夏の日の事だ。
目の前を訥々と歩いていた、大きな背中が停まる。良くある日本人の風貌の黒髪に黒い瞳、のみならず纏う気配まで陰気な、スーツ姿のその男。『暗部の
それに視線を、もっと先へ。其処には、一軒の日本家屋。純和風な平屋建て。その門を潜れば、平たい石の敷かれた道。
傍らには庭園、枯山水。その反対側には────紅い唐傘の立てられた腰掛け台。言ってしまえば、和風なテラスか。其処に似つかわしくない洋風の衣裳とティーセット、ダージリンの香気。それを纏って。
『……今、帰った』
『お帰りなさい、
『……………………』
陰鬱な男の声に答えて、見た事もないくらいの美人が。豊かな金色の髪が麦穂の海原のような、糸のように目を細めた美女が答える。
一瞬の内に、その笑顔──愛する男に向けられていた笑顔は、形を変える。ほんの一瞬で。
『まあ……まあまあ! この跳ねっ返りな瞳に表情……昔の
『────あ、え……? えっと、ボク……』
──分かってしまう。理解してしまう。頭でも心でもなく、言わば本能と言う奴だろうか。一瞬で、背骨を雷電が走った事が。
本当に、何の理由もなく……無条件で。俺はこの人に
『このショタを『ママ大好き』に調きょ……ゲフンゲフン教育していいなんて、やっぱり
やにわに不穏当な事を口走りながら、口許に手を寄せながら身を捩りつつ頬を染める。僅かに感じた身の危険は、気の所為であって欲しいが。
その後頭部に『スパーン』と小気味いい音を立てながら、背後より竹刀の一撃が振り落ちる。さながら『
『……むすめとして恥ずかしいから自重してくれる、
『いたた……わかってます~、ユミちゃん。場を和ませる為の小粋なジョークじゃないの。はぁ、
『それは悪うございましたね。それで──』
さめざめと泣きながら……泣き真似をしながら、背後の『声』に女性が答えて。
奥の庭から歩み出てきた、小柄な……竹刀を携えた道着姿の童女。まるで、降り注ぐ陽射しのような金色の髪に風の渡る蒼穹のような瞳の。
『その人が私の
『ああ……字も読みも改めて、“
『……そう』
──今でも覚えている。あぁ、確かに。忘れ得ぬ出逢いが、その時、在ったのだから。
『『…………』』
同時に見詰め合う。交差したのは
『────暗い、ダサい、挨拶もできない。兄としてどころか、人として最低ね』
『…………なっ!』
瞬時に、見下すように。侮蔑の色を帯びて。
──分かってしまう。理解してしまう。頭でも心でもなく、言わば本能と言う奴だろうか。一瞬で、背骨を雷電が走った事が。
本当に、その三つの理由で……スリーアウトで。俺はこの娘に
『こんなのが家族になるなんて、本当に最あ────あいたっ!?』
刹那、墜ちた『
というか、同じように落された雷に頭を抱えていて。金槌を思わせる拳骨は、涙が出るくらいに痛恨だった。
『いたた……どんな理由があっても、女の子に暴力を振るうのは最低だと思うわ、
『……って言うか、何でボクまで……』
『躾は親の務めだ、実の娘でも義理の息子でも。そして喧嘩両成敗……まともな挨拶もできない餓鬼どもは、共に罰されるべし』
『『……………………』』
その理不尽に、再び見詰め合う
『『……………………宜しく』』
共に、盛大な溜め息と共に挨拶を溢したのだった。
………………
…………
……
目を覚まして最初に見詰めたのは、降り注ぐ陽射しのような金色の髪。そして、此方を見詰める蒼穹のような瞳だった。
それに、懐かしさを。つい今しがた見た夢……記憶の揺り返しを噛み締めながら。膝枕をしながら覗き込んでくる端整な顔立ちに。
「おはよう
「ああ……お陰さまで、すこぶる快眠だったよ」
「分かってるわ、一晩中見てたもの」
「……心底ゾッとした」
しれっと、そんな事を宣った
「何よ、折角可愛い
「可愛くねーよ! 再会した初っ端に我が家の秘伝魔術“
起き上がり、鼻を触り……治してくれたのだろう、痛みどころか傷すらないそこを確かめて。同時に、左肘も完全どころか以前よりも具合が良くなっている事を実際に感じて。
「まぁ、兎に角おはようだ……
「……うん、おはよう。
………………
…………
……
時刻、午前七時半。欠伸を噛み殺し、床上で寝た為に凝った全身を解しながら歩く人影が階段を上る。
共同浴室での朝風呂を終えて、自宅で愛用している甚兵衛に着替えた嚆矢は自室の扉を潜る。まだ一日は始まったばかりだと言うのに、心底疲れきった顔で。
「お帰り、義兄さん。はい、朝御飯」
「あぁ……やっぱり
エプロン姿の弓弦の目の前、卓袱台の上に置かれている二つの皿。其処になみなみと装われている、
「何よ、
「そういうのが朝から重いってんだよ……まぁ、食うけどさ」
それにジト目と、臆面もない言葉が返る。更にげんなりと疲れが増した表情で、嚆矢は彼女の対面に腰を下ろして。
「「いただきます」」
躾の通りに手を合わせ、揃ってそう口にして。スプーンを手にして、温かい粥を掬うと。
「はい、あーん」
「せんでいいしやらんぞ」
「……義兄さんのいけず」
お約束をバッサリと斬り捨てて、コーンフレークをホットミルクで溶かしたような食感の粥を流し込む。余り美味くはないが、腹持ちの良さは大したもの。この一杯で、昼までは十分。
ちら、と視線を台所に。見遣るのはコンロの上の、小型の土鍋。『
無論、その程度で多寡が土鍋が“ケルト神話の四至宝”の一つになど罷り間違っても成りようもない。
十一世紀から英国はウェールズ地方に伝わる、かの“
「で、いつまで居るんだ?」
「三十一日の夜……って言いたいけど、私も受験生だから二十日が限度ね。九月には推薦入試があるし」
「へぇ、何処だ?」
「安心して、霧ヶ丘女学院だから。本当は義兄さんと同じところにしたかったんだけど……」
──『霧ヶ丘女学院』。第十八学区に在る、『長点上機学園』と並ぶエリートの学園だ。
まぁ、俺としちゃあ長点上機じゃなきゃ何処だろうとオーケーだ。
そんな風に、ほっとして。だから、つい要らない事を。
「そりゃ安心だ、多少遠いけど怪我人が減るからな。お前を軟派してブッ飛ばされる男が居ない分、後は
刹那、大気が凍る。言下に怒気を孕ませて、明確に地雷を踏んだ事を告げるように。
「ふぅん……そらどういう意味ったい、義兄さん? そん言い方やと、私が他の男になんされても良かし、女ば好きやち思っとぉと?」
「…………落ち着け、ンな訳ねェだろ。一先ず、その先割れスプーンにルーンを励起さすのは止めろ」
普段は封印している義父譲りの博多弁が漏れ出したのが、その明白な証拠。心底、怒っている証で。
「お前はほら……男女問わず人気者だろ? そんな
「……なら、いいけど。間違いが一つあるわ」
恐らく、今作っているのは
「“
「…………
「“そうよ、間違えないで”」
滑らせた口を最大級に酷使しつつ。蒼くなって言い訳したそんな嚆矢の言葉に、不満げだった弓弦は漸く怒気を納めて。代わり、嬉しげに頬を染めた。
「……ってか、そう簡単に“
「知らなきゃ気付かないわ、私が
「お前な、そう言う考え方だといつか大怪我するぞ」
そしてその代わり、あからさまに不機嫌な表情となったのは嚆矢の方だった。
──“
そして今の人間ではもう、発声出来ない言語だ。何でも、喉の造りと呼吸の仕方が違うんだとか何とか……だったらなんで義母さんと義妹は喋れるのかと、怪しいもんだが。
「心配なら、束縛してくれればいいじゃない。家に押し込んでくれれば、誰にもこんな事出来ないし」
「それじゃ、お前の思う壺じゃねぇかよ」
溜め息を溢しながら立ち上がり、空にした皿を流しに。ざっと洗って乾拭きし、棚に戻して。
口直しに、冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出して。賞味期限が明日に迫っているのを見て、外装を剥がす。
「ところで義兄さん、これは何?」
「ん────?」
そんな呼び掛けに振り向いた彼の鼻先に、突き付けられた『長くて黒い糸』。艶やかな光沢を持つ、それは────
「待てユミ、誤解だ。それはきっとアレ、管理人さんか友達のだ」
「女でしょ?」
「女だけど、そんな仲じゃないから。あくまでちょろっと来て帰ったから」
目の前の義妹の笑顔に、恐怖と諦観からそんな事を言い募る。どれ程の説得力があろうか、膝をガクガクと震わせながらの言葉などに。
最早、“
「あら、そう。知らなかったわ、義兄さんに
「へっ……天草? なんで?」
だから、突然のその言葉に面食らう。
「何でもなにも、これは天草式の
言うや、弓弦はそれを手首のスナップで振る。光が先ず走り、続いて風を斬る音。そして、ソーセージが真ん中から切り落とされ……それを弓弦が器用に綱糸で搦め捕った。
それでやっと思い出した、神裂火織の刀の仕掛け。あの令刀に施されていた『七閃』とやらの為の
──手入れした時に忘れてったな、アイツ……
つーか、アイツってイギリスの清教徒じゃなかったのか? 『
等と考えながら、残り半分のソーセージを剥いて齧る。齧って、徐に。
「……で、今、影の中からソーセージを食おうとしてるコイツと────さっきからニヤニヤしながら陰の中に居る女は何?」
『てけり・り。てけり・り』
《
「待って、もう少し言い訳を考える時間くれ」
ザリガニ釣り宜しく、食い意地だけで飛び出してきた“
………………
…………
……
暗く、昏い。そこはとある男の所有する一室、無機質で酷く乾燥した油臭い
「こんにちは、“博士”。例のモノは仕上がっていますか?」
扉が閉じ、再び漆黒に包まれた室内。僅かな光も再び失った室内で……先日、公園で海鳥と会話していた麗貌の男性は呟く。耳に当てた、携帯電話に向けて。
『──誰に物を言うか、
対し、携帯から響いた男性の怒声。否、それが“博士”と呼ばれた彼の地声なのだろう。ハウリングするかのように、刃鳴りか雷鳴のように鋭く鮮烈で凛々たる声色で。
「博士、無駄話をしている暇があるのですか?」
『む、確かにそうであるな……兎も角、
「………………」
口では面倒そうに言いながら、声には隠しようのない歓喜を孕みつつ。まるで、『己の技がどこまで通じるのか試したい』という、
そして聞いている彼も、内心『ウゼェ』という気配を漂わせながら。
『まぁ、何にしても使い熟せるかは君次第だが────其処については心配はしていないのである! 君はよく我輩の要望に応えているのであるからして、君とは今後も仲好くしていきたいものであるのだよ!
「……『友』、ねぇ…………振るとしたら、ルビは『実験動物』かな?」
言いたい事だけを告げて、電話が切られた。それに、麗貌の彼は苦笑いしながら。つまり、『期待に応えられなければ切り捨てる』と暗に示された事に。暗部では当たり前すぎて、別に気にする事でもないが。
部屋の際奥、そこに飾られているモノの前に立って、感嘆すら溢しながら。
「まぁ、お互い様ですけどね────
照らし出された、彼の『新しい衣装』を満足そうに眺めたのだった。
………………
…………
……
時刻、午前九時。場所、第七学区
今日は黒子は休み、都合嚆矢と二人で今日のノルマを熟す事になるのだろうと……ちょっとだけ何かに期待しながら歩いてきていた彼女は、朝礼に使う会議室前の人だかりに気付いた。
「おはようございます。どうかしたんですか、固法先輩?」
「あ、おはよう初春さん……いえ、ちょっと……ね」
気付いて────衝撃の余り、開いた口が塞がらなくなったのだった。
「お早う皆、今日も一日頑張ろうぜ! ああ、なんて素晴らしい日だ! この日を生きる奇蹟に感謝!」
「「……………………」」
普段は撫で付ける程度の亜麻色の髪をピッチリと七三に分けた、一目見て優等生スタイルの男。まるで、どこぞの学園の女王にでも心理を掌握されたかのような目の色のおかしい男が──どろりと濁りきった蜂蜜色の瞳の対馬嚆矢が……全くもって、これっぽっちも似合わない熱血を晒していたのだから。
「さんたまりあ~、うらうらの~べす。さんただーじんみちびし、うらうらの~べす……あんめいぞ、ぐろぉりあぁす!」
しかも上機嫌に、隠れ
「……ヤバい。あれはヤバい。宇宙的な悪意だ、何かもう膝が笑ってきた……悪ふざけだよな、何かの冗談だよな?」
「帰りてぇ、絶対何か悪い事の前触れだろ……マッポーだぜ、播磨外道だぜ……」
『巨乳』Tシャツの巨漢とスキンヘッドの二人の戦慄しつつの呟きに同意し、周りの風紀委員達も一様に気味悪がっていて。しかし相手が陣取っているのは朝礼で使わざるを得ない会議室。そこに美偉も溜め息を溢しながら、ずり落ちていた眼鏡を戻しつつ。意を決したように飛び込んだ。
皆が一斉に、その去就を固唾を飲んで見守る中────
「……朝礼を、始めます。皆さん席についてください」
完全に異様な嚆矢を無視して、無視にに努めながら……そんな風に、当たり前の一日にしようと心を砕いているのが丸分かりで。
しかし、誰にそれを責められよう。事実、他の誰もが同じように無視を決め込んでいる。あからさまに様子のおかしいその男を、腫れ物を触るように。
「オーケー! さあ、正義を完遂しよう!」
「「「「……………………」」」」
やはり、最後を締め括ったのは……諦めたかのような溜め息であった。
………………
…………
……
午前十一時、茹だるような日差しは相も変わらず。路地裏を隈無く、マネーカードがないか調べていた嚆矢と飾利は、遂にノルマを終えていた。
より正確に言えば、『午前中に今日一日のノルマを』達した。無論、休みなど一切無し。一事が万事、全力で。
「よ~し、よく頑張ったね、飾利ちゃん。さて、それじゃあ……」
「はぁ、はぁ……はふぅ、やっと休憩ですかぁ?」
第七学区の公園。先日の夜、最愛とフレンダと共に
熱に浮かされているような胡乱な眼差しのままの嚆矢が、溌剌と口を開く。
「他の皆の分を分けて貰おう。時間は余ってるからね、有効に使おう!」
「こ、嚆矢先輩……いったいどうしちゃったんですかぁ……先輩らしくないですよ?」
「どうもしてないさ、いつも通りの正義の味方・風紀委員の対馬嚆矢だよ! ただ、目が醒めた気はするね。全部妹達のお陰だよ」
「……こう言うときに白井さんか織田さんが居ればなぁ……はぁ」
ニカッ、と爽やかに。常人とは比べるべくもなく鋭い犬歯を光らせて。それに飾利は、諦めたように溜め息だけ溢した。その瞬間────
「う、嘘だろ……また飲まれちまった……不幸だ……」
「?」
少し先の自動販売機、そこで────ツンツン頭を抱えて唸っている男を見付けた。
「やあ、お困りかな少年!」
「えっ、あ、はぁ……って、あれ? 嚆矢さんか」
「如何にも、嚆矢だ……おお、確か君は上条当麻くんじゃないか」
普段なら『なんだ野郎か』で無視するだろうそれに早速、突っ掛けていった嚆矢。
いきなり声を掛けられて驚き、振り返った彼は……当麻は、それが知り合いだと気付いて肩の力を抜いた。
「どうした、いい若者がこんな昼日中から情けない声を出して」
「いやあ、それが……」
チラリ、と彼が見遣った自動販売機。どうやら、金だけを呑み込まれてしまったらしい。何しろこの自販機、その手の苦情が絶えないのだ。そろそろ修理なり撤去なりしてくれないものかと思うのだが。
「成る程、じゃあ仕方ない……俺が責任を持って取り戻そう」
「ええっ、アンタが?!」
そして、そんな事を口にして。驚いた声を出した当麻。長い付き合いと言うわけでもないが、この男が男に対してそんな事を口にするだなどとは思えなかったからこそ。それこそ、『自己責任だろ』とか言われるのだと考えていたからこそ。
さっさと自動販売機の前に移動した嚆矢は、精神統一するかのように呼吸を整えて。
「ハッハッハ、風紀委員として当たり前の事さ。けど、年上に向かって『アンタ』は頂けないな。最低限、礼節くらいは身に付けておくべきだね。もう高校生なんだから」
「あ、はい……なぁ、風紀委員さん。この人……こんな人だっけ?」
「えっと、今日の朝からこの調子で……なんなんでしょうね?」
『前は問答無用で拳固だったのに』と、更に疑念を強めた当麻。その嚆矢の隣で申し訳なさそうにしている飾利に語り掛ける。しかし、飾利とて何故こうなっているのかは知らない。だから、苦笑が関の山。
知っているとすれば、恐らくは彼の部屋で今も怒気を振り撒いている
または────完全に恐慌を来して、今も影の奥底に逃げ込んでいる呪わしい粘塊くらいか。
『“ねぇ、
『
『あばばばばばばばば』
そうして、這い寄る混沌の一つ“
何にせよ、今この場にはそれを説明する者など居らず。
「──フンッ!」
徐に、釦を押す嚆矢。勿論、点灯してすらいない釦だ。そんなモノを押したところで、何がどうなるのかと当麻と飾利が思った──刹那、ガコンと取り出し口から音が。更には、釣り銭口から硬貨の音。
「嘘だろ、マジかよ……」
「あ……そっか、嚆矢先輩の
「そう言う事。俺の『
「便利だな、羨ましい……俺もこんな右手じゃなくて、そんなのが欲しかったよ……何にしても、ありがとうございます、嚆矢さん。今日はなんだかツイてるな────」
ジュースと釣り銭を取り、嚆矢は当麻にそれを差し向ける。当麻は、真摯に礼を口にしながら『右手』でそれを受け取った。受け取った際に、その指先が触れ合って────まるで硝子でも割れるような音が響いた、その刹那。
「あいつら────俺を廃人にする気かァァァッ!」
「────やっぱり不幸だァァァァァ!?」
その『右手』に宿る“