年代物の蓄音機からムーディーなブルースが流れ、薄いカンテラの明かりが揺らめく火影を投げ掛ける室内に、爽やかな夜風が吹き抜ける。
現在時刻、二十時半。場所、“純喫茶 ダァク・ブラザァフッヅ”。熱帯夜である筈の今宵に、有り得ざる程に涼やかな夜気。それを受けた冒涜的な装飾の木扉とドアベルの耳障りな音色が、嘲笑うように来客を告げている。
「貴女が、此処に来るのは────いつ以来でしたかね、キザイア=メイガス?」
グラスを磨いていた黒髪の男性、背の高いギャルソンの男。麗貌の店主は静かに、男女問わず万人を魅了するであろう紅い瞳のニヒルな笑顔を来客へ向けた。
「そうね────十年振りよ、クライス=ブロッケン。それとも、“薔薇十字閣下”とお呼びするべきかしら?」
「今はアンブローゼス=デクスターと名乗ってはいますが……どうぞ、お好きなように。どれも私には違いありませんとも、
「……相変わらず食えないわね、“
つかつかとハイヒールの足音を板張りの床に刻む、その女性客。黒い、さながら洋式の喪服のような出で立ちの未亡人めいた。黒いヴェールにより、一切表情の掴めない彼女へと。
「何時にも増してお目が高い、流石はかの悪名高き“セイレムの魔女”様。先程、良いものが手に入ったばかりです」
「はっ──何が“セイレムの魔女”よ、莫迦莫迦しい。
“セイレムの魔女”と呼ばれ、キザイアなる女は鼻で笑う。人間め、悪質な汚物袋めと唾棄しながら。
カウンターに差し出された、ロックのブランデー。そのグラスをやはり黒い手袋に包まれた細指で持ち上げ、カロン、と氷が鳴る程に傾ける。
「……あら、確かに上物ね。学園都市に来て久し振りに、本物のアルコールを呑んだ気がするわ」
「勿体ないお言葉です、ミス。ところで、そのお召し物という事は?」
「ええ、葬式よ。付き合い程度だってのに、面倒ったらありゃしない」
恭しく礼を取った上で問うた店主に、ヴェールの彼女は襟巻きを毛並みに沿って掻いぐるように、慈しむように撫でながら。
「勤め先の上司が行方不明になったのよ。それで
辟易したように、グラスの酒精を煽る。それなりに強い酒の筈だが、全くもって気にしてはいないようだ。ただ、愚痴を吐き出す代わりにするかのように。
白い喉元、こくりこくりと。艶やかに蠢かせるだけで。ただ雫を飲む、それだけでも蠱惑的に。
「ふむ、つまりは何か……
「言っておくけど、私は噛んでないわよ? まさか“
早速、一杯乾かして。その時にはもう、カウンターには新たなブランデーを満たしたグラス。気の効いた事に、ピスタチオとカシューナッツも添えてある。
「第一、私が一枚噛んでれば理事会に消されるようなヘマはしないし、貴方の弟子に負けるような無様も晒させない」
「おやおや、それはそれは……買い被られたものですね、
その新しいグラスの縁を、手袋の指先が撫でる。艶やかに、艶かしく。獲物を糸に絡めとる女郎蜘蛛のように、滑らかな指使いで。
「……薄情なものね、あの哀れな
「ええ、喝采してください。喝采してください。黄金の生け贄は今だ死なず都市に在る。何なれば現在時刻を記録しますか、キザイア?」
「冗談きついわね、クライス。私がやらなくても、今頃は“
と、哀れむように嘆息を漏らす。酒精に火照る吐息溢して、表情を隠すヴェールを揺らして。魔女は何を思うのか。
「想恋も思慕も、約束も記憶も────忘れてしまえば、何の意味も無いと言うのに」
愁うように、窓の外の彼方。夜の闇に浮かぶ、廃墟ビルの屋上を見上げて────
………………
…………
……
ドロリと肌に絡み付く無風の、茹だるような暑さを孕む夜気。昼間の陽射しが蓄積したアスファルトとコンクリートが夜空に陽炎を立ち上らせる様は、さながら目に見えぬ魑魅魍魎、百鬼夜行が這い出る阿鼻叫喚。
地に落とされ、大鎧と『影』二つを砕かれて。片腕を失なった為に自らが吐いた血の池に溺れる、地獄絵図さながらに。
「ッ…………!」
嗚呼、突いた右掌でクシャリと潰れたそれは幻覚ではない。コンクリートを這い回る蛆虫、百足、蜘蛛、
そして気色悪く、食い意地汚く。その原泉たる嚆矢の口に向けて、右腕を這い上がろうとする。払い除けても払い除けても、追い付かないくらいに。
「ひっはは────可愛いもンだろォ、コイツらがテメェを監視してたンだ。空の上じゃあ、蠅や蚊、虻に蜂がさ」
『クハハッ、さぁ、三度目の正直と言う奴だ……今度こそ掛け取りを回収させて貰うぞ、コウジィィィィ!』
そんな有り様を、まるで観劇するかのように平然と。革製の黒衣に白い外衣を纏う少女はくしゃり、くしゃりと踏み潰しながら。その端から、無数にも見える蟲どもは仲間の死骸に群がり、餓鬼道もかくやと腹に納めて。
ずるり、ずるりと。今も左手に携える魔導書“
「……ソイツは、君が思うような便利な道具じゃない。今すぐに捨てろ、それ以上使えば呑み込まれるぞ」
「なンだァ? 敵の心配なンて、左腕ェ飛ばされてる割にゃあ随分と余裕じゃねェかよォ? マゾかよ」
そんな悪質、悪辣を左手に持つ彼女に。震える膝に鞭打ち、蟲どもを払い除けて。最早『
しかし海鳥はただ表情を歪めて、それに嘲笑を返したのみで。
「────それとも、何か? 思い出しでもしたかァ、
それは嘲笑の中で。ほんの刹那、願うように祈るように。彼女の唇が紡いだ言葉が、聞こえて。
それは前日に見た、絹旗最愛の言葉を想起させた。
『………………ははっ、忘れてた。結局──世の中なんて、こんなもんでしたねぇ』
その失意の言葉、その前の段階。この娘は彼女と同じ、思い出して欲しいのだと理解出来る。出来るからこそ、出来ぬと理解出来る。何故なら、忘れたのではないから。物理的に奪い取られたのだから、どうしようもない。
だが、一つだけ。可能性があるのだとすれば、ただ一つ────造花の楽園に於いて銀色の娘に貰ったあの乳白色の宝玉、それだけ。
それだけが、“奪われた記憶”を取り戻す可能性を宿しており────
「……
だからこそ、それに頼る事などしない。失われたもの、は戻ったところで別物だ。
だからこそ、真摯に。懐から取り出した煙草、ステイルから貰ったその煙草を銜えて火を点す。炎の煌めきと煙草の煙、その二つに蟲どもは恐れ戦き、嚆矢の足下にざわりと場所を開けて。
「……そォかい、ひゃはは。そォだよなァ、現実なンてそンなもンだ」
同じく、落胆と共に何かを諦めたような瞳の海鳥の足元からも。彼女の右掌に凝集した窒素、目に見える程の熱と乾きを孕むソレに恐れ戦いて。
「ンじゃあ、互いにこれ以上の言葉は必要ねェよなァ────『
振るわれた右手より放たれた『
「“
紡がれた詠唱は、ステイルの“炎剣”。摂氏三千度、あらゆる物質を焼き払う炎の刃。それを握り、真っ向から熱波の槍を迎え撃って。
夜空の只中で、一瞬の光芒が閃く。それが、この闘いの幕開けだった。
………………
…………
……
迸った轟音と閃光に寸暇、視力を失う。熱と乾きを孕む『
三度の余波に虫けらどもが砕け散り、燃え尽き、圧し潰れる。都合、三合で数十から数百の死が撒き散らされる。
──“
まぁ、見様見真似とは言え“炎剣”だけでこの体たらくだ。あんな大魔術、俺には数秒と維持できないだろう。
その事実に、鋭く舌を打つ。たった三合で使い物にならなくなった炎の刃、僅かにそれだけの間しか維持できなかった己自身の凡才さに。
同じルーン使いながら、それを平然と二本。更には他の上級の魔術と併用する、ステイルの非凡さに。
「はっ────ヤるじゃねェか? 脳味噌弄くられて
「ッ…………!」
そして邪悪窮まる鉄の書物を携え、目前まで迫った少女に。その突き出す
空いた右手で抜き放つ圧し斬り長谷部、その
《“
(言われなくても。あんなモノを一撃でも喰らえば、病み腐る前に焼け死んで終わりだろう)
市媛の忠告を待つまでもない。ジリジリと肌を灼く砂漠の熱波と、唇が割れる程の乾き。風に乗り撒き散らされる
チラリと、ショゴスにより修復中の己の左腕を見遣る。修復率は一割未満、後数時間は治るまいし、リハビリにも時間が要ろう。今は、片手で遣うしかない。
(……参ったな、片手剣術なんて専門外だ。“
等と、口惜しむ。天下に名高い二刀流、剣聖宮本武蔵の開いた我流の神髄。かの巌流島の決闘にて、
無論、対馬嚆矢はその器に非ず。下手な我流剣の癖が付いてしまい、新影流の技が鈍るだけだったが。それに気付いた義父に、散々に打ちのめされて止めただけだったが。
何にしても、この状況は不味い。
更には、炎と言う戒めを取り払われた蟲どもが再び集り始める。黒い津波のように、這いずり飛び付き、新鮮な肉を喰わせろと毒牙を鳴らして────。
《一揆衆並に鬱陶しいのう、この虫けらどもが────散れぃ!》
“
その状態で────
『
「喰らいな────!」
果たして、それは偶然だろうか? “
「『────“
放たれた白い光の槍、凍てつく極北の白夜のような。だが、神々しさも清廉さも其処には無い。在るのは只、膿み、病み、不健康に肥満した白蛆の笑顔のような───
《────うつけめが! 気を逸らすな、魂を食われるぞ!》
(ッ…………!)
危うく気を取り直して、迫る白光を長谷部の鎬で受け流す。-196℃の窒素の槍、無論その冷気までは受け流せない。
肌を凍らせる渇いた風を浴び、鼻血が流れた。粘膜がひび割れたのだろう、僅かな痛みと共にそれを右手……火傷の上に凍傷を負った、酷い状態の右手で拭う。
「ひゃはは、いい面構えになったじゃねェか。その方が男前だぜ?」
『クク……』
目の前、僅かに離れた位置で黒い少女は嗤う。口角、鋭く吊り上げて。本来は攻撃的な意味を持つと言う笑顔、此方に向けて。
《嚆矢……真逆とは思うが、貴様》
左手に張り付いた芋虫に。木の葉を蝕む芋虫のように、命を蝕む魔導書を携えていて。嘲笑われながらも得意気に、此方を嘲笑う
そんな彼女を見詰めたまま────市媛の言葉を塞ぐように、長谷部を鞘に戻す。
《この期に及んでまだ、女とは闘わぬつもりか──────》
応えるまでもない。そのあり方に、憐れみを。そして恐らくは────そうしてしまった
「聞いた通り、女にゃ手ェ出さねェって訳か……矜持か意地か、ったく笑えるぜ、墜ちたもンじゃねェか。かつては老若男女の区別なく、邪魔になるンなら数秒前の仲間だろォと捻り潰してきたアンタがよォ?
──『暗部の存在は暗部によって擂り潰される』、分かり易いくらいの自業自得。そうだ、あれは俺の罪そのもの。俺への罰。本来はそうだった、そうじゃなきゃいけなかったもの。俺の為に用意された裁き、俺の為に用意された死の形。
だから、この子は来たんだ。俺の前に、俺の為に。俺は、覚えてすらいられなかったのに。
海鳥の嘲笑に、改めて感謝の念すら抱く。初めて、このクソッタレの世界に感謝しながら。憎しみ、妬み……そんな負の感情を湛えた彼女の笑顔を、真正面から望みながら。
「笑える話だぜ、化け物が人間の真似事なんてよォ!
声、声が。嘲笑が、悲嘆が。重なるように聞こえたのは、真実か幻覚か。諦めて嘲笑う声と、祈り悲しむ声が重なったのは。訳知り顔で大人が口にするような声と、駄々を捏ねる子供が口にするような声が重なったのは。
だがそれも、辺りを這い回る蟲の足音、飛び回る羽音に呑み込まれる。耳障りな、この全てを嘲笑う
「まァ、何でもいィや……そっちが勝手に手ェ抜いて死んでくれるンだ、こっちとしちゃあ万々歳か。じゃあな、裏切者────」
──俺が犯してきた罪の清算。俺が奪ってきた物への等価の
何て有り難い矯正。何て正しい末路。嗚呼、
だから。だから────
『
海鳥の命を蝕み、魔力に変え、ルーンを刻むその存在。それを、強く。強く────
──お前だ、“
「────邪魔なンだよ、蛆虫がァァァァァッッ!」
『────るッ?!』
蜂蜜酒色の瞳で睨み付けたまま咆哮し、懐から抜き放つ学園都市製の改造大型制式拳銃『
それでも。五十口径の弾丸でも、魔の域に在るその鉄の書物には傷すら付かない。あれを破戒し得るモノなど、より上位の魔術であるとか────或いは、あらゆる幻想を殺す右腕であるとか。そうでなければ、意味など無い。
『じゃあ、どうするの? あなたはどうしたいの、こうじ?』
だからこそ、屋上に投射される黄金の月輪の元で。その声は、彼の耳にのみ届く。
「悪ィね────俺、まだ恋人が居ねェからどうにも死ねなくてさァ。その三流パルプは、便所紙に再利用してやるとして」
「ちぃ────!」
だがそれでも魔導書を少女の左手から弾き飛ばし、仰け反らせる程度の効果はある。これで、次の一発を凌げば通常の『
ならば、まだ戦いようはある。この長谷部の刃、『
『じゃあ、どうするの? きみはどうしたいのさ、コウジ?』
だからこそ、屋上に投射される白銀の月光の元で。その声は、彼の耳にのみ届く。
「その後のお楽しみタイムには、たっぷり付き合って貰うぜ────海鳥ちゃンよォ!」
「舐めやがってェ────!」
その僅かな隙から勝機を掴み取るべく、そこに走り込む。『女に手は上げない』、その
詰まりは、狩人と餓狼の鬩ぎ合い。どちらが先に止めを刺し、どちらが先に食らうのか。それを競う争いだ。
そして────
「ッ…………!」
ずるり、と。踏み潰したヤスデの体液に、足を取られる。時として大発生した際には列車を脱線すらさせると言う、その脂ぎった体液に。
「────貰ったァ!」
致命的な、隙を────黒い少女は見逃す訳もなく。溜めに溜めた右手の熱波の槍、打ち出して。
「─────まだだァァァッ!」
命を削り、虚空に発した玉虫色の魔法陣四枚。それは盾、それは護り。『賢人バルザイの偃月刀』に刻まれた、四種の魔術的防呪印。
それでも槍は、“
「チイッ────!」
軋み、ヒビ割らせ────辛うじて止まる。まるで唸り声のように、軋む音、目の前で失墜する。
最早“
「────バカが! 私の『
「!?」
打ち出された熱波の槍を、
正に『槍』として衝き抜かれた一撃に、第四の印が打ち砕かれて。当然、捨て身の突進を行っていた嚆矢にそれを躱す事は出来ずに。
『てけり・り!?』
「クッ────!」
遮二無二、捻って突き出した左肩口。ショゴスが修復中の、左腕────そこで、受ける。
元々の傷口を更に抉り、終いには灼熱で焼かれる。気が触れるような苦痛が、神経を焼いて。
「……本目録、“
「流石、御名答ォ。甘く見ンなよ、
それでも、命は拾った。ショゴスという守りがあったからこそ、二文字のルーンを孕むその槍を止める事が出来た。
「この体の大半は機械でよォ……データさえ入力すりゃあ免許皆伝の技に身のこなしだ。便利だよなァ、正に科学の勝利だ!」
「…………巫山戯るな、そんなモノは甘えだ。技とは、身に刻んだ繰り返しであればこそ。付け焼き刃など──!」
機を逃さず、距離を取る。乱れた息を吐きながら睨む先では、不可視の槍を担ぐ海鳥が悠々と“
その少女の嘲りに、反意を示す。それは只、義父の教えを知るからこそ──認める訳にはいかない台詞だった。
「なら見せてやるぜ、科学の技を。さァ来いよ────“
「上等、行くぞ────“
灼熱に燻る槍と、片手に握る刀。“剣聖”上泉伊勢守信綱を師に持つ開祖同士であり、共に『陰流』の流れを組む二派が相対した────。
………………
…………
……
白い、白い、白い部屋。其処は血生臭い研究資材管理室、或いは清潔な獄門台への十三階段か。
そこに集められていた『
満足なシーツも与えられない其処は、昼も夜もなく煌々と明るくて。眠る事が出来ずに気の触れた者も、少なくはない。
『……………………』
その壁際で、粗末な検査着のみを纏う童女は一人、膝を抱いて眠ろうと。今の季節がいつかは知らないが、室内は常に一定の気温。寒くもなく暑くもない、
だからこそ、
『…………さむいだろ、おいで』
『………………?』
頭の上から掛けられた声に、一瞬、ビクリと震えて。恐る恐ると上げた瞳に映る────
『ひとりじゃ、さむいだろ? きみもおいで、いっしょにあったまろう?』
もう一人、童女を連れた────右手を差し伸べる、亜麻色の童。虚ろな瞳できょとんと己の右手と顔を見比べる彼女に、ニカッと笑い掛けたままで。
『……どうして?』
その虚ろな瞳の彼女が、ぽそりと。あらゆる意味に聞こえる問いを、口にしても尚。得意満面のその笑顔を、変える事はなくて。
『きまってるよ。それはね、ぼくが────』
胸を張って、堂々と────
「────絹旗ぁ、聞いてんのかにゃ~ん?」
「っ……!」
その声に、最愛は我に還る。辺りを見回せば、活気のある小汚ないファミレス。そして鮭弁当を食す麦野沈利にボーッとドリンクバーのストローを咥えている滝壺理后、サバ缶を頬張っているフレンダ=セイヴェルンの三人が、不思議そうにこちらを見詰めている姿を認めて。
「…………すみません、麦野。超ウトウトしてました」
「珍しい事もあるもんだけどさ。しっかりしとくれよ、絹旗。フレンダじゃあるまいし」
「結局、何でそこで私が引き合いに出されるわけよ、麦野!」
「大丈夫だよ、わたしはそんなふれんだを応援してる」
「辞めてやるぅぅぅ、こんなチーム!」
周りの目を集める程に騒ぐフレンダから目を逸らして、三人は思い思いの食事を摂り始める。
最愛もまた、目の前のハンバーガーを掴み上げて。思い出す、刹那の
「…………はっ」
つい先日、失望と共に捨てた筈の夢をまた見た事。それに自嘲しながら……溜め息ごとハンバーガーを噛み締め、呑み込んだのだった。
………………
…………
……
熱、吹き付けるように迫る。黒の少女が振るう不可視の槍、闇に紛れる『病み』を孕んだ窒素の槍。“
隻腕の男は“
間合いを外し、息を吐く。辛うじて鍔の一部を欠け飛ばした程度で済んだが、もしも受け損なっていれば拳を斬られ────後は、一方的な屠殺となっていた事だろう。
痺れた右手を片手の“
「どォしたァ、数年来の研鑽とやらも大した事ねェじゃねェかよ? こんな付け焼き刃の槍術も満足に受けらンねェのかァ!」
「……………………」
余裕綽々と嘲笑する彼女の言葉を聞き流しながら、観察を続ける。あの小柄で、目にも止まらない速度で繰り出される槍。厄介な事に、不可視の。
しかし、ある程度なら間合いは見切れた。恐らく長さは三メートル前後、形状は素槍だろう。投槍としても使用可能な上に能力によるものなので、余り長さに関係は無いだろうが。
《
(成る程。じゃあ早速だけど槍の破り方を教えてくれよ、槍博士?)
重さは有るのか無いのか分からないが、彼女の言葉通りなら機械の体。驚くべき膂力で、ここまで弾き飛ばされた事。
「そら、いつまで寝てやがるクソムシ────いい加減、無駄な魔力を吸ってンじゃねェ」
『ふむ────『
「ゴチャゴチャうるせェンだよ、クソムシ。アレをヤるぞ」
加えて────左手に持つ鉄の装丁の魔導書“
両手でもキツそうな力だ、片手の現状では如何ともし難い差が横たわっている。
《何、槍を破るとな? この打刀でか? 前の破戒僧の時もそうじゃが、小手先の技でそんなのは無理じゃな。長物は刀には一方的に有利じゃからな、勝ち目などほぼ無い》
(元から期待しちゃいなかったが、そこまで言うか普通?)
《うむ、無理無理。そんなに勝ちたければ────》
言葉を待たず、黒い少女は一気に距離を詰める。まるで風のように、
その穂先、そこに────
《銃でも使う他には在るまいて!》
「────!?」
影より覗いた火縄銃の銃口が、隙だらけの突撃体勢を見せている彼女を狙い澄ます。そして、
「────余計な真似してンじゃねェ、これは俺の喧嘩だろォが!」
《……貴様、まだ『女は斬らぬ』とでも言う気か! このうつけが、殺らねば殺られる事も解らぬか!》
長谷部の一撃が銃身を打ち払い、投擲された熱砂の毒槍が火縄銃を焼き腐らせる。剣呑な気配は、背後の影から沸き立つ。
それに答える暇など無い、既に。
「仲間割れかよォ、舐めやがってェェ!」
『フハハハ────惨めなものよな、コージィィ!』
既に、既に。腐汁と腐肉に塗れた
《貴様ら────屍肉に集る蛆蠅に武のなんたるかも知らぬ小娘風情が、
その号を“
まさか真作ではあるまいが、それでも学園都市の技術が使われているのならば……厄介な事は、この上無い。
「ッ!」
崩れた今の体勢では、受けるなど無謀も甚だしい。迷わず回避する、右に横っ飛びに。ひたすらに、
それが幸を奏したか、槍は嚆矢の腕……未だ再生はならぬ左腕の、空の肘部分を貫いただけで。
「ヤれ、クソムシ」
『
真っ直ぐに此方へと向けられた“
「喰らいな────!」
「しまっ……!」
競りだしたその数だけ、自分自身も頭をも吹き飛ばしながら『
「……………………」
『人間無骨』をコンクリートに突き立てて崩れ落ちた足場を眺め、立ち込める土埃にも何ら反応せず。穴に向けて潜り込む虫どもを無感情に、海鳥は見下ろしていた。
『フム、存外に呆気なく消し飛んだものだ。放って置いても、肉片一欠片に至るまでこの虫けらどもが始末しようぞ、ウミドリ?』
「……はっ。分かってねェな、テメェは。死体を確認するまでは生死不明だ、シュレーディンガーの猫は。特にあの野郎は、
辟易するように、灼熱の毒槍を真下に投げ込む。解放され、途端に吹き荒れる爆風と灼熱、そして病毒。先程まで屋上を埋めていた虫けらどもも、ほぼ全て死に絶えたか。
『クク、そんなものであるか?』
「ああ、そンなもンだ。とっとと終わらせるぜ、クソムシ……アイツを仕留めた後は、“
嘲笑うように、空を舞っていた羽虫を頁に吸い込み貪り尽くして。消耗した魔力、命を補充した魔導書。それを確認し、再び槍を手にした海鳥が飛び降りる。
下の階は優に数メートルの深み、しかし機械の体を備える彼女にとってはほんの僅かな段差に過ぎないのだろう。事実、何の危なげもなく着地に成功して。目の前、部屋の真ん中の床面に無造作に突き立つ“圧し斬り長谷部”を目にして。
「……そうら、やっぱり────なっ!」
『──『
「ヅッ!?」
背後から組み敷こうと掴み掛かった嚆矢の、“
振り向き様に振るわれた槍は、柄の釦を押し込まれて────手槍程度の長さにまで縮んでいる。この距離でも、十分に殺傷範囲となる程に。
「お得意の合気道の為に、
「ッ……────!!!」
頸を狙う刃を防ぐべく、右の肩口に側面の刃を受ける。装甲の隙間に抉り込まれ、皮を破り、肉に食い込む鋼鉄の焼けるような冷たさ。脳味噌から垂れ流す
だから、止まらない。二度目の右腕が、海鳥の外套の襟口を掴む事に成功して────頭にフードを被っているだけのそれは当然のようにすり抜けられ、ただ嚆矢の視界を塞いで隙を生んだのみ。
「特別サービスだ────今度こそ、さよならだぜェ!」
『──『
溜めに溜められた『
更に左掌の鉄の装丁の魔導書“
「『消えろ────!」』
同時に放たれるだろう、その二槍。その投擲は音速に迫り、躱し様はない、防ぐ術も無いだろう。無い、無い────本当に?
「……そうだな。此方も、特別サービスだ」
「何────?」
『ッ………まさか、それは!』
海鳥の外套の下から、厚く偏平で不格好な刀剣────“賢人バルザイの偃月刀”が現れる。
其処に染み入る玉虫色より、虚空に浮かぶ守護の印。それは加護、そして呼び掛け。この場には居ない、だが、遍く時空に接する神への祝詞の始まりである。
「
『チィ────ウミドリ、この大馬鹿者が!
「くっ……だから何だ、あの程度の悪足掻きで!」
だから、届く。この地球上の何処でも、この印は。その
厳かに、嘲るように。唱えたその言葉は、異なる時空に潜む『
「
泡立つように、偃月刀の玉虫色が揺らぐ。漆黒の原形質が爛れ落ちる。ダマスカス鋼じみたその祭具、その奥から覗く漆黒と無数の血色の瞳。悍ましい、眼が合うだけで、魔術行使で生命を削った以上の精神的苦痛。それすら、歯を食い縛って堪える。
『てけり・り。てけり・り!』
漏れ出す
始めに現れたのは金切り声、そして玉虫色の二重円に八芒星。その魔方陣が回転して球を為し、開花するように空間に形を為す────!
「来たれ────ヨグ=ソトースの十三の
『
そして現れ出る、ヨグ=ソトースに仕える十三の怪物の
これが、『ヨグ=ソトースの球体』だ。副魔王の従者、その意を体現すべく遣わされるもの。だからこその『御遣い』か。
「それが────どうしたァァっ!」
『砕く────それだけの事よォォォッ!』
その『声』を掻き消すように、海鳥は叫ぶ。それを嘲笑う怪鳥は、爆風じみた羽ばたきと共に海鳥に襲い掛かる。人の正気を蝕む鳴き声と姿で、苛烈なまでに襲い掛かるパルタスを二つの槍────熱砂の毒槍と凍雪の呪槍で迎え撃ち──────
『
「『────は………………?」』
砕いた。粉砕した。焼き溶かし、凍り潰し、完膚なきまでに。呆気ないまでに。跡形もなく、砕き尽くして────
「────王手、飛角取り……ッてか」
「『なっ……!」』
トン、と。実に軽く、まるで悪戯をした妹を叱るかのように。海鳥の真正面から、その額を軽く中指で押した────偃月刀を手にした、嚆矢を見て。
『馬鹿な────コージ……貴様、“
斥候として、今晩の戦闘。空戦の時から放っていた『見えざる伴侶』による監視、それを掻い潜って……否、五匹全部を滅しながらも
「っ…………な、ンだ……これ、は」
「お前が教えてくれたンだろ、『体の大半が機械だ』ってさ────ならまァ、
「っ…………クソ、がァァっ!」
額に触れられた、それだけで全く身動きが取れなくなった彼女は、最早どうにも出来ずに。
呼び出した『パルタス』の力、『召喚者を見えなくし、見えないものを見えるようにする』効果で接近、及び“
『────ギ、ァァァァォァァギィァァ!!?』
『────てけり・り。てけり・り』
“賢人バルザイの偃月刀”に貫かれていた“
「さて、と……勝負はあったな。投降しろ、悪ィよォにはしねェって。この左腕とか肋骨の分、たァァっっぷりと。
「……………………んな」
その偃月刀を、左の肩口に。一冊の魔導書、即ち魔力炉を食らったからか。ショゴスは左腕を丸々再現する事に成功して。その新生した左腕をわざとらしく卑猥に蠢かせ、動作を確認しながら問い掛ける。
それに、身動きの取れぬままの彼女は────
「……ふざけんなよ、おい。聞いてンだろ、クソムシ! 私の何を持っていっても良い……コイツに勝てるだけの力を、寄越せ────“
「チッ……この期に及んで────?!」
『悪足掻きを』と、そう感じたのも束の間か。彼女の叫びは、魂からの渇望。だから、その声は届く。届いてはいけない、澱みへと。
周囲に満ちる瘴気、一度は消えかけた腐臭が再び、強く香る。鼻が曲がりそうな程の、悪意に満ち溢れた腐乱臭を孕む風……否、ぶくぶくと屍肉を喰らって肥え太った、無数の黒蠅が。
『────良かろう。確かに聞き届けたぞ、ウミドリ! 貴様の命の全てを、我に捧げよ!』
「ああ────構わねェ、勝てるンなら! コイツに勝てるンなら────未来なンて、要らねェェっ!」
「なっ……莫迦な!」
彼女の左掌に集結し、形を成す。黒く、重たい鉄の装丁の魔導書と変わる。それは間違いようもなく、つい今しがたショゴスに喰らい尽くされた筈の“
『意外か、コージよ……我が源泉は死、憎悪、怨念。此処にはそれが満ち満ちておるのよ。何の為に態々、虫どもを呼んだと思っている? 『
「クッ────!」
即ち、『この場にて死んだ数多の虫けらの数だけの蘇生を残す』と、魔導書は絶望的な未来を示して。即座に、ショゴスを込めた南部式拳銃を構える────よりも早く、犇めいた蛆虫の頁が眼前に。寸前で、右腕にのみを纏った“
しかし発振器である肩部装甲板は吹き飛び、最早二度目はない。次は間違いなく、全身が吹き飛ぶ。
「『──
「何────!」
否、二度目どころの話ではない。今の一撃など嵐の前の静けさにも満たぬ程の魔力の昂りが、目の前に。
《正気か、此奴────まさか、
「
刹那、“
「『“
《殺せ、今すぐに────嚆矢! 早く、あれを! 然もなくば……!》
ぽろぽろと血の涙を溢しながら、とても人の喉から発せられるものとは思えない詠唱が響く。海鳥の命そのものを削り昂り続ける魔力の渦、それは────目に見える程の実態すら伴っていて。
思い出すのは、インデックスが使用して見せた“
「『──“
《──この
言われるまでもなく、首筋が焼けるような感情が。魂の奥底からの衝動が、止めようもなく。
今も、今も────
《殺せ! それ以外に、止める手立ては無────》
「……巫山戯ンなよ、テメェ────」
沸き上がる怒り、止められない。『復讐』と宣った癖に、刺し違えるだとか。また、無関係の他人まで巻き込もうとしている海鳥に。
“
──本当に憎む相手なら、その全てを否定しろ。その生涯を嘲笑い、その死にすら唾を吐き掛けて酒の肴にでもしろよ。刺し違えるだの何だの、折角の純味に余計な雑味を混ぜやがって…………中途半端な真似してンじゃねェ────!
苦痛を伝える
しかし、海鳥の周りには“
────大丈夫よ、こうじ。わたしが、必ず届かせてみせるから。
────大丈夫さ、コウジ。ワタシが、必ず届かせやしないから。
それでも 籠手に包まれた右手を前に伸ばす。天井に空いた穴、其処から覗き込むような月に照らされて。視界の端に見える、純金と純銀に導かれるように。真っ直ぐ、真っ直ぐ────。
「『────“
「黙れ────喚くな」
最早臨界寸前に昂った、魔力の塊。不定形の、原初の混沌を思わせるそれに、向けて────右手を、伸ばす!
「奪わせるものか、それは俺の罰だ。“
知る筈の無い神の名を叫びながら、白銀に煌めく刃金の右腕から残光を棚引かせて跳躍する。“
それを逃すような真似を、白蛆はしない。一斉に嚆矢に向けて、数十もの『
「俺の為の、
だがそれは、宇宙の終焉。“ビッグ・クランチ”の闇。虚無への収斂の刹那には、虚空清浄にまで版図を狭める闇と凍気。ならば、届くもの等は有りはしない。この世に在るモノである限り、有り得ない。
かつて、ヒューペルボリア大陸を滅ぼした絶対零度。『素粒子も含めた全てが動きを止めた状態』である、
────無駄だよ、ワタシが……コウジには届かせやしない、何一つ!
それを成した白銀の右手が────嚆矢の右手と重なって。
「凍て朽ちろ─────!」
『“
時すらも凍える程に白く眩めく銀燐が、世界を染めて─────後には窒素塊も白蛆の断末魔も、過去の塵芥すらも残る事はなく。ただ、嚆矢の吐いた息の白さが在るのみ。
「『────“
全ての守りを剥ぎ取られ、それでも
「っ────!?」
数日前の異種返しのように、重ねられた唇に封じられて。余りに予想外の行動に、全く同一と化していた海鳥と“
「
『なっ?!』
そして、その間隙を縫って口内に呟かれた『名前』に。渦巻いていた魔力が一点に、海鳥の左手の魔導書に重ねられた嚆矢の刃金の右掌へと収束して、刃金を黒金に染める。
『貴様────何故、その名を!? 何故だ、多寡が人間風情が、
「喚くな────邪魔だ、間男。テメェは消えろ」
『きっ……』
それは宇宙の黎明、“
『────
かつて、火星と木星の間に在った惑星をデブリベルトに変えた無限熱量。“ビッグバン”の1プランク時間後の熱量、即ち『プランク温度』。
────無駄なの、わたしが……こうじには届かせてみせるから、全てに!
それを成した黒金の右手が────嚆矢の右手と重なって。
「燃え尽きろ─────!」
『“
時すらも燃える程に黒く煌めく金燐が、世界を染めて─────後には。
「……見たかよ。これが本物の絶対零度、これが本物の無限熱量だ」
「……………………」
全ての未来が塵芥すらも残さずに消え去った、烏有のみ。如何な不滅の概念を組もうとも、無限の未来の分岐の全てを焼き尽くされてしまえば助かる道理はない。
《……呆れたものよのぅ、貴様の強情張りにも》
「今更かよ。所詮は俺だぜ? 何に期待してンだ?」
《
降り注ぐのはただ、闇夜の
真新しい煙草から万色の紫煙を燻らせながら、悪辣な笑顔を浮かべて立つのみ。
「………………どう、して……」
と、あらゆる意味に聞こえる問いを、海鳥は
それを受けた嚆矢は、その言葉を聞いても尚。得意満面のその笑顔を、変える事はなくて
「決まってンだろ、そんな事────」
堂々と、胸を張って────
「いい歳こいた男が、娘っ子にくらい格好付けて見せなくてどうすんだよ────」
紫煙を吐きながら、自嘲するように悪辣な笑顔のままで。まるで舞台俳優のように、気障ったらしく囁いた台詞に。
『ぼくがきみよりおにいちゃんだから、さ────』
先日、失望と共に捨てた筈の遥かな昔日の追憶に。全く同じ意味を口にした彼を、幻視しながら。
「……はっ、変わンねェなァ……このクソッタレ、がァ…………」
馬鹿馬鹿しくなって、弛んだ気概。その為に今度こそ、海鳥は意識の手綱を手放したのだった。