Shangri-La...   作:ドラケン

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第2章・chapterⅠ 幻想御手事件/Foundation
七月二十日:『千里の道も一歩から』


 

 

 目を醒まして、先ず感じたのは最悪な悪夢の残滓。窮極の宇宙の神苑(しんえん)、混沌の玉座の只中。辺りに響く横笛の呪われた音色に、太鼓の狂った連打。痴れ踊る雑多な■■共に囲まれ、意味の分からない冒涜の言辞を撒き散らす――その■■■(■■■■■■)に抱かれるように。

 

 

――考えるな。考えれば、死ぬ。理解すれば、間違いなく心が死ぬ。

 醒めるまで耐えろ。理解せずに、思考せずに。

 

 

 後少し、ピントが合えば。彼の自我など霧か霞の如く霧散する。沙漠に降る、雨と同じ。

 気紛れに、天壌無窮の()()()()の遊び心に、たまたま抱かれているだけ。地を這う虫けらに、たまに気を引かれるように。

 

 

百分の一(サイアク)なんてモンじゃねェ……百分の零(ジゴク)だぜ」

 

 

 その全てを意識の外に振り払い、呟く。昨日は錬金術の修練に費やして翌日朝まで貫徹、終業式で大変な事になった。なのでたっぷり八時間休眠を摂ったのに、寧ろ疲れが増した程だ。

 今日は海の日なので、配達が無いのがせめてもの救いである。

 

 

「……今日から夏休みだし。九時からは、飾利ちゃんと白井ちゃんと一緒に活動だし……上手くいけば、今年の夏こそは『ドキッ! 野郎だらけの虚しい夏』を回避できるかもだし……両手に花とか男の夢だし」

 

 

 等と、カーテンを開いて群青菫(アイオライト)に染まり始めた夜明けの空を眺める。その風景とは似ても似つかない、汚れた心持ちで。因みに、そんな事を考えるから友人二人からはロリコン呼ばわりされるのである。

 手元には、『輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)』。アンブローゼスによれば、それは『中の宝石を露出している間』だけ効果を発揮する物、らしい。

 

 

 『ならば、いっその事懐中時計の蓋を閉じてしまおうか』と、一瞬だけ逡巡して。

 

 

――止めとこう。閉じた瞬間に『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』に襲われるとか嫌だし。

 

 

 そう結論付け、閉じないように気を付けて――その可動部に魔力を流す。無論、『制空権域(アトモスフィア)』で反動は最小に。今回は、タンスの角に小指をフルスイングしたレベルの頭痛が走った。

 

 

「これで良し、っと。初歩的なもんなら、もうイケるな」

 

 

 何処かの『錬金術士』とは逆に、蓋が閉じないように『錬金術』により結着したのである。

 その後、眠気と寝汗を流す為に風呂に向かう。ともかく、熱い湯を浴びたかったのだった。ちなみに、このメゾン・ノスタルジのトイレと風呂は共用。部屋の外である。

 

 

――さて、風呂浴びたらギリギリまで寝るか……。

 

 

 と、携帯のアラームを設定し直しつつ着替えを片手に欠伸を噛み殺し、嚆矢は風呂に向かった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 支度を終えて階段を降りたところで、掃き掃除をしている和服に割烹着の後ろ姿を見付ける。

 

 

「おはようございます、撫子さん」

「あら、お早う御座います、嚆矢くん」

 

 

 挨拶すれば、態々手を止めて朗らかな笑顔と挨拶を返してくれる。それだけで、今日も一日頑張れる気がした。

 

 

「そうだ、嚆矢くん。昨日の夜、停電があったんだけど大丈夫だった?」

「あ、昨日は早目に寝たんで分かりませんでしたよ」

「だから返事がなかったのね……それにしても、たまには織姫一号の予報も外れるみたいね」

 

 

 全く気付かなかった昨夜の出来事、その万分の一以下の出来事を見逃したのかと思うと少し残念な気分になる。

 と、撫子の視線が嚆矢の胸元に落ちる。そこには、いつものラビッツフットと――

 

 

「あら、アクセサリー、増やしたのね? なかなか素敵な懐中時計じゃない」

「あ――あはは、そんなに良いものじゃありませんよ」

 

 

 『寧ろ最低最悪の部類と言うか』と言いかけて止める。別に止められてはいないが、一般人に魔術の域を垣間でも見せるのは、嚆矢としては好ましくないと考えているが故に。無論、時と場合によるが。

 

 

「じゃあ、行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」

 

 

 腕の腕章を確かめながら、笑顔に送り出される。その道すがら、いつも通りに缶珈琲を買い、ルーレットを当てる。

 今日もまた、いつもと変わらない。平穏な、実に穏やかな始まりであった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 薬品の臭いが鼻を衝く。この病院と言う場所は生来苦手な場所だが、今日は昨日の落雷により冷房が使えないらしく、更に蒸し暑さまで加わり最悪の気分だった。

 そんな場所に、何故居るのか。単純な話だ。

 

 

「チッ……何が悲しくて、野郎の診察待ちなんてしてんのかね、俺は」

 

 

 吹き出す汗を拭いつつ、愚痴る。というのも、『虚空爆破(グラビトン)事件』の犯人、介旅初矢が取り調べ中に昏倒したからである。

 

 

――何でも、今朝いきなりらしい。しかも、落雷で連絡網が寸断されて俺の携帯までは回って来てなかったっぽい。いつも『巨乳』ティーシャツを着てるおむすびくん(仮名)に謝られた。

 何せ、支部に顔を出したらいきなり、この『水穂機構病院に行け』と交通誘導に行くみーちゃんに追い払われたからな……。

 

 

 じわじわと、拭いても汗は滲み出てくる。こんな陽気でとは、運命とはかくも残酷である。これなら、風の吹く屋外の方が幾らかマシだろう。

 『朝っぱらから一人でなにやってるんだろう』とか『今ごろ、空想上の生物・リア充さんは彼女とプールででもキャッキャウフフしてるんだろうな』と不貞腐れつつ、腕組して窓の外の日盛りを眺める。

 飛び乗った飛蝗が熱そうにピョンと跳ね退いた、白いタイルが怨めしかった。

 

 

「こちらですの、お姉様」

「わかった、わかったから……うう、眠い……」

「ん――よっ、白井ちゃん、御坂」

 

 

 と、そこに空間移動(テレポート)で現れた黒子と美琴。そんな二人に、努めて朗らかに嚆矢は挨拶した。

 

 

「……では、主治医の方にお話を伺いますの。お姉様、行きましょうか」

「あー……あたしはパス。ここで待ってるわ」

「そうですか、では私だけで行って参りますの」

 

 

 美琴の言葉に、『じゃあ白井ちゃん、一緒に行こうか』の言葉を発しかけたままで嚆矢は押し黙った。ここまで徹底的な牽制を受けては仕方在るまい。そこまで空気が読めなくはない嚆矢であった。

 その黒子が通路の奥に消えた後、美琴が側に寄ってきた。

 

 

「ちょっと、対馬さん。黒子と何かあったんですか?」

「う~ん、やっぱり目の前で、ちょっとした風紀違反をしたせいかな」

 

 

 苦笑しながら、面白そうに詰め寄ってきた美琴に答えた。流石に喫煙した、とまでは言わないが。

 

 

「お願いしますよ、対馬さ~ん。応援してるんですから。もしも黒子が対馬さんとくっついたりすれば、私の肩の荷が下りるんだし」

「それが本音か……けどまぁ、天地八卦を返しでもしなきゃ、それはないなぁ……」

 

 

 近くの自販機でジュースでも奢ろうと近寄る。流石に自販機は災害時用の電池内蔵型、冷たいジュースが出てきた。それを投げ渡すと、美琴は健康的な笑顔を見せてくれた。

 

 

「しかし、『幻想御手(レベルアッパー)』……だっけか? 『使用すれば能力の強度が上がる』なんて胡散臭いもの、実在したなんてな」

「ですねぇ、頼りたくなる奴らの気が知れませんけど」

 

 

 それが今、風紀委員が追っているものである。最近、急にネット上で有名になった『プログラム』。

 どういったものかは不明だが、件の爆弾魔もそれを使っていたらしい。そして、散見される『書庫のデータと実際の能力値が噛み合わない事件』との繋がりも睨まれている物だ。

 

 

「まぁ、御坂には解らないだろうなぁ……努力で何とかしちまったわけだし。けど、『努力の芽』も見えない奴らからすれば、喉から手が出る程欲しいもんだろうよ」

「そこが分かんないんですよ。だって、『自分だけの現実(パーソナルリアリティ)』に他人のデータを取り込むなんて、気持ち悪いじゃないですか」

「ハハ、まぁそりゃあな。俺もゴメンだわ、俺は俺だし」

 

 

 珈琲を啜りながらの賛同に、『でしょ?』とジュースに桜色の唇を付ける。元が良いだけに、それだけでも絵になるのが御坂美琴である。

 だからか、今日は――目の下の、僅かな隈が目立った。

 

 

「寝不足か?」

「えっ? あ、まあ、ちょっと野暮用で……」

 

 

 問えば、何かを思い出したのか――凄く嫌そうな顔をした後、有耶無耶にするように笑った。

 

 

――ほ~、こりゃあビンゴかな。

 

 

「そうかそうか、なるほどなるほど」

「……対馬さん。何ですか、その腹立つ笑顔?」

 

 

 なので、少しさっきの意趣返しと洒落こむ事にした。

 

 

「いやぁ、妙齢の女子が夜も眠れなくなるなんて……やっぱり御坂もお年頃だな。心配してたんだぜ、もしかして白井ちゃんと同じ趣味なんじゃないかと」

 

 

 亜麻色の髪を軽く掻きながら、捕らえた獲物を溶かす食虫植物の溶解液のように濃密な蜂蜜色の瞳で美琴を見遣る。

 嚆矢が発したその言葉は、美琴の鼓膜を揺らし、その脳裏に……ある人物の姿を想起させた。

 

 

「なっ――バカ言ってんじゃないですよ! 昨日はちょっと、あの天災(バカ)野郎のせいで一晩中……」

 

 

 と、そこで彼女は、院内で大声を出すというマナー違反に気付いて言葉を切る。因みに、最悪の部位での尻切れ蜻蛉だ。

 

 

「あ~、そっちの意味で寝不足だったのか!」

 

 

 等と、嚆矢が悪ノリした程に。

 

 

「…………っ」

 

 

 後に、近くにいた患者は語る。『ブチッて音が、リアルに聞こえましたよ。ええ、比喩でもなんでもなく。ええ、一撃でしたよ。あれはもう、電気ショックとかそんなレベルじゃあなかったんじゃないかな……治療とかしても、もう無駄なくらいに黒こげでしたよ』と。

 超能力者(レベル5)をおちょくるのは命懸けだと再認識した、蝉の煩い夏休み初日の午前だった。

 

 

………………

…………

……

 

 

 美琴の前に黒子が戻って来たのと、その女性が現れたのはほぼ同時だった。

 

 

木山 春生(きやま はるみ)だ、大脳生理学を研究している」

 

 

 ワイシャツにタイトスカート、白衣といういかにもな服装の、目の下の隈が酷い女性は気怠げに自己紹介した。要するに、今回の件での診察に当たっている学者だ。

 黒子と美琴が答えると、春生は少し驚いた顔をした。学園都市にたった七人しかいない超能力者(レベル5)の名は、案外に売れている為だ。

 

 

「あの第三位、『超電磁砲(レールガン)』と会えるとは光栄だ。ところで……」

 

 

 と、蒸し暑い室内に薄く汗をかいた春生が廊下の隅っこを眺めて。

 

 

「あそこに転がっている消し炭はなんなんだ?」

「ああ、ただの未元物質(ダークマター)ですから気にしないでください」

第二位(ホンモノ)に謝れ御坂……ケホッ、風紀委員の、その第三位のMAX二億ボルト放電(ヴァーリ)に耐えきった対馬嚆矢です」

 

 

 黒焦げで転がっていた嚆矢がフラフラと立ち上がって自己紹介するも、『そうか』の一言で終わる。美琴とは違い、掃いて捨てるくらい異能力者風情で名が売れている者などは居ない。

 ある意味、今回の事件で『介旅初矢』等は名が売れたかもしれないが。

 

 

「あれ、対馬先輩……?」

「ん――おお、蘇峰。何してんだ、こんなとこで?」

 

 

 背後からの声に振り向けば、そこに立っていたのは白皙の美少年。嚆矢の後輩の合気道部主将である蘇峰古都である。

 夏休みだと言うのに学生服に身を包んだ彼は、やはり汗を拭っていた。

 

 

「停電があったので、此処に入院している祖母の事が気になって……対馬先輩は、風紀委員の活動ですか?」

「おぅ、『虚空爆破(グラビトン)事件』ってあったろ? あの犯人が倒れてな、もしかしたら『幻想(レベル)――――」

「――対馬さん!」

 

 

 百五十に満たない小柄な古都と百八十前半の嚆矢が並び立てば、差は歴然だ。否、今はそんな事はどうでもいい。問題は、つかつかと詰め寄ってきた黒子だ。

 

 

「部外者に事件の情報を漏らすなんて、何事ですの! 全く、貴方には風紀委員としての自覚が足りませんわ!」

「うぐっ……ご免なさい」

 

 

 至極当たり前の事を、年下から怒られてしまった。後輩の前で情けないとは思ったが、悪いのは自分。甘んじて受け入れた

 

 

「おい、常盤台の……年上の、しかも男性にその口の聞き方は何だ? 『学舎の園』では、目上の相手への礼儀すら習わないのか?」

「あら――随分と前時代的な事をおっしゃいますのね? 流石、『武の頂』と言われる弐天巌流だけに、生徒は武骨しかいらっしゃらないんですの?」

「前時代的なのはそちらも同じだ、女子だけの共同学舎? 聞こえはいいが、要するに人の半分を排他した隔離病棟だろう、常盤台」

「な、なんですって……!」

「お、落ち着け古都。ほら、ここ病院だぞ?」

「そうよ、黒子。風紀委員が風紀を乱してどうすんのよ」

 

 

 嚆矢を庇うように立った古都が、黒子と舌鋒を交える。大声に自然と衆目が集まり、慌てたのは嚆矢と美琴の二人。

 

 

「と、ところでやだなぁ、対馬さん。さっきの電撃は十万ボルト有るか無いかだし、第一、私のMAXは十億ボルトですよ」

「ちょっとやだこの娘、殺す気満々だし、(ゴッド)の五倍の出力有るよ。誰かゴム人間呼んできてー、金塊も持ってきてー」

 

 

 二人の諫言の間と場を和ませようとする下らない寸劇(コント)の間も、緊張が高まっている。まるで矢を番えて引き絞られた弓の弦のように、今し切れんとする伸びきった護謨のように。

 

 

「第一、これは風紀委員の内輪の問題ですの。部外者はひっこんでいてくださいですの!」

「貴様――!」

 

 

 それが、弾ける。今にも能力者バトルに突入せんとした黒子と古都、その二人を――

 

 

「いい加減にしろって――――!」

「っ――ぐっ?!」

 

 

 少しだけ、表情を強張らせた嚆矢が古都の腕を背中に回して締め上げて。

 

 

「――――言ってんでしょうがーっ!」

「ふぎゃ~~っ?! でも少し嬉しいですのぉ~っ!」

 

 

 キレた美琴が、電撃で黒子をこんがりときつね色に焼く。周りが何事かと、それを眺めていた。

 

 

「――一体何事ですか、騒々しい」

 

 

 そこに響いた、怜悧な女性の声が響く。腹の底からの、強い声だ。

 

 

「忘れ物を持ってきてみれば――何事ですか、と問いました……古都」

「お、お祖母(ばあ)様……」

 

 

 目の前には(かんざし)で髪を結い上げた、藤色の和服の老年の女性。古都から『お祖母様』と呼ばれた女性は、意思の強そうな瞳で古都を射竦めた。

 

 

「何と言う為体(ていたらく)ですか、古都! あれほど、あれほど蘇峰家の末席として強く在れと命じたと言うのに……」

「あっ――ち、違います、お祖母様! これは、その」

 

 

 それが、糾弾に歪んだ。明らかに『負けている』様相の孫に向けて。それは、弁解の余地すら無く。

 

 

「言い訳は結構です。そんな事だから、多寡だか大能力者(レベル4)になった位で自慢気に現れたりするのです――――!」

 

 

 蔑むように、老婦人は何かを足元に投げ渡した。それは――――どうやら、音楽を聴く為の端末機器。

 

 

「頂点に立てと、そう命じた筈です。少なくとも、世間と比べれば矮小なこの学園都市(せかい)の中でくらい――――超能力者(レベル5)にくらいはなりなさい!」

 

 

 吐き捨て、誰も彼もが圧倒された中で、嚆矢を振り払った古都がノロノロと端末機器を拾う。酷く、それは、酷く惨めな姿だった。さながら、日の当たらぬ葉っぱの裏側を這う芋虫(イモムシ)のように。

 

 

「申し訳、ありません……お祖母様」

 

 

 漸くの声に、答えはない。女傑は踵を返し、情けないと断じた孫の前から去っている。

 

 

「…………」

 

 

 何とも言えない気まずさが、場を支配する。一人、また一人と無遠慮な衆人が失せていき――残ったのは嚆矢と古都、美琴と黒子と、春生女史のみ。

 

 

「……先輩」

「ん――ああ、何だ?」

 

 

 俯いた後輩の問い掛けに、努めて語調の抑揚を抑える。何の感情も籠めない事で、全ての言葉に対応できるよう。

 

 

「貴方は――――誰の味方ですか」

「――――――――」

 

 

 悲痛とすら言っていい、古都の問い。それに対する、嚆矢の答えは――――只一つだ。

 

 

「決まってんだろ――――俺は何時でも、女の子の味方だ」

 

 

 言い切った。断言した。彼にとっては――赤枝の騎士団(レッド・ブランチ)の末席たる『対馬 嚆矢』にとっては、『誓約(ゲッシュ)』に裏打ちされた真摯な言葉。

 だが、悲しいかな。それは現状、到底的を得た言葉足り得ず。

 

 

「……ですよね。そうでした。そうだ、僕は――――そんな貴方が、死ぬほど大嫌いだったんだ!」

 

 

 吐き捨て、先程の女傑と同じく歩き去っていく古都の後ろ姿を見送る。確かに、血族であるようだ。

 

 

「……サイッテー」

「……最低ですわ」

「言われなくても」

 

 

 正直すぎる自分を嘲笑いながら、病院を離れていく美琴と黒子、よく分からないままに連れられていく春生。それすらも、軽く見送って。嚆矢は、懐から携帯を取り出してコールした。

 

 

『現在、電話に出ることができません。ご用の方は、ピーと言う発信音のあとに……』

 

 

 繋がったのは、彼女らしい留守電。そこに――

 

 

「やあ、みーちゃん。時間無いから手っ取り早く済ますよ。ワリィんだけど、持病の癪で早退するわ。ち、違うんだからね! 蒸し暑いからとか、そんなんじゃ絶対ないんだからね!」

 

 

 態態(わざわざ)、ツンデレ風な捨て台詞を残して通話を切る。数秒待てば、けたたましく鳴る携帯。画面には、『固法 美偉』の文字。

 それを、ボタンを押して答えた。『電源』ボタンを長押しして――――

 

 

……………………

…………

……

 

 

 久方ぶりの暇な午後、何をしようかと人でごった返す街路を歩く。商店、喫茶店、ブティック、露店商。あらゆる職種が其処に在る。群がる人波は、まるで甘味に集う蟻の如く。

 その中を、無目的に歩く。別段、用事が在った訳ではない。嚆矢は、胡乱な蜂蜜色の瞳をぼんやりと辺りに彷徨わせながら、殉教者の如く歩き続ける。

 

 

「暇だねぇ」

 

 

 そんな事を呟きながら、無駄に人目を引く亜麻色の髪を掻き毟り、欠伸混じりに煙草を取り出した。暇潰しの道具(ツール)を。

 この無為の世界の中で、紫煙(これ)と酒の酩酊だけが、色付く虹なのだと叫ぶように。

 

 

――止めろ、嚆矢。今のお前は、『対馬』だ。その筈だ。

 

 

 本能がそう、警告を鳴らす。思い出したのは、煙を燻らせた己に向けられた――黒子の、冷やかな眼差し。

 辛うじて、理性が働く。別に、本能と理性は背反しない。煙草を諦め、懐に仕舞う。今は、その時ではないと。時間なら、この後に『無限に在る』と。

 

 

「さて、と。そろそろ、頃合いだな」

 

 

 焦燥に導かれるまま、掌を伸ばす。右腕、何の変哲も無い、その、開手の右腕。昔は、望む全てを。それこそ、()()()()すらも掻き掴んだ悪性の右腕。最近は、随分と綺麗になってきたが。

 誰か、預かり知らぬ存在の――――そんな、願いに沿うように。嚆矢は苦笑いを浮かべながら、

 

 

「『仕事《ビズ》』の仕込みと、洒落混むか」

 

 

 今日、夕方に会う予定となっている――――暗部組織の構成員との、繋ぎの為に。仕事とはいえ、頭が痛くなる。元来、煩わしい事は嫌いな性質だ。

 

 

――名前は、昔の『通り名』を使えばいいとして……能力(スキル)だな。無能力者(レベル0)を気取る? 能力者の集団で? 無いな、けど……『確率使い(エンカウンター)』を名乗ったら一発でバレるしなぁ……。

 

 

 頭を悩ませる。それは、喫緊に差し迫っている。確かに分かりにくい能力だが、それだけに目立つ能力だ。

 だから、割り切るしかない。全ては、『仕事』だ。選り好みなどしていられない。

 

 

「あ~あ、ホント、最近ツいてねぇなぁ……」

 

 

 頭の後ろで手を組ながら、悪態を吐く。女の子と後輩からの評判はがた落ち、仕事はやりたくもない内容。辟易する。もういっそ、学園都市なんかとはおさらばしてやろうか、等と。出来もしない、やりもしない事を思って。

 

 

「――――――――」

 

 

 すれ違った、黒髪の少女。それに、目を奪われた。

 何が特別だった訳でもない、何の変哲も無い、強いて言うなら巫女装束なくらいか。表情に乏しい、人形じみた、普通なら気にも留めないような――極々、『普通な』少女だ。

 

 

「っ――――!」

 

 

 そんな少女の後ろ姿を、追う。何に惹かれたのかも、良くは分からない。だと言うのに、焦燥にも似た感覚が身を焦がす。その、身に纏う雰囲気とでも言うべきものに、惹き付けられている。

 それは――誘蛾燈に引き寄せられて自ら焼け死ぬ、愚かな蟲のように。抑え難く、堪え難い。愛を歌う為の、致死の罠。

 

 

「――――?!」

 

 

 角を曲がった背中を追い、息を急ききって人並みを掻き分ける。

 何事かと、周囲の人間達が目を向ける。一切、どうでも良い事だ。種族(ニンゲン)など、雑草としか感じ取れない――種族(カレラ)には。

 

 

「おっと」

「ッ――あ、すみません」

 

 

 そこで、人とぶつかった痛みに我に返る。眼前には、赤いセミロングの髪に左目の下にバーコードのような刺青をした、黒いローブの大男。

 焔の如き蜂蜜色の黄金瞳に、理性が戻る。身を焦がす衝動も、こうなれば容易い。『武の頂』と例えられる弐天巌流の合気道部を率いた彼、『制御できない装備など無意味』として精神修練に最も重きを置く校風に裏打ちされた、強靭な精神力を遺憾なく発揮し――――まるで、()()()()()()()()()()()()()を抑え込んで。

 

 

「何を急いでいるかは分からないが、気を付けたまえよ。肩が触れた、それだけで暴力に走る輩もいないことはない」

「あ、は、はい……すみませんでした」

 

 

 恐らくは年上だろうその男に向かい、謝罪する。確かに今のは、自分が悪い。『女の尻を追っかけていて前方不注意』など、九州男児を標榜する義父に知れたら拳骨ものである。

 

 

「分かって貰えればそれでいいよ。ところで――――」

 

 

 そこで、男は口を開く。実に、実に困ったように。そのポケットから――煙草を取り出して。

 

 

「実は、そろそろニコチンとタールが切れそうでね……この近くに喫煙所、あるかい?」

「ああ、ええ、まあ……二分くらい掛かりますけど」

「助かるよ。まさか、都市全体が禁煙とは思わなくてね」

 

 

 苦笑しながら――――煤の色と臭いの男は、嚆矢の蜂蜜色の瞳を見詰めた。何となく、憎めない……まるで年齢は反対だが、弟のような。

 

 

「ああ、そうだ。僕は――――ステイル=マグヌス。君は?」

「対馬嚆矢です、マグヌスさん」

 

 

 だから、つい。先ほどまでの気晴らしにと、この――――見ず知らずの男と一服しようかな、くらいの軽い気持ちで。

 その歩調を、魔女狩りの燃え盛る焔のような男に合わせた――――。

 

 

………………

…………

……

 

 

 喫煙所は、無人だった。つまり、嚆矢とステイルで貸切り状態。

 身の丈二メートルの大男と、身長こそ及ばないものの(しな)やかに鍛えられた筋肉量(からだつき)は男を上回っている武闘派の少年。二人だけでも、何とも胃もたれしそうな密度(こゆさ)である。

 

 

「どうぞ」

「ああ、すまない――なんだ、君もイケる口か?」

 

 

 安い煙草を銜えたステイルに、百円ライターを差し向けた嚆矢。己も、煙草を銜えて。

 

 

「大変だろう、来て初めて、地上(グランドフロア)には喫煙者(スモーカー)の安寧はないと思い知らされたからな」

「はは、違いない」

 

 

 それに、ステイルはフッと、アンニュイな微笑を見せた。赤い、自身の髪と同じ色の焔を煙草の先に煌めかせ、紫煙を棚引かせる。随分と慣れた、その仕草。

 同じく、嚆矢も紫煙を燻らせる。吐いた煙が、天井の吸気口に呑み込まれていく。

 

 

「「――――甘露だ」」

 

 期せずして同じ台詞を吐き、共に虚空を見詰めたままで薄く笑い合う。同じ嗜好品を嗜む、これも共感覚性だろうか。

 狭い、喫煙者の立場を表すかのような狭小な喫煙所内。手を伸ばせば顔面に拳を決める事も、それを拉いで叩き付ける事も造作の無い距離。即ち、互いの必殺の間合いで。

 

 

「それ、中々良いアクセサリーだ。何処で手に入れたんだ?」

「ん――ああ、『兎足《こっち》』は母に。『懐中時計(こっち)』は……先生から貰ったんです」

「母に、先生か」

 

 

 繁々と、嚆矢の首から下がる二つのアクセサリーを眺めたステイル。値踏みでもするかのように、二つを眺めた後。

 

 

「『幸運の護符(アミュレット)』と『共有世界の神話体系(シェアード・ワールド)』の魔道具……随分と手の込んだ話だが、想像通りならば然もありなん」

「え? 何ですか?」

「いや――――随分と、見込まれているようだと思ってね」

 

 

 煙を吐き、小さく何かを呟き、またも気怠そうに微笑んだステイル。その瞳には、何故か――――憐れみのような色が在って。

 

 

「さて、じゃあ本題に入ろうか。対馬嚆矢君。君は、仇為すか?」

「仇為す? それは、何に対して? あんたの――――十字教に対して、かい?」

 

 

 ステイルの言葉に、半ば呆れたような嚆矢の声と――――蜂蜜色の黄金瞳が返る。ステイルと同じく、無害を装う魔瞳が。

 

 

「隠しても分かるさ。義母(かあ)さんの嫌いな英国(ブリテン)訛り。一階をグランドフロアと呼んだ、アンタ」

「……ふ、なるほど。墓穴を掘ったか。しかし、君の母親は『アイルランド闘士(IRA)』か何かかい?」

 

 

 微笑に返るのは、微笑のみ。余りにも穏やかに酌み交わされた、余りにも緊迫した殺意。応酬などしない、暗殺者同士の確認作業だ。

 

 

「まさか。只の、良く居る英国嫌いの主婦さ」

「それは、それは。清教側の僕としては――」

 

 

 焔の如き男が、笑いながら肩を叩く。軽く、軽く。殺意などなく、ただただ――――

 

 

「――『沈静(イス)』、『沈勢(ナウシズ)

』、『鎮勢(ハガル)』」

 

 

 軋むように重厚な、神刻文字(ルーン)を唱えた――――!

 

 

「――――――――!??」

 

 

――刹那、崩れ落ちるように視界が下がった。文字通り、崩れ落ちた為に。『消沈』の意味を持つ、三大ルーンを刻まれた為に。

 何もかも、面倒になる。呼吸をする事も、思考する事すらも。果ては――――生きる事すらも。

 

 

 くず折れ、無様に横倒しになった視界の端。水晶体が像を結ぶ事すらも拒絶したそこで。巨漢の魔術師は、紫煙を燻らせる。何時でも始末できると、余裕すら浮かべながら。

 

 

「――もう一度問おうか、在野の魔術師……君は、仇為すか?」

 

 

 再度の、強制力すら感ぜられた呼び声。焔の魔術師の声に、嚆矢は――――

 

 

「――――決まってンだろォがよ、俺は、俺の味方だ。今も、昔も……!」

 

 

 『軍神(テュール)』を幾度も刻みつつ恫喝じみて返した、その応え。場所が場所なら、補導済みだ。吐き気や自殺願望と。くしゃりと吸いかけの煙草を握り潰して、嚆矢は――――口を、口だけを開いた。

 

 

「憐れだな、魔術師。アンタの願いは、叶わない。永遠に――其処には到れない。誰か、アンタ以外の為の場所には。アンタだけは。いやはや、残念だッたな」

 

 

 嘲笑うように蜂蜜色の漆黒を湛えた黄金瞳が歪む。組み敷かれたまま、目の前の道化を嘲笑って。

 嗜虐に歪んだ瞳に、憤怒にまみれた――――

 

 

「――――ああ、全くだ。残念でならないよ、『■■■■■■』。僕らにただ、囁くだけの者」

 

 

 焔の魔術師は、変わらずに紫煙を燻らせて。何か、酷く耳慣れない言葉を吐いた。

 男の手に握られた煙草の火により、十字が切られる。身が引き裂かれる。何故かなどは二の次で良いと、死にかけた体が叫んでいる。ただ、ただ――

 

 

「――――」

 

 

 その身を突き動かす、衝動。『死ねない』と。

 浅ましくも、忘れ得ぬ感傷が――――全てを機械化されたこの都市では、センサーが感じ取る。

 

 

「――――チッ」

 

 

 鳴り響いたのは、火災報知器。こんな場所にまで行き届いていたのかと、魔術師は眉を潜め――――少年の一撃を受けた。避けられず、受けざるを得なかったのだ。

 

 

「――――ッ!??」

 

 

 肩口に、『何か』を。見る事も、叶わずに。その、『指先』から煙草が――――。

 

 

「……運の良い。僕は、僕の魔法名を明かさない相手は殺さない」

 

 

 そう告げて、去っていく後ろ姿を見送るしかない。『殺す価値もない』と告げられて、それを僥倖だと感じられるのならば。

 

 

「…………」

 

 

 最早、言葉はおろか、指一つすらも動かせない。それだけ、ステイル=マグヌスのルーンは強大にして抗えぬものであった。

 当然だ、彼は――――嚆矢の知らない、幾つもの独自ルーンを知っているのだから。

 

 

「……なるほど。大したものだ、その程度で、此処まで」

 

 

 まるで、礼賛するような――――ステイルの調子を。甘んじて、受け入れた。

 

 

「――――大した根性だよ、吸血魔術師(シュトリゴン)

 

 

 その言葉を塩に、嚆矢は――――意識の手綱を手離す。ステイルの、口端の……嘲りを、受けながら……。

 

 

………………

…………

……

 

 

――冷たく沈んだ意識。それは、昔……何処かで感じたもの。

 

 

 瞼すら開けられない、魔術由来の倦怠感。肌に注ぐ消火用のスプリンクラーの水にも、そればかりは洗い流せはしない。

 ただただ、体温のみを奪い去り。この身体を、更に固く強張らせていく。

 

 

――()()()とは、真逆。しかし、心を凍てつかせる作用は全く同じ。

 あの、炎と揮発油の香りと――――腕の中で、冷えきる……。

 

 

「――――ステイル……マグヌス!」

 

 

 動く事を拒絶する口で、視界から消えたその名を呼べば、沸き上がるように。『無意識の領域(AIM)』から――――

 

 

『――――助けてやろうか?』

 

 

 掛かった声は、まるで無数の蛆がのたくるような。不快感しか感じない、そんな――――声に擬装した雑音(ノイズ)

 

 

『代償は……その生命だがな』

 

 

――懲りねェ奴だなァ、テメェもよォ……『妖蛆の秘密(デ・ウェルミス・ミステリィス)』。第一、それじゃ意味ねェだろ。助かりたいが為に命をドブに棄てる莫迦が居るか。

 

 

 如何に極限の状況下と言えど、まさか暖を取る為にニトログリセリンに火を灯す者など居るまい。魔導書との契約は、そう言った類いの物だと。師である男は言っていた。

 

 

『莫迦は貴様だ、嚆矢よ。何も今、吸い尽くすとは言っていない……奪い尽くす事は前提だが、我が魔術行使の代償として適宜奪うように妥協してやろう』

 

 

 それを見抜いてか、今までとは正反対に。まさに、助け船の如く有り難い余裕をもって、まだ見ぬ“妖蠅王(ベルゼビュート)”は語り掛けてくる。

 

 

『どうする? あの男が、このままお前を見逃したままにしておくと思うか? 今頃、奴の結界で覆われたこの小部屋に他の魔術師が迫っているやも知れんぞ?』

 

 

 確かに、その通りだ。殺さず、態々『無力化』した意味は……『捕獲』を除いてはあり得ないだろう。そんな事は、嚆矢も分かっている。何故に捕獲されるのかは、未だ確証はないが。

 

 

『さぁ、我を呼べ。その忌まわしい“輝く捩れ双角錐(シャイニング・トラペゾヘドロン)”を閉じろ。そうすれば――――今すぐにこの囲いを破り、あの魔術師を我が()腐乱死体(なえどこ)に変えて見せようぞ』

 

 

 そして、奪われた自尊心を擽る。あの魔術師を、打ち倒して見せると。『打ち倒させて見せる』と。

 

 

「は――――」

 

 

 何とか、身体を起こす。死ぬ程の倦怠感、零下に下がったように感じる血液と筋肉を軋ませて。

 

 

「――――お断りだぜ、蛆虫野郎。大の男が御礼参りに、助っ人連れだァ? ンな情けねェ真似を、この俺が……ヤる訳ねェだろうがよォ!」

 

 

 ビッ、と。濡れた亜麻色の髪をオールバックに撫で付けて、どこに居るかも分からない魔本に向けて中指を立てる。その蜂蜜色の黄金の瞳は、不撓不屈の黄金の意志の体言か。

 歯牙にも掛からずに敗北しても、心までは折られていない。決して折れない。そんな己が――――訳も分からない魔導書(おまえ)に頼って勝とうなどと。罷り間違っても、有り得ない。

 

 

『――――愚かな小僧め。ならば、そのまま朽ち果てるが良い……奴等にとって、貴様は最高の研究材料だろうよ』

 

 

 吐き捨てるように、雑音が消えた。漸く帰ってきた清らかな水の音に、安堵すら覚える。後は、魔術も能力も満足に使えない現状でどうやってこの結界から抜け出るか、だが。

 

 

「やれやれ――――」

 

 

 その刹那、視界の端。丁度、見えるか見えないかの境目に現れた……アルマーニの最高級のスーツに身を包み、ぎこちない()()に銀色の懐中時計を携えた――――

 

 

「この程度の魔術で……笑わせてくれる。あの魔術師も、蛆虫も。貴様も」

 

 

 消火水の豪雨すら歯牙にも掛けずに葉巻を燻らせ、燻し銀の声色で時計を見遣る紳士。濡れているかどうか、視界の端では分からない。

 

 

――何だ、コイツ……何時から、居た?

 

 

 無感動に、無機質に。チク、タク、チク、タク、と。冷厳に、淀みなく、ただただ一秒だけを刻み続ける時計を見詰めるだけ。

 だとすれば、燃え盛り縮んでいくその葉巻は導火線か、時限装置か。

 

 

「――――時間だ、“■■■■■■■■■(■■■・■■=■■■■■■)”。汝が崇拝者に灰の光を降らせたまえ。全ての時は逆流し、ド・マリニーの名の元に我が支配に下る……」

 

 

 刹那、時計の秒針が凍った。凍えついた針は、やがて末期の痙攣の如く揺れて――――その聖句の元、常識は覆る。房室を、灰色の光が満たしていく。

 

 

来たれ(イア)

、“■■■■■■(■■■■=■■■■)”!」

 

 

 視界の端の紳士は、見下げ果てたように葉巻を灰皿に押さえ付けて。代わりに、その手には一冊の――――

 

 

「――――やれやれ……余り、手を煩わせないで欲しいものですな……未だ目覚めぬ■■■■(■■■■■)

閣下」

 

 

 歯車が、回っている。大きな、大きな。淀みなく、狂いなく。定められた末路へと向かって――――また一つ、また一つ。

 

 

………………

…………

……

 

 

 報知器の発報によって消防吏員が駆け付ける前に、嚆矢は寒気の抜けきらない体を押して歩いていた。

濡れた身体は隠しようもない。しかし、水を錬金術(アルキミエ)で揮発させて、生乾きレベルまでは乾かす事に成功している。

 

 

「厄日どころか、暗剣殺だな……あンの、野郎ォ……!」

 

 

 反吐を吐きつつ、変温動物のように夏の日差しで体温を回復させる。底冷えは治まらず、骨身に染み込んだ『消沈』の三大ルーンの残滓が未だに感じられた。

 それ以外は、何一つ()()()()()()。時間的にも、たったの()()。そんな短時間に、一体、どんな『人外化生(アウトサイダー)』が付け入れると言うのか。

 

 

 近くの家電量販店のウィンドウに設置されたテレビからのニュース速報に『第七学区の取り壊し予定のビルが倒壊。老朽化か、手抜き工事か?!』の文字が踊っていたが、一片も興味は抱かない。抱けない。

 さっさと通り過ぎてしまおうと、震えの止まらない脚に無理矢理、力を籠めて。

 

 

「あれ、対馬さん?」

「あァ――――」

 

 

 背後からの呼び掛けに、不承不承振り返れば――そこには、少女が四人。内三人は初めて見るが、一人は……

 

 

「ああ……佐天ちゃんか。久し振り、遊び帰りかい?」

「こ、こんにちは……ごめんなさい、忙しい感じですか?」

「いやいや、まさか。ちょうど帰りだよ」

 

 

 つい苛立ちを乗せて振り向いた時の剣幕に怯えたような四人に、努めて優しく。胸元の兎足の護符を握り、『口伝(アンサズ)』のルーンを刻みながら。

 只でさえ、『消沈』の三大ルーンのせいで消耗した風前の灯の生命力だ。たった一文字分の魔力に変換しただけでも、気が遠くなる。この際布団などと贅沢は言わない、アスファルトでも良いから頭から倒れ込みたくなる。

 

 

「ちょ、ちょっと、ルイコ! アンタ、歳上の男の人の知り合いとか居たの?!」

「ふっふーん、まぁね、アケミ。しかも何を隠そう、この対馬さんは学園都市で唯一(ワンオフ)能力(スキル)確率使い(エンカウンター)』……人呼んで『制空権域(アトモスフィア)』なのさ」

「よ、よくわかんないけど……唯一(ワンオフ)な上に『通り名(ネームド)』ってなんかスゴ! な、マコちん!」

「うん。そーだね、むーちゃん」

 

 

 『アケミ』と呼ばれた背の高い娘が涙子に問い、答える涙子が何故か偉ぶる。それに『むーちゃん』と呼ばれた小柄でボーイッシュな娘が目を輝かせ、『マコちん』と呼ばれた少々ふくよかな娘に呼び掛けた。

 

 

「――――…………」

 

 

 正直、上の空だ。目の前に並ぶ、うら若い()()に息を。唾を飲む。

 喰らい付いて欲しがっているようにしか見えない。無防備に、童話の如く、夏の太陽によって開

はだ

けさせられた白い首筋。

 

 

――あァ、その奥には深紅に色付く命の源流が。命が陸に上がる際に持ち出した、母なる海の潮が在る。

 アレを啜れば、この乾きも癒されるだろう。多少、能力開発の為に薬品臭いが――それでも男なんて知らない、雑じり気無しの…………あの■■を啜れば。

 

 

 軋むように、笑う。否、口角を吊り上げる。その上顎の第三歯、糸切り歯は――――剣歯虎(サーベルタイガー)の如く、鋭く。

 

 

「――――ッ!」

 

 

 それを、己の拳でぶん殴る。ほとんど独立したように、その()()が。

 正気に返ったのは、そこで。そこまで、無意識だったと言って良い。少なくとも、『対馬嚆矢』は――――

 

 

「……じゃねェだろ、ちょっと頭ァ湯立ち過ぎだ。いや」

 

 ただ、道化に甘んじる。嘲笑われ、唾棄され、誰しもが忘れ去る道化に。幸い、四人できゃっきゃと騒いでいた少女達には、自分で自分を殴る姿は見られていない。

 ヘラヘラ笑い、少女達の関心を誘う。よくいる、取るに足らない男として。この少し後には、もう忘れられているだろう、そんな。

 

 

「で、何かな? ひょっとして、遊び帰り?」

「あ、えっと……は、はい! そうなんです、久し振りに会ったから! もう帰るところです、はい!」

 

 

 と、つい今まで笑顔だった涙子が、なにか大事な事を思い出したように慌て始めた。

 わたわたと、『何か』をポケットに押し込んだ。それだけしか見えなかったし、疲労困憊の身としては早めに解放してくれるのならばそれに越した事はない。だから、突っ込まなかった。

 

 

「対馬さんも、風紀委員(ジャッジメント)のお仕事頑張ってくださいね! それじゃ!」

 

 

 慌ただしく、他の三人を引っ張るように涙子は走っていった。何か不審な気はしたが、今は、兎に角。

 

 

「早く……帰って寝てェ」

 

 

 酷く怠い身体を引き摺るように、遥か遠い自室を目指して歩きを再開した……。

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