消えゆく白の群像   作:来星馬玲

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第四十三章 覚悟

 三姉妹の項

 

 

「ベル・ダンディア。あなた、【虚無】を求めましたね」

 

 軌道母艦の一室。部屋に戻ってきたベル・ダンディアに向かって、フレイアが唐突に切り出した。

 

 ベル・ダンディアの脳裡に、鎧蛇の島における一連の出来事が呼び起こされる。ジューゴン、オッドセイ……多くの仲間の死。そして、結果として見捨ててしまった親友ヴァルキュリウス……あの島では多くの大切な者を失い過ぎた。

 

 絶望しきったベル・ダンディアは抵抗する気力も失い、冥機の刃が自分に振り下ろされる時を待ち望んでいたのかもしれない。

 

 ベル・ダンディアはフレイアの問いに答えられずに逡巡していた。

 

「咎めているのではありません。ただ、あなたが【虚無】を求めたこと、そこから目をそらしてはいけないということです」

 

「……はい、確かに、私はあの時、【虚無】を乞いました」

 

「……やはり、そうですか」

 

 フレイアは防弾加工された窓から外の様子を眺めた。外ではブリシンガメンの首飾りを奪還する為に艦隊が一致団結して盾竜の軍勢と戦っている。歌姫を匿っている軌道母艦は後方で護られているが、接近してくる盾竜の侵入すべてを防ぐことは敵わなかった。

 

 ここも決して安全ではない。一刻も早く、全軍に歌姫の声を届け、友軍を鼓舞しなければいけないのであるが。

 

「あなたが今のままでは……叡智秘めし三姉妹の連携が取れず、歌姫の礎となることは出来ません」

 

 ベル・ダンディアは沈痛な面持ちで、顔を伏せた。本当は今すぐにでも皆を助ける力になりたかった。しかし、フレイアに指摘された通り、ベル・ダンディアの心中にある迷いが枷となり、三姉妹の能力を十分には発揮できないでいるのが現状である。

 

 ウル・ディーネとスクルディアの持つ能力はこの世界において大きな影響力を発揮し得るが、両者を繋ぐベル・ダンディアの力が無ければ、歌姫に助力することは叶わなかった。

 

「そこで、私はあなたをここに呼び寄せたのです」

 

 そう言うフレイアは、指の間に挟んだ、細くて長い黒い物をベル・ダンディアに近づけた。ベル・ダンディアは顔を上げ、その物体をまじまじと見つめる。

 

「これは……」

 

 ベル・ダンディアの問いに、フレイアが答える。

 

「これは、ある人物の髪の毛です。ヘルの呪いで氷の身体となった私たちには長らく縁の無い、強い生命力を宿している」

 

「それを一体、どうなさるのですか」

 

「すぐに分かります。そして、ベル・ダンディア、あなたには見届けて欲しいのです。私の覚悟を」

 

 フレイアの氷の瞳には強い決意の色が込められていた。

 

 

 

 そこには鋼の様な氷原が広がっている。高質化した氷は形を変えることが無く、まるで時間を止められているかの様であった。

 

 本来は極寒の風が吹雪いていた地域であったが、空気の流れが止まってしまった今となっては、寒気の無い代わりに金属的な冷たさが生きる者の感覚を狂わせる。

 

 樹氷の女神エイルを先頭に、ハティとスクルディア、それにヴァールの四名がこの時止まりの氷原を横切っている途中であった。ハティの内には、フェンリルの半身であるゲリが宿っている。

 

 ひゅん、と、何かが空を切る音がした。ハティは咄嗟にスクルディアを護るようにして仁王立ちとなり、身構えた。それは数間先の氷の上に落ち、ガツンと音を立てて周囲に散らばった。見ると、動器の残骸であった。

 

 これまでにも度々友軍の機械や、敵の盾竜の変わり果てた姿と思しき塊が降ってきている。それらは上空で繰り広げられている戦闘の激しさを物語っていた。

 

 遥か上空では無数の盾竜がひっきりなしに飛び回っており、機械の艦隊との交戦の模様が地上からも窺えた。ハティは、上空では仲間が死力を尽くして戦っているというのに、加勢することも出来ずにいることがもどかしかった。

 

 ふと、エイルがその歩みを止めた。他の三名もつられてその場に留まる。ヴァールが訝し気にエイルの顔を見やった。

 

「どうしたんだよ、エイル」

 

 ヴァールがもどかしい気持ちを露わにしながら言った。

 

「この辺りですね。今から上空の船にいるサーガと連絡を取ります」

 

 エイルはそう言うと、懐から樹氷で固められた黄色い宝玉を取り出した。

 

 眼を閉じ、術式を行使することによってサーガとの交信を行うエイル。それに呼応するかのように魔力の波が地上と上空から伝わり、風の止まっている筈の周囲の空間が振動した。

 

 すぐ傍で、がたりと音がした。なおも交信を続けるエイルはそのままの姿勢でいたが、ハティとヴァールは瞬時にそちらへ視線を走らせた。

 

 氷塊の背後から赤子の姿をした動器が現れた。一行は、それがロキの操作する端末、ベビー・ロキであることを既に知っていた。

 

 ヴァールが急に抑圧されていた感情をむき出しにしながら、ベビー・ロキに詰め寄った。

 

「ロキ。お前、なんでこんなところに」

 

 ヴァールが何故これほどに怒りを露わにしているのか分からずにいたハティとスクルディアは、やや困惑気味に両者を見つめていた。

 

(君たちの反応をキャッチしたからね。近くに待機させていた赤子を使って、こっちから出向いたのさ)

 

「……お前が、ヘル様を鎧蛇の島へ行かせなければ、ヘル様があんなところで命を落とすことは無かったんだ」

 

 ヴァールが己の武器である鍵を構えながら、今にもベビー・ロキへ襲い掛かろうとしている姿を見て、思わずハティが両者の間に割って入った。

 

「やめるんだ。今は、仲間割れをしている場合じゃ……」

 

「うるさい、獣め。邪魔だ」

 

 ヴァールが鍵でハティを突き飛ばした。スクルディアがハティの名を呼びながら急いで這い寄り、その体を支えた。スクルディアが非難の目をヴァールへ向けたが、ヴァールは取り合わなかった。

 

(誤解しないで欲しいんだけど。僕はヘルを助けたかったんだ。ヘルはヴァルハランスと魂を一体化させ、ヴァルハランスたちと共に【虚無】の神と戦った。でも、ヴァルハランスが力尽きたことでヘルも生命力の大半を失ってしまった。だから、鎧蛇の島で降る筈だった光雨を使って、ヘルの生命力も回復させるつもりだったんだよ)

 

「ふん、結局はお前の計算違いのせいじゃないか」

 

(……確かに、そうかもしれないね。僕も、まさか【虚無】の意志で動く者が身内に現れるなんて予期していなかったんだから)

 

「身内だと。お前ら機械の中に裏切り者がいたっていうのか」

 

(あれは機械の身体に宿っているけど、機械だけじゃない。この世界で散っていった生き物の様々な思念が集まって生まれた、言わば怨念の集合体)

 

「……そいつがヘル様を殺したって言いたいのか」  

 

(そうなるね。ヘルの助力を失えば、この世界が【虚無】に呑まれる時が近づく。それがあの者にとって利することだったからヘルの命を狙ったんだ。現に、この世界はあの日を境に、急速に【虚無】へと向かっている)

 

 ヴァールは構えていた鍵を下ろすと、思案気な表情のまま俯いた。ヘルを救おうとしても救えなかったという不甲斐ないロキのことも腹立たしいが、今、上空の艦隊が戦っている虚無の軍勢に対する怒りがそれを上回る勢いでこみ上げてきた。

 

 ヘルを死に追いやった冥機グングニルは虚無の軍勢とは別の思惑で動いていたが、ロキは敢えて指摘しなかった。何れにしても、冥機と虚神の最終的な目的に違いはないとロキは踏んでいたからである。

 

 スクルディアがヴァールの恐ろしい形相をのぞき込み、消え入りそうな声をもらした。スクルディアは怯えていた。ヴァールの激情に。

 

 スクルディアを落ち着かせようと身を摺り寄せているハティの方へ、ベビー・ロキが近づいた。

 

(君がハティだね。いつも見てはいたけど、直接対話をするのは初めてだったかな)

 

 ハティは直接脳裏に語り掛けてくる眼前の動器を相手に、多少戸惑いながらも素直に受け答えをした。

 

「そうですね。以前、あなたの魔神機には助けられました。あの時、助けてもらえなかったら、僕たちはあの狼の群れとの戦いでおそらく全滅していた……」

 

(今度は、僕らの方が君の助けを欲しているんだよ、ハティ)

 

「え、それはどういう……」

 

 言いかけて、ハティは己の内に宿るゲリの魂が熱く輝くのを感じた。

 

 ハティがゲリから既に聞いている話では、ハティにとって義兄弟の契りを交わした兄であるスコールが、ゲリと同じフェンリルの半身フレキをその身に宿し、ドヴェルグと共に軌道母艦と合流する手筈になっていた。ハティとスコールが再び肩を並べることがフェンリルを創り出したロキの望みでもある、と。

 

(簡潔にお願いするよ。ハティ、君とスコールには、フレキとゲリの魂と共に翼神機グラン・ウォーデンの核となって欲しい)

 

「翼神機……それはあなた方の造り出した機械兵器」

 

(僕が力を与えた、ヘル、フェンリル、ミッドガルズの三人は来るべき【虚無】に対抗し得る能力を持っていた。でも、故あって肉体を失い魂のみ生き延びてきたフェンリルは、自分の力を受け継いでくれる者がいなければその役目を全う出来なくなっていたんだ。そこで選ばれたのが、君とスコールというわけさ)

 

「だけど、それって僕と兄さんが翼神機の一部になるってことだよね」

 

(その通りだよ。スコールは既に覚悟を決めているけど、弟の君にまで強要するつもりはない。……ただ、完全体となった翼神機がなければ、今の戦局を打開することは出来ないと僕は思ってる。このまま【勇者】が覚醒してくれたとしても、ね)

 

 自分がこの戦いにおける切り札を担うことになる――ハティにとってそれは、願ってもいないことであったが、気がかりなこともあった。

 

 ハティの心情を察したのであろう、スクルディアがハティの獣毛にしがみ付き、寂しそうな顔で言った。

 

「ハティ……やだよ、ハティが遠くにいっちゃうの。……ハティがハティでなくなるの」

 

 ハティはこのままスクルディアと一緒に居たかった。しかし、こうして温かく抱擁してくれる彼女を護り抜くだけの力が、自分には無いことも痛感している。

 

 時の止まったかの様な氷原の中。異質な環境ではあるが、上空の激戦とは対照的に、ここはとても平穏で穏やかな空間であるとも言えた。しかし、【虚無】へのカウントダウンはこの氷原ですら確実に進んでいるのだ。

 

 ハティは改めて幼いスクルディアの顔を見た。今では一番身近でいて、一番護りたい者。【虚無】との戦いが続く限り、彼女にとっても明るい未来は決して来ない。

 

 徐々にではあるが、ハティの心中では一つの決心が芽生えつつあった。それは、苦心しながらも覚悟を決めたスコールと同じものだった。

 

 

 

 戦闘の渦中、冥機グングニルは艦隊の混乱に乗じて、手勢にした数体の盾竜と共に軌道母艦の内部に潜入していた。

 

 既にロロと特定している一つの生体反応の位置は把握している。不死者と言えども、真なる【虚無】へ引きずり込めば二度と抜け出すことは敵わないだろう。冥機の中に混在する思念は、【虚無】の入り口と直結したまま、他者をその先へと誘う準備を固めていた。

 

 浮遊したまま回廊を進む冥機の前方に、武装した動器の一団が飛び出した。動器は冥機の姿に面食らったが、その周囲に従えられている盾竜に対して応戦するべく、各々の武器を構えた。

 

 冥機が片腕の突き出したのを合図に、盾竜たちが一斉に眼前の動器へ襲い掛かった。並の武器では歯が立たない装甲を持つ盾竜を相手に、動器たちが次々と討ち取られていった。

 

 全滅した動器。冥機はその残骸の真上で静止すると、煌くコアの残滓を吸い上げていった。

 

(お前たちも我らの一部となるが良い)

 

 冥機に蓄積されている魂が、更に密度を増していった。

 

(この先だ……この先にロロがいる) 

 

 進軍する冥機の前後で爆音が轟いた。砲戦を掻い潜って突進してきた盾竜が、軌道母艦の外装を突き破って侵入してきたのである。冥機にとってそれは願ってもいないことであった。

 

 戦う事を強要される者同士の戦いは、更なる【虚無】の浸食を加速させた。

 

 

 

「この反応は……奴が来ているのか」

 

 軌道母艦の内部で盾竜と応戦していたウルは、己に内装されているセンサーで【虚無】の気配を感じ取った。

 

 おそらく、先の鎧蛇の島で一戦交えた冥機のもの。あの時の味わわされた苦汁がウルの内に蘇った。

 

(まずい……冥機の行先はベル・ダンディア様のいる区画。まさか、また)

 

 眼前に襲い掛かってきた盾竜によって、ウルの思案が中断された。ウルは瞬時に外敵との距離を取ると、先ほどまで自分がいた位置に着地して隙が生じた盾竜に向かって、ありったけの熱量を放った。ウルの攻撃を正面から受けた盾竜の装甲が四散し、力尽きた盾竜がその場に倒れた。

 

「皆、聞いてくれ。この竜たちとは違う【虚無】の者が、この戦いの希望となる我々の護るべき者の命を狙って攻め入ってきた。ついてこれる者は私に続いて欲しい」

 

 ウルは身をひるがえし、まだ敵の残っている回廊を一気に駆け抜けた。盾竜に応戦していた、危機的な事態を察した他の機械たちも、ウルの後を追った。

 

 盾竜との激戦はなおも続いており、それらを退けて進むのは並大抵のことでは無かったが、この戦いにおける切り札となる存在が失われる寸前であることを知った以上、背に腹は代えられない。

 

 行く先々で犠牲を出しながらも、ウルたちは冥機の反応を追跡した。

 

 

 

「……来ましたね」

 

 そう呟くフレイアの言葉が何を意味しているのか読み込めなかったベル・ダンディアであったが、すぐにそれが何を意味しているのかを知った。

 

 轟音と主に錠を施されていた扉が吹き飛ばされ、傷ついた護衛の動器が室内に転がり込んできた。それに続いて、冥機と数体の盾竜が乱入してくる。

 

 冥機は部屋の中央で動きを止めると、その眼光で周囲を眺め回した。内部には明記を屹然とした態度で直視するフレイアと、甦る過去の絶望に気圧されそうになっているベル・ダンディアの姿しかない。

 

(どういうことだ。ここにロロは居ない……)

 

 冥機の内部で混在する思念が困惑していたが、フレイアから感じられるロロの気配を感知することで、状況を理解した。

 

「そうです、あなた方をここに招いたのは私です」

 

 フレイアはそう言うと、一本の髪の毛を相手に見せつけた。

 

「これは不死者から直接頂いた、彼の身体の一部。私はこれに宿る不死者の気配を増幅させることで、あなた方に、ここにロロがいると錯覚させたのです」

 

(我らを謀るとはな。だが、そのような時間稼ぎ、何の意味も持たぬ。お前たちを即葬り、ロロを探すだけの猶予はあるのだからな)

 

「【虚無】に従う者よ。私はあなたと一つになりたい」

 

 フレイアの言葉に、然しもの冥機の意識も同様を隠せなかった。ベル・ダンディアもまた、信じられないと言う様に、驚愕の目でフレイアを凝視した。

 

 なおも涼しい面持ちでフレイアは話し続けた。

 

「あなたの中にはブレイザブリクや、私の姉フレイたちの意識も感じられます。その意識もまた【虚無】を望むというのならば、今すぐにでもこの私を共に引き込みたい筈。私も、そうなることを望みます」

 

 冥機は、己の内部でフレイアを愛したブレイザブリクやフレイ、それにフレイアの元で戦い抜いたグリン・ブルスティを始めとする獣たちの意思が強まるのを感じた。それらは自分を構成する意識であり、冥機にとっても従わざるを得ないだけの影響力へと拡大されつつある。

 

「フレイア様。あなたはどうして……」

 

 ベル・ダンディアが詰め寄ろうとしたが、フレイアが片腕を突き出すと両者の合間に結界が生じ、ベル・ダンディアはそれ以上フレイアに近づくことが出来なかった。

 

「私は今、知りました。何故死地を共にする筈だった獣たちや姉を失ってまで、私は生き延びてきたのか。すべては、この時の為だったのです」

 

 その時、盾竜たちを退けながらウルが一室に駆け込んできた。見ると、冥機と対峙するフレイアの姿。そして、焦心のベル・ダンディア。

 

「ベル・ダンディア様、フレイア様。今、お助けします」

 

 ウルは戦闘態勢に入ると、冥機を己の熱量狙い撃とうと両腕を掲げた。しかし、強力な見えない防壁が生じ、ウルの動きを封じた。

 

「丁度良い所に来ましたね、ウル」

 

 ウルは自分の動きを封じている防壁が、こちらへ手を突き出しているフレイアによるものであると察した。

 

「何をなさるのです。このままでは……」

 

「あなたもよく見ておきなさい、ウル」

 

 フレイアは冥機に向き直ると優しく語り掛けた。

 

「あなたの中の意識も望んでいること。さあ、私を【虚無】へと導いてください」

 

 複数の意識が混在する冥機は、既にフレイアの意志に抗えなくなっていた。

 

(良かろう。フレイアよ、貴様も我が一部となり、共にこの世界を【虚無】に還すのだ)

 

 冥機が刃を突き出す。ウルとベル・ダンディアが口々に何事かを叫んだが、一層強まった防壁に遮断され、事態を傍観するしかなかった。

 

 全く動じることの無いフレイアに向かって、冥機の刃が直進した。刃はフレイアの氷の身体を貫通し、砕けた氷の破片と淡い燐光が周囲に飛び散った。

 

 刃はフレイアのコアを貫いている。そのままの姿勢で、暫しの間、両者は動きを止めていた。

 

(こ、これは……)

 

 先に静寂を破ったのは冥機の方であった。飛散した輝きは冥機の前身を取り囲み、包み込んでいく。

 

「ですが、私は【虚無】に還ることを拒みます」 

 

 氷で出来ているフレイアの全身がひび割れ、砕け散った。フレイアの作り出した防壁が瞬時に掻き消え、束縛されていたベル・ダンディアとウルが解放される。

 

 ウルは急いで、ベル・ダンディアの元へ駆け寄り、彼女を庇う様にして立ちはだかると、周囲の状況を眺め回した。

 

 フレイアの残した輝きに包まれた冥機。それと、冥機に操られていた筈の、微動だにしない盾竜たちの姿。まるで、この場の空間が静止してしまったかの様であった。

 

(【虚無】から目を背けることは出来ない。私たちを護る為に戦い、散って言ったものが【虚無】を望むというのであれば、それも認めなければならない。しかし、【虚無】に呑まれることに抗うのが生きとし生ける者の務め)

 

(何を莫迦な。我々は【虚無】を望み、世界を終焉へ導くのだ)

 

(私の目的はあなたがそうすることを防ぐこと。私はあなたの内にいる私の協力者と同調しようと、自らあなたに取り込まれたのです)

 

(おのれ……。だが、いくら貴様と貴様に同調する者が束になろうと、【虚無】を止めるなど出来ぬ)

 

(それでも、私と私の同志にはそれを止める為に戦い抜く覚悟があります。その為にはあなたの力さえも利用させてもらいます)

 

 フレイアの思念がウルとベル・ダンディアの脳裏に直接響く。

 

(【虚無】は常に私たちと隣り合うもの。それから目を背け、黙殺し、ただ遠ざけるというのであれば、それを望んだ魂たちとの溝を深め、この世の歪みを広げることになります)

 

「でも、私たちはこの世が【虚無】に呑まれるのを阻止する為に戦っているのです。迫る【虚無】は退けなければならない……」

 

(それで良いのです、【勇者】。ただ、戦いに疲れ、安寧を求める者たちがいたこと。その者たちが結果として、【虚無】にひかれていたこと。心に留め、忘れないでください)

 

 冥機の意識が急速に遠のいていった。冥機の両腕が脱力したように下げられ、中空に浮いたまま焦点の定まっていない目が虚空へ向けられている。

 

 冥機に洗脳されていた盾竜たちが、操っていた糸が切断されたかのようにその場へ頽れた。

 

(翼神機……翼神機の元へ)

 

 冥機から伝えられた微かな意識の波。冥機は浮遊したまま、滑るように移動すると、一室の外の回廊へ向かった。

 

 ウルとベル・ダンディアがその先へ視線を移すと、そこには冥機と向かい合うベビー・ロキの姿があった。

 

 

 

 ブリシンガメンの首飾りを操りながら進軍していたゲンドリルは、不意に我に返った。

 

「こ、これはどうしたことだ……」

 

 機械の艦隊との戦闘は尚も継続されており、相手側の犠牲に比べればこちらの被害は大したことは無いように見える。だが、戦場の中で着実にこちらへの距離を詰めている獣機合神とその同胞たちの姿を、ゲンドリルは見逃さなかった。

 

「……そうか。儂としたことが、【虚無】を行使する立場にありながら、【虚無】に付け込まれるとはのう」

 

 冷静になったゲンドリルは己の持つ魔力を使い、戦場全体を広く見通す千里眼を展開した。

 

 機械の援軍である高速艇を護衛していた針に覆われた空魚たちが、盾竜たちの装甲に張り付き、電磁波を発生させることで破壊している情景が映る。

 

 さらに遠方からは、獣機合神と同様の技術を駆使して制作されたと思しき竜機合神とその同胞たちが、艦隊に加勢するべく高速で接近していた。

 

「これ以上の戦闘の継続は危険であるか。ましてや、これは神の意図していなかったこと」

 

 ゲンドリルは全軍に撤退命令を下した。それと同時に、しんがりとなる盾竜を配置し、退路の確保を最優先にして陣形を組みなおす。

 

「申し訳ありませぬ、我が神」

 

 そう言うゲンドリルの相貌には疲弊の色が浮かんでいた。

 

 

 

 サーガとの交信を終えたエイルの話によると、虚無の軍勢が急に後退を始めたことで、ひとまず軌道母艦は戦場から脱することが出来たらしい。ハティは内心ほっとしていた。

 

「じゃあ、早く、またドリームリボンを使って今度は機械の船に戻るぞ。連中に追い打ちをかけてやるんだ」

 

 そう言うヴァールは、逸る気持ちを抑えられないといった風であった。

 

「焦らないでください、ヴァール。まだまだ戦力差では私たちの方が不利なのですよ。迂闊に深追いをするのは危険すぎます」

 

「でも、機械の奴らはこのままブリシンガメンの首飾りに攻め込む算段なんだろ。だったら、あたしたちも協力した方が早く奴らを叩ける」

 

「私たちには私たちの役割があります。それを果たすのを優先しなければ」

 

 ヴァールは納得した様子ではなかったが、エイルがサーガのいる場所へ一行を転移させる術式の準備に取り掛かっているのを見て取ると、不満げに手にした鍵を凍りついた地に押し付け、押し黙った。

 

(ハティ。本当に良いんだね。もう後戻りは出来なくなるけど……)

 

 ベビー・ロキから発せられらた言葉に、ハティは強く頷いた。

 

「はい。僕は僕の護りたい者の為に戦う。それに必要な力を得る為にも、僕は兄さんと同じ志の元で戦いたい」

 

 涙を流しているスクルディアは、ハティへ非難の視線を向けている。ハティにはそれが辛かったが、ここまで自分が生き延びてきたのは、散っていった多くの獣たちの遺志を受け継ぐ為でもあるのだ。

 

 そして、今一度呼び起こされる、ハクの言葉。「君には騎士としての素質があるのだ」と。

 

 ハティは己の覚悟を、自分の意識の中で何度も反芻した。

 

 【虚無】との戦いは、ここで終わらせなければならない。未来ある者の為に。




関連カード

●時止まりの氷原
名所千選126。
侵略者のもたらした異変により、氷であって氷ではないものが広がっている。
そのため、寒いわけではないらしい。
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