それは何時の事だっただろうか、それは
我が事ながら、馬鹿馬鹿しい。今更、あんな夢に縋ろう等と。
『大丈夫────ボクが、守るから』
だが、それでも。それでも、嗚呼、忘れ得ぬものが一つだけある。誰にどう、何を言われても。
いつものように折檻を受け、自分達の肩代わりに多めに殴られて。口の端から血を一条流しながら、それでも微笑んだ『彼』。その亜麻色の髪と、蜂蜜色の優しい瞳は……今も、今も忘れ得ずに記憶に残っていて────
「…………ん……?」
目を覆いたくなる程の、地平どころか天までも覆い尽くす蝿や蛆に蛭、百足に
「…………はっ」
まともな人間なら、すでに数度は正気を喪っていよう。だが、しかし──彼女は違う。凡百の女、或いは男であろうとも泣き叫び、狂乱するであろうこの
「……下らねェ夢見せてンじゃねェよ、“
それに顔色一つ変えず、何処かで嘲笑っているのだろう自らの
『クク────いいぞ、ウミドリ……貴様はやはり、傑作だ』
やはりどこからか嘲笑うように響いた、そんな羽虫の如き不愉快な声を聞いて。
波が引くように、有象無象の害虫どもが消えていく。残されたのは、氷山の聳える極北の風景。そして、代わりに──背後に感じた、物理的なまでに壮絶な悪寒に彼女は振り返る。
「っ────」
選択を誤った後悔は、直ぐに。目の前、鼻を付き合わせる距離に浮かぶ笑顔の
そして何より、呑んだ息が凍りつきそうな程の冷気だ。魂まで凍えそうなその────
『あと少しだ、あと少しで君の願いは叶う。さぁ、育んでくれ。君の憎悪を見せてくれ。共に煉獄の底へ行こう────』
魂にまで根を張った、悪意の嘲笑そのもので。今も、今も視界の端で此方を見詰める……白い能面の後ろで
──可哀想、可哀想。少女、生け贄、泊まり樹のない渡り鳥。貴女の願いは叶わない、貴女の想いは届かない。どうぞ、その化け物とでも恋獄の底へでもお行きなさいな。
最も聞きたくないと願う、その考えを的確に告げられた…………。
──さぁ、機械のように冷静に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷厳に、チク・タク。チク・タク。機械のように冷酷に、チク・タク。チク・タク────
そんな、幻聴を聞いた気がした────…………
………………
…………
……
眩く、目映い。そこはとある男の所有する一室、無機質で酷く乾燥した油臭い
「…………」
手術台から起き上がり、簡素な被服を纏う己の姿を改めた海鳥。動くようになった右手を握り、それを見詰める目にも不調がない事を。今度こそ、覚醒の世界に居る事を確かめて。
「相変わらず良い腕じゃねぇか、
『痴智“博士”であろうが、
「『再来であるところの木原痴智』だろ? 耳蛸だぜ……」
その怒号の如き声でいきなりがなられて、五月蝿げに耳を右の小指塞いで。彼女は見遣る、傍らに立つ緑の黒髪を後ろで纏めた長身の男を。病的な痩躯にギラギラと不快な三白眼、しかし不思議と整った印象を与えられる。怜悧にして麗貌、しかし何処か非人間的な違和感を禁じ得ない、新品のスーツの上に着古した白衣を羽織る男性を。
それは、眼差しか。まるで虚空の彼方から、この世の全てを見下ろしながら嘲笑う
『しかし、今日は忙しかったのである! 君に“彼”、纏めて二人分の“
「あ~あ~、うるせェなァ……良いだろ、あンたの研究のモルモットを買って出てやってンだからよォ」
『そこのところは感謝するのであるが! しかぁし、それとこれとは話が別であるのであるからして!』
爆音、或いは衝突音じみた声を厭って。海鳥は一部のみを金色に染めた黒髪を靡かせながら、手術台から床に降り立つ。ぺたりと、裸足の足が冷たいリノリウムに触れた。
「何にしろ、期待してろよ。依頼通り、
『それは楽しみである! 君は我輩の最高傑作の一つでもあるのである、これからも期待しているのであるよ! 生きて帰ってくるのであるぞ、友よ!』
「…………はっ、面白ェ冗談だぜ」
『どうせ、
まるで、今まで見ていた夢を振り切るかのように。閉鎖されている筈の室内に吹き荒れた風に、孕む紙の音。間を置かずに、海鳥の右手に携えられていたのは────
『さて、では行こうか……ウミドリ。次こそ、あの“
「テメェなンぞに言われるまでもねェよ……殺す、今度こそな」
悪逆の
『………………………………全く、本当に楽しみなのだよ。
あからさまな非科学を目の当たりにしながら、それでも尚、男は腕を組んで笑う。『面白い