走る。疾走する、疾駆する。『大鹿』のルーンを刻んだ両足で、バケツをひっくり返したような土砂降りのスコールの中を全力で。強い向かい風に乗った雨粒が叩き付けられ、全身を濡れ鼠にしながら、数メートル先の視界すらもままならぬままに。
背後から追い縋る、殺意を感じる。首筋や心臓、背骨の隙間。あらゆる急所を狙う、鋭い視線を。刻んだルーンも相俟って、狩人に狙われた獲物の気分である。
『てけり・り!』
風雨に紛れ、発砲音すら聞こえない銃撃。それを如何な感覚器官を駆使してか、察知したショゴスの
『てけり・り?!』
直撃コースが、外れた。否、
何らかの魔術か、ショゴスの
「チッ────!」
掲げた偃月刀の加護、守りの切り札が。浮かび上がる第一防呪印『
しかし、恐るべきはその銃弾は────
「────逃げるだけかよ、この
「ッ────悪ィね、アンタでも吝かじゃねェが……」
文字通り『
「俺ァ、
降り立ち雨粒を巻き込みながら、跳ね跳ぶ勢いのままに繰り出された
だが、好機ではある。誘導式の銃弾には無理だが、肉弾戦ならば。
────そう、肉弾戦ならば。鍛え上げた我が『
直感が、そう告げる。それは、『攻撃』ではなく『防御』だと。だから、『
その直感のままに。右手を────
「チッ!」
伸ばす事無く、目で見たままに。『
その観察通りだ。雨粒を巻き込む『竜巻』を纏う
粉砕機に砕かれたように細かな、木屑と鉄屑を浴びながら。嚆矢は、『
「
軽いフットワークを刻みつつ、『セラ』と名乗った娘は二挺拳銃の
襤褸の黄衣の下、腰から下がるガンベルトに装備されている弾倉を一度に装填、再び二挺の銃口が此方を向く。
「
風が、渦を巻く。彼女の二挺拳銃を包み込むように、螺旋を描いた空気の流れが────形を為す!
「
静かに、音も無く。目に見えない風の流れが爪牙となる。成る程、
「さぁ────いくよ、『
瞬間、アスファルトを踏み砕き雨水を撒き散らしてセラが吶喊する。『風』を踏み、目にも止まらぬ『風速』で軌道を変えながら。
黄金色に燃える二つの瞳が、軌跡に煌めく残光を。イヌイット族に畏れられる、『姿なき人攫いの怪物』の名を叫びながら。
「伯父貴が出るまでもない……ボクらだけで、十分!」
繰り出される
──受ける事も出来ねェ、かといって潰す事も。ジリ貧か……全く、厄介、この上ねェ!
このままではいずれ、体力が尽きて殺される。ならば、やはり出来る事は────一つ。
「────ッ!」
脚を踏み締め、『錬金術』を発露する。久々だが、やはり『
作り出したのは、楯。足元のアスファルトとショゴスの一部を融合させた、壁を。それを楯に、一目散に────駅前へ。
『てけり・り。てけり・り!』
「邪魔だなァ……兄貴!」
『任せろ』
ショゴスの特性により、獲物に向けて自在に伸縮する『楯』。その蠢きに、面倒そうに呼び掛けた彼女の背後────約一キロの彼方から。
『イブン=ガジの粉薬を混ぜた銃弾とナアク=ティトの障壁を刻んだ、この一発────』
『てけり・り?!』
音より速く飛来した『何か』に、『楯』は真円の大穴を開けられて四散した。然もありなん、それはある戦争では『狙撃した敵兵の上半身と下半身を分断した』とまで言われ、強固な外壁を持つ航空機を撃ち抜いてハイジャック犯を狙撃する際にも用いられる化物級の
それを抱え、密集する摩天楼の屋上を跳ね翔ぶ黒い雨合羽。セラの『
『耐えられる筈も、無かったな……粘塊』
音速を遥かに越えた徹甲弾と榴弾、焼夷弾の役割を果たす『HEIAP』に、その弾に籠められた呪詛『ナアク=ティトの障壁』。あらゆる邪悪を遮断する魔術に、この程度の『楯』では立ち向かいようもない。
崩れ落ちた『楯』、否、崩れ落ちるよりも早く。その『大穴』を潜り抜けて、セラは走る。大気を蹴り、加速し続けながら。
「二対一、しかも足止めも無理な重火力に高速度か! 無理ゲーにも程があンぞ!」
テレパシーでリンクした状態にある嚆矢は、ショゴスの一部が混沌に還った事を悟って吐き捨てた。悪態くらいは
追い付かれる前に、手頃な路地裏に逃げ込む。遮蔽物の無い通りでは、あの津波の破壊力と浄化力を併せ持つ貫徹焼夷榴弾の良い的。しかし、しかし。この狭所では。
「行け────『
「クソッタレが……!」
風の速度と自在さを持つ誘導式銃弾の、良い的に他ならない────!
「────ッ!!」
掲げた偃月刀より第二防呪印印、『キシュの印』が虚空に浮かぶ。浮かぶと同時に、七発を受け止めて砕け散る。
これで、加護の印はあと二つ。必然、命の残回数もあと二つだ
「お次は最強の『ヴーアの印』か……これは兄貴に任せるべきかな!」
「ハッ────勘弁!」
壁を蹴り、回り込もうとする黄衣の少女。回り込まれ、進路を断たれては終わりだろう。退路には、あの重火力が待ち受けている筈。
辛うじて先に、裏通りに転がりでた。うらぶれた、普段ならば浮浪者や
────もう、無理だろう。逃げられはしない、あんな化物どもからなど。
さぁ、諦める時だ。諦めて……
すかさず、背後にルーンのカードを。『障害』のルーンを展開して、疾駆する。これで、あと三秒は稼げるだろう。
「あと、五百メーター……こんなに遠いなんてな! あァ、生きて帰ったら、禁煙でもするかァ!」
雨で張り付く
「────グ!?」
『てけり・り!!』
そして、気付いた刹那。第三防呪印にして最強の『ヴーアの印』を展開した。展開した刹那、印が弾け跳ぶ。貫徹したのは焼夷榴弾、まだ殺傷能力は失われていない。
ショゴスの防御を持ってして、炸裂した衝撃に吹き飛ばされた。しかし、吹き飛ばされただけだ。ショゴスが居なければ、これで詰みだっただろう。
「かっ……は……!」
転がりつつ、苦痛に詰めていた息を吐く。炸裂した焼夷榴弾に、焼けた肌が痛い。既に、回り込まれていたか。どうやら敵の言葉を信じてしまうなどと言う、愚策中の愚策を犯したらしい。
「さて、
悠々、『障害』のルーンを切り裂いて歩み出た少女の声。それすら、どこか遠く聞こえて。
「終わりだ、『
取り出され、構えられたのは拳銃でありながらライフル弾を運用する化物級の
────さぁ、諦めろ。そして代われ、この『
その銃口が、米神に突き付けられた。後は、銃爪を引けばそれで、脳漿を路面に打ち撒けて終わり。その跡形も、雨が洗い流すだろう。
『この、“
ならば────生きるには。出来る事など……ただ一つ!
「────撃てよ」
「『何─────?」』
少女と、『
「この右手が、届く範囲は……」
『き、貴様……この、うつけめが』
「そんな
捧げるように、前に─────
「俺の、
『この期に及んでも……是非もない、だと!?』
伸ばして──────!
「
同時に放たれた、必殺の銃弾。頭蓋どころか、貫通して路面すら砕くだろう、純然たる運動エネルギー。初速で既に、音を越えている。これを、目視で躱す事など人には出来まい。例え何らかの
何より────既に狙い定めた、彼方の貫徹焼夷榴弾。あらゆる魔術や能力を遮断するそれによる二段構えを、突破など不可能!
「大したもんだよ、実際……だけどな!」
だが、だがそれでも。嚆矢は、既に触れている。虚空に接するその『ヨグ=ソトース』の欠片を宿す右腕は、最初から全てに接していて────後は、息吹を掛けるのみ。
「“
今こそ見せよう、見様見真似のその術式。ルーンのカードを、致死寸前まで浪費して。
ほぼ一日前、見たばかりのステイル=マグヌスの不完全にも程がある摸倣。何より、それは────使い方が、違い過ぎる。
「な、にぃぃぃっ!?」
『ま、さか────!』
少女の目の前で、虚空が捩じ曲がる。『風王の爪牙』纏う銃弾の風を粉砕しながら。受け流した拳、無傷のままに。
スコープを覗く、美青年の表情が歪む。真っ直ぐ、此方を目指す銃弾に。放たれた貫徹焼夷榴弾、空中で針の穴よりも小さな銃弾に当てる神業を見せながら。
「“
『これは────まさか、礼装を……即席にだと!?』
完膚無き迄に、貫徹焼夷榴弾を粉砕されて。何度も義母から聞かされた、アイルランドのお伽噺。『魔術を打ち消す』と言う、“輝く顔のディルムッド=オディナ”の赤い槍の銘を冠した銃弾が────ビルの屋上の人影を、撃ち抜いた。その手応えが有った。
「兄貴────!」
それに、ほんの刹那。本当に僅かな一瞬、少女が隙を見せる。その隙を、逃さずに。
「“────
「な────」
触れぬままに触れて。刻み付けたのは、『消沈』の三大ルーン。ステイルに刻み付けたものと、同じく。
少女のあらゆる意思を掠め取り、あらゆる力を奪い─────しかし、その黄衣。その加護により、失神だけは免れて。
「
悪態を吐きながら、倒れ込む。それで、後はもう何も出来ない。死ぬ寸前の消耗の中、その姿を見下ろして。
「……いやはや、驚かされたな」
「ッ────!?」
見遣るのは、駅前の道より現れた……刃金の巨躯。皮の上下に身を包む、サングラスの大男を。何時の間に現れたのかすら、分からなかった。その体に宿る緑の雷光が、バチリと弾ける。
「殺してやる気でこの廃区画まで追い込んでみれば……成る程、“
ほぼ、意味は分からない。しかし、分かる事もある。今、雨と風が止んだ事。そして、己の命はこの男に握られている事が。
だが、男は嚆矢に見向きもせずに。肩に担ぐ黒い雨合羽の青年をそのまま、倒れ付した少女に……紙片を握る右手を差し出して。
「引き揚げだ、“
息吹を掛ける。刹那、少女の姿は無数の
「コイツらよりは、見所がある。その気があるなら、訪ねてこい」
投げ放たれた紙片、水溜まりに。住所が記されたソレ、濡れて歪んでいて。しかし、油性のインクは落ちない。
目を上げる。目の前、屈強な男の顔が。サングラス、持ち上げて。
「レイヴァン=シュリュズベリィだ。覚えておけ……コウジ=ツシマ」
何もない、伽藍堂の眼窩。漆黒の闇が詰まった、それを見た記憶を最後に……男は、掻き消えている。まるで、初めから居なかったかのように。
緑の雷光、その残光だけを残して。周囲全てに接する右腕にすら、感じるものはなく。
「……化け物が」
震える指で、煙草に火を。万色の紫煙、燻らせながら。人の気配が戻りつつある世界に、安堵を溢して。
「…………ハッ。人の敷地で勝手した割りには、随分と絞まらない結末だったにゃー」
その一連の出来事全てを目に。それでも、何ら揺るがずに嘲笑った……逆立った金髪にサングラス、アロハシャツの少年の姿、気付く事は無く────。