Shangri-La...   作:ドラケン

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断章 アカシャ年代記=Akasha-Chronicle
??.----・error:『Nyarlathotep』Ⅷ


 

 

 深夜の闇底に、蠢くモノがある。それは酷く弱々しく、這いずるように、路地裏に(わだかま)っている。

 

 

『オ、オノレェェ……二度ナラズ三度マデ……!』

 

 

 ぐずり、ぐずりと。形を成そうとする端から崩れ落ちながら。死に物狂いで、半死半生で。半壊した廃墟ビルから逃げ出してきたソレは、呪いめいた言葉を吐きながら。

 

 

『オノレェェ……命ガ足リヌ……! コノ際、質ハ問ウテハオレヌ……何処ノ馬ノ骨デモ良イ、贄を補充して……次コソハ喰ロウテヤルゾ、嚆矢ィィ!』

 

 

 如何なる埒外の御技か、未来を焼き尽くす無限熱量から生還を果たした“妖蛆の秘密(デ=ウェルミス=ミステリィス)”は、まだまだ人が居るであろう表通りに向けて這いずり、這いずり────

 

 

────いいえ、虚無へ。

 

 

『────誰ダ! 誰ダ、貴様ハ!』

 

 

 耳ではなく、魂に響く声を聞いて。在りもしない目を、周囲に巡らせて。

 

 

────可哀想、可哀想。憐れな憐れな、蝿の王(ベルゼビュート)のなり損ない。光に背いた貴方、断罪の時が来たわ。貴方の道は此処で終わりね。

 

 

『キ────貴様、ハ』

 

 

 背後の闇、路地の闇の彼方に見付ける。嗚咽を堪えるかのように口許を両手で抑え、嘲笑に肩を揺らすエプロンドレスの少女を。

 その瞳、硝子玉のような人造めいた光に。射抜かれるように、見定められて。

 

 

『ヒッ────イヤダ……イヤダイヤダイヤダァァァァ!』

 

 

 だが、嗚呼。その女は、彼が求めるような生け贄ではない。確かに匂い立つように美味そうな娘ではあったが、正気を失いそうな程に魔の香りを湛えた女だった。

 怯え、喚き、脇目も振らずに。ただ、光に向けて逃げ出す。だから、彼は光の元に辿り着く。

 

 

Sancta Maria(さんた まりや) ora pro nobis(うら うら のーべす).Sancta Dei Gentrix(さんた だーじんみちびし) ora pro nobis(うら うら のーべす)

『────────!?』

 

 

 そう、辿り着いたのだ。彼を────否、一切の闇の存在を許さぬ、凄烈極まる光の元へと。

 

 

Sancta Virgo virginum(さんた びりご びりぜん) ora pro nobis(うら うら のーべす).Mater Christi(まいてろ きりすて) ora pro nobis(うら うら のーべす).Mater Divinae Gratiae(まいてろ ににめ がらっさ) ora pro nobis(うら うら のーべす)

『ア、アァ……アアア…………』

 

 

 悍ましいまでに美しい声で、実父(ちちおや)から習った隠れ切支丹(キリシタン)祈祷(オラショ)を口遊みながら現れた、場違いな娘の元へと。

 

 

Mater purissima(まいてろ ぷりんしま) ora pro nobis(うら うら のーべす).Mater castissima(まいてろ かすてりんしま) ora pro nobis(うら うら のーべす).」

『ア────アァァァァ……!!』

 

 

 降り始めた雨に、ビニール傘を差して。もう片方の手に、そこらのコンビニで五百円もせずに買えるような()()()()を携えた娘の元へと。

 

 

Amen Jesus Maria(あんめいぞ いえぞす まりあ).」

 

 

 陽光の如き金髪に、蒼穹菫(アイオライト)の瞳の“魔剣巫女(ドリアード)”対馬 弓弦の元へと、辿り着いたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 漆黒に包まれた室内に、湿った声が響いている。強く押さえ付けた喉から漏れる、女の艷声(あでごえ)だ。

 

 

「ン────くっ、ふゥっ!」

「ン? ははっ、頑張るねェ」

 

 

 俯せに、ベッドに突っ伏して。両の手足を拘束され、尻を突き上げるような体勢で。噛むような勢いで頭を枕に埋めて、呻く彼女。時折、びくりと不随意の反射に身を竦ませる、海鳥。

 その背後より、捉えた仔猫をいたぶる狼のように。嗜虐に蜂蜜酒色の狼瞳を炯炯と滾らせる嚆矢は────

 

 

「そ~ら、次は土踏まずからの……親指と人差し指の間だ!」

「ひあっ────ふにゃあっ!?」

 

 

 手にした毛むくじゃら……猫じゃらしめいたもので、その小さな足の裏の窪み。即ち土踏まずをこちょこちょと擽り、間髪入れずに、逃げようとでもするようにわきわきと蠢く足の指の隙間に突っ込んで刮ぐように動かす。

 すると効果は覿面(てきめん)。堪えきれず、海鳥は遂に跳ね上がるように(おとがい)を反らし────猫耳ヘアバンドに赤い首輪を付けられ、両掌を肉球の付いた猫の手の手袋に包まれた姿の海鳥は、尻尾を踏まれた猫のような声を上げた。

 

 

「おやおや、これはまた()い声が漏れたのう。その姿の通りによう似合(にお)うておるぞ、雌猫の鳴き真似がの? 呵呵呵呵(かっかっかっか)

「くっ────!」

 

 

 あからさまなまでの市媛の嘲弄に、歯を食い縛って睨み返す。気絶したショゴスを敷物のようにして寝そべり、観覧する彼女へ。だが、悲しいかな。今の姿では迫力も何も有ったものではない。

 しかし、効果はある。その反骨心、それに嚆矢と市媛の嗜虐を煽る効果は。

 

 

「しかし、連れ込み茶屋でこんなものを貸し出しておるとは……たった数百年で日本(ひのもと)も変わったものよ。というか終わっておるのう、一度滅んだ方が良いのかもしれんのう……」

「はっはっは、素晴らしいよな。流石は報恥(ほうち)国家日本」

 

 

 感心したような、呆れたような声色と表情で市媛が溜め息を溢す。無論、呆れの方がどう見ても色濃いが。その合間も、責めの手は休めない。こちょこちょと、毛並みとは逆に踝の部分を擽る。

 

 

「くっ、ふっ……何で、畜生……っひゃ!?」

 

 

 そしてその度に娘は拘束された身を捩りながら、一文字に結んだ可憐な唇から嬌声を漏らす。我が身、機械化して感覚や意識のオンオフすら意のままである筈の体の、不随意の昂りを堪えきれずに。失神という名の解放に、逃避する事も出来ずに。

 

 

「無駄無駄、今のお前の体は俺の能力(スキル)の虜だ。身動き取れねェだろ? 俺の指示の方が上位司令(コマンド)になるように、感度は三千倍になるようにバグらせてあるからな。機械化したのが裏目に出たなァ、海鳥ちゃあん?」

「ふぅぅっ! くっ…………」

 

 

 肋骨の浮く横腹を猫じゃらしで撫でられ、肌を粟立たせながら体をくねらせる。その度、嘲笑う声を浴びて。小さな尻を此方に向けて、誘うように振って見える姿。幼い外見と反抗的な態度に似合わぬ媚を売るような仕草に、知らず嗜虐心をソソられて唾を飲む。

 海鳥は恥辱に涙目で呼気を震わせ、射殺すような視線を背後に向ける。逆効果だとしてもそれ以外に出来る事が無く、凌辱を受け入れるのみ。

 

 

「さて、そろそろ吐く気になったかなァ? 真逆(まさか)、個人であんな駆動鎧を運用出来る訳は無ェ、お前のバックに付いてる組織は何だ?」

 

 

 そこで、手を止める。答えられるだけの酸素を取り入れる暇を与える為に。

 

 

「っざけんな、くそったれが……! 私も暗部の一人だ、誰が────あひゃあぁっ?!」

 

 

 言葉の途中で脇を擽られ、鼻に掛かったあられもない声が出てしまう。狙い済ましたかのように、否、狙い通りに。

 

 

「ンー、俺が聞きたい言葉じゃないなァ。これはもう少し体に聞かないと。仕方無いな、テロリストにはジュネーブ条約は適用されないしな」

「~~~っ、~~~~~!」

 

 

 それに気付き、彼女は顔を枕に埋めて声を封じる。今更手遅れだが、そんな無意味な抵抗にこそ愛おしさすら感じる。例えるなら、憐れな町娘の帯を引っ張る悪代官の愉悦と言ったところか。助けの方は、来る当てもないだろうが。

 

 

「しかし、やっぱり疲れるなァー。これじゃ効率悪いし……」

「っ……?」

 

 

 と、やにわに責め手を止める。それに海鳥が枕から顔を覗かせ、どんな心変わりかと猜疑に満ちた顔を見せるくらいに唐突に。

 そんな彼女に、うーん、と伸びをして見せながら。

 

 

「スイッチオーン。ついでにもう一本、追加しとくかァ」

「─────っ!!?」

 

 

 持ち手のスイッチを入れれば、細かく振動し始める猫じゃらし。それを更に一本追加した二刀流で、怯えすら見せる海鳥を見下ろして……。

 

 

………………

…………

……

 

 

「今晩は、魔導書さん。先ずは、兄さんの階位を上げる役に立ってくれて有難う」

『……ヒ……ヒィィ……』

「で、本題。“兄さんは何処?”」

 

 

 言葉は、飾りでも何でもなく衝撃そのものだった。否、衝撃等とは生易しい。紛う事無き魔導書(グリモワール)である筈の彼が圧倒される程に、苛烈な爆撃だ。

 一言毎に、平伏したくなる。一言毎に、自決したくなる。最早、その問い掛けは問答ではなく拷問だ。それを、防ぐ手段もなく魂に叩き込まれて。

 

 

『シ、知ラヌ……私ハ、何モ知ラナイ……気付イタ時ニハモウ、居ナカッタ』

「…………チッ。役に立たないわね。だから捨て駒にされるのよ、この無能」

 

 

 だから、一も二も無く真実を。逆らう意思すら、既に挫かれて。失望に染まる娘の顔だけに、恐怖と絶望を見出だして。

 

 

「“贋作魔剣(グラムフェイク)光之利剣(クラウ=ソラス)”…………じゃあね、魔神の失敗作の失敗作。次の輪廻では、まともに生きられると良いわね」

 

 

 下された裁決、否、始めからそうなると分かっていた事柄だ。面倒臭げに懐中電灯を大上段に構えるその姿勢────その僅かな間隙こそ、彼が狙っていたもの。

 

 

「死ィィィ────ネェェェェ!」

 

 

 その空隙に、“妖蛆の秘密(デ=ウェルミス=ミステリィス)”は残された全力を発する。無数の白蛆、その顔容を破裂させながら発された『零下の氷山棺(イイーキルス)』。

 普く全てを凍結、埋葬する氷点下の棺を無数に放ち────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──────────────“闇ニ光在レ(イェヒー=オール)”」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実母(ははおや)から伝承せし、空間自体を埋め尽くす神代の魔剣。その煌めきを模した、贋作魔剣(グラムフェイク)の輝光。世界そのものを光子に還す魔剣が、煌めいて─────………………

 

 

────魔剣の話をしよう。魔剣とは論理的に構築され、理論的に行使されなくてはならない。

 

 

「“俊英は(The paradox)────”」

 

 

 振り抜かれた光の剣戟は縦一閃、両断された氷点下の槍襖は雲散霧消。確かに()()を取った筈の魔導書は、確かに()()に回った魔剣巫女の“魔剣論理(イマジン=ブレイドアーツ)”に絡め取られて。

 

 

「“────鈍亀に追い付けない(Achilles and turtle)”」

 

 

 消える。あらゆる意義が、光に融けていく。最早“不死身の魔導炉(グリモワール)”といえども、如何にしても逃れる術はない。有り得ない。

 ただ、絶対的な『勝利』を象徴するケルト神話の四至宝の一つ。贋作ではあるが、“銀盾義手(アガートラーム)”ヌァザの聖剣“クラウ=ソラス”の光に包まれながら。己に刻まれた不死身の根幹たる、『虚空に実体を投げ掛ける影』の一(ページ)が消え逝くのを実感するのみ。

 

 

『アァ…………』

 

 

 見えるのは、煌めき。何処までも凄烈で、凄絶な、夜明けを告げる朝陽のような──────或いは、黄昏のような。その輝きの果てに、確かに彼は……“妖蛆の秘密(デ=ウェルミス=ミステリィス)”は、幻の如く儚いながらも確かに見た。

 少女の頭上と背中に浮かぶ、『(無限)』の記号の如く捩れた“天使の光輪(エンジェル・ハイロゥ)”と六対十二枚の天使の翼。黒と白の、神聖と堕落の有り得ざる二律背反。まるでそう、天使と堕天使の重なり合ったかのような。

 

 

『アナタ様、ハ…………』

 

 

 見た。確かに、見た。その背後、輝きの彼方に潜む、()()()()()()()()()()()()を。『何故此処に居るのか』と惑乱しながら、『逆らえぬ筈だ』と納得しながら。

 

 

 嗚呼、嗤っている。顔なんて無い癖に、忍び嗤っている。この夜の闇の中を、音も無く舞う無貌の蝙蝠鬼(ナイトゴーント)どもが。『愚かな虫けらめ、分際を知れ』と見下しながら。()()を愛撫するかのように、地を這う我々を。

 銀の義手の右腕を振り上げた、白い髭を蓄えた厳めしい老爺の機嫌を窺うように、媚びへつらって。舞い踊って。

 

 

『アナタ様ガ、“銀腕ノ(ノーデン)────────』

 

 

 古く、余りに旧く。最早誰も覚えていない、“旧き神”の名を。恐るべき、無慈悲なる大洋の覇神の名を口にしながら、今度こそ─────その全ては、光の彼方に失せ果てた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 監視映像から、朝方のニュースばかりの番組編成となったテレビをぼんやりと眺めながら、()()()の店番の男は欠伸を噛み殺して缶ビールを啜る。

 

 

「……ったく、やってらんねーぜ」

 

 

 今日も今日で、詰まらない一日だ。夜勤が明ければ昼間で寝て、また夜勤。下っ端の彼は、いつも忙しく面倒なこの時間帯を押し付けられる。かといって、落第した彼は労働無くして学園都市では生きられない。

 いっそ強力な能力者や規格外の身体能力などがあれば一旗揚げる事も出来るだろうが、残念ながら無能力者の一般ピープル。無理に重ねて無理だ。

 

 

 だから出来る事と言えば、こっそり監視カメラの映像をダビングして持ち出し、小金を稼ぐ程度。今日はその点、高値で売れそうな面子の部屋があったので期待していたのだが。

 

 

「まさか、ピンポイントで壊れてやがるなんてよぉ……マニア垂涎の3P画像だったろうっつーのに……ハァ、何か面白ぇ事ねぇかなぁ」

 

 

 忌々しげに、携帯端末の動画を見遣る。ダウンロードされた動画は黒一色、何も見えはしない。

 それに、ハァ、と溜め息を溢して。山と積もった灰皿から、比較的吸うところの残っているシケモクに再び点火して。口内を満たす紫煙を、虚空に吹き出し────

 

 

「────マジで? 俺にも見せてくんない?」

「ウヒッ────あ、お、脅かさねぇでくれよ、(アン)ちゃん!」

 

 

 その紫煙の彼方からにこやかに笑いながら声を掛けてきた嚆矢に、後ろめたさの分だけ、心臓が飛び出しそうな程に驚かされて。カウンターに差し出された鍵を見て、慌てて平静を繕う。

 

 

「ハイ、確かに……楽しめましたかい?」

「そりゃあもう、心ゆくまで堪能したさ。なぁ?」

「うむうむ、佳き時を過ごしたわ。呵呵呵(かっかっか)

 

 

 朝方だと言うのに、極めて爽やかに。肌を艶々させながらサムズアップして見せた亜麻色の彼と、何時から居たのか、艶やかに忍び笑った和服の彼女。

 そして────

 

 

「っく……テメェら、いつか絶対に殺してやる……!」

 

 

 壁に寄り掛かるようにしてフラフラと、腰が抜けたかのように危うい足取りで歩く、モミアゲのみを金髪に染めた黒髪の少女が続いた。

 

 

「そりゃあ楽しみだ。んじゃ、次もまた今晩みたく可愛がってやるよ」

「っ────ひゃ!?」

 

 

 そんな怒りと憎しみの入り雑じった眼差しに、鷹揚な嘲笑を向けながら歩み寄って髪を撫でる。海鳥は逃げる事も出来ずにそれを受けるしかなく、声を上げさせられてただ睨み付けるだけ。

 

 

「んじゃ、また来るかもだから。その時は頼むな」

「くっ、クソ……離せ!」

「あっハイ、お待ちしてます」

 

 

 それに店番の彼は営業スマイルを向けつつ、内心では『ロリコン野郎が』と唾棄しながら。

 腰砕けの海鳥を小脇に抱え、澄まし顔の市媛を傍らに伴って。出入り口に去り行く嚆矢から意識を逸らした────その目線に、ヒラヒラと舞う黒い切れ端。

 

 

「…………?」

 

 

 まるで意思を持つかのように、ひらりひらりと出入り口に向けて舞う、それは────黒い揚羽蝶(アゲハチョウ)。『烏揚羽(カラスアゲハ)』と呼ばれる種類だと、彼は少年時代に読んだ図鑑の事を思い出して。

 それが、市媛の和服。彼岸花を染め抜いた漆黒の着物の裾。破れたかのように欠け、深紅の襦袢が覗いて見える其処に止まり────

 

 

「えっ?」

 

 

 目を疑う。確かに、今まで蝶だった筈のそれが──羽を休めるように止まり、衣服の一部と化した事に。

 

 

呵呵(かっか)────』

 

 

 驚き、思わず声を上げた。上げてしまった。混沌はそれを聞き逃しはしない。否、聞き逃さないと言うのであれば、きっと最初から。

 その耳に、忍び笑う声が届く。地獄から届くような、凍えた焔のようなその響きが背後から、彼は一瞬で蛇に睨まれた蛙のように竦み上がって。

 

 

『出歯亀をしたくなる気も解らんでもないが────絡繰任せとはのう。大和男子ならば自ら出向かぬか、うつけめ。そうしておれば、見せてやらんでもなかったものを』

 

 

 その代償が何であるか等、考えるまでもない。人間として、平穏な死を迎えたいのならば。首を突っ込むべきではない、死よりも悍ましい世界を知りたくないのならば。

 

 

 くつくつと、限りない邪悪を湛えた声が、ガタガタ震えながら脂汗を流す彼の真横で囁いている。もしも振り向いてなどいれば、その無尽の悪意の正体を見ていた事だろう。体は動かないが、首から上は動くのだから。

 そしてそうしなかった事は彼の人生の中でも一二に入る僥倖だったと、後に彼は知るだろう。今、己の背後に立つ『影』は、知れば日常を保てなくなるモノだったと。

 

 

『ではのう。運が有れば、次もまた会えるやも知れぬぞ? 呵呵呵呵呵呵(かっかっかっかっかっか)…………』

「…………っ、あ」

 

 

 耳元の声が去り、拘束も消える。自由になった体で、狂ったように脈打つ心臓に喘ぎながら。

 

 

「────」

 

 

 閉まりかけている出入り口の自動扉、その僅かな隙間。そこから振り向き様、燃え盛る三つの眼で嘲笑していた市媛……人間が生きる上で知る必要の無い、もしも知れば異常に巻き込まれて帰れぬであろう“悪心影”を、この世に蔓延る『混沌』の一部を垣間見て。

 あの非日常は、この日常を犠牲にしてまで覗く価値があるのか。それを鑑みて。

 

 

「…………辞めるか」

 

 

 この仕事を、学園都市を。そして真っ当に、外の世界で今からでも大学に通おうと。心に決めたのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 時刻、午前四時半。場所、第十学区大通り。白み始めた空は、千切れた美しい雲の模様に彩られている。そこで漸く、嚆矢は海鳥を解放した。

 

 

「さて、此処からなら自分で帰れるよな?」

「……………………」

 

 

 問い掛けに返る言葉はない。彼の小脇から解き放たれた彼女はぐったりと、力無く倒れ伏したのみで。

 

 

「おい、大丈夫か─────?」

 

 

 それは思わず、そう心配してしまう程で。だからこそ、拭い難い隙が、其処に生まれて。

 

 

「死ィィィ────」

 

 

 刹那、『窒素爆槍(ボンバーランス)』が海鳥の右掌に集う。魔術による氷点下のものでも、既に取り外されている“火の石”によるものでもない、純粋に彼女の超能力(スキル)による高圧窒素の槍。

 それは過たず嚆矢の顔面に向けて、まさに今、放たれて────

 

 

「にゃァァァァ────っ?!」

 

 

 その正に直前、ぽすん、とばかりに間抜けな音と共に消える。掌が、肉球付きのグローブで覆われた為に。

 

 

「にゃ────にゃんだ、これは!?」

 

 

 否、それだけではない。左掌にも同じく、更には尻の辺りから猫の尻尾、頭には直接猫耳が生えて。しかも『な行』まで『にゃ行』に変わっている。

 最早、誰がどう見てもコスプレイヤーである。人通りが少ない事だけが、今の彼女の救いである。

 

 

「あぁ、それね。ほら、後々付け狙われたりしても面倒だろ? だからちょっと、俺と俺の関係者を襲おうとした時はそうなるようにしてみました」

「てめぇは鬼ぃかぁぁぁっ!」

「心配すんなよ、一時間もあれば元に戻るから」

「一時間も!?」

 

 

 そしてその元凶は、からからと笑うのみ。そして、目の前の黒猫の頭に右手を置いた。

 

 

「ご褒美だよ、ご褒美。俺の責めに屈しなかったお前に、な」

「くっ…………!」

 

 

 それは、雑じり気の無い称賛。数時間にも及ぶ責めに耐え、一切の情報を吐かなかった彼女への。

 抵抗すら出来ない彼女の、艶やかな黒髪を撫で梳く。たった一人の男に逆らえぬ屈辱と子供扱いされる羞恥に悶え、頬を染める海鳥を。

 

 

『……■ぃに…………』

 

 

 その様に、何か────忘れてしまった、思い出したくない記憶をフラッシュバックさせる程に。

 

 

「……まぁ、暫くは大人しくしてろよ。俺の首なら、用が済んだ後にくれてやる機会くらいはやるからよ」

 

 

 その感傷を振り払う為に、名残を惜しむ右手を離して。一言も発さぬままに先を歩いていた市媛を追って、歩き去る。

 

 

「…………っ、クソが」

 

 

 ただ一人、朝日に照らされる黒猫のみを残して。その二人の悪逆無道は、僅かな夜の闇の残り香に消えていった。

 

 

 その闇を見据え、黒猫は呟く。

 

 

「……………………てめぇか、“黒扇の膨女(ブローテッド=ウーマン)“」

「────ええ、好久不见(お久し振りですね)。海鳥」

 

 

 嘲りと共にその女は来る。空の果てから? 海の底から? 否、闇の残滓から滲み出る。海色のチャイナドレスを身に纏い、漆黒の扇を口許に広げた、眼鏡の女が。

 

 

「あんなに支援してあげたのに、負けてしまうなんてね。悪い子、駄目な子猫ちゃんね」

 

 

 淀み、腐りきった潮の香りを漂わせる、その女が。嘲笑を湛え、ひたり、ひたりと足音を響かせて来る。

 主は帰還せり(ザ・ロード・ハズ・カム)主は帰還せり(ザ・ロード・ハズ・カム)。絶望は今、此処にあり。

 

 

「アナタは失敗した、アナタは失敗した。嗚呼、アナタは失敗した。だったら、罰を受けないと」

「…………畜生、が」

 

 

 くすくすと、海鳥を見据えて。眼差しの嗜虐、ユークリッド空間すら歪めて。遥か大西洋の底に沈むと言う、螺湮城(ルルイエ)の風景を透かして。

 それだけで、海鳥は末路を悟る。日常を捨てて、異常を得た己の末路を。人間として、死を迎える事を捨てた代償を。

 

 

 目の前に迫る『混沌』の一部を、せめて瞠目したままに。反対の腕の漆黒の扇、海鳥に向けて。ゆるりと口を動かす、女を見詰めたまま────

 

 

「…………なのだけれど。残念ね、アナタは守られてる。感謝しなさいな、私達の生け贄に。そのショゴスの欠片さえなければ、私の“九頭竜(■■■■■)”の贄にしてあげたのだけれど」

「…………?」

 

 

 訝しむように、海鳥が後ずさる。しかし、“黒扇の膨女(ブローテッド=ウーマン)”は動かない。見詰めるのは、海鳥ではなく────その、掌や尻尾、耳。それに、酷く煩わしそうに眉根を寄せて。

 

 

「─────っ!」

 

 

 その一瞬に、脱兎の如く走り去った海鳥を見送る。ただただ、煩わしそうに。ただただ、一言。誰も居なくなった虚空に、申し開くように。

 

 

「…………本当、アナタは変わりませんのね。叔父上様?」

 

 

 その存在を、歪んだ世界に溶かして消えた…………。

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