「おらあっ!」
「ぐああっ!!」
「きゃああっ!!」
たった一人の賊が剣を振るうだけで十人以上の人間が命を落とし、それを見た人々は賊から逃れようと町から出ようとする。
だが――
「な、なんだ? なぜ軍隊がここに!?」
町から出ようとした人々の前に武装した兵や馬に乗った騎士が現れる。彼らは黒鎧をまとった、紛れもない
だが、彼らは町を包囲したままそこから動こうとしなかった。火の手が上がり、住民たちが賊に襲われているにもかかわらずである。
たまらず住民たちが外に出ようとすると――
「っ、……はっ!」
「ぐああっ!」
わずかに躊躇うような様子を見せてから、桃色髪の騎士は境を越えようとした住民を斬りつける。それを目にして、他の住民は思わず足を止めた。
そんな彼らの後ろには大剣を持つ紫髪の男が……
「いたいた。駄目じゃねえか。まだ殺し足りねえのに勝手に出ようとしちゃ……」
「う、うわああああっ!!」
賊と騎兵。その両方に囲まれた住民たちは町から出ることかなわず、彼らに殺されていく。そんな悪夢のような光景が町中で繰り広げられていた。
だが、それも賊たちの脳裏に響く声によって終わりを迎える。
《皆さん、そろそろ時間です。陛下が仕上げを行われますから、あなたたちは早く町の外に出てください……でないと、巻き込まれてしまいますよ!》
「おっと、もう王様のお食事の時間か。なら俺たちは退散しますかね」
「あの野郎、いつもいいところで横取りしやがって」
「ああ。もう少し寝ててもいいのによ」
「ぼやくな。さっさとここから出るぞ。あれを食らったらさすがの私たちも死ぬかもしれん」
街を襲っていた金髪の剣士、銀髪の男、黒髪の少年、そして大柄な青髪の女は、殺戮をやめ、泡を食いながら逃げていく。
彼らに襲われる寸前だった人々はそれを見て、思わず助かったと思った。
この時までは――!
『Divide Zero “Eclipse”』
右手に握った黒剣が告げると、それに応えるように“俺”もこれから繰り出す“技”の名を口にした。
「“ディバイドゼロ”!」
「ぐあああっ!!」
「あが…がががっ!」
「うぐっ、ううううっ……」
「ごはっ!!」
「うぶっ! おえぇぇぇ」
賊の手から逃れたはずの人々は胸を押さえながら、あるいは必死に息を吸いながら、あるいは吐瀉物を吐きながら、一人残らず倒れ、息絶えていく。
そうしてこの町の住民は一人残らず殺害された。
その惨劇を起こしたのはたった数人の賊と、住人の逃亡を防いでいた騎士たち。そして騎士たちを取りまとめている……
「生体反応はありません。生存者も適合者もいないみたいですね」
「ああ。あんなもん食らったら無理もないね。相変わらず恐ろしい技だ。ここから一歩も動かずに町中の人間を一人残らず殺しちまうなんて。あんただけは敵に回したくないよ」
おののく兵たちを前に、白髪の女と黒髪の女は何でもないように告げる。
そんな彼女らのうち、黒髪の女に対して“俺”は言った。
「つい何月か前に剣を交わしておいてよく言う。それに、俺がこの“力”を手に入れたのは、その戦いの時にお前が俺の体に入れた《エクリプス因子》のせいじゃないのか」
“俺”の返事に黒髪の女は苦笑し肩をすくめる。
“俺”も苦笑を返しながら懐から“それ”を取り出した。
「行け、闇の書。死んだ住人のリンカーコアを蒐集してくるんだ」
“俺”の命令に闇の書はすぐに従わず、不服そうに漂う。そんな書をきっと睨みつけると、闇の書はそそくさと町の上まで飛び、住人たちの屍からリンカーコアを吸収していく。
しかし、蒐集を終えても闇の書はふわふわと町の上を飛んでいた。
そんな書に“俺”は思わず声を上げて笑った。
「やれやれ、しばらくの間にお前も守護騎士たちもずいぶん反抗的になったものだ。……仕方ない。お前が戻ってこないのなら、これからはこの《銀十字の書》を使ってベルカ統一を目指すとするか」
『――!』
そう言って銀色の本を見せた途端、闇の書は急いで“俺”の元に戻ってくる。『それを戦に使うのだけはやめろ』と言うように。
“俺”は本を掴みながら言い聞かせる。
「そうだ。“俺”の言う通りにしていろ。そうすればお前も守護騎士たちも悪いようにはしない。もう“俺”を主だなんて思っていなくてもな」
そう言って“俺”はわざとふてぶてしい笑みを作りながら彼女たちがいる方を見た。そこには守護騎士という、俺に忠実
“俺”を見る彼女らの目は冷たく、ヴィータにいたっては殺意のこもった目で睨みつけてくる。
そんな守護騎士に比べて、“新しい騎士たち”は忠義心こそないものの、一緒にいて退屈しない。欲望に忠実というのも“今の俺”にはぴったりだ。
四人はいつの間にか戻って来ていて、黒髪の女を中心に俺の前に立っている。
黒髪の女――カリナは言った。
「じゃあ“食事”も頁集めも終わったし、そろそろ王宮に帰ろうか。それとも、つい最近できたカジノで遊んでいくかい、陛下、いや――ケント」
◇
「うわああああっ!!」
「――主!」
突然跳ね起きた俺に、ザフィーラは慌てて駆け寄ってくる。
「主、どうされました? 何か悪い夢でも……?」
「…………」
彼の問いに俺は何も言うことができなかった。
……あの夢の内容を話していいのか? ありえないはずなのに妙な現実感のあった、今の夢を……。
しばらく考えた末に、俺は誤魔化すように尋ねた。
「今日は何をする予定だっけ?」
そう尋ねる俺にザフィーラは何か言いたげにしながらも、
「……本日も昨日と同じように、リヴォルタの街を見て回る予定です。……ただ、気分が優れないのでしたら、本日の予定は中止にしていただいてもよろしいかと思います。昨日の事もあって皆も疲れているでしょうし」
ザフィーラの言葉は今の俺にとって抗いがたい魅力のあるものだった。
昨日の疲れがまだ残っていて、とても観光に出る気にはなれない。それにもし外に出ている間に“彼”に出会うようなことがあったら……。
そう思うものの……
「ありがとう。それはシグナムたちの様子も見てから考えることにするよ。普段から活発な彼女たちのことだ、昨日の事なんて嘘のようにけろりとして、今頃は外に出る準備をしている頃かもしれない」
結局俺は、ザフィーラからの提案を留保して、他の騎士たちと合流してから判断することにした。
この街には我が国が負っている巨額の債務を返済する手立てを探すために来たんだ。その機会を俺一人気が乗らないからといってふいにするわけにはいかない。
もっとも、騎士たちの何人かが動けなくなっているというのならまた話は変わるのだが。
◆
そんな思惑とは裏腹に騎士たちの
「うー、頭が痛い。体もだるいし、昨日の夜に一体何があったのよ? うぅ……」
いまだに寝間着姿のまま、頭を抱えているシャマル以外は。
二日酔いからくる頭痛にうめいているシャマルのことはシグナムに任せて、俺たちは宿の一階にある食堂へと移動し、そこで朝食を取ることにした。
俺たちが食事を始めてからしばらくして、シグナムと彼女に手を引っ張られているシャマルも、食堂にやって来て俺たちと同じ卓についた。
二日酔いの最中は食欲がなくなることが多い。そのためシャマルは水くらいしか飲まないのかと思いきや、彼女は水の他に、細かく刻まれた野菜がたっぷり入った麦粥を注文して、それを口にしていた。なんでも二日酔いを早く治すには、栄養のある柔らかい物を食べた方がいいらしい。
そういう知識があるところは医者らしいと思うんだが。
朝食の最中にシグナムからも、先ほどのザフィーラからされたものと同じ提案を受けたものの、ここまでくれば俺も意地を通したくなってきた。
この中で調子が出ていないのは俺とシャマルくらいで、シャマルの方は麦粥をすすっていつもの調子を取り戻そうと頑張っている。それなのに、俺だけがここで尻込みしていてどうすると思ったのだ。
それから俺たちは宿を後にして、二日目のリヴォルタ視察へと繰り出した。
まずはリヴォルタの街で唯一行ったことのない区画となった南区へと足を運び、そこで俺たちは黒いフードを被ったグラシアと名乗る女占い師から気になることを告げられたのだが、その話は
この頃にはシャマルの具合もすっかり良くなって、いつもの調子を取り戻していた。
◆
そして空を覆う暗雲の中に浮かんでいる太陽が中天あたりを昇ってきた頃に、俺たちは昼食を取ることにして南区にある店に入った。
その店は四十人分の席がある、大きすぎず、かといって小さいとも言えない規模の飲食店だった。
大人数の俺たちは奥の方にある卓に腰を下ろしていき、卓の上に置かれている冊子から料理を選んでから冊子の隣に置かれていたベルを鳴らし、その音を聞いて俺たちの元へ向かってきた店員に注文を伝えた。
それから料理が運ばれてくるまでの間、雑談を交わしていた俺たちの前に彼女たちは現れた。
「あら、あなたたちは……」
軽く驚いたような
俺たちに声をかけてきたのは、長く下ろした金髪に緑眼の美しい少女だ。
落ち着いた物腰と、簡素な形状だが高級そうな絹を素材としてふんだんに用いた衣装、そしてきりっとした雰囲気。
一目見ただけで、やんごとなき身分の御令嬢だとわかる。
令嬢の後ろには燕尾服を着た、赤髪赤毛の整った顔立ちをした執事風の男が控えており、男は俺たちと目が合ったとみるや丁寧な一礼をしてくれた。
金髪の令嬢と赤髪の執事、この二人は確か……。
記憶の糸をたぐっている俺の向かい側で、ティッタが「あっ!」と声を上げた。
「昨日、ヴィータを探している時に会った執事さん!」
「はい。その通りでございます。わたくしのような卑しい男の事を覚えていてくださる方がいるとは、あなたのような優しい女性にまたお会いすることができて、とても光栄に思いますよ」
「そんな大げさですよ。執事さんなんて珍しいから記憶に残っただけで」
さわやかな笑顔を浮かべて、そんな歯の浮くような言葉を並べる執事に、ティッタは慌てた様子で両手を振る。
そうだ。彼はこんな風に
「……確か、ジェフさんだったな。昨日は助かったよ。君が連れをさらった賊の行方を教えてくれたおかげで、その連れもこうして無事に戻ってくることができた。ヴィータ、あの執事さんにお礼を言ってあげてくれ。後で詳しく説明するが、お前たちが捕まっていた場所を突き止めることができたのは彼のおかげなんだ」
「……ありがとうございました」
ヴィータは色々と言いたいことがあるような、不満げな目を一瞬俺に向け、渋々といった様子ではあるもののジェフに対して頭を下げお礼を述べた。
それに対して、ジェフは涼しげな笑みを浮かべながら手を振り、
「いえいえ、お嬢様にお怪我がなくご無事なようで我々も安心いたしました。我が主にとっても、あの悪漢は愛用の馬車に傷を入れかけた許しがたい相手でしたので。それにつきましても、我が主ともどもあなた方には深く感謝を――」
「ジェフ、余計なことを話し過ぎなのではないかしら。……失礼、お見苦しいところを見せてしまいました」
令嬢に横目で睨まれてジェフは苦笑しながら、「申し訳ありません」と言って顔を伏せる。
そんな執事の姿にため息をこぼしてから、令嬢は「コホン」と咳払いをして俺たちに向き直る。
「失礼しました。わたくしはエリザと申します。もしよろしければ、皆様の隣に設けられている卓に腰を落ち着かせていただいてもよろしいでしょうか? 奥の方でないと落ち着かないもので」
エリザの言葉通り、俺たちが囲んでいる卓の隣には、もう一つ飲食用の卓が置かれている。別に俺たちの許しをとらず、勝手に座ってもいいと思うが。
「別に構わない。どこでも気にせずに座るといい」
「ありがとうございます」
俺たちに一言礼を言って、エリザは俺たちの横に置かれている卓に腰を下ろし、その後ろにはジェフが直立したまま控えている。
その後、こちらの自己紹介をすませ、しばらくして俺たちやエリザのもとに食事が運ばれてきてもジェフは席に付かず、相変わらずエリザの後ろに立ったままだった。
それを見たティッタは、思わずジェフに問いかけた。
「えっと、ジェフさんはエリザさんと一緒に食べたりしないんですか?」
「使用人が主と食事を取ることなんてありませんよ。彼が食事をするのは、私が食事を終えた後です。私の家ではそう決められていますから。そうですよねジェフ?」
ティッタの問いに答えたのはジェフではなく、彼の主であるエリザだ。あまりにも純粋な疑問に、思わず苦笑を漏らしている。それはジェフも同様だった。
「はい。例えお嬢様のお許しが出ようとも、私などがお嬢様と食を共にするなどありえません。ティッタ様のお気持ちは嬉しいのですが、わたくしの事はお気になさらずに、お食事とご歓談をお楽しみください」
それを聞いて、ティッタはジェフに複雑そうな表情を向ける。
「……そうなんですか。執事さんって大変ですね」
「いえ、もう慣れていることです。それにその分お給金は多く頂いていますから」
なんでもない事のようにジェフは笑って答える。
グランダムでも、執事や侍女が主人とともに食事を摂ることはほとんどない。彼らからすれば、王族と騎士たちが食事をともにしている事さえ風変わりに見えるのかもしれないな。
「しかし、それでも昨日は少し堪えましたよ。なにしろお嬢様がお箸を使えるようになるまで、結構時間がかかってその分、お食事を終えるのが遅くなってしまいましたからね。にぎやかなお隣様の会話を聞きながら待っていましたから、退屈はしませんでしたが」
「ジェ、ジェフ! その話は――」
「おはし?」
「お隣?」
余計なことを言ったジェフを一喝しようとするエリザの隣で、俺たちは首をひねる。
おはし……どこかで聞いたことがある言葉だ。……まさかと思うが。
「エリザ嬢、ぶしつけなことを聞いて大変申し訳ないのだが、貴女は昨日どちらで夕食を?」
俺の問いにエリザはどう誤魔化そうと考えているのか、目を宙に泳がせるものの、それから少しの間何やら思案している様子を見せてから、ようやく口を開いてきた。
「……ええ。ケント様のお察しの通り、昨夜は東区にある異世界の料理店で夕餉を済ませました」
昨夜はエリザとジェフもあの店にいたのか。
俺たちがカリナたち傭兵隊と騒いでいた部屋の隣で。
……ということはまさか。
「ですからケント様をこのお店でお見かけした時は、正直とても驚いてしまいました。てっきり、今頃は傭兵の方と西区へ行かれたものだと」
西区……例のカジノの事か。
まさかあの時、あの話を聞いている者がいたなんて。
よく見てみると、エリザの俺を見る目はどこか軽蔑の色が混じっているように見える。
そんな主と俺を見てジェフは苦笑し、騎士たちは昨日と同じように冷ややかな視線を俺に向けた。深酔いしたせいで、昨日の事を全く覚えていないシャマルだけはきょとんとしていたが。
そんな俺たちを見ながらエリザは話を続けてきた。
「それとヴァルカンという人の事も聞いてしまいました。なんでもディーノが滅んでしまった際に、この街に移住してきたそうですね」
ディーノという単語に俺は思わず我に返って、エリザの方に顔を向ける。
彼女の方も真剣な目で俺をじっと見つめ返している。その目には助平な男に対する軽蔑の色はすっかり消え失せていた。
「エリザ嬢は知っているのか? ディーノという国のことも、そこが今はどんなことになっているのかも」
「ええ。私の母国の属国だった国の事ですから、ひととおりは。たしか現在はグランダム王国の領土になっているそうですが、違いましたか?」
エリザの確認に俺は首を横に振る。
彼女の言うとおりだ。ディーノ王国という国はすでになく、かの地は現在我が国の統治下にある。
「違わないよ。四ヶ月前にグランダムはディーノとの戦に勝って、あの国を解体し統治下に置いた。グランダムがディーノを滅ぼしたんだ」
俺の口から
それにたまらなくなったのか、
「おいヴィータ、どこへ行くんだ?」
「お手洗いだよ。いいだろそれぐらい。なるべくゆっくり済ませてくっから、それまでに泣きべそかそうになってるそいつなんとかしといてくれ。飯がまずくなる」
シグナムの制止を振り切りながら、ヴィータはそう吐き捨てて手洗い場へ向かっていく。昨日贈ったうさぎのぬいぐるみを片手に持ちながら。
「そういえば、私が耳にしたところディーノ王国は、帝国とグランダムとの中継地帯とのことで、それなりに栄えていたようですね。まさかグランダム王はディーノに蓄えられている財を狙って、あの国へ攻め込んだのでしょうか?」
「馬鹿な! 向こうから宣戦布告されたんだ。負ければグランダムは滅ぼされる。それに向こうは戦いを有利に進めるためとはいえ、よりによって
あまりの言いように俺はたまらず椅子から立ち上がり、エリザに怒鳴り声を上げる。
そんな俺に対抗するように、エリザもまた椅子から立ち上がって反論を返してきた。
「なら、そう言えばいいじゃありませんか! 国を守るためだというのなら、ケント様が何も引け目を感じる必要はありませんわ。その結果、敵国が解体することになったとしても仕方のない事です。皇帝陛下であればヴァルカンのような人のことなど、意にも介さないでしょうね。なにしろ、その手で十を超える国を墜とされたお方ですから。それに比べて、たった一つの国を併呑した程度のことを悔やんでいるようでは、遅かれ早かれ潰れてしまいますよ。あなた」
「……」
彼女の言うとおりだ。
もしも、昨日ヴァルカンと対峙していたのがあのゼノヴィア皇帝だったら、彼のような者から何度恨み言を言われようと、涼しい顔で聞き流すだけだっただろう。
それに比べて、自国を守るためという正当な理由がありながら、俺はヴァルカンに対して逃げ腰になっていた。
しかし、先ほどのエリザの言葉は、行きずりの旅人ケント・セヴィルに対してではなく、明らかにグランダム王ケント・α・F・プリムスに向けてのものだ。
「エリザ、あんたはやはり帝国の……」
いつの間にやら騎士たちも各々が座っていた席から立ち上がって、俺とエリザの動向を見守っており、エリザの後ろに控えていたジェフも、いざとなれば己が主を止めようと身構えているのが見えた。
そんな時だ。視線の先に、俺を睨んでいるエリザよりさらに先の方にいる、あの少年を見つけたのは。
背はヴィータより少し大きいくらいの黒髪、青眼で半袖半ズボンの格好をして、右腕には羽根を模した刺青をした、齢は十に満たないだろう少年。
アロンドじゃないか! まさかこんなところにいるとは。
彼の名はアロンド。幼少ながらフッケバイン傭兵隊に名を連ねる最年少の傭兵だ。
アロンドは昨日までとほとんど同じ格好をしていたが、いくつか違う所がある。それはシャツに描かれた柄と、昨日は身につけていなかった鞄を背中にしょっているところだ。
アロンドにも俺とエリザの口論が聞こえていたようで、一度だけこちらをちらりと一瞥してから、そっぽを向いてこの店から出て行った。
「……ケント様?」
急に押し黙った俺に気勢を削がれたのか、エリザは訝しげな顔で俺の名を呼んでいる。
それとほぼ同時に――
「おい!」
不意に声をかけられて、俺たちは一様に声がした方に体を向ける。
そこにいたのは、つい先ほど手洗いに行ったヴィータだった。
ヴィータは血相を変えながら、思わぬことを口にした。
「あたしのぬいぐるみ知らねえか? どこにも見当たらねえんだ!」
「……ぬいぐるみ?」
間の抜けた声でその単語を口にする。
ぬいぐるみとはあれのことか? 俺が昨日ヴィータにやった、うさぎのぬいぐるみの事を言っているのか?
そう言えばさっきヴィータが席を立った時に、あのうさぎのぬいぐるみを持って行ったのを俺も見ていたが、今はそれを持っていない。
「手洗い場の中じゃない? 隅に置いたまま忘れていく人結構いるんだよ」
ティッタの推測に、ヴィータは首を大きく横に振った。
「それはねえ。汚れるのが嫌で手洗い場の前に置いてきたから。念のためにそこも見てきたし」
それはまた不用心な。と思ってしまったが、紛失したのは貨幣が入った袋でも武器でもなく、可愛いとはいいがたい不格好なぬいぐるみだ。自分で贈っておいてなんだが、あんな物を盗むような奴がそうそう現れるとは思えない。
ただ、俺としては一つ気になることがある。
「なあヴィータ。さっきアロンドがここを通り過ぎていくのを見たんだが、お前は知ってるか?」
「――えっ!? それ本当かよ。ちゃんと周り見ておくんだったな……いやちょっと待て。まさかお前、アロンドがぬいぐるみを盗んだって言うんじゃねえだろうな?」
アロンドの名前が出てヴィータはオロオロするが、すぐに不機嫌そうな表情になる。
「……いや、俺はアロンドを見かけたから、お前も知ってるかなと思っただけで」
「ごまかすんじゃねえ! こんな時にあいつの話をする時点で疑ってる証拠じゃんか。いいか、よく考えてみろ。あのすかしたガキンチョがぬいぐるみなんか欲しがるように見えるか? それにあいつ傭兵として働いているから、結構小遣いもらってるって聞いてるんだぞ。百歩譲ってアロンドがぬいぐるみに興味を持ったとしても、あたしから盗むより自分で買った方がはええ!」
確かにその通りだ。
あの生意気そうな小僧が、ぬいぐるみを欲してこんなことをするとはとても考えられないし、彼ならぬいぐるみなんて何十体でも楽に買うことができるだろう。
そう思いながら首をひねったところで――
「あの、お客様」
ふと声をかけられ、俺たちはそちらに顔を向ける。そこには口ひげを生やしたスーツ姿の男が立っていた。
◆
それからしばらくして俺たちは店の前にその身を移していた。まっ、あれだけ騒いでいれば普通追い出されるわな。
「まったく、お店から追い出されるなんて今まで生きてきた中で初めてのことです。あなたたちのせいで……」
俺たちとともに店から追い出されたエリザはさっきからぶつぶつと不平をこぼしている。だが文句を言いたいのはこっちの方だ。元はと言えばエリザがあんな挑発をしてこなければ。
その時、俺たちの後ろから扉が閉まる音がして店の中からヴィータが出てくる。
「見つかったか?」
シグナムの問いに、ヴィータはふるふると首を横に振った。
あの後、ヴィータを始め何人かが店の主人に何度も頭を下げて、ぬいぐるみを探させてもらえるように頼んで、なんとかヴィータだけが店の中に残ってぬいぐるみを探すことを許してもらえたのだ。
「まあ、そう落ち込むな。これからまた北区へ行ってみよう。あの露店なら似たようなものが見つかるかもしれん」
「……悪いな。あたしのために色々考えてくれた上にそこまで気を遣わせちまって。それなのにあたしはケントたちに怒鳴ってばっかで」
「ちょっとちょっと、どうしたんだよヴィータ? いつものあんたらしくないじゃないか。あれくらいアタシらは別に気にしてないって。お兄様なんて一日に一回は、ヴィータに叱られないと調子が出ないくらいだし。だからほら、元気だしな」
珍しく俺たちに謝ってくるほど、傷心しているヴィータをティッタは懸命に励ましている。
それを眺めながらエリザは大きなため息をついた。
「昼食の途中で追い出されたにも関わらず、元気な方たちですね。ある意味羨ましいです。……私は別の店で食事を取りますのでこれで失礼しますわ。ごきげんよう皆様」
そう言ってエリザは長いスカートの端をつまみながら、ジェフは右手を胸に当てながら、一礼をして俺たちに背を向けて馬車へと向かっていく。
俺たちはそんな二人の背中を黙って見送っていた。
(グランダム王ケント・α・F・プリムス。ここで押し潰れる程度の凡百だったのかしら? だとしたらとんだ見込み違いでしたね。おば様)
その後俺たちは北区へ向かったものの、ヴィータがなくしたものとそっくりのぬいぐるみどころか、例の露天商さえ見つかることはなかった。
だが、俺たちは間もなく知ることになる。ぬいぐるみの紛失というささやかな出来事こそが、リヴォルタ市民を恐怖に陥れる大事件の予兆だということに。