―――チリン
どこかで、風鈴の音がした。
「……」
音に反応して、結火は顔を上げる。
仕事のためにやってきた蝶屋敷は、今日も庭で蝶がヒラヒラと舞っていた。
ゆっくりと、立ち上がり、周囲を見渡す。風鈴はどこにも見当たらない。
「……」
近所の家が、風鈴を飾っているのだろうか。
ゆっくりと目を閉じた。涼しげな音を聞きたくて、暗闇の中で耳を澄まし、音を探す。
「……何をしているの?」
聞こえたのは、求めていた夏の音ではなく、優しく甘い声だった。
目を開く。目の前にいつの間にか胡蝶カナエが立っていた。
「……お疲れ様です」
「こんにちは。ここに来るのは、久しぶりね」
「……はい」
久しぶりに見たカナエは、相変わらず美しい。結火と目が合うと、嬉しそうに笑顔を浮かべていた。
「会いたかったわ、ユウさん」
「……」
「会えなくて、寂しかった……」
「……そうですか」
カナエの声は歓喜に満ちていた。
この人は、相変わらずだな。
結火は反応に困って、目をそらす。
「それで、何をしていたの?」
「……特に、何も」
「今、とても心地よさそうな目をしていたわ」
「……」
フワフワとしているように見えて、この人は案外鋭い。
「ねえ、何をしていたの?」
カナエが顔を覗き込んでくる。結火は仕方なく口を開いた。
「……風鈴、が」
「え?」
「風鈴の、音が、聞こえました」
カナエから顔をそらして小さな声で言う。
「風鈴?うちに飾っていたかしら……?」
「……確かに、聞こえた、と思ったのですが。……恐らく、周辺の家に飾られた風鈴の音、だったのでしょう」
「そう、風鈴……」
カナエが顔を輝かせて、顔を近づけてきた。
「ユウさん、風鈴が好きなのね」
「……」
結火は何も答えなかったが、カナエは察したようだった。楽しそうに両手を合わせて口を開く。
「ふふふ、あなたの好きなもの、また知ることができたわ。嬉しい……」
「……」
「ねえ、今度二人で風鈴を買いに行きましょう。うちに、飾るわ。あなたが、選んでくれる?」
「……仕事で、忙しいので」
その言葉にカナエは唇を尖らせたが、すぐにまた微笑んだ。
「それじゃあ、私から、あなたに風鈴を贈るわ」
「は……」
「あなたの、おうちに飾ってね。私が選ぶから。どんな風鈴がいいかしら……」
「いえ、胡蝶様。結構で……」
「ダメ」
カナエが結火の両手を握る。それに思わず肩が震えた。
「断らないで。あなたに、贈り物をしたいって、ずっと思っていたの」
「……私のような者に、贈り物など……」
「そんな事言わないで。ね?……私ね、あなたの喜ぶ顔が見たいの。でも、何を贈ればいいのか、分からなくて……特別な人には特別な物を贈りたい、と思っていたから……ちょうど、よかったわ」
「……」
「次に来る時、楽しみにしててね」
結火はうつむく。それ以上、何も言えなかった。
数日後、蝶屋敷を訪れた結火に、約束通り、カナエが風鈴を手渡す。
「はい、これ」
「……」
それは、美しい風鈴だった。描かれているのは、色鮮やかな紅の花火だ。
「……」
「金魚とか、お花とか、……他にもいろんな模様があったのだけど……なんとなく、あなたにはこれが似合うって、思ったの」
「……」
「ど、どうかしら?」
結火は受け取った風鈴を静かに見つめた。
「……綺麗」
「え?」
思わず、といった感じで結火は呟いた。カナエがハッとしてその瞳を見つめる。
風鈴を見つめる結火の瞳は、喜びにあふれ、確かに微笑んでいた。
「……あ、」
カナエは思わず声をあげる。
彼女が、笑った。
心の底から、幸福感が湧きあがる。全身が浮かび上がりそうだった。
こんな、こんな、気持ちになるなんて。彼女が笑っただけで、こんなにも、幸せだなんて。
あまりの幸福感に、半ば呆然とする。そんなカナエの様子に気づかず、結火は一瞬でいつもの冷たい目になると、深々と頭を下げた。
「胡蝶様。素晴らしいお品をお贈りいただきありがとうございます。誠に恐縮に存じます」
「……」
「胡蝶様?」
黙ったままのカナエを不思議に思い、結火は顔を上げた。
カナエは慌てて口を開く。
「どういたしまして……よかった。喜んでくれて」
結火は今度は無言で、再び頭を深く下げた。
その夜、カナエはなかなか眠れなかった。頭の中で彼女の瞳が何度も浮かぶ。
あの冷たい瞳が、確かに細くなった。時折見せる燃えるような瞳じゃない。キラキラとした輝きの宿る瞳。
なんと、綺麗な瞳だろう。
「……はあ」
布団の中で寝返りを打つ。
今日の彼女を見て、また想いが強くなった。彼女は知る由もないだろう。カナエがこんなにも深みにはまり、致命的なまでに焦がれているなんて。
――また、あの人に笑ってほしい
――どうすれば、喜んでくれるかしら
――できれば、頭巾の下の笑顔を見たい
そんなことばかり考えてしまう。
カナエはまた寝返りを打つ。とてもじっとしていられない。
「……ユウ、さん」
そっと呟く。また、彼女の瞳が脳内をよぎる。
瞳。彼女の瞳。
あの瞳が、私を、私だけを、映してくれたら。
きっとそれ以上の幸福は、ない。
ずっと考え続け、全然眠れない。
ようやく意識が落ちた時はもう明け方に近い時間だった。
◇◇◇
―――チリン
どこかで、風鈴の音がした。
煉獄杏寿郎は顔を上げる。小さな音だった。しかし、なんとも美しい涼やかな音だ。
久しぶりに実家に帰ってきた。ここしばらく遠方での任務が続いており、なかなか帰れなかったのだ。
「あ、お、お帰りなさいませ、兄上!」
出迎えてくれたのは、弟の千寿郎だった。杏寿郎の姿を見て、顔を輝かせる。
「千寿郎!久しぶりだな!!」
「はい!兄上、ご無事で何よりです。食事を作ったので、こちらへどうぞ」
「うむ!すまないな、いつも!」
千寿郎と話しながら、いつも食事をする部屋へと向かう。
―――チリン
また、風鈴の音がした。
今度ははっきりとした音だった。音が鳴った方へと視線を向ける。
「―――あれ、は」
杏寿郎は懐かしさのあまり声を出した。
縁側に風鈴が飾られていた。
美しい薄紅色の藤袴の模様が描かれている。
『杏寿郎、千寿郎』
『どれにする?好きに選びなさい』
『これ?この風鈴がいいの?』
『……綺麗だね。美しい藤袴だ』
優しい声が、響いた。
「……懐かしいな」
思わず呟くと、千寿郎が頷いた。
「はい。……姉上が買ってくださった風鈴です。久しぶりに、飾りました」
千寿郎も懐かしそうに目を細める。
「とても、会いたくて……。あの風鈴を飾っていたら、なんだか、姉上が……帰ってくる気がして」
「……そうだな」
杏寿郎は弟と共に、その風鈴をしばらく見つめた。
「……会いたい、な」
杏寿郎のその言葉に重なるように、また風鈴が揺れた。
―――チリン
藤袴の花言葉は『あの日を思い出す』『優しい思い出』