑って小さく首を横に振った。
「いいえ」
「へ?」
「退院はしません」
結火はできるだけ冷静な声を出した。
「もう、あまりもたないんです。いずれ、私は死にます」
結火がはっきりとそう告げると、
「そ、そんな……っ」
後藤が動揺したような気配を感じた。
「で、でも、だって……、結火様……っ」
後藤が大きく衝撃を受けたように声が震えている。そんな後藤に向かって、結火はゆっくりと言葉を重ねた。
「もうできることは限られていますから……私は責務を果たしました。覚悟もしています。もう、十分です」
後藤が震えながらうつむく。結火は小さく微笑み、言葉を続けた。
「先輩、最後に頼みがあります……」
「え?」
後藤が驚いたように声をあげた。後藤に向かって、先輩と呼びかけるのは本当に久しぶりだった。その事に不思議と可笑しくなる。
「なんですか?俺にできることなら何でもしますよ」
後藤の声に、安心と頼もしさを感じつつ、結火は切り出した。
「先輩にしか頼めないこと、なんです……」
◇◇◇
その日の夕方、カナエが結火の包帯を変えるために部屋へ入ると、待ちかねたように結火が顔をこちらに向けてきた。
「カナエ?」
「ええ。包帯を変えるわね」
カナエの声に、結火は顔を綻ばせる。カナエは処置の道具を抱えながらベッドへと近づいた。
「後藤さんは帰ったの?なんだかたくさんお話してたみたいだけど……」
「ああ。後藤さんと会うのも久しぶりだったから……いろいろと話せた」
「疲れてない?」
「大丈夫」
カナエは結火の近くに座ると、傷の消毒を開始した。
痛みに微かに顔をしかめつつ結火はカナエに問いかけた。
「そっちの仕事は大丈夫か?」
「ええ。今日はこの後、お掃除をしたらおしまいね」
2人きりの部屋で穏やかに言葉を交わす。今の結火にとってこの時間が1日の中で最も幸福な時間だった。優しい手つきで処置を続けるカナエを愛おしく思いながら、結火は再び問いかける。
「今日は、退院した患者はいるか?」
「ええ。何人かは……。おうちに帰ったわ」
カナエが包帯を巻きながらそう言うと、
「ああ。それはよかった」
結火は嬉しそうに柔らかく微笑んだ。
「これからは、皆が、幸せに、穏やかに暮らせればいいな」
そんな結火の笑顔をカナエは静かに見つめる。最近、結火が笑うことが増えてきた。以前の、ほとんど表情が変わらない無感情な彼女とは大違いだ。
「カナエ?」
結火が首をかしげるように声をかけてきた。
「どうした?急に黙って……」
「あ、ごめんなさい……ちょっとぼんやりしちゃった」
カナエが誤魔化すように笑う。そんなカナエの手に結火はそっと触れた。
「少し、手が荒れているな……?」
「ああ、最近はなかなかお手入れができなくてね」
カナエが苦笑する。結火はカナエの手を労るように撫でる。そしてモゾモゾと動きながら言葉を続けた。
「あなたの手は、すごい……」
「うん?」
「たくさん、戦って、そして多くの人を救ってきた手だ……この世で一番尊い手だ」
そのまま結火はカナエの手に触れるように口づけをした。それを見たカナエが驚いたように目を見開く。
「ゆ、結火さん……!?」
「……嫌だったか?」
「い、嫌じゃないわ!全然!驚いただけ……。ゆ、結火さん、な、なんというか、最近すごく、そのぉ、大胆というか……」
結火はフッと軽く笑い、口を開いた。
「我慢するの、やめた」
「え、あ、そ、そう……」
カナエが頬を染める。そんなカナエに向かって結火は再び声をかけた。
「カナエ、少し身体を起こしてくれないか?」
「え?なんで?」
「いいから。少しでいいんだ」
かなり身体の状態が安定したとはいえ、流石に自力で起き上がるのは厳しい。カナエは不思議そうにしながらも、要望に応えて結火の身体を引き上げるように起こしてくれた。そのまま背中に手を添えるように支える。
「これでいい?」
「ああ」
結火は短く返事をすると、突然カナエの顔へと左手を伸ばす。
「ん?」
カナエが不思議そうな声を出したが、それに構わず結火はカナエの顔を確かめるように優しく撫でると、そのまま唇を重ねた。
カナエが驚いたように目を見開いたが、特に抵抗はしなかった。静かで穏やかで、愛おしい時間が流れていく。
しばらくしてから唇を離すと、カナエが耳元で声を出した。
「結火さん」
「うん?」
「あのね……もう一回していい?」
どこか恥ずかしげなその声に、結火は小さく笑う。そんな結火の顔が可愛らしくて、カナエもクスクスと笑うと今度は自分から口づけをした。