「行ってくるよ、ハル姉さん」
「行ってらっしゃい、夜までには帰ってきてね」
家の玄関でそう、姉さんと言葉を交わすと俺は街へ出た。
……用事としては散歩がてらの買い出し、それから小説を書くための資料の購入だ。
家を出て、聖教皇国の皇都クルセイダル周辺の市場へと繰り出す。
市場や市街の商業活動はもう教皇崩御から八か月以上経っているからか、元の在り様を取り戻している。
にぎやかな雰囲気なのがやはり一番だろう、見知った顔もちらほらある。
屋台や料理店から漏れる談笑の声や美味しそうな匂いを感じると自然と腹が減ってしまうものなのだが、ハル姉さんの食事があるのでそれは控えよう。
ハル姉さんから頼まれた買い出しのメモを見ながら市街地を歩いていると、――突然市中の人々の声は小さくなった。
皆、一様に一つの方向を見ていた。大通りの向こう側から歩いてくる。
……それは現・第一騎士団の位階第三位、
金色に輝く長髪を揺らしながら、きらびやかな蒼と銀の鎧を纏い冷然とした雰囲気を纏って他の騎士を伴いながら市中を見回っている。
「……そうか。そう言えば、グランドベル卿は
教皇崩御の後に行われた七騎士団の再編で、彼女マリアは第二から第一に転籍となったと聞いている。
かの
市民を護る比類なき武威を持ち、同時に常に国と民を憂いて謙虚さや優しさを忘れない。その在り様をして、人は彼女を鉄血聖女という。
何も変わらない鉄面皮なだけのお堅い聖女様かと言えば、決してそうではない。市中の人々に手を振り返しながら微笑む彼女の姿は、騎士としても偶像としても、まさしく理想像と言えるだろう。
こうして時折現役の騎士たちは市中の見回りを行う事が時々あり、実際自分も団長代理としてそれを行う事はあった。
基本的にはこの活動は団長が先陣に立ち騎士団の上位位階の人間たちを引き連れて行うことなのだが、確か現第一騎士団団長はリチャード卿であったはずだ。なので概ね、グランドベル卿も代理として出向いているという形だろう。
……相も変わらず、自分はこの人には慣れない。そうつくづく思う。
騎士団を辞める前の話だが幾度か手合わせをしたことがあったから。そう、思い返しているとふと、グランドベル卿と目があった。
少し、驚いたような顔をしている彼女。
「――」
数瞬流れる沈黙を紛らわすように、視線から逃れるように、俺は頭を下げて一礼を返す。
彼女の顔をこれ以上見る必要もないだろうと、どうか万が一にも俺のような落伍者……騎士の成りそこないに話かけないでほしいとばかりに俺はその場から立ち去った。
……流し目でちらりと、見た彼女は――己が引き連れている騎士団の面々と何か小声で話しをしているようだった。
―――
「……一応これで、ハル姉さんの買い出しは終わりか。漏れはないはずだけど」
肉、野菜、それから糸や絹。買い出しの為の籠に詰めた品々を見回しながら、俺は市街地の公園でそうため息をついた。
……あの場から逃げるように立ち去った自分の卑小さが、相も変わらず嫌になってくる。
小説家になりたいという夢をかなえるために騎士団を辞めた人間なのだから、それはもう騎士として俺は存在そのものが反面教師のような教材だった。
自覚はしている。そんな自分に恥じ入るものがあるから、リチャード卿やグランドベル卿のような立派に騎士をやっている人間を前にできないのだ。
「……騎士辞めてもう二年経つんだがな。我ながら進歩の無い」
公園の木のベンチで近くの店から買った氷菓子を少しずつ口にしながら、空を仰ぐ。
発動体は、騎士団を辞める際に返却してしまった。もう使う事も無いだろうと、そう思って。
「――お久しぶりですね、ロダン」
「……――」
音もなく、自分の肩に載せられた手の感触に背筋が冷たくなった。
反射的に振り向くと……そこには市中の見回りをしていたはずのグランドベル卿の姿があった。
「グランドベル……卿」
「はい」
鎧を脱いだ恰好となっているグランドベル卿の姿に、俺は畏まるしかなかった。
……できれば会いたくはない人だったから。
「第六軍団を去って以来、ですね。何か御変わりはございますか。たしか、今は物書きをされていると聞いていたのですが」
「グランドベル卿は、第一軍団への移籍となったそうで。……貴方こそ御変わりないようで、何よりでございます」
どこか、そんな俺を彼女は痛ましさそうな顔で眺めている。そんな目で俺を見ないでほしい。
……本当に、お優しい騎士であり、善性の発露という奴なのだろうと思う。俺が騎士団を去ると告げた時、当時の第六軍団団長と彼女だけは俺を引き留めてくれた。
第六軍団団長はともかく、訓練で刃を交えて以来時折すれ違い際に会釈を返す程度であった彼女が俺を引き留めようとしてくれた事。
ハル姉さん同様に、彼女の気持ちも俺は裏切って騎士団を辞めてしまった事。それが何よりの負い目だった。
「……どうして、市中で出会った際には貴方は直に逃げて行ってしまいましたのでしょうか。何か私は貴方へ無礼でも――」
「いやそれは断じて違う、グランドベル卿。貴方が気に病む事じゃない、それに貴方の事は関係ない。俺は……」
「嘘を言う時貴方は早口で、多弁になる癖がある、とよく人から指摘された事はございますか?」
俺の言葉を遮るように、グランドベル卿はそう告げる。
……嘘を言うとき、早口になる事。多弁になる事。それはハル姉さんに子供のころ、よく指摘された事だった。
グランドベル卿にまさか全く同様の事を指摘される事になる等、思いもよらなかった。だからどうか俺の内心に気づかないでほしいと、そう強く願う。
「天下の第一軍団の第Ⅲ位階、グランドベル卿ともあろう者が人の話を遮り事情の詮索とは、随分に礼儀がなっている。……帰っていいですか、グランドベル卿。私は姉さ――知り合いの為の買い出しに出ただけなので」
「……」
それでも俺に手を差し伸べようと、理解しようとする彼女の優しさは間違いなく素晴らしいものだろう。俺と違って実に人間が出来ている。ヒトとしてそうあるべき形なのだと理解が出来る。
絵にかいた聖騎士様、そんな彼女が言いたいことは概ね理解ができる。彼女に非ずとも、時折こうして俺は誘いを受ける。
「……騎士団に戻らないか、とでも貴方は言うのだろう。ごめんだよグランドベル卿。俺は俺の夢に生きると誓った。だから、貴方が俺に気と時間を砕く必要などどこにもありはしない。そんな価値は、俺にはないんだよ」
「本当に、それだけですか。ロダン」
騎士団に戻ってくれ。
よく聞いた言葉だ。ベルグシュライン卿も、この国の武の象徴にして武神の生まれ変わりと言われたヴェラチュール卿も、この世を去った。
そんな混乱の渦中にあって騎士団は人を求めている。――辞めた後の騎士にもこうして声をかけてくる程度には。
割り増しされた報酬の提示、位階の繰り上げ。そんなものを見せつけられても、俺の心は何も躍らない。
ペンを持つ方が、ずっと気は楽だったし何より子供のころの夢だったから。
「それだけだよ。そして貴方の話もそれだけだろう、さようならだグランドベル卿。……例え一抹でも一握でも、俺を気にかけてくれたのなら感謝する」
ベンチから腰を上げて。俺はグランドベル卿に振り向くまいと去った。
風に解ける彼女の声も、聞こえないふりをして。
「――ロダン。貴方は今でも、自分の星を嫌っているのですか?」
買い出しが終わると、市街地南にある劇場へと赴く。
……カンタベリー公衆大劇場。旧暦ヨーロッパの各地から劇団が集う、国内屈指の大劇場だ。
カンタベリー芸術の祭典、とも謳われるソレは国境問わず、芸術家の卵から手練れまで、様々な人々が集う。
旧暦における騎士物語や神話、それから創作悲劇まで、演目は実に多種だ。
ニーベルンゲンの指輪、神々の黄昏は旧暦から続く定番のネタだったと記憶している。
シェイクスピア等、特に新西暦においても有名だと言えるだろう。
かくいう俺も、さる劇団へ脚本の提供を行った事があった。それなりの盛況を収めたとは記憶していた。
執筆においてインスピレーションとは大事な事だ。
だからこそ俺は時折こうして芸術の場へと赴くのだが、特に今日は公衆大劇場の様相は異なっていた。
遠目からでもはっきり目に分かるほどの人だかりが出来ている。
……恐らくは、有名な劇団が訪れたか、スター級の役者が訪れたか、そんなところだろう。
そこの看板を見るにはどうにも新進気鋭、超新星などと大仰なうたい文句の役者が所属する劇団が演目を始めるらしい。
その役者の名前はエリス・ルナハイム。ブロマイドを見る限りでは、美しい銀髪と綺麗に整った顔立ち、抜群のプロポーションが注目すべき点だろう。
劇団の名前はユダ座。前衛的でこれまでの演劇のセオリーにはない演出や特色を特に好んで取り入れる中堅劇団だと名前は聞いた事がある。
彼らは聞くところによれば「芸術への反逆」をテーマに掲げているとか。
確かに写真越しにも美人なのは理解できるとして、だが彼女の名前を俺はまるで聞いたことが無い。
「聞いた事、ないな。見た目はいいんだろうが」
けれど、それだけそうそうたるうたい文句なのだから見に行くのもやぶさかではあるまいと、俺は劇場に足を運んだ。
願わくば、どうか俺の創作に一石を投じてほしいと不遜にも上から目線で願いながら受付を済ませ客席へと腰を預けた。
新進気鋭の超新星の程を見定めてやる、という上から目線で観劇する者も実際の所は珍しくはない。
芸術家というものは分野を問わず、ルーキーの程度を計ろうとする人種が一定数いる。
それは同業者故の嫉妬であったり、自分のキャリア故のプライドであったり、はたまた自分の創作活動のインスピレーションにしようとすることだったり、動機は実に多様だ。
人の事を言えた義理ではないが、俺もそういう人種なのだという事は大概自覚していた。
創作は決して求道のみに生きるに非ず。自分一人の視点に引きこもっていては他者のモノの考え方を取り入れられない。結果出来上がるのは、自明の道理として自分一人の感性だけが十全に満たされる。
当たり前だが、そんな作品を喜ぶのは自分と、自分と全く同一の趣味嗜好をした人物しかありえない。
それでは創作とは成らない。人が己を越えて多くの人々に伝えたいモノがあるからこそ古今、芸術とは成り立つものだと俺は思っているから。
思案を重ねるうちに、劇場の灯りは段々と消えていく。
薄暗くなっていく劇場の中、最後の灯りは消えた。開演の時間は、滞りなく訪れた。
傍らに受付で買った嗜好飲料を置きながら、俺もまた観劇に没頭しようと思った。
演目名は「永遠の淑女」。
湖畔の家に住む一人の孤独な少女に恋をした青年の視点から描かれる物語。
病に侵された少女は親類からも見放され、ついに天涯孤独の身となった。その湖畔を時折訪れる青年と出逢いを重ねるたびに恋をしていくが、病というタイムリミットにはついに勝てず、最期に青年が彼女と出会った際には既に彼女は事切れていた、という話だ。
彼女がその枕元に置いた彼に宛てた手紙の内容を目にし、涙を流しながらもしかし、彼女との思い出は間違いなく己の胸の中の黄金であり永遠であったと悟る。
……話としてはありきたりな筋書きだ。物理的に残らないモノと、精神的に残るモノとの対比は古来、よくあったストーリーだ。
しかしだからこそ多くの大衆の胸を穿つのだとも理解はできる。
問題は役者と演出だろう。どれほど素晴らしい脚本であれ、それを雑に演出されれば一気に萎えるというものだが。
開演と共に、一筋の灯りが舞台を照らす。
――そこにいたのはエリスだった。
「――嗚呼、神よ。何故御身は私を引き裂いたのか」
天に、ここに在らぬ何かを求めるかのように一直線に伸ばされた手。指先の一本に至るまで、完璧だった。
そのたった一度の所作で、観客の目をエリスという女は掌握した。
喉枯れるほどの悲嘆は、見る者の胸に言い知れぬモノを迫らせるほどに迫真だった。
目尻に涙さえ湛えながら、その悲劇を美しく彩っていく。
「ウィリアム、ウィリアム。貴方はどうして私に会いに来てくださるの? 私の知る景色は、永遠に変わらぬこの湖畔だけでよかったのに」
発作のように、か細く震える手。
己の心臓を抱くように、膝から崩れ落ちながらも、伴侶役の男へと縋るように彼女は叫ぶ。
真に迫るとは、まさしくこの事だろう。彼女の視点に立ったかのように、彼女の演じる悲しみを理解できてしまったから。
……この話に、よく似た話を俺は書いたことがあるから。
「貴方の事なんて、私は知りたくなどなかった。私は一人でいられればそれで幸せだと思っていたのに、それを貴方はいともたやすく砕いて見せた。――もっと生きていたいと、私は思ってしまった!」
生きる事を諦めた少女に生きる動機を与えてしまった事を、彼女は筋違いと知っていながら男へ糾弾する。
涙に濡れた頬は痛ましくも美しく、どこまでも引き込まれていく。
彼女の作り出す虚構の悲劇に俺も含め観客は胸を打たれている。脚本を寸分たがわず現実にしていくその力量に俺は圧倒されていた。
叩きつけられるような彼女の感情はしかし、単なる叫びなどではない。そのようにすれば観客の胸を抉ると研究されつくしているうえでの演技だ。
決して、湖畔の淑女は現実の人間ではない。であるにもかかわらず、彼女というレンズを通して今観客は湖畔の淑女の実在を目の当たりにしている。
知らずに、意図すらせずに、俺は涙を流していた。
「……■■■■■■■」
かつて、体験した夢の中の別離が、今俺の胸の中に去来していたから。
その名前を、俺は知っている。思い出せなくても、その字面の意味を知っている。
――途端に、脳裏の中にあったあの時の光景と輪郭が、肉をつけていく。
鮮明になる意識と共に、あの時失った少女の顔が蘇っていく。
月を写したような美しい銀の髪、張りのある真白色の肌――そして、薄い赤の唇。
その姿ははっきりと、――エリスに重なった。
エリス・ルナハイム。今俺が目の当たりにしている彼女はそんな名前ではない。なぜならば彼女の名前は。
「……ベアトリーチェ?」
それは奇しくも、エリスは観客席へと目を向けると、刹那に彼女と目が合った。
その一瞬、彼女もまた、呆然とした表情を俺へと送っていた。
ただの一瞬、ほかの観客には気付かないほどのその刹那であったのに、俺は確信にも似た予感があった。
呆然とした顔は一瞬で役者のそれへと切り替わり、一切の滞りなく演目は進行していった。
俺はただ、エリスを茫々然と眺める事しかできなかった。
説明の出来ない――文章化できない感慨が、胸の中に渦巻いていて。何かしようと思うときっと、抑えきれない感情のままに在ることないことをやらかしてしまうだろう予感があったから。
最期、永遠の別離が訪れるそのラストシーンを、俺はただ涙を流す事しかできなかった。
惜しむことがあるとすれば、泣いてばかりでろくに目のまえの演劇を集中してみることができなかった事ぐらいだろう。
拍手の中、その悲劇は幕を閉じた。
鳴り響く喝采は留まる事を知らず、けれど俺の胸にあったのは全く別の感情だった。
エリス・ルナハイムという役者。彼女が、あの夢で別離を遂げた人とあまりに似通いすぎていたのだから。
―――
劇場を出れば、もう日は堕ちてかけていた。綺麗なものだと、本当にそう思う。
胸に迫るものはあった。間違いなく、アレは俺に破城槌の如き衝撃を与えた。理解はしたが、イデアから言語化できる領域に落としこめてはいない。
それだけがもどかしい。
脚本はありきたりだったかもしれないが、エリスの演技は素晴らしかったと言わざるを得ない。
「……綺麗だったな」
そう、空を見上げながらごちる。
劇場から去る事に後ろ髪を引くような名残惜しさを感じながら、帰路につく。
ハル姉さんの中途半端に大きな家。片手に持った籠の重みを感じながら、門をくぐる。
そこで出迎えていたのは、やはりというべきかハル姉さんだった。
「帰ってきたよ、ハル姉さん」
「ご苦労様、ロダン。……大丈夫? 何かあったの?」
ハル姉さんは、俺の目尻を指さしている。
……涙の跡がある、そう言いたいのだろう。
「いいや、何も。少し、知り合いと会っていた。随分長い事あってなくてな。積もる話が色々あった。別に厄介事には巻き込まれてないよ、ほら見ろ服だってきれいなままだ」
「……そう」
あまり、ハル姉さんは納得していなさそうな顔だった。
……普段、あまり泣かない人間だとよく思われている自覚はあるのだが――ふと、ハル姉さんの視点が若干ずれていることに気が付いた。
俺、ではなく、若干俺の後方を見ているような視線で。
「――ところで、ロダン。その子、誰?」
「その子って、どの子さ。ハルねえさ――」
困惑を浮かべながらも彼女がピンと伸ばして指さしたその先にいたのは――、驚くべき事に、あの劇場で見たエリスの姿だった。