トリオン……主に
生物の心臓の横に備わっている臓器だが目には見えない。これを利用して、ボーダーにより量産された対近界民専用武器「トリガー」を扱うことができる。
含有量には個人差があるが、トリガーを使用しこれを消費させることで、ある程度の成長も可能。
「がるるちゃん何してるの〜?」
「
ボーダー支給のタブレットでトリオンの項目を読んでいたルル。それをテーブルに伏せてから、彼女は
無駄なものがなく整頓されていた嵐山隊作戦室に対し、太刀川隊のそれは無駄なものしかない。正確には戦闘に必要のない、漫画やゲームなどの娯楽であふれている。お世辞にも綺麗とは言えない。というかはっきり言って汚い。
ルルは作戦室の中央に設置された、年季の入ったソファに座っている。肘かけにぐしゃぐしゃとまるまったブランケットを適当に膝にかけると、背もたれにぽすっと沈んだ。
「やばいよこれ300ページもあるんだけど〜!」
「お? じゃあカロス図鑑の1/3くらいだよ」
隣にいた国近は、片手で3DSをプレイしながら、もう片方の手で900ページ近くある分厚い本をぽんぽんと叩く。
「そうかボーダーの公式ガイドブックと思えば……! いややっぱむりつらーい」
泣き真似を始めたルルだが、国近はゲーム画面から目を離さないまま動じない。そしてテーブルに広がったお菓子たちを適当に指差した。
「まあまあシャラサブレでもお食べ」
「それシャラシティにも売ってないやつ」
「そう。つまり激レアなのだよ」
「ありがたくいただこう」
「……」
向かいのソファでは、
黄色みがかった茶色の明るい髪に二重の鋭い目を持っているが、雰囲気は柔らかい。彼は彼で「千発百中」とプリントされた謎のTシャツを普段着にしていることが多く(今も着ている)、周りを余計にそう感じさせた。
ルルはずるずると国近の肩にもたれかかると、一緒になってゲーム画面をのぞき込んだ。ピンクブラウンと水色の対照的な髪が合わさって、その場でゆらゆらと揺れる。いつものことなのか、国近は特にそれを払いのけたりしない。
距離感がバグ気味な二人を見て、出水はシャーペンを走らせる手を止めた。
「
シャラサブレ、ではなく砂糖で表面がつやつやしたココナッツ味の薄いサブレを、さくさくと口に入れた後、ルルは出水に向かって頷いた。
「わたし時々ゲーム実況動画あげてるんだけど、
「へ〜」
「がるるちゃんはわたしが育てました」
「師匠ではない」
顔の横に星がキラリと光るような勢いで言った国近に、ルルは即座につっこみを入れる。出水の手元を見ると、あっと申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね騒いじゃって。勉強中だったね」
「あーいえ、多分今日中には終わんないんで気にしないでください」
「そうなの? 難しいってこと?」
言いながらルルは身を乗り出し、テーブルの出水側に置かれた問題集を見つめた。何かのグラフとアルファベット、不等号が文章内に並んでいる。
「数学?」
「いや物理基礎っす」
「力学的エネルギー……なるほど……」
「先輩分かるんすか?」
「わかんない。けどわかる。かも」
ルルは考え込むようにして、問題集の隣に並ぶ教科書をじっと見つめ始める。彼女が勉強を教えてくれようとしているのに気付いたのか、出水はそれをやんわりと止めた。
「いや悪いんで大丈夫すよ。元々柚宇さんに用があったんじゃ?」
「そーなの。お願いがあって来たんだけど、柚宇ちゃん厳選終わった?」
呼ばれた国近は画面を食い入るように見つめながら首を振る。
「まだ〜おくびょうどんかんA抜け5V出すまで待って〜」
「何て?」と、意味が分からず首をひねる出水。
「多分あと30分以上はかかるよ」
気にしないで、とルルは慣れた感じで言った。出水は相槌を打つと、ルルが伏せたタブレットに目をやる。
「……ちなみになんすけど、アレっておれが見ちゃマズイやつ?」
「マニュアルのこと?」
出水が頷いたのを見て、ルルは顎に手を当てた。
支給されたタブレット内のデータは関係者外秘であり、本部外に持ち出すことは禁じられている。関係者というのは特定の職員、または一定のレベルに達した隊員のみだと、彼女は根付に説明されていた。
ルルはにこりとタブレットを手に取ると、出水にスッと差し出した。
「全然大丈夫だよ。出水くんにとっては知ってて当たり前のことしかないと思うけど」
仮に二人に見られちゃマズイものをここで堂々と見るのはリテラシーがなさすぎる。というかそもそもの話。
そう考えながらルルはだって、と続ける。
「出水くんA級1位だし」
「そうすかね?」
彼はへらっと軽く謙遜しながらもタブレットを受け取った。
ボーダーの戦闘隊員は大きく3つに別れている。最初は訓練生としてのC級、主力であるB級、そして精鋭揃いのA級。
C級は正確には正隊員ではない。
渡されるトリガーも訓練用でその持ち出しを禁じられており、防衛任務にはつけない。そのためポジションごとに行われる合同訓練か、C級隊員同士で戦う
とはいえ、真面目に訓練すれば割と誰でもB級へ上がれるようになっている。
しかしB級からA級への道のりは長く険しい。
隊員同士でオペレーターを含めた
最短ワンシーズン(3ヶ月)の昇格も夢ではないが、次シーズン以降での降格もままあるらしく、その維持も難しいとされている。
そしてここにいる2人。出水と国近の所属する太刀川隊はA級1位。彼らは2年以上もの間、チームランク戦のトップに君臨する凄腕集団なのだ。
こんな部屋なのに。
と、物であふれ乱雑した様を眺めて、思わずそんな考えがルルの頭をよぎった。
「うわコレ……普通にやばい」
「やばいよね、文字たくさんで」
すいすいとタブレットを素早く操作している出水に、ルルは愚痴るように苦笑した。だがそういう意味ではなかったらしく、彼はいや、とひとり言のように続けた。
「遠征とかサイドエフェクトとか、機密レベルたけーなって…………うわポジション別でトリガーの説明もあんのか、そりゃ300ページいくわ……」
出水の口から出た"遠征"という単語が聞こえたらしく、国近が突然わずかにびくりとする。動揺を隠し切れていない彼女に、ルルは笑いそうになる口元をおさえた。
タブレットから目線を外した出水は、ちらりと目の前のルルを一瞥する。
「けど
「じゃないよ〜」
首を振って否定すると、ルルは嵐山隊とのやり取りを思い返した。
国近に頼みたいことにも関わるため、自身のトリオンが1未満であることは伏せて、「元々戦闘員になるはずだったが忙しいため断った」と彼に説明した。
「あ〜それで……ならほとんど覚える必要なさそうすね。半分以上が戦闘員向けって感じだし」
礼と共に出水にタブレットを返され、ルルは何と返事しようかと考えながらにこやかにそれを受け取った。
戦闘員ではないがトリガーを扱わない訳ではない。彼女はマニュアルと一緒に、訓練用でないノーマルトリガーも手にしていたのだ。
「でも、トリガーには興味あったから、ちょうど良かったよ」
「研究でもするんすか?」と、サブレを口にしながら笑う出水。
彼は冗談だと思っているようだ。ルルもにやりとして、そんな感じだと頷いた。
「え、マジなの」
「マジだよ〜。メディア対策室の室員
にこにことVサインする彼女を見て、「……サポーターってつえーなマジで……あいつは息子だけど」と出水は小さく呟いた。
「そうだ! せっかくだから遠征のことも聞いてみたかったんだよね」
「遠征すか? そのマニュアルにのってる内容じゃなく?」
「うん、じゃなく。単純に向こうの世界のこと知りたいなーって」
ルルはそう言ってタブレットに目を落とす。
マニュアルの説明では、ボーダー隊員が実はもう何度も
そのあたりのことは耳タコレベルで知っている彼女は、肩をすくめてため息をついた。
近界、と聞く度、ルルの頭には
彼女はボーダーの重要な規則をいくつも破り、近界民の世界へと旅立って行ったのだ。去年の5月初めの話なので、あと数ヶ月で1年が経つ。
だがルルには、それが十数年も前の出来事のように感じられていた。
鳩原が向こうでどうしているかなど、おそらく遠征に行った隊員たちは知らないだろう。
追いかけるつもりなんか、全然、まったく、これっぽっちもないけど! と、ルルは自身に言い聞かせるように心の中で呟く。
けど、ただ、知りたい。聞くだけなら、別に何の影響も——
「雑賀先輩?」
「!」
うつむいたまま動かなくなったルルに、出水がおそるおそる声をかけた。
ハッとして顔を上げた彼女は、すぐにいつもの調子に戻ると、少し意地悪な笑顔を見せた。
「いやー、今朝も同じクラスの子に聞いたんだけど、誰も教えてくれなくって——ね、柚宇ちゃん」
国近の肩がまたびくりとする。そしてその震えは徐々に大きくなっていく。彼女の顔は先ほどルルが泣き真似をしたのと同じようなしかめ面をしていた。
「ずるいよがるるちゃん……その時はまだボーダーに入ってなかったでしょ〜⁉︎
それにわたしだけじゃなくて
わたしは悪くない、と国近は頬をふくらませむくれている。
普段は超が付くほどのおっとりマイペースな癒しキャラである国近。だが今は、彼女がゲームに負けた時にたまに見せる態度とそっくりだ。
ちょっと言い過ぎたかな、とルルは両手を合わせた。
「ごめんごめん。そうだね柚宇ちゃんは悪くないよ。ボーダーの機密を守っただけだもんね」
「ほんとだよ〜! おかげであの後当真くんにもイジられたし、5Vは出ないし……何て日だ!」
「5Vはわたし関係ないじゃん」
ルルがすかさずつっこむと、国近はむう、と3DSとにらめっこし始める。
ゲームに関しては負けず嫌いで縛りプレイなら余計に妥協しない彼女のことだ。さらに時間をかけるため、今日はこのまま作戦室にお泊まりコースだろう。
自室は本部内にあるし特に問題はない。しかし彼女への話は先に済ませたい。と、ルルはテーブルのお菓子をすすめる。
「ちょっと休憩しよ? ほら、ミアレガレットですよ」
「うん……」
国近は素直に手を伸ばしてミアレガレット、ではなく分厚いバタークッキーを手に取るも、その返事には元気がない。見かねたルルは、以前一緒に見たことのある映画の主題歌を口ずさんだ。
「きみと手をつなごう つらいときはもっと
ゼロからはじめよう ほら ほら 手をつなごう」
「さすがに0からは……ポケトレ60連鎖はつらいよ〜」
「きみと手をつなごう つらいときはもっと
イチからはじめよう ほら ほら 手をつなごう」
「それなら、まあ……」
もぐもぐとクッキーを頬張りながら、国近はしぶしぶ頷く。あともうひと押し必要だ。
振り向いたルルは、何だこれ……と言いたげな目をして蚊帳の外にいる出水の手をとった。
「出水くん!」
「え?」
そしてルルはマイク代わりに自分のこぶしを口元に当て「夜空にー」と歌うと、はいっと出水にそのマイクを向ける。
「いやいや知らないおれ知らないその曲」
「ホシニー」
そんなことは想定内だったルルは裏声でセルフコーラスを入れ、ぶっと出水を吹き出させた。
「届け愛よ みんなの」と彼女は続けて歌うと、今度は国近にマイクを向ける。「願いがー」と、恥ずかしそうにしながらも合いの手を入れた国近に、にこりと頷く。
そして「つながってゆくように 未来へ」と、手を差し出し、彼女は国近と手をつないだ。
この後2連チャン続くサビの大合唱を聞き、半強制的に二人と手をつながされた状態で、出水は「何だこれ……」と小さく口にした。
「ライブのお手伝いー? いいよ〜」
「助かるありがとー!」
その後、奇跡的にポケモンの厳選が終わり、すっかり機嫌の戻った国近は、ルルの依頼を聞くと二つ返事で快諾してくれた。
手をつなごう/私立恵比寿中学