かつて、軍事帝国に滅ぼされた名もない国があった。
其処には一人の王がいた。戦斧を無二の友として、戦いを以て民に安寧を齎した戦争の王。
国は富み、戦争の中に生き場所を見出していたはずの王は、いつしか慈しむべき対象を見出し斧を捨て、治世にその力を尽くしたという。
人より殺しに秀でているだけの戦いがたまらなく好きなだけの人でなしだった。国を創った動機も、別に大したものではない。
その男は王とやらになる気もなかった。
王は戦いに明け暮れ、その度に国は富んでいった。
戦勝の度に民は喜びを以て王を迎えた。そんな臣民達の姿を見るたびに、王は次第に変わっていった。
彼らの喜ぶ顔を見るのが嬉しかった。
ほんの少しだけ芽生えかけた民への友愛は――しかし長くは続かなかった。
軍事帝国との激突。
その時の光景を王は忘れない。
次々と、超常たる星の兵たちに打ち破られる自軍の惨状を。
絶滅の光輝を浴びた王を逃がすために、雷霆の露となった忠臣の姿を。
――そしてその英雄の熾烈なる在り方と星を。
今も尚、骨肉を深く蝕む絶滅の輝きだけが王を蘇らせる。
どうしようもなく、王は光への復讐を望んでいる。
天頂の雷霆を滅ぼしたる闇を担うは我に在り――故に我が名は
―――
ロダン様は少しずつでも私を知りたいと言って下さった。
隠し事を抱え続けた私を、それでも一種にいたいと言って下さった。……変わらないままは嫌なのだと、そう言ってくれた。
思い出を思い出のまま懐かしむだけでは何の進歩もないのだと彼は言う。
私に相応しい何も運命など持ち合わせていなかったと彼は想っている。悩み、喜び、決断したその足跡があるからこそ手にした運命は重さを帯びるのだと。
実に文筆家らしい考え方だと思うし、それだけ今この瞬間、私に対して彼は真摯に向き合っているのだろう。それこそ、私よりもずっと。
……創造主の、彼女の記憶にある彼と特徴はとてもよく一致している。
けれど私は創造主にその想い出を受け取る事は出来ないと誓った。彼女の想い出は彼女だけのものであるべきだ。
だからこれから先は運命も、想い出も、私が自分で積み上げていくべきなのだと思う。……あぁ、きっとロダン様ならこういう時
「これから改めて、よろしくお願いします。ロダン様」
オフィーリア様の研究室は、装甲監獄内にあるという。
実に合理的な作りになっていると思う。収容室の出迎えはイワト様を伴いながらオフィーリア様が直接来ていた。
「……御機嫌よう、エリスさん。ロダンさん共々、昨晩はよく眠れたかしら」
「えぇ、とても。鋼の寝所はとても冷たくて、匂いも音もなかったと記憶しています」
「そう。それなりにここ、お金がかかっているのだけど満足してもらえたようでうれしいわ」
「実に有意義な血税の使い方だと思います。収容するのが私でなければ、の話にはなりますが」
せめて水星天を此処に放り込んでくれたのなら、私はまだ血税と云われるモノの使い道として納得が出来たと思う。
どの道、私はオフィーリア様に従うしかない。彼女の胸三寸で私は劇団に戻れるか――御姉様やロダン様と逢えるかどうかさえも決まってしまう。
……オフィーリア様に連れられて、私はさらに下層階に降りていく。かつんかつんと、ただ無機質に私の足音は響いていく。
木で出来た舞台で響く私の足音とは、全く違った響きで少しだけ複雑な気分だった。
だんだんと、ごうんごうんと機械音が聞こえ始める。研究室が近いのだろう。
「じきにつくわ、エリスさん。そんなにおびえないで」
「おびえるのは誰のせいだと思っているのですか」
私の心中を察しているのだろう。オフィーリア様の言葉と共に到着した研究室には、いくつかのパイプが繋がれた椅子状の装置や計器の据え付けられた制御盤等があった。
……金属のパイプ状のものが臓物のように床に散乱していて、足場に困る。
「……そこに座って、エリスさん」
「そこの悪趣味な玉座……アダマンタイト製の椅子にですね。是非はないのでしょう、分かりました」
よく似た装置を私は創造主から与えられた記憶で知っている。……これが神鉄ではないのは喜ぶべきなのかもしれない。
私は冥狼や煌翼と在り方がよく似通っている。そう考えれば考えるほどに、この光景は因果を感じる。
お尻が冷たくて少しだけ痛い、と思う。
「プラハの地下に在ったと言われる装置を参考にした、星辰波長共振式分析装置。使う材質と用途は大きく異なるけれど、原理はある程度参考にしているの。測定対象と星辰波長を共振させる事で間接的に星辰光や星辰体の傾向を把握するモノ、と捉えてくれるといいわ」
……私も魔星の端くれだ、星辰体運用兵器と呼ばれる兵器群についての知見は持っている。恐らく、アレは原典から相当に平和的な――あるいは研究用途へとデチューンされているのだろう。
「では、これから分析を始めるわ。エリスさん、協力をお願いね」
……分析、と言っていたけれど。至って普通だった。ともすれば人間と呼ばれる存在が定期的に行うという健康診断と何ら変わっていない。
「言語や受け答えには淀みは無く、機械的な傾向も感じ取れないわね。クレペリンテストに関しては特に人間と差異はなく、人格に関しても多少感受性が希薄な傾向はあるけれど一貫性がある。……いえ、むしろ一貫性があるのは魔星ゆえかしら。それでもこうも人間と差異がないなんて」
まずは特殊合金の椅子に座ったままクレペリンテスト、ロールシャッハトライアルなる書き取りをさせられたり、あるいは単調な何題かの口頭での試問、新西暦における基礎的な知識についてのテストを受けた。
何か、考え込むようにオフィーリア様は顎に人差し指の関節を充てている。イワト様は相も変わらず石像のように表情と血色が変わっていない。
かと思えば。
「感覚器についても特異な点はないのね。味覚と嗅覚に関しても人間と比べ特殊なわけでもない。生理現象も人間のそれとほぼ同じ、と。あぁ、でも視力に関しては全くの別でランドルト環式では凡そ四」
今度は視力検査をさせられ、その後は突然料理を出された。明らかに強く塩で味付けされた鳥のお肉、酸味と甘みの強いパイン、強い苦みの紅茶。
味の強さに思わず眉を歪めてしまいそうになったけれど、私のその反応の何が愉快だというのか、オフィーリア様は至って真剣に私の様子を観察して紙にペンをさらさらと走らせていた。
……そう言えば、カンタベリー聖教皇国の元となった旧暦英国はあまり料理が美味しくない、などという話は聞いたことがある。
「体内の代謝や機構は凡そ人間に準ずる、といったところかしら。……エリスさん、貴方は人間に限りなく近いわ。少なくともその躯体で起きている現象や化学反応そのものは人間と何ら変わりがない。つまり貴方の肉体の構成物質も生命活動も人間のそれとほぼ同等と解釈できるわね」
「私が、人間?」
「魔星の思考形態は私はよくわからないけれど、人間と同列に見られるのが不快だったのなら謝るわ」
違う。不快なわけではなかった。
……私は人間なのだと云われた時、私の中に在ったのは嬉しいという感情だった。ロダン様やお姉様と同じ、人間。
オフィーリア様は私の生態について観察していたのだろう、道理の帰着として私は人間だと結論付けざるを得ないといったのだとしても私は嬉しかった。
「社会上での自分が人間ではない事への疎外感、人間性を肯定される事による歓喜の発露。今の貴女の表情はそういう風なモノと分析したけれど」
心中を彼女はこの上なく正確に言語化して言い当てていた。
心の中を見透かされたようで少しだけ悔しい。私の理想はミステリアスな大人の女性で、そして以前までの私は取り繕えていたはずなのに、今はそれが出来ない。
人間だと云われた事が嬉しかった、それはある。
けれどそう――ロダン様やお姉様、それからユダ様や劇団の皆さんと同じだから、私の頬はほころんだのかもしれない。
「……とにかく、話を続けましょう。オフィーリア様。他に何か?」
「そうね。……いくつか聞きたいことはあるけれどまず一つ。人造惑星における始まりの魔星、月乙女との関係は何かしら。非常に貴女の星辰波長はそれと似ているのだけれど」
「私の創造主が恐らくは干渉性に特化した躯体となるように設計されたためでしょう。死想恋歌に代表される干渉性特化型人造惑星の技術的系譜は確かに、私の裡に在ります」
ふむ、とオフィーリア様は思案する。
それからまたさらさらとメモを取っている。
「貴女の創造主は何処にいるの? いえ、そもそも今は貴女の創造主と話はできないの?」
「私も知り得はしません。極晃に至る以前の私は、ずっと彼女の内界に揺蕩う存在でしたから。そして、私の創造主は私を送り出して――それ以来はもう、私には何も語り掛けてはくれなくなりました。それは機能上か、精神的な理由によるものかもやはり判じかねます。……私は確かに、創造主から様々なモノを頂きました。しかしただの一度も、創造主は真実を私には与えてくれませんでした」
「……よほど、貴女の創造主は大ごとに関わっているのでしょうね。決して、貴女にさえ明かせない何かを貴女の創造主は抱えている。違うかしら」
それは、否定はできなかった。
私が知っていることは火星天たちが至高天の階の一員である事、至高天の階は創造主を含めすべてで十機存在しているとされる事、ロダン様との出会い――加えて創造主の素体となった一人の少女の事。
……オフィーリア様は聡明だ。きっと、あと少しだけヒントがあればきっと私も知り得ない私の真実を、解き明かしてしまうかもしれない。
それが、私には怖かった。
―――
エリスの頼みでユダへの言伝を頼まれて劇団に来た――グランドベル卿も同伴で。
「なんだ、珍しい客人かと思ったらロダン――と。確か第一軍団の第三位殿じゃないか」
「あぁ、久しぶりだなユダ」
ユダは案の定芝居がかった口調で俺とグランドベル卿を出迎え、劇団の隅のテーブルに招いた。
他の劇団員たちには自主練習をしてくれと言った。
グランドベル卿は横目でちらりと俺を一瞥する。……分かってはいる、エリスの事はあまり言えない事も。
「……さて、お互いどこから話したものか。招かれざる客という奴もいるらしいのだが」
「私の事はお気になさらないでください、ユダ座長」
グランドベル卿に向けるユダの視線には、心なしか棘を感じる。
……そう言えば、ユダやこの劇団員たちはエリスが星を扱う者であると初めから知っていたのだった。であればこそ、このような騎士たちの訪問に思うところはないわけではないだろう。
「多分騎士団からは聞いてるだろうけど、エリスは理由があって今は聖庁に住んでいる。……明日から不定期ながら復帰できるそうだ」
「そうか……。ならよかった。これでも座長なのでな、安心している。うちの看板だからな他の団員も心配していたよ。昨日だったか、聖庁で大爆発が起きたとか、正体不明のテロリストが現れただのと持ちきりでな。物騒なことに巻き込まれてなければと俺も気が気で成らなかった」
「そう、だな」
……テロリスト、とは木星天の事だろうか。
どういう騒ぎになっているのかは窺い知ることはできないが、それでも相当な大事件とされているらしい。
どこかの軍事帝国に酷似した黒装束。与太話のような話ではあるが市民に動揺を与えるには十分すぎる。
「疾風迅雷の如く聖庁へ駆け抜けた、光を纏う黒装束などと持ちきりだな。物騒なものだ、せっかく聖教皇国は平穏を取り戻しつつあったろうに」
「返す言葉もありません、ユダ座長。一重に、私達騎士団の落ち度です」
「別に責めてはいない、聖女よ。最善を尽くした上でもままならない事が世の中にはあるものだ。……エリスの事もな」
やはりユダは鋭い。エリスがなぜ自由に外に出られないのかを悟っている。
だが同時に深く突っ込んで聞く事もまたできない。エリスを身元不明の星辰奏者と知って劇団で働かせていたとバレるからだ。
「……エリスは実は未だ類を見ない星辰奏者だから研究協力を強く要請した、俺はそう聞いていたが聖女よ。相違はあるかね?」
「いいえ、ありません。突出した発動値と干渉性、かつて前例のない星辰特性から今後の聖教皇国にとって有益であると判断し協力を仰ぎました」
「そのように買ってもらうのは誇らしいが、だがエリスは大事な劇団員だ。邪推だとすれば謝るが、その研究協力というのはエリスが望んだのか?」
「――はい」
嘘だ。
俺は一瞬だけ、グランドベル卿に怒りを覚えた。分かってはいてもそれでもエリスの事で虚偽を告げているという事が俺には耐えられない。
そんな俺の態度が暗に伝わっていたのだろう。
「……聖女よ、忠告しておこう。芸術に魂を売った男の戯言だと聞き流してくれると嬉しい」
「なんでしょうか」
「エリスに何かあったら俺はこの国を決して許しはしない。……あの子が舞台に立ちたかった今日を奪っている事を自覚しろ、今と同じ瞬間は二度と訪れない」
普段のつかみどころのない雰囲気とは大きく変わり、ユダの目は鋭くグランドベル卿を射抜く。
グランドベル卿もまた、その非難を真っ向から受け止めている。総て承知の上で、彼女は舞姫から日常を奪ったのだから。
「分かっています。総て、承知の上です」
劇団は何も様子は変わっていなかった。ユダはゆっくりしていくといいと、俺とグランドベル卿がここにいる事を許してくれてはいる。
しかし他方でやはりグランドベル卿に対する劇団員の視線は少し畏怖が籠っている。
平時の当人の気性もあり、グランドベル卿は人々に対してさほどそのような視線を向けられることはない。だがエリスを星辰奏者と知った上で彼らは黙っていたのだから、気が休まらないのは当然だろう。
グランドベル卿は確かに穏やかな気性ではあるものの、こと戦闘に関してはまるきり別だ。その苛烈さを知っているからこそという側面もあるのだろう、後ろめたい人間にとってはそちらの側面の方が強くとらえられる。
「やほ、ロダン」
「ダグラスか。久しぶりだな」
ダグラス。彼は首に腕を回してニコニコと笑っている。相も変わらず明るくて悩みの無さそうな立ち居振る舞いだ。
それから、グランドベル卿に気づかれないように耳打ちされる。
「……エリス、やっぱり星辰奏者なのがバレた?」
「……」
無言の俺の態度を察してくれたのは素直に助かる。
「私の事は気にせずにいてください、ロダン」
居心地の悪さはなんとなく感じているのだろう、グランドベル卿は壁際に背を預けて俺と距離を置く。
「なんか訳あり、て感じ?」
「そうだな。でも明日にはエリスはここに来れるようになる。不定期にはなるけど、それでもエリスは戻りたいと言っていた」
「なら佳かったよ。皆、心配してたからさ。ひやひやしてた」
ダグラスも安心した表情をしていた。……エリスは皆から心配されている、愛されている――居場所がある。そう思うと俺も少し嬉しかった。
「彼女は実力を鼻にかけなければ努力を欠かしたことはないし、少し感性がズレてるところは在ったけどそれも含めて愛されてる子だったよ」
「……エリスについて、悪い噂を聞くとすればしょうもない三文ゴシップ記事ぐらいだろ。実物はもっと抜けてるし、普段はからかうのが好きなくせにおちょくり返されると意外なぐらい直情的だ」
「へぇ」
まじまじと、ダグラスは俺を見つめている。
何も俺は愉快な事を喋った記憶はないが、なんだかからかいの色が見える。
「随分、エリスをよく見てるんだね。そんな弱みというか人間味を劇団の誰かを見せた事はないし今ロダンが語ってるエリスの姿は見覚えがないんだ。けれど、それでもロダンとエリスが二人なら不思議とそんな姿が想像できる気がする」
「……」
「ユダさんが言ってたよ、いつかエリスは殻を破る日が来るって。その契機となるのは詩人だって、そうよくわからない意味深な事を言っていたけど今なら多分その詩人っていうのがロダンの事なんだなって分かるよ。稽古の合間でも、彼女はロダンの事になると少しだけ饒舌になるんだ」
……完璧で怜悧な美貌の女優、それがエリスの――あるいはエリスを生み出した創造主の理想像だったのかもしれない。
エリスは俺に弱みを見せる事、からかわれる事を嫌う。エリスは俺に秘密を知られる事を嫌う。
その様が可愛らしいと俺は想う。愛しいと想う。
他者のレンズを通して見るエリスも、俺の目が見ているエリスもエリスの一側面で、どれも等しくエリスの本質だ。
「やっぱ、なんか意味があったんじゃないのかな。エリスがロダンを付き人にしたのは」
「嬉しいやら、迷惑やらだよ」
「けどロダンはまんざらじゃないんでしょ、その顔。……指摘されると不機嫌になるってことはやっぱ図星?」
表情を完全に読まれている。昔から、俺は態度が顔に出やすいと良く云われる。
「……エリスの困る顔を見るのは愉快だよ。普段すました顔が赤く染まる様を見るのが楽しいとは思う」
「そういう誤魔化そうとする態度を世間ではまんざらじゃない、ていうんだよロダン。もっと、こうエリスに対して素直になってみればどうなのさ」
素直さ、とはどういう態度の事なのか大人になってしまえばいともたやすく忘れてしまうモノだ。
子供に出来て、大人にできない事というモノの代表例だ。人間関係のしがらみであったり社会的な制約であったり、あるいは矜持。
……エリスの場合はもっと、エリスの正体や出会った経緯から色々と難しい問題はあるのだがそれでも確かにダグラスの言う通りではあったのかもしれない。
何より俺はエリスの事を知りたいと言ったのだから。
「ありがとうダグラス。少しだけ、爪の先程度には参考になった」
「……えーっと、どうも?」
本当に、少しだけ。けれどもう少しだけエリスを理解しようと努めようと思えた。
地上と月では距離は離れ過ぎている。望遠鏡で眺めるだけではなく、他ならぬ月の地表をその足で確かに踏みしめなければ真に月の全てを知ったとは言えない。それはきっと、とても途方もない試みなのだろう。
けれどもかつて旧暦の人類がそうしたように、歩み寄る事は――距離を縮めようとすることは出来るはずだから。
ダグラスと別れ、それから劇団を後にする事にした。
「気をつけろよ、ロダン。最近は物騒だとよく聞く、前みたいにまた怪我をしないでくれ。それからエリスによろしく伝えてやってくれ、何時でもユダ座は舞姫が舞台に立つ時を待っていると」
「あぁ、分かってるよ」
ユダの言葉に、俺もうなずいて握手を交わす。
それから、グランドベル卿も俺に随行するようにして劇団を後にする。
その最中に、ユダは何かを言った気がした。
けれど、風が今日は強いから、気のせいだったかもしれない
「……聖女を演じるのも程ほどにしておけ。聖女である事を辞められなければお前はきっと、天国には至れない」
―――
グランドベル卿は聖女だ、それは間違いなく。
彼女と共に歩いていると、時折子供達が駆け寄ってくる。子供達に慕われながら視線を同じくするためにしゃがみこんで手を握り返す彼女の姿に、彼女の善性をヒトは見出すのだろう。
子供達に囲まれながら、彼女は薄く笑っている。その姿を俺はほほえましいと思う。
何時の世にもその微笑み一つで人を安心させられる、そうした魅力を持つ人間はいるものだ。
騎士階級でありながら民衆に畏怖を与えない、元平民。そうした意味では彼女は偶像として、ルーファス卿と類似する部分はあるのだろう。
「マリアンナ様は入院していたらしいって聞いたのですが、それは大丈夫だったの?」
「大丈夫です。貴方達が私を心配してくれるのなら、それは私にとって何より大きな力となります」
彼女とふれあう女の子の一人がそんな質問をすると、グランドベル卿はよどみなくそう答えた。
「マリアンナ様は悪い人に襲われたの?」
「それは……」
また、彼女へ質問は投げられる。
今度の質問は少しだけ困ったような顔をして、グランドベル卿は返答する。
「……逆です。私が、悪い事をしたから天罰が下ったのです。この世は因果と応報によって成り立っています。皆は佳い行いを常日頃から心がけなければなりませんよ」
……悪い事をしたから、天罰が下った。
言葉の解釈は人それぞれだろうが、それでも彼女は客観的に見て悪を成したわけではない。
自分を卑下するような、否定するような言葉を続ける彼女に俺は複雑な気分になる。別にグランドベル卿がエリスにしたことを許すつもりはない。
けれどグランドベル卿の判断を責めるつもりもないし、今でも俺はグランドベル卿を尊敬している。
騎士の時代、グランドベル卿は俺に武人として向き合ってくれた。
それでも俺は騎士を続けるべきだった――そう言った意味も、今なら分かる。
痛みを忘却する事が、かつての村の人々を忘れる事が何より恐ろしいのだと彼女は言った。
グレンファルト・フォン・ヴェラチュールが彼女を使徒にしなかったのも仇敵の間柄である事を差し引いたとしても当然の事だと思う。
なぜなら彼女は喪失が力となっている。……いつか必ず破綻するからこその強さが彼女の力を形作っている。
喪失と無縁になる事は痛みに鈍感になるという事であり、痛みを奪うという事は彼女から強さを奪うという事と同義なのだから。
……俺も同じだ、俺が剣を奪った者は俺が剣を握らなければ喪失していくばかりだ。
声も上げられず、日の目を浴びることも、誰に知られることもなく未完の業の数々は潰えていく。忘却が恐ろしい、その言葉の意味が今の俺には理解ができる。
そして人の身で背負える範疇を超えた悲しみは、当然の道理として人を変えてしまう。
グランドベル卿が、俺が――あるいは、神祖がそうであったように。
かつて兄を失いながら、しかしその己が在り方を決して見失いはしなかった第一軍団団長のリチャード卿だからこそ、グランドベル卿は騎士として敬意を持っているのだとも思う。
決して親近感は感じない。けれどグランドベル卿の人となりは改めて分かったとは思う。
自己犠牲に由来する尊さを人はどうしても好むものだ。
第三者の立場からしてみればそれはどうしようもなく高潔に、尊く映ってしまうというのが人類共通の悪癖なのだ。
少しだけ、目を閉じる。
「……そう言えば、たしか。団長格以外で唯一訓練用とは言え魔星を倒したんだったか」
「――はい、その通りです。とは言えあの超人大戦を戦い抜いた烈震灼槍や豪槌磊落なら、私と同様の事はやりおおせたでしょう。彼らはプラーガに常駐していますから、まだ対魔星カリキュラムを受けられていないだけです」
……目を閉じながら思うと、真後ろから声を掛けられる。
心臓が止まるかと思った。
「……いいのか、グランドベル卿。子供達と話をしなくても」
「もう済みました。彼らの時間を奪うのは佳くないでしょうから」
グランドベル卿は依然平静とした態度でそう言う。
何も自分の為すべきことは変わらないのだと、態度でそう告げている。
「貴女を必要としている人はいる。案じる人間もいる。……それでも貴女は自分に生きている価値が無いのだというのか」
「私は、それでもあの焔の中に還りたいのです。皆が眠る、あの中に」
今も尚彼女は焔の中に捕らわれている。
懐かしい、懐かしい、地獄の中に。
「きっと、俺はグランドベル卿が亡くなったら悲しむ」
「……そのような事だから、貴方は見誤る。エリスを優先し、貴方は私を見捨てるべきだった」
「仕方がないだろう。それでも俺は亡くなって欲しくはなかった。その昔に俺を気にかけて、騎士として俺と向き合ってくれた貴女を今でも俺は尊敬している。剣を握るべきだと言った貴女の言葉は、忘れてはいない」
嘘じゃない。尊敬している。
騎士の規範だと俺は思う。だから、そんなグランドベル卿だからこそ俺は生きてほしいと思うのだ。
「私の末路は既に定めています、きっとロダンの願いに私は答える事は出来ないでしょう。……それでも、貴方が私の喪失と不幸を悲しむ者の一人である事は、決して私は忘れません。御心だけ、頂きましょう」
ハル姉さんは騎士姿の俺を格好いいと言ってくれた人だった。
リヒターとガンドルフ卿は俺に何より騎士としての心得を教えてくれた人だった。
グランドベル卿は騎士としての俺と最後に向き合ってくれた人だった。
そして今は――。
「ロダン様、おかえりなさいませ」
「あぁ、ただいま。エリス」
聖庁について、そうして地下の収容室に戻るとエリスが出迎えてくれていた。
―――
エリスは躯体解析に付き合わされていたと聞いている。
だから少しだけ何をされたのかが気になる。
「……エリス。何かされて嫌な事はあったか?」
「とても味の強い食事を出されました。それから、視力検査……のようなものや人格テストのような試問を受けました。……何というか、何と呼べるほどの事もなく拍子抜けでした」
「たしかカンタベリーの前身になった旧暦の国家って食事が不味い事で有名だったか」
エリスは至って綺麗な身なりをしている。
少なくとも、何か酷い事をされているという風ではない。オフィーリア副長官はとりあえず倫理観はそれなりに人道的なのだとは理解ができたのは幸いだった。
「よかった、エリスが無事なら俺はそれで嬉しい」
「私も、ロダン様の御顔を見る事ができて嬉しいです」
……そう、言って自分の発言を反芻すると少しだけ恥ずかしくなった。
エリスもエリスで、赤面している。
それから俺は鋼の机に向かう事にした。……まだ、執筆を終えていない作品がいくつかある。それは獄中だろうと書く自由はあるだろう。
元々、収容室に入れられる前に紙とペンを俺は副長官に要求していた。それが聞き容れられたために、机の上には今いくつかの用紙とペン立てが在る。
題名はまだない。……いつか、完結をさせようとある病床の少女と約束した作品だ。
モチーフは言うまでもなく、その少女だ。少しだけひねくれていて、何より踊る事が好きだと言っていた、悲運の少女。
名前はまだ、考えてはいない。エウリピト、と俺は仮にそう名付けている。
その少女は旅をしている。
地上から、天頂に輝く星に繋がる虹の階段がある。雲間に隠れながらその階段は柱のように九つの世界を貫きながら星に至る。
時には憎悪を、怒りを――祝福をもって迎えられながら、九つの世界を彼女は渡り、その生涯の最期に星に至る。
構成は焔と死と氷の世界、小人と人間と巨人の世界、光と妖精と神の世界の全三部にすると決めている。
さらさらと、紙の上にペンを走らせていると、その横からは何食わぬ顔でエリスが俺の原稿用紙を見つめていた。……目を輝かせて。
「……ロダン様、これは?」
「次回作だよ、気になるのか」
「えぇ、とても」
彼女の目は俺の文字を熱心に追っている。所謂ネタバレという奴はこの状況が状況なのだからかまされることはないだろうけど、それでも世に出る前の原稿を観られるというのは複雑な気分でもある。
「地上篇、途上篇、天上篇の全三部作にするつもりだよ。神曲と同じできりがいいだろう」
「……なるほど。ではこのエウリピト、というこの女の子はさしずめ淑女役といったところでしょうか?」
「いや、主役だよ。……かつて、俺が詩人になる道を選んだ契機となった女の子がいた。その子をモチーフにしている」
紙の上でのエウリピトの振る舞いは淑女のようとは言えなかった。
時折皮肉の混じった受け答えをするし、かと思えば年相応に照れても見せる。けれど天の階段を上っていくごとに次第にその角も取れていく。そうした話だ。
「……もう、その女の子は病で亡くなった。どうにもならない、不治の病という奴だったらしい。でも彼女は俺に詩人の道へ導いてくれた。亡くなる前に約束したんだよ、必ず君の事を綴ろうと」
時間の有り余っていた俺が夢を諦める道理が何処にあるのだと、その女の子は言った。
自分には時間が絶望的に無くて夢を諦めるしかなかったのだと、その女の子は言った。
俺が最後に見たその女の子の表情は笑い顔だった。
もう、今は声をかけてはやれない。けれど女の子が――クラウディアという一人の少女がこの地上に存在した事を俺は忘れない。
忘れないために筆を執っているのだから。
エリスは、少しだけ呆然とした顔をしていた。
けれど、頬をほころばせている。まるでその女の子について俺が語る事を、我がことのように嬉しそうに想っている。
「――彼女もきっと喜ぶと思います。ロダン様」
そう、エリスはぽつりと漏らした。本当に、嬉しそうな顔で彼女は笑っていた。
忘れられないぐらい、エリスのその笑顔は素敵だった。
それから少しだけ彼女は目を閉じて息を吸って、それから意を決して俺に向く。
「ロダン様。明日の夜、貴方のお時間をください。私の――銀想淑女と銀月天の、最後の真実を貴方に伝えたいと思います。……それを以て、この物語を見せてくれた貴方への返礼とさせてください」