夕闇の名残はすっかりと消え去り、穏やかな夜がやって来た。窓の外では暗闇の世界が広がっている。
蝶屋敷の一室にて、カナエは結火の傷を消毒し、包帯を巻き直していた。もう蝶屋敷の住人達は、ほとんどが眠っている時間だ。結火の処置が、今日の最後の仕事になる。
結火は夜の空気を感じながら、カナエの治療を受け続ける。
もう身体を自力で動かすことができない。それどころか、感覚さえほとんどない。脈拍や血圧も不安定で、ゆっくりとだが確実に身体の機能が弱っていくのを感じる。
それでも、結火は生きていた。誰が見ても死に近いことは明らかなのに、生きていた。
──よもや、ここまで生きる事ができるとは思わなかった。
ぼんやりと自分の人生を思い返す。
昔から身体の弱い人間だった。両親には随分と心配をかけたものだ。それが、剣士となり、一時は柱を名乗ることもできた。世のため、人のために、刃を振るうことができた。
結火のように弱い人間にとって、それは驚異的で、奇跡に近いのだろう。
──だけど。
結火は少しだけ笑った。
「結火さん?」
突然笑った結火に、困惑したような様子のカナエが声をかけてくる。
「どうかしたの?」
結火は小さな声で言葉を返す。
「なんでも、ない……」
世界は、戦場だった。鬼を斬り、人を護ること。それが自分の責務であり、使命だった。
戦って死ぬことを、望んでさえいた。
そんな自分が、戦いを乗り越え、ここまで生き残ることができた。そして、目の前にいる美しい女性と心を通い合わせることができた。昔の結火だったら、想像もしてなかっただろう。
自分が、愛を知り、恋をするなんて。
──本当の奇跡は、この人と出会えたことかもしれない。
「ごめん……」
突然謝罪をした結火に、カナエが処置の手を止めて、戸惑ったように言葉を返してきた。
「どうしたの?」
結火は口を開き、小さな声を出した。
「私……幸せだ。今、自分の人生で、一番幸福を感じてる、と思う……あなたがそばにいてくれるから、幸せだ……」
「うん……」
「このまま、時間が止まればいいのにとさえ、思う……」
そんな結火の手を、カナエが優しく握った。握り返す力はもうほとんど残っていない。それでも結火は必死に指を動かして言葉を続けた。
「だけど……後々、あなたにとって、つらい思い出になるかもしれない。悲しい思いをさせて、ごめん。私の、我が儘で……」
しのぶに言われた通りだ。結火の生命は近いうちに終わる。カナエを残したまま。
この世で一番大切な人に、つらい思いをさせることになる。それが申し訳なくて、心苦しくてたまらなかった。
「それでも」
カナエが結火の言葉を遮るように声を出した。
「それでも……私はあなたのそばにいたい。隣で支えて、寄り添いたいって思ったの……」
結火の目に巻かれている包帯の隙間から、小さな雫があふれた。
泣いてはいけない、と自分に言い聞かせるがとても止められない。
きっと、結火の知らない所でカナエもこっそり泣いているだろう。今だって、苦しくて、悲しい思いをさせている。
それでも、自分の最後と向き合って、寄り添ってくれるカナエの気持ちが本当に嬉しかった。
「結火さん」
「な、なんだ?」
カナエが声をかけてきたため、結火は慌てて震える声で返事をした。カナエがどこか恥ずかしそうに言葉を続ける。
「あのね、お願いがあるの」
「お願い?」
「うん……もうお仕事が終わったから、今夜はここで一緒に寝てもいい?」
その言葉に結火は涙を流しながら笑った。
「ああ。今夜は、一緒にいよう」
カナエはパッと顔を輝かせると、モジモジしながらベッドに上がってきた。そのまま結火にピッタリと身体をくっつけるように横たわる。
「さすがに少し狭いな」
「そうね……でも」
カナエは結火を抱き寄せながら、耳元で囁く。
「こうやって、くっついて眠れるから、私はとても幸せ」
その言葉に、結火もクスリと笑った。
「ああ。私もだ」
そのまま二人は額をくっつけて、クスクスと笑い合った。
しばらくお互いに無言で抱き合っていた。カナエはゆっくりと結火の長い黒髪を撫でる。それが嬉しくて結火はカナエの胸に顔を埋めながら、息を吐いた。
「……夜明けまでどのくらいだ?」
結火が問いかけると、カナエはチラリと窓の方へ顔を向けて答えた。
「まだまだよ。日が昇るまで数時間あるわ」
「そうか……」
結火は小さく笑い、言葉を続けた。
「……初めて」
「え?」
「あなたに出会って、初めて知ったんだ。夜明けの美しさを。……光のように輝く世界も、抱き締められた時の温もりも、想い合う喜びも、全てあなたが教えてくれた」
結火は手を伸ばし、カナエの頬をそっと撫でた。
「あなたは、炎だ。カナエ。私だけの炎だ。この世で一番優しくて美しい……」
それは、窓から差し込む美しい陽光のような輝き。結火だけが知っている、眩しいほどに燃える炎だ。
結火はゆっくりと自分の胸に手を当てた。
「ここで、燃えている……私の中で……」
カナエが手を伸ばして、結火の頬を包みこむ。そして、優しく触れるように唇を重ねた。
感覚を失ったはずなのに、唇から全身に喜びが駆け巡る。優しくて穏やかだが、熱い口づけだった。
しばらくして唇が離れる。結火は微笑みながら口を開いた。
「……ああ」
その呟きに、カナエは首をかしげた。
「うん?」
カナエの方へと再び身を寄せる。そして、小さく囁いた。
「幸せだなぁ。本当に、幸せだ」
その言葉を聞いたカナエが、結火を抱き締める。
「……本当ね。幸せね」
「生まれてくることができて、幸福だった。あなたに会えて、よかった」
「うん」
そのまま二人は抱き合いながら、手を重ねる。
きっと明日も幸せな日になる。そう信じて、目を閉じた。
◇◇◇
美しい春の日だった。
花や若葉の匂いが混じった瑞々しい空気が満ちている。信じられないくらい、穏やかで優しい風が吹いているのを感じた。
結火は自分の心臓が、ドクンと波打つのを感じた。
同時に、コンコンと軽い音が響く。ガチャリと扉が開いて、カナエが部屋に入ってきた。
「結火さん、点滴の時間よ」
ベッドに近づいてきて、薬液の準備をするカナエに結火は声をかけた。
「──いい」
「え?」
結火の言葉にカナエが驚いたように声をあげた。
「点滴は、しなくていい」
キッパリとそう言うと、カナエは戸惑いながら結火を見返す。
「しなくていいって……でも……」
「いいんだ。もう、いい」
結火は小さく笑う。その微笑みを見て、カナエがハッと顔を強張らせた。
「カナエ……頼みがある」
「な、なに?」
結火は懇願するように言葉を続けた。
「部屋の、外に出たいんだ。連れていってくれ」
カナエはしばらく無言だったが、やがてゆっくりと結火の身体に触れてきた。
「抱えるわね。不安定になるけど、少し我慢してね」
「うん」
小さく頷くと、カナエは結火の身体を抱き上げた。結火はカナエに身を委ねながら、声をかける。
「縁側……」
「え?」
「縁側に、行きたい……あなたと、よくお茶を飲んだ場所……」
その言葉にカナエは大きく頷くと、結火を抱えたまま部屋から出た。
カナエは結火を抱えて、蝶屋敷の廊下を歩く。やがて庭が見える縁側に到着した。
二人がよくお茶を飲み、ようかんを食べて、交流を深めた場所だ。
カナエはゆっくりと結火を縁側に座らせた。そのまま結火を支えるように、カナエも隣に腰を下ろす。結火は寄り添ってくれるカナエの温かさと優しさに感謝しながらゆっくりと空気を吸い込んだ。
ここに来るのは本当に久しぶりだ。思い返せば、カナエとの交流が始まったのはこの場所だった。結火にとって大切な場所であり、恐らくはカナエにとってもそうだろう。
ここに来られてよかった、と心の中で呟いたその時、カナエが声をかけてきた。
「結火さん、寒くない?」
「うん、平気だ」
結火は見えない瞳を蝶屋敷の庭へと向けた。見えないが、きっと美しい花が咲き誇り、たくさんの蝶が舞うように飛んでいるのだろう。この景色を見ることができないのが残念でならない。
ふと、結火は何かに気づいたように首を僅かに動かした。
「桜が……」
「え?」
「桜が、咲いているな」
その言葉にカナエは大きく目を見開いた。
「よく分かったわね……そうなの。少し前から咲き始めたの。とても綺麗よ」
「ああ……もう春だな」
カナエは微笑みながら頷くと、言葉を重ねた。
「蝶屋敷の桜はね、“必勝”という名前がついてるの」
「必勝?」
「ええ。初代花の呼吸の剣士が名付けたんですって」
カナエの話に、結火は感嘆したように声をあげた。
「素晴らしい名前だな」
「ええ……」
しばらく沈黙が落ちる。微かに、花や土の匂いがした。フワリと柔らかい風が吹いて、木を揺する。どこかで、風鈴の音が聞こえた。きっと、結火とカナエの風鈴だ。
陽光を浴びて、春の息吹を感じながら、結火は口を開いた。
「……消えない、からな」
「え?」
突然の言葉にカナエが戸惑ったように声をあげる。
「消えない……私は、決して消えない。燃え続ける。消えるために燃えたわけでは、ない」
この身が焼き爛れ、全て滅びても。
絶対に消えない。誇りを胸に、心を燃やそう。
──永遠に。
カナエは腕を回すと、結火を包み込むように抱き締めた。その温もりが嬉しくて、愛しい。
結火は微笑みながら、再びカナエに声をかけた。
「手を、握ってくれないか……」
「ええ、もちろん」
すぐにカナエの手が伸びてきて、結火の手に重ねられる。結火はカナエに身を寄せながら、囁いた。
「……ありがとう。あなたが隣にいてくれて
私は幸福だった。あなたの笑顔に、私は救われた」
カナエの手が震えている。もう、その手を握り返すことはできない。それでも、必死に指を動かし、微かに力を込めた。
「あなたには、幸せになってほしい。ずっと笑顔でいてほしい……」
祈るように、願うようにそう呟いた結火に、カナエは、
「うん」
と短く言葉を返した。
結火はゆっくりと深呼吸をする。
──ああ、今日は本当に穏やかで暖かい日だ。
心の中で呟いたその時、カナエが声をかけてきた。
「結火さん、眠い……?」
その問いかけに、結火は小さく、
「ああ……少し……」
と答えた。カナエは結火の手を優しく撫でながら、言葉を重ねた。
「眠っていいわよ。私は、ここにいるから」
「……本当?」
「ええ。ずっと、ずっと、あなたのそばにいるから」
その言葉に安心したように結火は微笑んだ。
身体からゆっくりと力が抜けていく。それでも、残っていた全ての力を振り絞って、結火は言葉を紡いだ。
「……私は、燃えている」
「ずっと燃えている。あなたの中で、永遠に」
──チリン、と。
どこかで風鈴が揺れる音がした。
結火に寄り添っていたカナエの瞳から、大きな雫が浮かび、頬を流れた。そのまま結火の手にポタリと落ちてくる。
カナエは囁くように声を出した。
「今日はとても暖かいわね……」
「結火さん、もう寝ちゃった?」
「あのね、もう一度だけ、言わせて」
「あなたはしつこいって笑うかもしれないけど……」
「好き。好きなの。あなたのことが」
静かな日差しと温もりに包まれて、柔らかい風が吹くのを感じた。必勝と名付けられた桜の花びらが散って、雪のように舞う。
美しい春の日だった。
「ありがとう、結火さん。愛してるわ」
その呼びかけに、結火は何も応えない。
それでも、カナエは涙を流しながら、微笑んだ。
結火がとても幸せそうな表情をしていたから。
◇◇◇
炎のような瞳が開く。
気がつくと、結火は白い世界にいた。どこかで花が咲いているのか、花びらがフワフワと浮かんでいる。不思議と暖かくて居心地がいい。
ここはどこだろう。結火が周りを見渡そうとしたその時だった。
「姉上!!」
後ろから大きな声が聞こえた。結火は大きく息を呑み、振り返る。
誰かがこちらに近づいてくる。それが誰なのか認識して、結火は目を見開いた。
「あ……」
結火の口から小さな声が漏れる。見えたのは、大柄な身体。炎のような髪。そして、燃えているような大きな瞳。
「ああ……」
再び声を漏らすと、足を動かす。そして、その人物の方へと向かって走った。
「姉上!」
再び大きな声が聞こえて、結火は微笑みながら、駆け寄った。
「杏寿郎!」
弟の名前を呼び、走りながら、手を伸ばす。そして、二人同時に抱きついた。
──ああ。
──やっと、会えた。
杏寿郎の身体が微かに震えている。見なくても、弟が泣いているのが分かった。
やがて、二人はゆっくりと身体を離す。結火は笑いながら杏寿郎の頭を撫でた。
「すまない。随分と待たせてしまったな」
杏寿郎が嬉しそうに顔を綻ばせる。そのまま、手を動かし、どこかを指差して大きな声を出した。
「姉上、あちらです!」
「うん?」
「あちらで待ってらっしゃいます!!」
待ってる、とは何だろう?と結火は首をかしげる。そして、杏寿郎の指し示す方向へと視線を向けて、顔を輝かせた。
遠くで誰かの影が見える。
あれは間違いなく、母の姿だ。きっと、弟と共に結火を待っていてくれたのだろう。
「姉上!」
再び杏寿郎が大きな声で呼びかける。結火がそちらに顔を向けると、杏寿郎はまるで青空のように晴れやかな笑顔を浮かべた。結火に向かって、手を差し伸べる。
「共に行きましょう!」
その言葉に、結火は大きく頷き微笑み返す。
「ああ……一緒に歩いて行こう」
手を繋ぐ。今度こそ、離れないように。
そして、姉弟は同時に大きく足を踏み出した。