Shangri-La...   作:ドラケン

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18.July・Night:『The Planet Wind』

 

 

 日の落ちた逢魔の刻限、やっと警備員第七十三支部を後にする。因みに私服姿に着替え済み。何故ならスクーターは学園近くの為、かなりの距離を歩く事となったからだ。

 しかし、今はその方が都合がいい。歩く距離が長い方が、『昔の勘』を取り戻せる気がした。

 

 

――学園都市の暗部への潜入、か。

 

 

 戦利品ではなく自前の煙草を取り出して、鉛色のオイルタンクライターで火を点す。

 肺に貯めた香気を吐く。紫煙は、ゆるりと夏の宵の生ぬるい空気に融けていく。風の無い不快な夜気の底で、嚆矢は新たな『指令』を反芻する。

 

 

『要するに、治安維持の為に学園都市の暗部で活動する組織の実状を探って欲しいそうじゃん、うちの上層部は。全く、風紀委員(ジャッジメント)にアンタを潜入させた時といい、とことん他所を信用してないんだよ』

 

 

 と、愛穂が辟易した顔で告げた。まぁ、教師である彼女達からすれば、学生の自主性を基礎とした風紀委員に大人が介入する事を是とはしたくないのだろう。

 しかしまぁ、『学生だけで成り立つ組織』等という夢想を信じるのは、世間知らずの学生達か、余程社会常識に反感を持つ大人くらいのモノだ。

 

 

 どんな活動にも資金、そして信頼は不可欠。金も権力もない、未成年の学生風情で出来る事は、大人の庇護の元で、次の子供をどう導くかを学ぶくらいのもの。歴史とは、そうやって繰り返してきたのだ。

 

 

――にしても、暗部か……やだねぇ、折角、明部(こっち)の生活にも慣れてきたところだったのに。

 つーか、俺だけオーバーワーク過ぎじゃね? 警備員、給料なんて()ぇのに……

 

 

 斯く言う嚆矢も、そんな一人。(たま)さか救われ、拾ったその命でも、『他の誰かを救う』事を望むからこそ――

 

 

『行く当てがないなら、家の餓鬼になりゃいい。丁度――』

 

 

 思い返したのは白い部屋、白いベッドの上。風にそよぐ白いカーテンと、頭を覆う白い包帯。

 敗北により存在価値を失った彼を病院に運んだ、ある男の無愛想な仏頂面。その脇には、蛙を思わせる白衣の男。

 

 

『丁度、跡継ぎの男手が欲しかったんだ――』

 

 

 虚ろな蜂蜜の瞳は、天井を見詰めたまま。頭を撫でる武骨な右手に、為されるがままになっていた……。

 

 

「……って、違う違う。何を恥ずかしい事を思い出してんだ、俺は」

 

 

 そこで我に返り、頭を振って記憶を払う。幸いな事に、この薄闇の中ならば、誰にも照れた頬には気付かれなかっただろう。

 

 

「ならねぇぞ、ならねぇ。断じて、鍛冶師なんて時代錯誤なモンにはならねぇ。俺は公務員とか医師とか、そういうモテる仕事に就くんだ!」

 

 

 口に出し、改めて決意する。正直、それで育ててくれた事に感謝はしているのだが、なりたいとまでは思わない。

 その後ろ姿を見詰めて育ったからこそ、そう思った。

 

 

「今はそんな場合じゃないよな……進路は、三学期からで良い」

 

 

 それは、もう少し先に持ち越しの話。今は、兎も角、目の前の問題に集中する。

 

 

――暗部と一口に言っても、一つの組織じゃない。俺が今回潜入する組織は、確か……

 

 

  と、これから『潜入する組織』の名称を思い出そうとした刹那――――

 

 

「ッ――――?!」

 

 

 覚えのある、紙音を孕む生臭い風が吹いた。

 

 

『フン、我ノ存在ヲ忘レタカ、伴侶ヨ』

「おまっ……送還した筈じゃ」

 

 

 そうして、口許を庇った右手にいつの間にか握られていた、ずしりと重い鉄の装丁の魔導書――――『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』を認める。

 

 

『フム、確カニ星ノ吸血鬼(スター・ヴァンパイア)ハ送還サレタ。シカシ、アレハアクマデモ、コノ【妖蛆ノ秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)】ノ意思ヲ体現スル為ノ走狗ニ過ギヌ……クク、ヤハリ気付イテイナカッタヨウダナ?』

「くっ……テメェ」

 

 

 その(ヒル)(ウジ)が吸い付くような感触に、再び寒気が帰って来る。本当に吸血されている訳ではないだろうが、その不快感は、やはり正気を削り取っていく蛞蝓の歯舌のよう。

 落とした煙草が虚空に赤い軌跡を描き、アスファルトに緋の華を散らした。

 

 

『サァ、時ハ来タ。奇蹟ノ代償ヲ果タセ。貴様ノ求メヲ叶エタ我ニ、ソノ生命力ヲ捧ゲヨ。逃ガシハセヌゾ、久方振リノ活キタ血肉ダ――我ガ炉ノ一部トナレ!』

 

 

 禍々しく膨れ上がる、『妖蛆の秘密』の邪気。間違いない、この魔本は術者の『生命力』を欲している。

 それが例え、()()()()()()()()()()()()()なろうとも。

 

 

「――――ぷはっ! やっとあの臭いの片付けたかぁ……全く、さては今のはボクを近付けない為の、新手の旧神の印(エルダー・サイン)かい?」

「『――――?!」』

 

 

 その瞬間、饐え澱んだ空気の中に、一点の清涼な風が吹いた。

 

 

「やれやれ、蛆虫を呼んだんだからどれだけの達人(アデプト)かと思えば……ただのガキんちょじゃんさ。少しは期待したのにさ」

 

 

 背後からの軽やかな足音に動きを止めたのは、嚆矢だけではない。今の今まで蠢いていた『妖蛆の秘密』も、ピタリと。

 

 

「まぁ、いいや。お陰で伯父貴(オジキ)に良い手土産が出来た訳だし――――」

 

 

 まるで、蛇に睨まれた蛙のように。その動きを、止めていた。

 

 

――何だ、コレ……嘘だろ、体が動かねぇ……!?

 

 

 金縛りにでも遭ったかのように、硬直したその体。

 その目の前に現れた黄色の外套の後ろ姿に、破滅を悟る。漠然と、しかし確実に――この存在が、間も無く、何と無しに振り返るその仕草だけで……終わりだと。

 

 

「じゃ――――悪いんだけどさ。ボクも暇じゃないから、早速死んでもらうよ?」

「『――――――――」』

 

 

 そしてそれは、速やかに。翡翠の色味を纏った銀毛の、風に流れる美しい髪と共に、白金の瞳が見据えた――――

 

 

『――――オノレ、写本風情ガァァァァッ!』

 

 

 発狂したかのように、『妖蛆の秘密』が魔力を孕む。嚆矢の手から離れ、無数の蛆を弾丸の如く射ち出し――――

 

 

「――汚ったないなぁ。これだから、カビの生えた原本は」

 

 

 余裕のまま、外套の内から――――

 

 

「――飢える(イア)飢える(イア)星を渡る風(ハスター)! 汝、『大いなる無銘なりし者(マグナム・イノミナンダム)』!」

 

 

 『H&K USP Match』。制動器(コンペンセイター)照準器(レーザーサイト)を内蔵したカスタム型の、二挺拳銃を抜き放った。

 

 

「遊ぼうか――――蛆虫(ウェルミス)ちゃん? 大いなる一族(グレート・ワンズ)の儀式を記した程度で、『旧き世の支配者達(グレート・オールド・ワン)』に敵うつもりなら、さ?」

 

 

 背面に『クエスチョンマーク』を三つ組み合わせたような魔法陣を浮かべて獰猛に笑い、銃を横に倒した、所謂『馬族撃ち』で放つ銀の娘。その銃弾と砲声は余さず蛆を捉え、空中で汚物の塊に変えて地面の染みと叩き落とした。

 更に踏み込み、肉薄した彼女は銃口を突き付けた。それに、『妖蛆の秘密』は――――

 

 

『グッ……理解シタ。貴様ト我ニハ、埋メヨウノ無イ厳然タル実力差ガアル……』

「へぇ? 脳味噌まで糞尿(シット)舞踏(ダンス)してる割には、物分かりが良いみたいだね」

 

 

 嘲るように、降伏を受け入れた娘。くるくると回転させながら、その二挺拳銃を両腰のホルスターに仕舞った。

 

 

『――デアレバコソ、我ガ信念……奇襲ハ生キルノダ!』

 

 

 その背に向けて放たれた、蛆と蝿、臓物の触手。最早、躱しようのないそれを――――

 

 

飢える(イア)飢える(イア)無銘なる者(ハストゥール)……」

『ナン――ダト!?』

 

 

 右手に番えた『トーラス・ザ・ジャッジ』――――生半可な切り詰め銃身(ソゥドオフ)よりも殺傷範囲が広い、散弾拳銃の五連撃が全て挽肉(ミンチ)に変えて。

 

 

喰らえ(アイ)喰らえ(アイ)――――星を渡る風(ハスター)!」

『ギ――――ギャァァァァァァ!?』

 

 

 左手の『コンテンダー・アンコール』のライフル弾により、『妖蛆の秘密』を粉微塵と打ち砕いた。

 

 

「……汚い花火だ、ってね。やれやれだ、自殺志願者ほど救えないものはないよ」

 

 

 颶風と共に、再び拳銃を腰のホルスターに戻した彼女。全てを俯瞰するように、砕け散った『妖蛆の秘密』の紙片を踏みつけて。

 

 

「コレ以外は逃げられた、か……流石に、此処まで生き残った原本だ。簡単には消滅しないか」

 

 

 明らかに『書物』としては少ない破片に、初めて評価するように呟いた。

 

 

「――――――――」

 

 

 それを、至近距離の特等席で見守らされた嚆矢。生きた心地など皆無、いつ殺されても止む無しと穿った決意までしかけた程。

 渇き、張り付いた喉。他の、人外の主人公ならば、何か気の利いた事くらい言うだろう一場面。

 

 

「――――――――」

 

 

 そこで、彼は何一つ言葉を話す事も出来ずに震える。否、出来る方がどうにかしている。『無駄口を叩けば即死』の段で、意見するなど。

 

 

「へん、情けない奴……お前みたいな臆病者(チキン)、殺してやるまでもない」

 

 

 それを冷めきった眼差しで見詰めた後、娘は踵を返す。その掌に、()()()()()()()()()紙片を握って。

 

 

「じゃあな、人間……もう二度と、あんなものに手を出さないで生きるように心掛けなよ。ボクに殺されたくなかったら、ね」

 

 

 少しでも反骨の意思があれば殺す筈だった、呆気と怖気に囚われたままの嚆矢を他所に、逢魔の刻の宵闇に消えていったのだった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 白髪の男は、ホテルの一室でそれを待ち侘びていた。安いホテルらしく窮屈な浴槽に身を収め、サングラスのまま頭上からのシャワーを浴びながら。

 そこに、開け放していた窓から一陣の風が吹いた。

 

 

「……帰ったか、放蕩娘(クソガキ)

「だっ、誰がガキだよ、伯父貴(オジキ)!」

 

 

 頭から熱湯を浴びながらの軽口に、もうもうと立ち込める湯気。それを背景に、壮年の男性は湯船から身を起こす。

 

 

「俺の命令に逆らう奴ァ、全部が放蕩子(クソガキ)だ。クロウと言い、テメェと言い……また勝手に魔導書に関わりやがって。口で糞吐かされねぇとわからねぇか?」

 

 

 浅黒く、筋骨隆々のその体躯。間違いなく西洋の血のもたらす恩恵には、しかし弛まぬ修練の跡が見える。

 それに娘は、目に見えて焦りだした。まるで、苦手な上司に成果の報告をする時のように。

 

 

「うっ……で、でもさ、伯父貴! ボク、『妖蛆の秘密』の頁を一枚、手に入れてきたんだよ?」

「ほぉ、『妖蛆の秘密』ねぇ……」

 

 

 差し出された頁を、毟るように手にした彼。そして――

 

 

「ハッ、『遼丹(リャオタン)』の製造法……下らねぇ。猟犬にケツ追っ掛けられるだけだ」

「ああ~~っ!? な、何すんだよ伯父貴! 折角、手に入れた永遠の命を!」

 

 

 シャワーに浸して破り捨てた『永遠の命を与える』とか言う中国の神仙の秘術(チャイニーズ・マジック)の滅びを目の当たりにしながら、彼は――――

 

 

「で、『妖蛆の秘密』の持ち主を殺さなかったのはなんでだ、放蕩娘?」

「え――――?」

 

 

 そこで、生まれて初めての問いを受けた。彼女は、一連の自らの行動を思い返す。そうして、初めて『異物』の存在に気付いたのだ。

 

 

「いや、おかしいよ……だって、そんなの――――アイツ?!」

 

 

 そう、あり得ない。敵と、一度断じた相手を見過ごすなど。その事実に気付いた瞬間、彼女は『狩人』の顔を取り戻した。

 

 

「――――――狩る、次は、必ず」

 

 

 本来のあり方を取り戻した彼女には、最早悪鬼の表情をもって。

 

 

「次こそ、次こそは!」

 

 

 口惜しそうにそう呟いた彼女を、男性の苦笑いと宵の闇が包んでいた。

 

 

………………

…………

……

 

 

 客の無い店内で、男性はコーヒーカップを磨いていた。しっとりとしたブルースを奏でる年代物の金色の蓄音機、ブラインドの降りた窓からは銀色の月影が投げ掛けられている。

 

 

「……さて、今日はそろそろ店じまいですかね」

 

 

 男性がそう口にした、その刹那。勢いよく扉が開いて、人影が飛び込んで来る。それを驚きの欠片すら見せず、男性はニヒルな笑顔で彼を迎え入れた。

 

 

「やぁ、コウジくん。今日も良い豆が入ってますよ」

「ハアッ、ハアッ……ローズ、さん……」

 

 

 アンブローゼス=デクスターは、此処まで一休みすらせずに走ってきた、汗だくで息を切らせた嚆矢を。

 

 

………………

…………

……

 

 

 先程起きた事の全てを話し終え、嚆矢は珈琲を啜る。深炒りによる奥深い苦味とコクが、僅かに落ち着きを与えてくれる。

 そんな彼に、アンブローゼスは心底の謝意と共に頭を下げた。

 

 

「――こんな事に巻き込んでしまって、誠に申し訳無い。信頼していた入荷元だったのですが……どうやら、信頼しすぎて隠匿されていた『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』の頁を見逃していたようです」

「いえ、まぁ、死ぬかと思いましたけど何とか生きてますから……あんまり気にしないで下さい」

 

 

 端正な美貌を慚愧の念に歪めたアンブローゼスに、嚆矢は苦笑いを返す。

 

 

「にしても、聞きしに勝るヤバさの代物ですね、『魔導書(グリモワール)』って……」

「物にも依ります。大体は只の魔力炉のようなものですが、今回の『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』のような『原本』は自我すら持ちうる。しかも、並大抵の事では不滅ですからね……」

「不滅……じゃあ、もしかして」

「はい、恐らく……()()()()()()。君とかの魔本が存在している限り、近い内に」

 

 

 慄然たる思いで、その言葉を受け止める。あんな、正気を失いそうな化け物に魅入られてしまったなどと。

 

「……それにしても、『妖蛆の秘密』を知っていた修道女と女銃士(カウガール)ですか」

「何か、知ってるんですか?」

 

 

 思案するアンブローズに、嚆矢は水を向ける。しかし、魔導師は曖昧に笑っただけ。

 

 

「前者については、噂くらいは。何でも、『イギリス清教のとある部門必要悪の教会(ネセサリウス)には、全ての禁書を暗記して行使する――――禁書目録(インデックス)なる修道女が居る』という噂がありまして」

「『必要悪の教会(ネセサリウス)』に、『禁書目録(インデックス)』……」

 

 

 全く知らない単語を、記憶に刻む。正直、イギリスと言う国はエリン出身の義母の『最高級料理がフィッシュ&チップス』や『世界規模の侵略&植民地支配&奴隷売買の三冠女王国家』などの消極的宣伝(ネガティブキャンペーン)により、あまり良い印象はない国だが。

 

 

「眉唾物ですけどね。そもそも、あんなものを数万冊も読んで――――正気が保てると思いますか?」

 

 

 言われてみればその通りだ、と納得する。只の一冊、『妖蛆の秘密』だけでも、底無しの狂気に飲み込まれそうな程の邪悪である。

 あんなものを複数目に通すなど、あんなぽややんとした少女で耐えられるものか、と。

 

 

「話が脱線しましたね。今は、君を『妖蛆の秘密』から守る方法を考えなければいけませんでした」

「ですね、割と切実に助けて欲しいです……」

 

 

 折角の現実逃避から引き戻され、がくりと肩を落とす。思い返すのは、かの魔本ののたうつ不快な手触りと饐えきった生臭い腐敗臭。

 もう一度出くわせば、今度こそは狂える自信がある。都合の良い助けなど、もう現れはしないだろう。

 

 

「ふむ……そうですね、では、コレなど如何でしょうか」

「なんです、コレ……懐中時計?」

 

 

 差し出された、銀色の鍵を模したデザインの懐中時計。開かれている蓋、その内には――七つの支柱に固定された、紅い線の走る、黒い不揃いな切り出しの多面体。

 何の宝石かも分かりはしないが、その妖しい魅力は嚆矢の目を強く惹き寄せた。

 

 

「『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』と言いまして……古代エジプトのネフレン=カ王の時代の御守りのようなものです。この石を見せている間は、余程のモノでもなければ近寄る事も出来ないらしいですよ」

 

 

 その言葉に、偽りはないと何故か信じられる。それ程のモノだ、コレは。無条件で腑に落ちたその感慨に、ロケットに手を伸ばす。触れた銀の質感は、何故かしっとりと有機質だった。

 

 

「――――――――!」

 

 

 その刹那、悪夢を見た。響く横笛(フルート)の、か細く呪われた単調な音色。くぐもった太鼓の、狂える下劣な連打。

 それに合わせて無意味に踊る、■■どもの吐き気を催す輪舞。それを唯一の無聊とする、沸騰する混沌の玉座の只中に、退屈と飢餓に悶え、冒涜の言辞を撒き散らす盲目白痴の――――

 

 

「――――止めておきなさい。それ以上を見れば、最早戻ってはこれませんよ?」

「――――ッ!」

 

 

 強く肩を叩かれ、漸く正気を取り戻す。気が付けば、冷や汗と震えに夏の夜気等は遠く逃げ去っていた。

 比較にすらならない。あんな駄本程度、ここから覗いたモノの、どれにも及ばない。

 

 

「今、君が見た通り……そこから見える風景に在る『者共』の為に、この世にある程度の存在であれば近付く事すら容易ではありません。それで、『妖蛆の秘密』が諦めるまで持ち応えてください」

「結局、我慢比べっすか……まぁ、得意技ですけどね」

 

 

 すっかり冷めた珈琲を啜り、辛うじて人心地付いた。どうにか、安心とまでは行かずとも納得出来る対処が望めたのだから。

 となれば、後の懸念は只一つ。

 

 

「で、こうなったからには件の錬金術の教書は勿論、タダで戴けるんですよね?」

「やれやれ……先日の台詞、そのままお返ししますよ」

 

 

 苦笑したアンブローゼスが、カウンターの上に三冊の本を置いた。

 

 

「右から、『錬金の鍵(クラヴィス・アルキミエ)』に『賢者の石(デ・ラビデ・フイロゾフイコ)』……そして、最後の一冊だけは君に紐解いて欲しい」

「今度は呪われてませんよね?」

「私が直接確かめてあります。最後の一冊は、私には再現不能な術式だったので不明ですが」

 

 

 渡された三冊を念入りに見るが、邪悪さなどは見受けられない。否、中身を吟味するまでは『妖蛆の秘密』だってそうだったのだから、気は抜けないが。

 それより、何より――――アンブローゼスにすら再現不能な術式とは何か。その方に、嚆矢は寧ろ興味を惹かれた。

 

 

「……良い目です。それでこそ、私の弟子だ。しかし、こんな人外の境地に足を踏み入れてまで、君が成したい事はなんです?」

 

 

 目の色を変えた弟子に、魔導師は笑い掛ける。黄金の蜂蜜の瞳は爛々と、燃え盛るような紅玉の瞳を見詰め返して。

 

 

「勝たなきゃいけない相手がいますから。訳の分からない強さのソイツに勝つには、こっちだって、訳の分からないくらい――努力しないと」

 

 

 悪辣に微笑み返す。脳裏には、只一人――――彼の知る内、最も強いその後ろ姿。

 

 

第七位(ナンバーセブン)に勝つ為に、俺は――――他の誰より、努力しないと」

 

 

 決意を新たに、琥珀色の満月を見上げた――――。

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