辿り着いたのは、二十時を過ぎてから。一度しか行った事の無い場所を探しだすのは、中々に骨が折れた。
一つ深呼吸、扉をノックする。暫く待っても、応答がない。聞こえなかったのかと、今度はインターホンを鳴らせば────とたとたと、走ってくる音。
間違いようもない、あの娘の足音。耳というより、鼻で感じる。ミルクのような甘い香り、
「あ、こんば────」
「もー、うるさいよ! とうまが起きちゃうんだよ!」
そしてやはり出てきた白い
………………
…………
……
勝手知ったる人の家、卓袱台脇に腰を下ろしてそれを眺める。相変わらず布団に寝ている少年『
「ハハ、良い食べっぷりだ。これも食べるかい?」
「いいの?!」
「勿論」
実に気持ちの良い食べっぷりである。ウジウジ悩んでいた己が莫迦莫迦しくなる程に、幸せそうな表情で。
まだ手を付けていない自分の分と目覚めていない当麻の分、銭湯に行ったという『
「やったー! ありがとうなんだよ、こーじ!」
それを受けとると、モグモグと栗鼠かハムスターのように文字通り頬袋を膨らませながら食べて。
それを微笑ましく、喉に詰めたりしないように見守りながら、嚆矢は冷蔵庫から取り出した缶ビールを煽る。炭酸と、細胞に染み入る
──そうだ、やはり。見て見ぬ振りなど、俺にそんな権利は無い。俺は
喩え……それで、
グッと、頚から下げた『
気付けば、それを彼女が見詰めていた。箸をグーで握り締めた、子供のような姿で。
「それ、魔術士の
「ん、ああ。
「へ~、ケルト系の魔術士なんだね」
「ん~、正確には
「“フィオナ騎士団”……ううん、ひょっとして“
「まぁ、俺は養子だからあくまで
珍しく、魔術の話が出来る相手との会話に花が咲く。先ずは、己の情報から。その合間に、“
「因みに、インデックスちゃんのとこってどんな感じの教会なんだい? その繋がりで、
『
「えっとね……わたし、一年前以前の記憶はないんだよ」
「記憶がない?」
「うん、何でかも分からないんだよ」
だが、返ってきたのは申し訳なさそうな表情とそんな言葉。これで、どうやら道筋は途絶えた。少しでも情報を得て、あの二人に優位に立てるものが欲しかったのだが。
記憶が無いのでは、仕方ない。女性の言葉だ、嚆矢は疑わない。
「ふふ、こーじはいい人だよね」
「? なんだい、いきなり?」
「だってこーじ、ご飯一杯くれるし魔術も信じてくれるし」
「そりゃ、金はあるし魔術は知ってたしね」
と、唐突に彼女が微笑む。既に二つ目の弁当を平らげ、三つ目の海苔弁に手を掛けながら。
「でもでも、とうまは魔術を信じてくれないんだよ。超能力は信じてるし、自分も右手に“
「ハハ、人間なんてそんなもんだよ。誰しも、
飲み干した空き缶をクシャリと潰し、ゴミ箱に。窓から見える夜空は、赤く潤んだ下弦の月。禍々しく笑う口許のように、つり上がった月だ。
その不吉さに、期の到来を悟る。有意義な時間だった、確かに────再確認は、出来た。
「じゃ、あんまり病人が居て家主さんが居ない所に長居する訳にはいかないし……お暇するよ」
「ん~、もふかへるほ?」
「こらこら、口にモノ入れたまま喋らない。またね、インデックスちゃん」
「ん、んっく……ふぅ。うん、またねだよ、こーじ」
立ち上がる共に手を振れば、同じものが返ってくる。充分だ、これで。これで────
ポン、と一度頭を撫でてから扉を開け、夜半の都市へ。冷めやらぬ熱気と、闇の中へ歩み出る。
懐から煙草とライターを手に、立ち止まらずに火を点す。それを思いきり肺腑で味わいながら、手摺に寄りかかりつつ。
「…………」
紫煙を燻らせ、闇夜に吐き出す。弱い風に吹かれ、煙は高く登りながら消えていく。
「
「煩せェ……」
その男の背中に沸き立った影が、和服の娘となる。唐突に負ぶさった市媛は、燃え盛る三つの眼差しで彼を嘲笑っていた。
「それで? 先程の小部屋には去りげに何やら
「……そこまで分かってんなら話は早い。後は、待つだけだ」
「ふむ……」
振り返る事もなく、扉の前で仁王立ちに。そのまま、『感じる』。周りの空気の
「どうやら、手間は省けたようじゃな」
「ああ、向さんから来てくれるとはな」
『人払い』のルーンによる、深海の如き静寂。人の気配は、自分のモノを含めて背中の一人と後ろの部屋の二人のみ。そしてどうやら、“
勿論、他の誰である筈もない。階段から聞こえてきた足音、他には低く、地の底から響くような虫の声しかない夜の
「今晩は、というべきでしょうか?」
「挨拶などどうでもいい────何の用かな、
刀を携えた『
「俺が何処で何しようと、俺の勝手だろう。アンタ等こそ、何しようとしてんだ?」
返答はない。返ってきたのは、苛立ちと殺意の籠る視線のみ。彼等にとっては、正に闖入者であろう。
「何でも良い、邪魔をするのならば────」
煙草を投げ捨てる。虚空に赤く残光の螺旋を描きながら落ちていく煙草が、炎の剣となる。ステイルの魔術、『炎剣』が。
鈍く月の光を照り返した銀刃、“
それを構えた姿で、火織とステイルは一歩前に進み────その『陣』に踏み込んだ。
「“
「っ……!」
刹那、嚆矢が唱えたルーンが。予め配置していた『カード』による、四文字のルーンからなる『四方陣』が励起した。
「ルーンの魔陣……ステイル、これは?」
「…………まさか、ここまでやるとはな。見直したよ、やっぱり君はイカれてるな!」
火織の問いに答える事もなく、ステイルは口角を吊り上げた。この四文字、その意味を正しく理解しているからこそ。
「そりゃどうも。流石に同じルーン使いだ。この“
「『その陣を敷いた者は敗北を赦されず、その陣に臨む者は退却を赦されない』…………君達、“
ケルト神話の大英勇、アイルランドにおいてはアーサー王すらも凌ぐ名声を誇る『クー=フーリン』が敷いた魔陣『
故国に攻め入る敵兵を、一騎討ちにて押し止めた浅瀬の攻防戦の再現を成して。
「そうだ。つまり、貴様らは此処で……殺す────俺が」
「理由は。赤の他人の為に、何故」
「『
嚆矢が、煙草を棄てる。虚空に投げ出された煙草は、くるくると螺旋を描きながら────虚空を食い破って現れた刃金の螻蛄、神鉄を纏うショゴスにより喰われて。
更に、背後に『影』を背負う。燃え立つ三つの眼差しで一堂を嘲笑う“
「『袖擦り合うも他生の縁』……それが、日本男児の心意気なんだよ」
吐き捨てながら決意の眼差しを向け、鯉口を切りながら柄に手を掛ける。まるで、舞でも舞うかのように脚を踏み出して。
「“人間五十年……下天の内を競ぶれば、
砕け散るように、ショゴスが分解した装甲を乱舞させる。黒い刃金と黒い影、その二つが入り乱れた嵐の中。嚆矢は、誓句を唱える。
「“
構えたのは、嚆矢だけではない。火織とステイルもそれぞれ、得意な構えを取って嚆矢の動きに備えていて。
《────“滅せぬものの、在るべきか”!》
装甲を遂げ、全身を刃金とした嚆矢が二人を見遣る。燃え盛る三つの深紅の眼差しを瞬かせ、装甲の隙間から血涙を流すショゴスの瞳を覗かせながら。
《
挑発の言葉を弄する。腕を組み、舐めた態度を崩さぬままに。
「……駆動鎧、だったか。学園都市の最新技術。それを魔術で強化しているようだ」
「構いません、なんであれ斬り捨てるのみ」
「全くだ。では、改めて自己紹介と行こうか」
その巨躯を見詰め、驚きを通り抜けた火織とステイルは既に冷静を取り戻している。当たり前だ、この二人は歴戦の
そこらの若輩が幾ら意表を突こうが、
挑発に乗る事もなく、心を動かす事もなく。
「イギリス清教内第零聖堂区『
「同じく────“
「
正調の武者上段。莫迦正直、莫迦の一つ覚えの“
………………
…………
……
マンションの通路という隘路での戦い、数の利を殺すし守りを易くすると期待して。
腕力では、筋繊維の如く張り巡らせたショゴスの強化により此方が遥かに上だ。しかし、精密さと速さは
《クッ!》
装甲を衝撃が撫でた。兜に胸部と肩、右前腕の装甲に七つの斬撃が鋭く痕を残す。跳ね退きながらの攻撃だ。
これで、二度目。既にショゴスが修復を始めている。何らかの魔術かとも思うが、貫通する程ではないにせよ『見えもしない斬撃』には舌を打つしかない。
(長さだけでも
その刃。神裂火織の振るう七天七刀を見遣る。極端に長いその刀は、明らかに通常の規格を逸脱している。
あんなもの、使い辛くて仕方無い筈だが。だが、お陰で
そんな長物を使っての居合を信条とするのか、鍔の無い刀を鞘に納めた彼女は。
《フム……あれは恐らくは実戦に使用するものではなく、儀礼的な意味を持つ“
(そうか……あの長さ、何とかしねェと“
火織が刀を抜いたその刹那、
ショゴスの被膜が弾け、肉が抉られた。もしもショゴス無しなら、今頃は斬り離されていただろう。現状でも、深手と言って良い。
「熟考ですか? 随分と暢気な……私の“
「そして僕も、ね!」
《ッ……ショゴス!》
『てけり・り! てけり・り!』
すかさずショゴスに命じて傷口を塞ぐも、鋭い痛みと急速な失血にぐらりと揺らいだ身体。その隙を逃す事無く、七天七刀と『炎剣』ががら空きの胴体に迫る。幾ら『南蛮胴』を纏うこの身とは言え、
火織が狙ったように、如何に強固であろうとも装甲には必ず隙間が在り。そして何より────
「“
《止めよ、嚆矢!》
《ク────ッ!》
“
(……おい、なんか装甲が焼けてる気がするんだが)
《
(巫山戯んな、どんな愛憎模様だ! あんなに燃やせ燃やせ言ってただろ!)
《燃やすのは好きなんじゃがの、燃えるのは勘弁じゃ》
その魔術に対抗し、結構な生命力を消費して魔力に昇華しながら。底冷えするかのような震えはその為か、もしも嚆矢の
まぁ、それでも最低限の
酷い二日酔いのような、不快な疼痛が脳髄全体に絡み付いている。この調子でいけば、あと二十分と持つまい。
「
駄目押しの、炎剣二本目。それを────
《
向けた肩部装甲板、胸部装甲の次に強固な装甲板を向けて。其処に在る発振器から発する空間の
「よく防ぐ……流石はかつての徳川将軍家剣術、柳生石舟斎の剣と言ったところですか」
「確かに……それに、大した魔術防御だ。まるで『カーテナ=セカンド』じみた性能だな」
差し込まれた空間に、熱量を維持する事を諦めた炎剣が消える。命拾いと共に、更なる危地は直ぐ其処に。
再度、刃を鞘に納めた火織の姿。縦に構えた抜刀術は、多少知る『
何にせよ、
(短期決戦……以外にはねェな、やっぱり)
否、そもそもの前提が間違い。対するは
握り締める長谷部の柄。ギリ、と強化された握力に軋んで。最初から決めていたハラを、早める事として。
「余り時間も掛けていられません、時間が近い────“
「解った……援護は任せておいてくれ」
決めて、納刀と共に足の乱れを直そうと動いた刹那、火織が疾駆した。ただ、無造作に前に飛び出すように。
《──甘い!》
構えを変える隙を突かれても尚、焦りもなく長谷部と宗易正宗を戻しつつ腰を深く沈める。どのみち、不退転。ならば迎え撃つ以外に選択肢は無いのだから。
得意とする、合気の構え。少なくともそれで火織を無力化できれば、勝率は跳ね上がる────
「────そちらが」
《なッ────》
その右手の先で、火織が消えた。否、しゃがみこんだだけだ。問題は、それに合わせてステイルが投げた『何か』が迫っていた事。
迷わず、右手で払う。何であれ、それしかない。
喩えそれが、火織とステイルの仕込んだ陥穽でも。
払われた『何か』は抵抗もなく空中で砕け、火織がスライディングで嚆矢の股下を潜り抜けた後には、僅かな床面に散らばった────ルーンカードが残るのみ。
そしてそれは、ステイルの切り札たる魔術の前準備に他ならず。
「“
《チィッ!!》
《ぬ、これはヤバイのう……》
立ち上がる“
前には焔の巨人を従えたステイル、背後には七天七刀を腰溜めに構えた火織。形勢は完全に、ステイルと火織の有利に傾いた。
「「終わりだ!」」
鋭く発した、声を一つに。ステイルと火織は嚆矢を挟み撃ち、必殺を振るう────!
………………
…………
……
霞む視界の中、女は告げた。矢鱈と長い刀を携えた、黒髪の女の後ろ姿……昏倒する前に見た、神裂火織の背中は。
『後、三日。三日でインデックスの■■は────』
「────っ!!」
その微睡みから、上条当麻は瞼を開く。やはり霞んだ視界は、随分と久し振りの光の刺激に視覚が混乱しているからか。
「……とうま? 起きたの?」
光に慣れ始めた目に、此方を覗き込んでいる少女が映る。青みがかった銀髪に白い
「う……インデックス……俺は何日寝てた、今日は何日だ?」
そのインデックスに、当麻は夢の言葉を思い出しながら問うた。まだ痛む体を起こし、辺りを窺うように。胸を突く焦燥に、後押しされるように。
「えっとね、三日。わたしがお世話してあげてたんだよ」
「三日────今日がその日か!」
「ご飯食べる? さっきね、こーじが……って、どうしたの、とうま!」
そして、今度こそ立ち上がる。今度こそ、焦燥に突き動かされて。食べさせようと弁当を持ってきたインデックスに見向きもしないで。何か当てが有る訳でもないと言うのに、カッターシャツを羽織りスラックスを穿きながら。
外界へと歩み出るべく、扉を開こうとして────開けない事に気付く。まるで外側から、セメントで塗り固められてしまったかのように。鍵もされていないのに、扉はびくともしない。
「なんだ、これ……くそっ、だったら!」
理不尽な出来事に、ツンツン頭を掻き毟って。それならばと、彼は窓を目指して引き戸を引いた。
その先には、コールタールのような漆黒の壁。一切の光を見せない、真の闇の壁が行く手を遮る。
それを、当麻は“
「…………ホントに、何なんだよ!」
揺らぎもしないそれに、苛立たしげに悪態を吐いた。
「魔術……空間を切り離す“魔陣”なんだよ。きっと、こーじが仕掛けてったんだ」
「こーじ……それ、誰だ?」
それを眺めていたインデックスが、合点のいった顔で呟いた。弁当の下から剥がれ落ちた、貼り付けられていたルーンカードを見遣りながら。そこで漸く、当麻は聞き慣れない名前が出ている事に気付いて。
「魔術使い、だよ。とうまを助けてくれた人……あと、ご飯もいっぱいくれたんだよ!」
「そうか……って、じゃあその人はまさか……!」
それが、自分達を守る為ならば涙が出るような話。しかし、今まで出会った魔術士が魔術士だ、逃がさないように自分達を閉じ込める為と当麻見たのも無理はないだろう。
何としても外に出ると、その一念を定めた彼は。
「『陣』って言うからには、そのカードのルーンとか言うのを向こうにすれば良いんだな?」
「え、うん……だけど、これは一度発動したら全部消されるまで消えないと思うんだよ」
「よし、それじゃあその『こーじ』が触った場所を教えてくれ!」
仕掛けられた『基点』を探して、部屋を巡る。先ずは卓袱台、その下に一枚。次いで冷蔵庫、その中にも一枚。窓の外側にも一枚、黒塗りの面を見せてカモフラージュしたものが。
インデックスの『完全記憶』を持ってすれば、造作もない事であった。そしてルーンの解除……否、『破戒』も、当麻の“
「多分、次で最後なんだよ……後は、何処だろ」
「他にソイツが何かした可能性があるところは、もう無いか?」
「う~ん……もし、扉の外側とかだったら見てないからわからないんだよ」
「やめようか、挫けそうになるから」
鉄製の扉でそれをやられては、当麻にはどうしようもない。如何に“幻想を殺す右手”でも、実在の鋼鉄には無意味。
最後で足止めを食らい、辺りを見回した当麻。だが、闇雲に探しても見付かりはしない。目の前でウンウン唸っている修道女の横顔、胸くらいまでしかない身長の。
彼は一つ、溜め息を溢して口癖を。母校では代名詞として、『
「不幸だ……」
「ひゃっ?! も~、とうま! 耳に息吹き掛けたらくすぐったいんだよ!」
「あ、悪い悪い……ん?」
その溜め息に耳朶を撫でられて、耳と顔を真っ赤にして振り向いたインデックスの
「見付けた……インデックス、動くな」
「え……あ、あの、とうま?」
しゃがみこんで視線の高さを合わせると、非難めいた表情をしていたインデックスの両肩を掴んでを向き直らせる。いきなりの事に修道女は顔どころか、
その首筋に、当麻は右手を────“
『─────“
「な─────!?」
『起こしてはならないもの』を、起こしてしまう──────…………