七月十八日:『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』
一面に畳の敷き詰められた修練場、道着と黒い袴を着込んだ衆人環視の中、二人の少年が対峙している。
「――どうした、
片方は、嚆矢。開手の構えで、相手のあらゆる動きに対応出来るように。
「まるで、勝つ事前提みたいな言い方ですね。ご心配なく、対馬さん。直ぐに終わりますから……」
対する、長めの黒髪の中性的な美少年は、『
やはり開手の、鏡に映したかのように対照的な構え。
「何だよ、蘇峰……それじゃあ、まるで俺が負けるみたいじゃねぇかよ?」
「あれ、そう聞こえませんでしたか? っかしいなぁ、そう言ったつもりだったんですけど?」
別に試合ではないので、互いに挑発し合う。これがもし試合なら、指導が入るところだ。
そして、静寂が訪れる。畳の藺草と、汗の匂いが染み付いた修練場の空気が、二人の戦意に動きを止める。誰か喉が、ゴクリと鳴った。
「「――――――――!」」
その刹那、嚆矢と古都が互いに動いた。同時に襟首を掴み――――先に嚆矢が古都の重心を掴み、足を払った。
「――――ッ?!」
嚆矢は舌打つ。古都の体は、まるで巌。微動だにしない。それどころか、全力で蹴ったはずの己の足の方が跳ね返された。
同時に、上半身が回転させられる。後は叩きつけられてしまえば、敗けだ。
それを、わざと流れに乗る事で、一回転して着地。腕を払い、距離を取る。
「流石だな――――『
「そちらこそ、『
好戦的な笑顔を見せ始めた嚆矢に、苦笑いを見せた古都。その
見た目は変わらないが、今の古都は優に百キロを越えており――嚆矢は、最早一キロもない。
――上等……このくらいの逆境じゃなきゃ、面白くねェンだよ!
普通なら、もう勝負にもなるまい。しかし――嚆矢は、その状況にこそ戦意を昂らせた。
後輩の努力と工夫に、最大限の敬意を示す為に。脚のバネを最大限に使い、まるで、放たれた『矢』の如く距離を詰める。
「フゥ――――」
慌てる事なく息を吐き、古都は攻撃に備える。ここまでは想定の範囲内、問題は――――
「ハッ――――!」
後の先を取る。先に嚆矢の腕を掴み、足を払い――――
「――――クッ?!」
その払い足に合わせられ、古都は自らの質量に文字通り『足を掬われた』。片足だけでも十五キロ近い質量と化している肉塊、崩れた『重心』と変わらない『筋力』では止めようもなかった。
更に完全に理合を掴まれ、空中で頭を真下にしたまま――――背中から、畳に叩き付けられた。
「――参りました、主将。流石です」
「
勝敗が決した後も、暫く静寂が場を満たす。そして、十秒ほど経ってから、漸く溜め息と拍手が入り乱れた。
「まだまだ、主将を名乗るには精進が足りません。お時間を取らせてしまって申し訳有りませんでした」
「主将を特別視し過ぎだ、この俺の何を見てやがった? 大体、後輩が遠慮すんな。指導くらい、いつでもしてやるって」
慌てて撓んだ襟と緩んだ袴の帯を直した古都を尻目に、嚆矢は気だるそうに汗を拭う。
そして壁掛け時計の時間を確認すると、上座の腕を組み胡座をかいたまま微動だにしない老人――先程から一言も発さずに成り行きを見守っていた白髪に長い顎鬚の顧問『
「さて、じゃあ、マジで遅れそうだから行くな。古都、理合は他人のだけ掴みゃ良い訳じゃねぇ。自分の理合こそ、常に掴め。そうすりゃあ、勝てずとも敗けやしねぇ」
「押忍、ありがとうございました!」
言うや、片手をヒラヒラしながら修練場を後にする嚆矢。その背中に、合気道部員達は一斉に『押忍!』と返した。
「むひょ、な、なんじゃ?! 飯の時間か?」
「隠岐津先生……丁度今、対馬先輩が帰られたところです」
「なんじゃと、来る時といい帰る時といい、挨拶も無しとは……」
「先生が寝てたから、気が付かなかっただけですよ……」
その声に、居眠りしていた天籟が目を覚ます。古都は、頭痛でも感じたような表情で日盛りの中に消えていく嚆矢の背中を見詰めていた。
「……もっと。もっと強くならないと……」
爪が食い込むほど、拳を握り締めながら。
………………
…………
……
制服に着替えて、校門を潜る。と、其処には二人分の影。
「よう、待ってたんだぜ、コウ」
「ぶふぅ、暑かったんだな……」
「何だよ、ジュゼ、マグラ? 用か?」
待ち受けていた主税と間蔵と合流する。
「久々の合気道はどうだったんだぜ? お前んとこには蘇峰が居るから、次の主将指名が楽で羨ましいんだぜ」
「全くなんだな……
「勧誘サボるからだろ、ウチは新入生歓迎で頑張ったからな」
「それを言われると弱いのぜ」
「なんだな」
何の気無しの、ありきたりな会話。しかし、学生生活における最も大事なものは、そう言うものだろう。
坂を下り、分かれ道に差し掛かる。ここからは、道が別だ。
「じゃ、俺はこれから美少女風紀委員と青春を謳歌してくるわ。お前らは野郎二人で精々楽しんできてくれ」
「はん、固法に嫌われてる分際で煩いのぜ」
「その固法のメアドを俺経由でゲットしといて、未だにメール一つ出来てない奴が何を言う」
「ぜぜぜっ!? な、何でそれを!!」
軽口に返る軽口。慌てた主税は、思わず竹刀を振り回す。嚆矢は、それに触れぬよう回避した。
彼の『能力』から逃れる為である。
「第一、相手は固法じゃねぇよ。このこの娘達だな」
「どれどれだぜ……」
「どれどれなんだな……」
携帯のカメラから、保存した画像を見せる。飾利に涙子、黒子の写真である。それを見て、主税と間蔵は渋い顔をして見詰め合った。
「まぁ、美少女だとは思うのぜ……けど、流石に中坊はあれなのぜ」
「詰まるところ、コウは相変わらずロリコンなんだな」
「ロロロ、ロリコンちゃうわ! 俺はただ、将来性に賭けてるだけで」
自分でも多少気にしている核心を突かれ、絵に掻いたような慌て方をした嚆矢。因みに、間蔵は年上好きである。蛇足な補足。
「「分かってる分かってる」」
「分かってねぇだろ! おい待て、オーイ! テメーら覚えとけよ!」
話は終わりだとばかりに足早に去っていく二人に、後ろから怨嗟の声が響いたのだった。
………………
…………
……
コツリ、と。検問を通り抜けた男は革靴を鳴らす。学園都市に入る為の検閲は煩雑を極め、元より短い彼の堪忍袋の緒を限界まで引き延ばしていた。
真夏にも関わらずアルマーニのトリプルのスーツを完璧に着こなす、白髪の混じるオールバックの壮年の紳士は、夏日の下では病的にすら見える浅黒い肌を怒りに青褪めさせつつ苛々と懐中時計を見遣る。
「遅い……約束の時刻を二分十七秒過ぎている。全く、コレだから日本人は」
まるで逆の動きをしているかのようにぎこちない、白い手袋を嵌めた腕の動きで懐から葉巻を取り出し、専用のカッターでやはりぎこちなく片方の端を切り飛ばす。
「仕方無いのよ~。農耕民族は季節を大事にしますので、のんびり屋さんなのさ~」
その葉巻に火を付けたのは、いつの間にか隣に立っていた……ぽやんとした紅い髪の、アラビアチックな衣装に褐色の肌を包み、インドのサリーを纏った少女。その指先に浮遊する、紅蓮の炎の塊によって。
その紳士を見て、一人の男が首を傾げた。そして自分も煙草を吸うような仕草を試し、何か重大な事に気付いたように紳士を見て――――紳士の灰色の眼差しを見るや人事不省に陥ったような表情となり、ケラケラ笑いながら何処かに歩き去っていった。
「ふん……狩猟民族である我々とは、根本的に別物であると言うわけか。脆弱にも程がある、コレばかりの狂気に耐えられぬとはな。本当に、こんな温い場所に我らの『
辟易したように呟き、葉巻を銜えようとした紳士。その葉巻の尖端の炎を、一条の水が抉るように撃ち抜いた。そしてその指先は、同時に『路上禁煙』の看板も指し示していた。
「
「仕方無いよ~。だって一世紀近くもの間、戦争と無縁の国だよ、お姉ちゃん~?」
と、紳士の葉巻に指先を向けた……彼を挟んで反対側の怜悧な蒼い髪の、色以外に紅い少女とパーツは変わらない双子の姉、眼鏡のチャイナドレスの少女は声で嘲笑う。事実、『虚空から炎の塊が現れた』り『指先から水が吹き出した』というのに、辺りの人々は誰も気にしていない。
まるで『見慣れた光景だ』とでも言わんばかりに。
「君達の容姿のせいだ。この都市では、子供は超能力を使えるものだそうだからな」
「失敬な~。子供は君だろ、この
「ごちゃごちゃと煩いのですわよ、貴方達は……しかし、暑いですわね。これが『夏』ですか。湿度が高いのは問題ないのですが……日光が厳しいですわ」
「私、暑いの大好きだもんね~。
「地球ならば気化するだろう、彼処の熱は……」
と、その時、目の前に黒塗りのリムジンが停まった。直ぐ様運転席のドアが開き、現れたドライバーが三人に頭を下げた。
「お待たせ致しました、信号機がいきなり不具合を起こしたとかで遅れまして……どうぞ」
「おお~、待った待った~。次はないぞ~?」
雇われたらしき運転手は、大して反省などしていない様子で宣った。それに、気にしていない様子で答えたのは、サリーの娘のみ。
チャイナの娘は反応すらなく乗り込もうとし、紳士は――その右手の手袋を、
「「――――――!」」
たったそれだけの事に、両脇の少女達は冷や汗と共に左右に跳ね飛んだ。その、
それを一顧だにもせず、紳士は某かを呟いて、労うようにその右手を運転手の
「――クビだ、役立たずめ。この私から『時』を奪うなど、身の程を弁えよ……消え失せい!」
その、老いさらばえた鈎爪の如き掌を
刹那、運転手がびくりと震えた。震えて振り返り――――
「が、ア――――ひ、ぎ」
断末魔を上げたその顔が、急速に老い、朽ち果て――最後には灰色の砂と化して路上に
そこに火の消えた葉巻を投げ、紳士は運転席に回った。残る砂、転がった葉巻の跡。
「私が運転しよう。さあ、乗りたまえ」
言いつつ手袋を嵌め直し、紳士はドアを閉める。後に残された双子は、目を見合わせて。
「幾ら年若いとはいえ、流石に『アウトサイダー』の契約者か……」
「いや~、やっぱりあんまりからかわない方がいいよね~」
等と語らうと、迷わず車に乗り込んだ。静かな回転音と共に、リムジンが走り出す。路上に積もった砂は、吹き抜けた初夏の風に吹き散らされて消えていった。
ぎこちなく左ハンドルを操る紳士、その脇の歩道を――――緑色の腕章を着けた三人組の男女が歩いていた。
………………
…………
……
「っは~、暑いなぁ」
「はふ~、熱いですねぇ」
「貴方達、余り暑い暑い言わないで下さいますの? 聞いていると余計に暑くなりますの」
黒塗りのリムジンが走り抜けた、まだまだ厳しい日差しの降り注ぐ路上を歩く、嚆矢と飾利、黒子の三人。
一応は嚆矢が所属年数が一番長い為、班長的な立ち位置になっている。一番強いのは、間違いなく黒子だが。
「いや、そうは言っても白井ちゃん……寒さは着れば凌げるけども、暑さは脱ぐのに限度があるだろ? だから、春より秋が好きなんだよ、俺」
「知りませんわよ、全く……」
因みに嚆矢は肩紐の付いたアタッシュケースを右肩に、左手には強化アクリル材らしき楯を持っている。
見るからに、重武装。と言うのも、現在当たっている事件の所為である。
その装備の重みを感じながら、嚆矢はポツリと。
「
実に、心から面倒くさそうに呟いた。
『
しかも縫いぐるみや玩具にスプーンを仕込んだり、ゴミ箱のアルミ缶を起爆させたりと、辺り構わず被害を及ぼす実に厄介な事件である。
「一週間くらい前から連日被害が出てる事件ですからね……けほっ、昨日も、固法さん達が対応したから最小限の被害に抑えられたみたいですけど、けほ、風紀委員の男子生徒が一人、女生徒を庇って負傷したそうです」
「あぁ、中々見上げた同僚だよな。尊敬するよ、俺なんて口ばっかりだから」
と、率直な感想を口にした。少なくとも『
と、先程から咳を繰り返しつつ携帯端末を操作していた飾利が顔を上げた。
「けほ、だからって、怪我しちゃダメですよ。それで自分は満足かもしれませんけど……それをやられた方は、気にするんですから」
「んー、情況次第かな。まぁ、何にしても見倣わないといけない振る舞いだ」
それはどちらも、明らかに『経験者』の言葉。軽く怒られてしまうが、こちらにも男としての矜持がある。何より、『
既に十人近くの風紀委員が、件の能力者により病院送りにされている。死人が出ていないのがせめてもの救いだろうか。
「にしても、『重力子の数じゃなくて速度を急激に増加させて、アルミを爆発させる能力』か……ハハ、説明されたけどほぼ仕組みが解らん。錬金術的な考え方でオーケーなのかい、白井ちゃん? それなら、少しはかじったんだが」
「れっきとした科学ですの……それと、いきなり厨二病のカミングアウトはお止めくださいます?」
つかつかと肩を怒らせたまま、不機嫌そうに歩く黒子に探り探り話しかけるも、にべもなく一蹴された。
寧ろ、一層機嫌が悪くなったようだ。嚆矢は『アレ?』と、首を傾げて。
「……なぁ、初春ちゃん。白井ちゃん、妙にカリカリしてないか?」
「あっ、えっと……実は白井さん、今日は御坂さんと放課後に約束してたみたいで……」
「なるほど、さぁ今からってトコに俺から呼び出しが来た訳だ」
と、マスクをして軽く咳をする飾利に耳打てば、ネタバラシ。確かに、『お姉様ラヴ』の黒子にとっては逢瀬を邪魔された気分だろう。
実のところ約束などはなく、一方的に押し掛けようとしていたとは、二人の知るところではない。
――うーむ、初日からこんな事でギクシャクはしたくないしな……さて、白井ちゃんの歓心を買えて、尚且つ俺の株も上がるような話をしないと。
脳味噌をフル回転させ、そんな話題がないか記憶を漁る。結果――
「ゴメンな、白井ちゃん……代わりと言っちゃなんだけど、俺と御坂の出会いについて語ろうか?」
「…………」
結果、御坂の話をする事にした。黒子は、それにピクリと一瞬身を震わせて。
「……聞くだけ聞きますわ」
(よし、マジでチョロいわー、この娘。先輩、君の将来が心配になっちまうぜ)
不承不承といった具合を装い、寄ってきた黒子。狙い通り、余りにも分かりやすい針に食らい付いてきた彼女に苦笑いする。
「知っての通り、出会ったのは去年の大覇星祭……競技は綱引き。正直、その時は常盤台なんて眼中に無かった。何しろ長点上機学園に負けてたから、巻き返そうと必死だったんだ」
「
「そ、
――まぁ、実はそれだけじゃあない。『その上、女生徒が居る』事が、黒一色の我が学舎があちらを敵視する最大の理由である。
流石にカッコ悪すぎるから、言えねぇけど。
「相手は女子ばかり、しかも中学生が十五人。此方は空手部や柔道部、果ては相撲部員なんかの混合で高校生十五人。100パー勝ったと思ったね」
「うわぁ……けほっ、清々しいくらいに卑怯ですね」
「そこにお姉様がいらして、華麗なる逆転劇を見せたわけですのね。ああ、見えるようですわ……かのオルレアンの少女の如く、勝ち目の無い闘いを覆すお姉様のお姿が」
ミンミンと蝉時雨の降る路上を、三人は出来る限り日陰を選んで歩く。申し合わせた訳ではないが、いつの間にか。
「ハッハッハ、気が付いた時には皆がテイクオフしてた。何せ、常盤台の配分は
「うわぁ……」
「それは、なんと言いますか……」
分かる者にしか分からないだろうが、とんでもない事である。旅客機と綱引きをしたところで、或いは勝ちうると言えば分かり易いだろうか。
「勿論、続く第二試合で負けたら終わりだ。だけど、真っ正直にぶつかったところで勝ち目なんて微塵もない。それで……奇策を講じたんだ。俺の友達の相撲部主将と合気道部の後輩が重くなれる能力だったから、その二人に最初の引っ張り合いを何とか堪えて貰って……」
「「貰って……?」」
わざとらしく、溜めを作る。黒子と飾利は、全く同じタイミングで顔を寄せてきた。それを満足げに受け止めて、嚆矢は口を開く。
「何とか俺が掴んだ理合を、
青春の一頁を懐古する老人のような口調で、沁々と。
――因みに、マグラと古都曰く『スペースシャトルと綱引きしている気分だった。もう二度とやりたくない』らしい。
「そして
「な、何があったんですの? 勿体つけてないで、早く仰ってくださいませ」
「はわわ、ちょっぴりワクワクしますね――きゃ!?」
と、交差点に差し掛かった瞬間――――脇の歩道から出てきた男子生徒と飾利がぶつかった。
「っと……大丈夫か、初春ちゃん?」
「あ、は、はい……けほっ、ありがとうございます」
倒れそうになった彼女の手を引き寄せる。余りに軽すぎて、勢い余って抱き寄せる形になってしまったが。
随分とひょろい、
「チッ――」
と、少年は忌々しげに舌打ちして歩き去ろうとする。その目には、ただ『ぶつかった』程度のものではない――憎しみの色があった。
「ちょっと、貴方! 人にぶつかっておいて何ですの、その態度は!?」
「……はぁ? お前らこそ、
「な、何ですって……!」
赤髪の少年は、黒子に皮肉を返す。その物言いに、何よりも友人を蔑ろにされた事に、激昂し――
「――いや、誠に申し訳ない。此処は一つ、俺の頭で勘弁してくれませんか?」
それを遮り、黒子と少年の間に立ちはだかった嚆矢。いつもの人懐こい笑顔で、へこへこと頭を下げながらそんな事を宣う。
「なっ――対馬さん、貴方むぷっ!」
「すみません、『
反論しようとした黒子の桜色の唇に人差し指を当てて、黙らせる。上司としての権力で。
その上で、もう一度深く頭を下げた。
「……はっ、はははは! なんだ、少しは弁えてる奴も居るじゃないか。女の前だからって格好つけるかと思えば、ちゃんと社会常識をさ! 分かった、今回だけは許してやるよ、
「はい、それはもう。本当にすみませんでした」
下げた頭を、枯れ木のような腕の先の掌がぱしんと叩いた。それでも尚、嚆矢は平然と。少年が笑いながら、横断歩道の向こうに消えるまで頭を下げ続けた。
「……いやぁ、鬱屈した奴にはやっぱり、これが一番だな。下手に出りゃ、自尊心を勝手に満たしてくれるんだから」
漸く頭を上げ、そんな風に笑った。そんな彼に。
「――――」
「…………」
苦虫を噛み潰したような、何とも言えない表情をした黒子と、申し訳なさそうに縮こまった飾利が残る。
そんな二人に、何でもなさげに嚆矢は笑いかけた。今しがたの無様など、何一つ歯牙にも掛けず。
「さて、どこまで話したんだったっけ? 確か、第三試合を――」
「いいえ――結構ですわ。私、これから『虚空爆破事件』を調べてみますので」
それを遮り、黒子は彼に背を向けた。まるで、その全てを否定するかのように。
そんな事にも気付かないような程の朴念仁ではない。しかし、最早、ここまで来れば引き留める方法など持ち合わせてはいない。
「そっか……じゃあ、初春ちゃんは俺が送ってくから、安心しといてくれ」
「…………ええ。お任せしますわ」
その上での一言に、『風邪気味の飾利を心配していた』黒子は振り返る事もなくそう答えて……
「因みに、最終戦ではいきなり綱を離した常盤台の面々に意表を突かれて……気を逸した瞬間に、御坂の電撃で皆が戦闘不能になって負けたんだ」
「……流石に、これはカッコ悪すぎたかな」
ふう、と溜め息を吐きながら、嚆矢はにへら、と飾利に肩を竦めた。当然、辺りからは白い目線が向けられているのを感じながら。
「……いえ。そんなこと、ありません。あの、その……けほ、格好よかったです」
それでも、優しい彼女はそう答えてくれたのだった。
………………
…………
……
飾利を送る為、共に歩く。しかし、少し前のように会話はない。ただ、探るような息遣いだけ。
「…………」
それに、全てが集約されている。やたらと熱っぽい吐息、ふらつく足。紛う事なく――風邪である。
――ここまで来ると、浮かれてた自分をブチ殺したくなる。どうみても風邪気味の初春ちゃんを、見逃してた自分を。
虚ろな目に頬を林檎色に染めた彼女に、罪悪感が湧く。こうなれば、最早仕方あるまい。
「……初春ちゃん、ゴメンな」
「ふぇ――ひゃうっ?!」
と、有無を言わさずに抱き上げる。このままでは、不味い事になると判断した為に。その方法は勿論、言わずと知れたお姫様抱っこである。
「俺如きで悪いけど、少し我慢してくれ。近くの病院まで、最速で突っ走る」
「あ、あうあう~」
それに、ポカポカと直角に曲げた腕で殴り付けて抵抗する飾利。勿論、その程度では彼には抵抗足り得ない。
平然と、『あの世の予約をキャンセルする』と評される、とある両生類に似た顔の懇意の医師の医院まで運ぼうと両足に力を入れて。
「……初春に対馬さん? 何してるんですか~?」
「っと、佐天ちゃんか」
「さっ、佐天さん?! 違っ、これはあの、佐天さんが考えるような事じゃ断じてなくて!」
「ふ~ん……ふ~んふ~ん」
そこに、何処から沸いたのか、涙子が現れた。いや、どうみても隣の『セブンスミスト』……衣服の量販店に来たのだろうが。
彼女は、現在の嚆矢と飾利の状態を繰り返し、大体三回くらい見て。
「なるほど~、親友の誘いを断ってまで、対馬さんのラヴコールを優先した訳だ~」
「だ~か~ら~、違います~!」
にまーっと笑い、わたわたと慌てて嚆矢のお姫様抱っこから降りた飾利を弄る彼女。その、背後から。
「あれ、対馬さん。また会いましたね」
と、苦笑した美琴の姿があった。正直、この辺りで常盤台の制服は浮いて見えた。
「珍しいな、御坂。ここ、量販店だぞ?」
「佐天さんといい、対馬さんといい……私が量販店使っちゃいけないとでも?」
むくれながらの言葉に、成る程、言われてみればその通りだと納得する。お嬢様が量販店を使ってはいけないなんて決まりはない。
いや、そもそもそれは、勝手に決められた固定観念なのだが。しかしまぁ、庶民派なお嬢様な事である。
「理解した。けど、ちょっと初春ちゃんの具合が悪いから今は勘弁……」
「あうあう~!」
「あはは~、初春は可愛いなぁ~。ほら、今日の淡いピンクの水玉柄は対馬さんに見て貰った?」
「はうっ?!」
と、いきなり飾利のスカートを捲り上げた涙子。露になったそれは、嚆矢や美琴はおろか、辺りの衆目にまで晒された。
「~~~~!!」
元々風邪気味で赤い顔を、更に真っ赤に染めて。飾利は力の限り叫んだ。
「――――佐天さんのばか~~~!!」
………………
…………
……
場所は、衣服量販店『セブンスミスト』。そこまで、『彼』は『彼ら』の後を付けていた。目測は単純明瞭、『兎に角目立っている風紀委員』。それに、彼らは十二分に条件を満たしていた。
ニタリと卑屈な笑みを張り付け、蛙の縫いぐるみに『スプーン』を仕込む。無論、それは――――『アルミニウム』製だ。
「ふ~んふふ~ん♪」
「…………」
と、目に入ったのは小学生に届くかどうかという幼女。それに、彼は――――
「うん、分かった、おにーちゃん!」
薄ら笑いを浮かべながら、『スプーン』を仕込んだ蛙の縫いぐるみを持たせたのだった……。
…………………
…………
……
場所を移して、セブンスミスト店内。そこら中に溢れる女性ものの衣類に、居心地悪く嚆矢は通路に突っ立っていた。
「……暇だなぁ」
遠くで、飾利と涙子がきゃいきゃいと服を選んでいる。因みに、飾利の顔色は先程より少し良くなっている。
本人曰く、『元々、そこまでひどい訳じゃありませんでしたから』都の事。念の為に、こっそり治癒力を高めるルーンを使ったのも功を奏したようだ。
――さて、
と、セブンスミストから出ると入り口の壁に寄り掛かり、鞄から本を取り出す。ニアルから貰った、冊子くらいのサイズの『錬金術の教本』を。
――ローズさん曰く『ラテン語』だから難しいかと思ったが、流し読みした限りではどうも大部分でルーンが使われていた。寧ろ、肝心な部分はルーンが主体だった。これなら、予想よりも早く解読できるかもしれない。
てか、錬金術は殆ど出てきてないんだが……いや、秘奥なんてもんが分かりやすい筈はない。精進が足りないんだ、きっと。
ペラペラと本を捲り、あるページで止める。そこには、何かしらの召喚を扱った文言が並んでいた。それを彼は、実に致命的にも、全く持って不用心に。
「何々……『
そして唐突に、誰も居ないと言うのに耳の真横でクスクスと笑い声。その刹那、何の前兆もなく生温い風が吹き抜けた。
バサバサと、吹き飛ばされた紙が立てる音を孕んだ、思わず冊子を持つ腕で目を庇って閉じてしまうくらいの颶風が。
「――――な」
そして、戦慄する。先程まで空いていた――目を庇った右腕の掌に、先程までの冊子とは比べ物にならないほど重厚な、鉄の表紙の本が握られていた。
「何だ、これ――――!」
その禍々しさ、邪悪さ。鉄の筈なのに息衝きのたうつ軟体動物のような、不快なまでにぶよぶよとして感じられる装丁。
触れているだけでも精神が削られていくような、気の触れそうな圧倒的な冷たさだった。
「『
「はっ?」
真正面から掛かった声に、漸く頭が働き始めた嚆矢が目を向ける。見れば、小学生くらいの女の子。白い修道服に身を包んだ、青い髪の修道女が立っていた。
………………
…………
……
まず目を引いたのは、その服装。宗教色の薄いこの学園都市ではあまり見ない、十字教の修道服。しかも白という、普通とは真逆の色。
そして、浮世離れしたその髪の色だ。それは、嚆矢の好きな青空の色。欲を言えば、もう少し深みのある藍色なら完璧だった。
「『
「1500年代ドイツで出版された、フランドル出身の怪人……錬金術師、降霊術師、魔術師で、第九回十字軍の生き残りルートヴィヒ・プリンが書いたものだよ。捕虜にされた中東で魔術を学んで、異端審問で焚刑に処せられる直前に。獄中でね」
問われた少女は『中東の異端信仰関連の書だね。古代エジプトの秘密の伝説、伝承、サラセン人に伝わる占術や儀式、呪文、父なるイグ、暗きハン、蛇の髪を持つバイアティスなんかの蛇神について記されてるんだ』と続けたが、嚆矢はほぼ聞き取れなかった。
何故なら、まるでその言葉を遮るように、携帯が鳴り響いたから。
「――もしもし」
思わず、確認すらせずに出る。その向こうから。
『あ、こらコウくん! メッ、よ!』
「落ち着いてくれよ、義母さん……いきなり怒られても訳わからん」
飛び出した怒声、義母からの叱責に耳を塞いだ。
『全く、訳の分からないものに手を出して……それに、何だかクソッタレブリテン売女のイギリス清教の臭いがするし』
「……義母さん、いま、何気に凄いワード言った?」
『そんな事どーでもいいの。問題は、今、貴方の知り合いの娘が大変って事よ。早くお店の中に戻りなさい!』
言われて、セブンスミストを見遣る。やけに、『慌てて出てくる』客達を。
「――チッ!」
「あ、ちょっと君! まだ、『君が喚んだもの』が消えてないよ!」
刹那、携帯を仕舞って走り出す。その腕を修道女が引いた。
「悪いね、お嬢ちゃん! その話はまた後で!」
「いや、今すぐどうにかしないとヤバい奴だってば! も~、SAN値直葬になっても知らないんだからね~っ!」
それを手荒に成らないように振り払い、走り込む。暫く修道女の声が聞こえていた気がしたが……やがて、それは喧騒と――――
『______』
「……成る程、こりゃあ確かにヤバそうだわ」
絶えず耳元で感じる、生臭い忍び笑いに変わった。今更に思い出す、右手の陰湿な蛆虫そのもののような魔本の感触と共に。
「『
鉄の表紙のその書を見詰め、意識を集中する。それ自体が魔力を持つ炉であり、『
だが、中にはこのように『何かしらの悍ましいモノ』を奉るが故に、不用意に関係した者を破滅させる程の物もある。この本の場合は、不用心に『召喚の文句』を口にした者を生け贄に捧げるトラップのような物だろうか。
――って、ローズさんが言ってたっけか。まぁ、そのローズさんから貰ったもんでこうなっちまった訳だが。
等と、責任転嫁している場合ではない。ならば、この『姿の見えない化け物』と折り合いを付けなければ。
「さっきのページは、っと! クソッタレが、見辛ェんだよ!」
心底嫌だが、走りながら『
人外の深遠を垣間見ながらの、前から来る客を躱す障害物走。まるで歓喜するかのように蠕動する狂気の書物は、文字自体が蛆虫のようにのたくって見える。
『______』
「こンの早漏野郎、ザリガニ臭ェ息掛けてンじゃねェ――――!」
やがて忍び笑いは明確な興奮へ、響き渡る哄笑へと。そして、背中全体と首筋に吸い付いた『何か』の抱擁を感じる。
そこで、やっと望みの頁に行き当たった。瞬間、『探索』のルーンを起動して素早く目を走らせ、望みの文言を捜査する。
猶予は、首筋に感じる牙の感触からして、あと数秒だろう。そして――その牙が、肌を突き破る刹那。
「――汝、『
その一節、何とか読み解いた、『呼び出したもの』の名を詠んだ。即ち、
ギロチンの刃が墜ちる刹那のように、生きた心地など消え失せる。
『__ガ、__喚ビ__、タ、者カ』
刃が、首筋に触れたまま止まった。代わり、聞こえたのは掠れた……酷く発声に向いていなさそうな喉から響いたような声。
『貴公ガ、我ヲ、喚ビ出シ、タ、者カ?』
今度は、明確に。やはり辿々しい口調だったが、理解は出来た。
「そうだ。俺が、お前の主だ――」
だからこそ、何一つの逡巡もなく即答した。それしか生き残る術はないと、本能で理解していた。
『……良イ、ダロウ。ソノ厚顔、サ、気ニ、入ッタゾ。デハ、名ヲ聞コウ、カ……我ガ、伴侶ヨ』
「ああ――」
耳元での囁きに最大級の怖気を感じながらも、契約の意味の為に。
「嚆矢……対馬嚆矢だ」
『宜シイ、契約ハ成ッタ……』
その、『名前』を口にした。
『――――クク、愚カ、ナ。自ラノ、真名ヲ口、ニ、スルナド……対馬嚆矢! 汝ノ真名ヲ知ッタ我、ガ、貴様ニ、人間如キニ従ウ理由ナドハナイ! 己、ノ、浅慮ヲ嘆ケ!』
そこで、哄笑は最高潮に。同じく真名を得たのなら、人外の存在である『
再度、首筋に籠められた力。だが――――
「煩せェよ、三品――――」
『――ガッ!?』
嚆矢は、それを『
『キ、貴様――――何故?!』
「ああン、何でも糞も、そりゃあテメェが――『星の吸血鬼』が俺の真名をもォ、『知る事が出来ない』からさ」
『ナン……ダト……! 貴様、マサカ偽リ、ヲ?!』
「莫~迦、テメェが先走っただけだろ。確かに『今の』俺は『対馬嚆矢』だが……
『______』
そう、決して偽りではない。だから、『契約』は有効である。悪いのは、『対馬嚆矢』の言葉を鵜呑みにした『星の吸血鬼』の方なのだ。
更に、新たな誓約を刻まれた。もう、これ以降、『星の吸血鬼』は嚆矢の真名を知ろうとはできない契約となった。
『……クク、マサカ、ココマデトハ、ナ。認メヨウ、嚆矢……貴様ハ、我ガ伴侶、ニ、相応シイ』
「そりゃあ、どうも。化け物にそう言われてもちっとも嬉しくねェけど」
ニタリと笑い、『俊足』のルーンを刻む。こんな化け物よりも、今は飾利と涙子、美琴の事が心配だった。
『サテ、デハ、我ガ伴侶、ヨ。我ハ、何ヲ為セバ、良イ?』
やっと背中から剥がれた『星の吸血鬼』が耳元で忍び笑う。命令は、只一つだ。
「この事件を起こしてるクソッタレを見つけ出して、俺に伝えろ。間違っても、何もするな」
『クク、承知、シタ』
その命令と共に、すぐ脇にあった不浄の存在感は消え去り……手元の悪意だけが、ザクザクと正気を削るだけとなった。
………………
…………
……
「っあー……良い風だなぁ。うん」
蒼穹を吹き渡る風を浴びながら、
「ここは、
地上数十メートルを行く涼風に翠がかった銀毛を遊ばせ、風力発電装置の上に寝そべった彼女は『月が、乱立する縮尺の狂った塔の前や後ろを過る』という――この
夏の強い陽の光に細められた切れ長の、故郷の
廻り、軋む風車の音は、まるで子守唄。ならば、それを廻す風は強き父の腕にして、優しき母の掌による愛撫。
星辰の巡りにルルイエの館で死の微睡みに夢見る大いなる者や、ハリ湖で眠ると言う名状しがたき者もこんな心持ちであろうか、等と取り留めの無い事を想いながら。
「――――っ」
それまで全ての風を心地好さそうに受けていた少女が、右手で外套を口許に寄せた。それは正しく、好ましくない臭いを嗅ぎ分けた仕草である。
「臭い――――汚物に
刹那、少女はある一点を見遣る。風と人の流れが乱れた、遠き地面の一点を。
「ツイてるなぁ、いきなりアタリじゃん」
それまでの倦怠が嘘のように、彼女はすくりと立ち上がる。
「――――__________!」
何かを呟いた彼女。しかしその言の葉は、呼応するように吹き抜けた颶風に掻き消された。
ニヤリと歪められた口元から覗く牙とほっそりとした四肢、そして腰の辺りから翅脈のように虚空に漲る――――魔力と共に。
「さぁ、狩りの時間だ――――」
遥か地上に向けて、散歩でもするかのように、足を踏み出した――――
………………
…………
……
そうして、『星の吸血鬼』が居なくなったのと同時に携帯が鳴り響く。今度は、心配がなくなった為に、画面を確認する余裕があった。
「もしもし、白井ちゃ」
『――遅いですの! 一刻一秒を争う状況ですのよ!』
と、またも怒られる。よくよく見れば、何度も着信があった。
恐らくは『
――日に二度も同じ女の子に醜態を晒すとか、今日は
『先程、重力子反応の異常増大を感知しましたわ。場所はセブンスミスト店内、『
「理解した――――出遅れた分、きっちり護る!」
そこで、黒子が言葉を続ける前に携帯を切る。先程刻んだ『探索』と『俊足』のルーンは健在、寧ろ余分に魔力を籠め直した程。無論、反動は全て『
だが、速度は落とさない。何故なら、この事件の犯人の標的は――飾利なのだから。
――……どンな怨みがあるのかなンざ知らねェが、無関係な一般人や初春ちゃんを巻き込ンでンじゃねェよ、
絶対に許さないと。鋭い
その脳裏に浮かぶのは、全く身に覚えの無い情景。砕けた鋭い鉄の檻と
「――対馬さん!」
「ッ――――佐天ちゃんか! ちょうど良い、初春ちゃんは?」
「あ、えっと……」
思わず没入し掛けたところで、避難誘導に当たっていた涙子からの呼び掛けで正体を取り戻す。頭を振り、気を取り直しながら問うが、涙子には分からないらしい。
『――伴侶ヨ、コノ騒ギノ元凶ヲ見付ケタゾ』
「ああ、今忙しいから爆弾魔は――」
その時、『星の吸血鬼』からの
『コノ娘ガ、騒動ノ元凶デアロウ?』
「ナイス誤解……じゃあ、次こそは爆弾魔を探してくれ!」
右手の『妖蛆の秘密』から感じる反応を元に『星の吸血鬼』の居場所を特定、涙子に避難するよう指示してから走り出す。
一刻一秒、無駄にはできない。あそこまで黒子が焦っていたのだ、もう猶予は僅かな筈。
「さっきから、追い詰められてばっかだな――――!」
愚痴りながら、漸く見付け出した。飾利は調度、小さな女の子からカエル(?)の縫いぐるみを受け取って――――
「――――逃げてください! あれが爆弾です!」
それを投げ捨てると、女の子を庇って伏せる。カエルの縫いぐるみは、成る程、内側に押し潰されるように
その様子に、嚆矢は更に『硬化』と『軍神』のルーンを刻む。戦いにおける、幸運を掴む為に。
『
やるべき事は、只一つである。
「――待ってないかもだけど、お待たせ、初春ちゃん」
「対馬さん――――?!」
その、更に上から覆い被さる。盾を取りに戻る時間はないが、既に『硬化』は刻んである。『
無論、死ねるレベルである事に違いはない。
「護って見せるよ、飾利ちゃん。なァに、俺の手が届く範囲は……俺の『
それでも、笑い掛ける。飾利と、飾利が庇う女の子を安心させられるように。
『オイ、伴侶ヨ……貴様、何ヲシテイル?!』
然り気無く、『妖蛆の秘密』を盾にしたりしながら。
――痛ェンだろうなァ……けどまァ、女の子を護ってなら仕方ねェかァ
。
と、早々に覚悟を決めて飾利を抱き締める。小さな身体はすっぽりと嚆矢の影に隠れ、被害は出まい。
それが、唯一の救いだとばかりに苦笑して――――
「――――早速、借りを返す機会がきたな」
「――――?!」
爆弾と嚆矢達の間に立ちはだかった、さっきまで美琴の隣にいた少年――
………………
…………
……
犯人が、
因みに、その姿はズタボロ。後で聞いた話に依れば、どうやら美琴に見付かりシバき回されたらしい。
「……まぁ、結果オーライか」
と、亜麻色の髪を掻きながら嚆矢は呟いた。
「ちっともオーライじゃありませんよっ!」
「おおぅ、ビックリした~……どうしたんだ、飾利ちゃん」
と、飾利から怒られる。全くもって『今日は良く怒られる日だ』と心の中で溜め息を吐いた。
「あんな無茶して……怪我じゃ済まなかったかもしれないんですよ」
「そりゃあ、寧ろ飾利ちゃんの方だな。野郎の俺なら兎も角、嫁入り前の初春ちゃんに怪我をさせる訳にもいかないしな」
『う~っ』と、泣き出しそうな顔をした彼女に苦笑いする。自覚はあるのだろう。
「大体、どうして、その……私にそんなに親身にしてくれるんですか……」
俯き、ポツリと呟いた飾利。その仕草に、一種、危うい感情が沸いた。その衝動のまま――
「あぁ――――実はさ、飾利ちゃんって……俺の『妹』に似てるんだ」
「いもうと……さん、ですか?」
その衝動のまま、頭を撫でる。短めの黒髪は更々と心地好く、癖になりそうだった。
「ああ、今は遠いところに居るんだ。だから、尚更ね……飾利ちゃんは、護ってあげたいんだ」
「あうあう…………」
照れたような、しかし何故か残念そうに身を引いた飾利に、やり過ぎたかと手を引く。そして────
「……なぁ、飾利ちゃん。飾利ちゃんってさ、『
「えっ……? い、いえ……ありませんし、そんな能力有るんですか?」
「ハハ、俺も聞いた事無い」
カラカラと笑い、その『現場』を見詰める。何でも無い風を装いながら、その実――――戦慄しつつ。
「後で、
あの少年が立っていた地点から後方に、『爆発が無力化された』ような形跡を残した現場を望みながら……。
………………
…………
……
その後、風邪がぶり返し気味の飾利を涙子に任せて現場の調査に当たる。
今回、犯人として警備員《アンチスキル》に拘束された少年は、黒子からの情報によれば『
――あれで
スプーン一本のアルミでフロア一つを焼く威力、それで異能力ならば、
だが実際、幾ら美琴でもそんな事は出来まい。出来ないし、出来たとしてもやるまい。何の意味もないから。
「……破壊力だけなら、完全に大能力なんだけどな。
「可能性としては、それが一番有り得ますけれど……周りから聞いた話では、どうも彼は陰湿なイジメを受けていたらしいんですの。それならば、これだけの能力は隠すよりも誇示した方が」
「イジメはなくなるよなぁ、趣味でもない限り。携帯とか、財布の一円玉が大爆発なんて勘弁だし」
警備員が施した『
因みに、この事件よりも頭を悩ませているのが、黒子との接し方だ。日に二度も怒られたのだから、素直に隣に立って良いものかと。
「「……その」」
「「な、何か?」」
と、同時に切り出してしまう。そして同時に聞き返した。何とも言えない気まずさに、ついっと二人して視線を反らして。
「……初春の事、ありがとうございますの。あの娘が怪我をしなくて済んだのは、対馬さんが庇って下さったからだと」
「あぁ――いや、そんな大した事じゃないよ。それしかできない状態なんだから、それをやっただけ」
第一、後でこの威力を見て寒気がしたものである。どう考えても、あの『能力を無効化する男子生徒』が居なければ、今頃は
何とも締まらない話である。要するに、ヒーロー気取りで出てきた脇役が本物のヒーローに救われた挙げ句、手柄を譲られたのだ。
「……それでも、友人として礼を言わせて下さいな。それと……年下の分際で、生意気を申した事も……併せて謝りますの」
「白井ちゃん……」
それでも、甘んじよう。それでも……ただ、己が苦しめばいいだけの問題ならば。暴き立ててまで正論を貫いたところで、誰に、何の得があろうか。
そのはにかんだような微かな笑顔。それだけで十分、報われている筈だ。否、過ぎた幸福である。
「実は、この事件だけではありませんの。最近、どうも
「登録ミスか、組織的な改竄……現実的じゃないか。預かり知らないところで物事が進んでんのは、何て言うか……気に入らないな」
と、
苛々する悩み事を抱えた時の癖で、少し前の銀行強盗から奪った
「――――フゥ」
肺腑一杯に広がったニコチンとタールの混じる香気を味わい、燻らせる。少しは、気が紛れた気がした。
「って……対馬さん、貴男?!」
「え? あ――」
しまった、と気付いて携帯灰皿に煙草をぶち込んだ――時には、もう遅い。ばっちりと目撃した黒子は、呆れた眼差しでこちらを見ている。
「あ、アハハ……いゃあ、若気の至りと言いますか――――イダッ?!」
その瞬間、頭に雷でも墜ちたかのような衝撃。それが、真っ直ぐに脊髄を駆け抜けた。
要するに、物凄く痛かった。
「よ~う、誰かと思えばラッキーボーイじゃんよ。相変わらず、更正には程遠いみたいじゃん?」
「お久しぶり、対馬くん。そっか、もう夏かぁ……」
「よ、
ヘルメットで嚆矢をぶん殴った、警察の機動部隊のような衣裳に身を包んだショートヘアーの女性『
彼女達は、『
「じゃあ、没収ね」
「……はい」
優しく微笑みながら、ゴツい手袋に包まれた手を差し出した綴里に、逆らわず煙草を渡した。
綴里だけなら何とか
――何しろ今年の年始、ある
戦慄したね、しかも笑ってたし。この人だけには逆らうまい。
と、無線が入ったらしく二人が『了解』と、口々に言葉を返す。
「それじゃあ、あっちでお話ししましょうか」
「え? いえ、もう罰ならこの脳天に直撃……」
「『両手に花』って奴じゃん? よかったじゃんよ、男の夢だろ?」
そして、愛穂と綴里に左右からガッチリホールドされた。『両手に花』というか、完璧に『連行される宇宙人』の図である。
「じゃあ、彼氏は借りてくじゃんよ、彼女?」
「彼氏ではありませんの! まぁそれはそれとして、コッテリと絞って下さいませね」
「白井ちゃぁぁぁぁぁん!? この人にそういう冗談通じないから! マジで、汗一滴出ないレベルに絞られるから!」
ずりずりと引き摺られていく嚆矢の姿は、周囲の
………………
…………
……
翠の銀毛の少女は、人混みに紛れていた。『木を隠すなら森の中』の格言の通り、その姿を最大限に利用して。
「……臭い。鼻が曲がりそうだよ。人間はよくもまぁ、こんな悪臭の中で生きてられるよね」
黄色い外套の、首部分。中東の物のようなそれを、マスクのようにきつく鼻と口を覆って、不快そうに眉を潜めていた。
辺りには、化学薬品や金属の焼ける臭いと言った、彼女には縁遠い臭気が満ちている。無論、彼女にしか嗅ぎ取り得ぬ臭いではあるが。
それが、歩き出す。ひらひらと、人並みをすり抜けるように。まるで、涼やかな風が森の木々の間を吹き抜けるように。
彼女が通り抜けた刹那、その周囲の者は一様に辺りの匂いを嗅ぐ。本能に刻まれた原始の記憶だろうか。
遥かな太古の郷愁を誘う、朝露に濡れた若葉を揺らした風の薫りに。
「_______」
だがそれも、人いきれに呑み込まれるほどに小さな声で彼女が何かを呟いた瞬間に消えた。
そしてその姿は、人通りの無い非常口の付近に唐突に現れた。いや、人ならば今しがた一人――『ツンツン頭の少年』が通って行った直後だが。
「さて、あの蛆虫の臭いは……っと」
『この中か』、と扉に手を掛けた。オーソドックスな観音扉、押しても引いても開くそこに、鋭い鈎爪の指を掛けて。
「――って、スカシてんじゃねぇーー!」
「うひゃあ!?」
正にその直後、屋内から響いた怒声に、彼女は電気に触れたかのように跳ね跳んだ。
それはもう、車道の反対側の歩道の、街路樹の天辺まで。
そして、ガラス張りの扉の中を伺う。見れば、そこには――狂ったかのように壁を蹴たぐる少女の姿があった。
「なんだい、あれ……やっぱり野蛮な種族だなぁ、人間は。それとも、ユゴスからの毒風でも浴びたのかな?」
呆れたように視線を外す。その代わり、落とした視線には――走り抜けた一台の車。黒塗りの装甲車だった。
「はい――――見っけ」
舌舐めずりの後、彼女は――――その車の、天板を目指して飛び出したのだった。
………………
…………
……
ふう、と溜め息を吐く。気分は最悪である。放課後の、受かれていた自分を本気でぶん殴ってやりたい気分だ。
綴里の運転する車――装甲車に乗せられ、隣には愛穂。一面だけでも楚歌である。尚、『妖蛆の秘密』は助手席の彼の鞄の中。『星の吸血鬼』は、既に送還してある。あんなものはいつまでも隣に置いておくべきではない。
「あの、流石に俺、連行されるくらい悪い事はしてないかと」
その筈である。喫煙なら、口頭で注意くらいが妥当ではなかろうか。
「ハハ、心配しなくても良いって。元々そういう立場じゃん、お前は」
「まぁ、そうですけど……あそこまであからさまだと、不審に思われるんじゃないかと」
と、窓に頬杖を付いたところで、ガタンと車が揺れた。赤みがかってきた陽射しに、蜂蜜の瞳が橙に潤む。
「今回、新しい『任務』が決まったのよ。まぁ、私としては……
「今更ですよ、鉄装さん。俺も綺麗な人間じゃありませんから――今更、非合法の一つや二つ」
ナハハ、と自虐めいて笑う。それに、愛穂と綴里は寧ろ厳しい表情を見せた。教師として、先達として。
「それが、暗部への潜入でも?」
夕陽を跳ね返す綴里の眼鏡、その奥の真意は読めない。だが――
「ダブルどころかトリプルかぁ、そりゃあいい。
『何でも無い』とばかりに、嚆矢はにへら、と笑った。