「おはようございます、ロダン」
「……グランドベル卿。おはようございます」
それは、ランスロット卿にイップスが発症した時――そしてロダンが騎士を辞める前の話だった。
彼と訓練で刃を交えて以来、往来で目が合うと彼は申し訳なさそうにいつも私に会釈をする。
そんな彼の姿が私には痛々しく思えた。
私が彼を下した日以来、彼は剣を握っていないらしい。加えて彼は一人でいる事を好むようになった。
聖庁で彼に挨拶をしようとすると、いつも彼は私から逃げるように去っていこうとする。
そんな有様が何度かくりかえされ、私は彼をの背を追ってその手を握ったことがある。
「待ってください、ロダン。どうして貴方はそのようにして私を避けるのですか」
「……避けてはいないよ、グランドベル卿。手を離してくれないか、俺のような人間と一緒に居れば貴女が何と勘繰られるか分かったモノじゃない」
「そのような勘繰りをする人間はその程度の人間だというだけでしょう。……離しませんよ、ロダン」
彼は、少しだけ勘弁したように息をつく。
衆目はあったものの、別にそれは私にとっては勘案するべきことではなかった。
彼は都合悪そうにはしていた。そんな彼の考えを尊重して、私は当時所属してた第二軍団の兵舎の裏へと連れていった。
ここでは、人目はつかないから。
「第二軍団の兵舎裏か。人の往来の都合であまり人が通らない場所で、たしか告白や逢引の隠れた名所になっているんだったかな。それともアレか、グランドベル卿は俺に告白でもしてくれるのか」
「……」
彼は皮肉るように無理に作ったような笑顔を浮かべて、会話を打ち切りたいかのようにそう冗談を言う。
風聞で聞く限り、彼はそんな風に冗談を言う人間ではなかったし。
「ロダン、冗談は要りません。なぜ私を避けるのですか」
「……そうだな、悪かった。別に大したことじゃない、グランドベル卿はよくできた騎士だ。俺なんかよりずっと真っ当に生きている。……だから俺は貴女に顔を向けられるたびに惨めな気分にさせられるんだ」
彼は尚も視線を逸らしながら、そう言う。
私を目に入れることが辛くて惨めな気分にさせられるという。
「俺だって本当はグランドベル卿みたいな、ガラハッド卿みたいな、強くて優しい人に成りたかったんだ」
「……」
「いや、違うな。それもどうせ嘘だったんだ。騎士になんて元々俺はなりたくなかった。でもそういう人間に成れるって俺に言ってくれた幼馴染がいたんだ――俺の騎士姿が似合うって、その子は言ってくれていた。それだけじゃないけれど、でもそれが俺が騎士をする理由の大部分だった」
今はこの有様だけれど、と彼は自嘲するように言った。
それがとても痛ましくて、私は辛かった。彼はⅤを得るまでその素行には至って問題はなかった。少なくとも、今のようにこうしてひどく自虐に奔ったり問答そのものを厭うような有様ではなかったはずだ。
「……それが貴方の苦悩ですか。それで貴方は変わってしまったのですか」
「俺は姉さん――その幼馴染に合わせる顔がなくてね。……リヒターの、そして何より姉さんの信頼を裏切っている事が俺には耐えられないんだ」
ロダンは酷く子供のようだった。今にも泣きそうで、立つことさえも辛そうだった。
そんな彼を私は放っておくことはできなかった。
「俺は、どうすればよかったんだろうな。グランドベル卿」
「今の貴方は休息が必要です、十分苦しんだ。だから今は何もしなくてもいい、貴方が騎士として再起できるまで、私がついています。……だから、休んでくださいロダン」
それから私は彼が騎士を辞めるまで、しばしば彼のカウンセリングを行うことが在った。
顔を合わせるたびに、彼は少しだけ昔話をしてくれる――決して、騎士になってからの話はせず。
彼の話には比較的よく、幼馴染が登場する。
物書きになりたかったという事も。結局最後の最後まで騎士に乗り気ではなかったけれど、それでも騎士に成ろうと決めたのは幼馴染の言葉故だったとも。
そして彼はその一念で若くしてⅢ位に登りつめて見せた。決して肩書だけではなく、その力量を以って高みに至った。
……それからほどなくして、彼は騎士を辞めるといった。
やりたいことが見つかったのだと、彼は言う。ほんの少しだけ、そう言った彼の顔は明るかった。
「ありがとう、グランドベル卿。貴女には返し切れないくらい世話になった」
「いいえ、ロダン。……私の方こそ許してください、結局私は貴方の心の暗雲を晴らすことはなかった」
ロダンはそれでも首を横に振って、それから私に頭を下げる。
「達者で居てくれグランドベル卿、結局俺は貴女に応える事が出来なかった。……貴女は謙遜するかもしれないが、俺は本当に貴女のような騎士に成りたかったんだ」
―――
ロダン様は時折、勝手なことを言い出す。
マリアンナ様の付き添いをしてくれと云われて、今はこうして彼女と一緒に居る。
「エリス、迷惑を掛けます」
「いいえ、ロダン様にとってマリアンナ様は大事な人です。貴方が倒れればロダン様は悲しみます」
「そうですか」
マリアンナ様は返事が短い。
それから少し沈黙が流れる。会話の長く続くわけが無い――かと思ったけれど、マリアンナ様の方から先に口を開いた。
「……エリス。貴女は私が憎いですか?」
「……憎くはありませんが怖い人です。貴方は正しい事を正しく為せる人です、それを疎むつもりはありません」
「怖い、ですか。そうですね、恐れられる事は慣れています」
恐れられる事にも、憎まれる事にも慣れている。
そう喋るマリアンナ様の顔は何も変わらなかった。その裏にあるモノは悲壮な決意だ。
聞いたことがある、彼女はかつて村を神祖によって滅ぼされたと。だからそんな光景を二度と造らないために彼女は騎士を続けているのだという事も。
「当初、私は貴女の出自を軍事帝国の手の者であるにせよないにせよ、聖教皇国の敵対者と認識して貴方に槍を向けました。貴女を管理することが聖教皇国の安寧につながると信じてそのようにしました。私を恨む権利が貴女にはあるでしょう」
また、そういう言い方をする。
自分が苦んだり恨まれれば万事は上手く事が進むという考え方をする人間は一定数いると造物主から教わったことがある。
彼女は恐らくそう言う性質なのだろう。……上手く事を運ばせるために――最大効率の為に自分を犠牲にするという在り方は、一種神祖と似ているようにも思えた。
恐らくこれは元々の彼女の気質もあるが絶対神の薫陶も少なからず含まれているのだろう。
「……エリスはとても、純粋です。混じりけの無い、真白色のキャンバス。そのような在り方をロダンは佳いと思ったのでしょう。謝罪します、エリス。私は貴方を兵器だと言って貴女を傷つけました」
「……過ぎた事です、マリアンナ様。それに貴女様はわざと恨まれ役を買って出たのでしょう」
マリアンナ様は言って私へと深く頭を下げる。
私は決してマリアンナ様が憎いわけではない。ないけれど、……それでも彼女に対して少し思うところはある。
「ロダン様はマリアンナ様の肩を持ちます。……マリアンナ様にも事情はある、といった文脈でよくそのようにします」
「彼が騎士を辞める前、最後に手合わせをしたのが私でしたから。それ以来、彼は剣を執らなくなった」
「そう、だったのですか」
それから、グランドベル卿は彼の事を少しずつ語る。
かつて彼には師と呼べる人間がいてその内の一人がリヒター様である事、彼の元々の星が他者の積み上げてきた業を奪うモノであった事。
師の業を計らずして奪うことになり、彼はそこで決定的に折れてしまった事も。
ちょうど御姉様の語っていた、ロダン様の顔が暗かったという時期と話は重なる。
その時の彼の苦しみは御姉様でさえ癒すことはできなかったのだろう。
「……ロダンはあの時、騎士として完全に死んでいたでしょう。ただ、聖庁へと彼の足を運ばせるのは騎士としての規定と義務感だけだった。陽光を忌み、日陰を好み、時折意味もなく在りもしない何かを探すような足取りで彷徨するような有様でした」
「それほど、ロダン様は追い詰められていたのですか」
「彼の元々の星はそう言うモノでした。他者の数年を彼は一日で踏破し、本人以上の習熟度で使いこなして見せ付ける。そして彼と相対した者達はほぼ例外なく、自信を喪失し経験を丸ごと奪われたかのように剣を振るえなくなりました。かつてのランスロット卿もその一人でした」
そんな過去があったなんて知らなかった。
御姉様も、マリアンナ様も、私の知らないロダン様を知っている。それが少しだけ悔しかった。
認めたくはないけれど、リヒター様にも私はこの点において敗北している。あの軽薄な騎士にもそんな過去があった等、私は露とも知り得はしなかった。
「私は、そんなロダン様の姿は知りませんでした。ロダン様のそんな顔は、私は一度も見た事はありません」
「私もまた、貴女と話すときのロダンの顔を見た事はありませんでした。少なくとも、彼にそのような顔をさせたのは貴女のみであるという事は疑いようはないでしょう」
マリアンナ様はそう言って、私の手を取る。
「彼は騎士としては落第だったでしょう。私情に走った末に自分の師の制止も振り切り唐突に騎士の身分を辞したのですから」
「……それは、そうかもしれません。ですがロダン様は――」
「しかし彼は訓練を決して怠る事はなく、その力量と努力によってⅢ位まで上り詰めた。素行に目立つ不良もなく、少なくとも彼がⅤ位を得るまでは至って模範的であった。これらの事績を無視して彼を貶める事もまた、決して公正ではないでしょう」
彼の来歴はそう言うモノなのだと、私は初めて知った。
どうしようもなく、私は彼の過去に関われない。それがもどかしくて辛かった。
これが嫉妬、という感情なのだろう。ロダン様の事で知らない事があるという事が――私の知らないロダン様を知っている人間がいるという事が私はあまり愉快な気分になれなかった。
「……エリス、貴女は確かに過去のロダンを知らないかもしれません。そのことについて、恐らく私やランスロット卿に嫉妬しているであろうことも理解しています。けれど、どうか今の彼を見てください。彼はほんの少しでも変わる事が出来た。それは、他の誰でもない貴女にしか成し遂げられなかった事なのですから」
「――」
彼は変わらないままでは嫌だと――神天地から何一つとして進んでいないと言った。
これから少しずつでも、私を知りたいのだと言ってくれた。そして彼が居なければ私にその先はなかった。そんな彼に私も少しでも応えたいと私は思っている。
「愛しい人よ、どうか過去を振り向いて。……ですか、
「浅学非才の身で申し訳ありませんがそれは何かの文学作品の一節でしょうか?」
「いいえ。こちらの話です」
だというのに私は前に進むどころか後ろを気にするばかりだった。私に振り返る事の出来る密度の過去はないし、何よりロダン様の過去にどうあっても関わる事等できはしない。
私の
それは悲しい事だとは思っているけれど、それでも私は前を向きたいと思えた。
―――
収容室に戻った俺は、重い体を引きずりながら食事を取る。エリスはグランドベル卿と一緒に居るはずだから、戻ってくるのは少しあとになるだろう。
一人寂しく食事、というのはあまり好みではなかった。
大体は姉さんと一緒に食事を取っていたから。
スプーンで口に食べ物を運んでいると、唐突に収容室の戸が開いた。
「ああ、戻ってきたのかエリ――」
「残念、お嬢さんじゃなくて俺だロダン」
……出てきたのはリヒターだった。エリスだと当然のように思っていただけに少し気落ちした。
「なんだその露骨に残念そうな表情は、元上官としては中々傷つくぞ」
「……そんな残念そうにしてたか俺は」
「露骨すぎる。あのお嬢さんも俺に負けず劣らず顔がいいのは認めるが、それでもこうまで落胆されると辛い」
リヒターは冗談も込みなのだろうが顔の自己評価が高い。高いし実際貴公子を思わせる雰囲気も相まって美形だ。
血筋も貴種の血統を除けばリヒター家は相当な名家だった記憶がある
「……当初、エリスの自由はもっと強く制限される予定だった。手かせ足かせをつけて四六時中監視を施し、一挙手一投足を報告させるといった具合でな。だが彼女の出自は明らかとなり、加えて下手に彼女の自由を制限しようとすればお前が本気でやらかしかねない」
「一応弁明させてもらえるとすれば、エリスはお前達が拘束しようとさえしなければ決して暴れなかった。抵抗したのは俺達だが、先に不義を働いたのは騎士たるそちらだ。リヒターとグランドベル卿には申し訳ないと思っているがこれに関しては俺は決して譲るつもりはない。……それに多分、エリスに酷い扱いをしているなどと聞いたら多分俺は正気じゃいられなくなると思う」
「喜ぶといいさ、ロダン。彼女の出自が在る程度判明した事、それからお前達の内どちらか一方を刺激すればもう一方がやらかしかねない事を加味した結果、温情判決となったわけだ」
……喜ぶべき事ではあるのだろう。
だが温情的な判決だとは言われはしても、エリスの自由が拘束されている有様を俺は決して好ましいとは思えなかった。
「エリスを刺激しないようためにはお前が必要で、そしてお前を刺激しないためにはエリスが必要で……つまり二人まとめて聖教皇国は管理すべき、とリチャード卿及び副長官とグランドベル卿の結論になったわけだ。リチャード卿は元々
「その通りだよ、リヒター。エリスはとてもいい
「……未婚の俺が言えた義理ではないが、お前の女の趣味だけは昔から分からん。完全無欠の絶対神も采配を誤る事はあるらしい」
……別にリヒターは意図していったわけではないのだろうが、確かに二重の意味で神天地で女を作った、という表現は正しかった。
エリスは本来消滅する途上であったが、俺があの時描いていた極晃によって星の生命体であったエリスはその存在の基盤を再構成されて生き永らえた。
エリスの本来辿る末路まで見通していたのではないかと思うほどに、確かに絶対神の采配は文字通り絶対だった。
「リヒター。一つ、話いいか?」
「なんだ、言ってみろ。ちなみに騎士団に戻るという話なら俺は何時でも大歓迎だ」
「……以前、リヒターは俺に幼馴染の為に騎士になるのはいい事だって言ってたよな。お前は騎士になる前ってどんなだったんだ」
悪いがリヒターの期待に応えることはできない。俺が聞きたかったのは、そういう事だった。
リヒターは俺に目をかけていてくれたとも語っていた。その話が聞きたかった。
「何、なんという事はないさ。元々俺は双子の弟として生まれた。まぁ、兄貴はいたにはいたんだがあちらが正当な後継者って事で俺は本来次期当主になる予定じゃなかった」
「……今はリヒ――ランスロットが当主、と。複雑だな」
「そう。俺の兄貴――パーシヴァル・リヒターという男は宮廷剣術という奴がとにかくうまい奴だった。兄貴が入院したころには俺は当主代理、そして兄貴が亡くなったら肩書から代理が消えた。兄貴が居れば多分俺は第六の長にも当主にも成ってなかったろうよ」
パーシヴァル・リヒター、名前だけは聞いたことがある。貴族の家内が大病を患ったりこの世を去ったり、というのはある程度大きな話題になるものだ。俺も騎士になる前に新聞でチラリとリヒター家の話につては目にしたことがあった。
兄のパーシヴァルが病に伏せり、その代行としてリヒターが当主となっているとかなっていないとか、そんな話だったのは覚えている。
「そんなわけで俺は常に兄貴と比較されて育ってな、兄貴が亡くなってもそれは変わらなかった。父も母も毎回毎回よく飽きもせずにまぁ、兄貴に恥じない騎士になってくださいだの、天国のパーシヴァルも喜んでいるでしょうだの、よく言えたもんだ。何を語るにしても兄貴の事を絡められると神経が参ってくる」
「名門には名門の苦悩って奴があるってわけか。……なんか聞いてると、文脈としては兄弟仲はそんな良くなかったように聞こえるけども」
「特別仲が悪いわけではなかったが複雑な距離感があった。親が俺に期待したのは兄貴のスペアとしてのランスロットさ。期待されない事の辛さは分かってるつもりだ。だからお前が幼馴染の期待に応えたいと言った時、俺はお前の力になってやりたいと思ったというわけさ。結果はお前が犯罪者一歩手前になってしまったが」
やれやれと少し呆れたような笑いを浮かべながらリヒターはそう俺に言葉を投げる。
期待されずに育ってきた、そんな背景があったことは知らなかった。あの軽薄な表情や軽口も、今にして思えばリヒターなりの自身の境遇に対する強がりではあったのだろうか。
兄がこの世を去った後でさえ、その兄の影を振り切る事が出来なかった。
良く出来た兄と比較され、鬱屈と屈折を味わってきただろうに、そんな過去を微塵も彼は感じさせなかった。天衣無縫の星を振るう、いつも飄々として事に当たれる頼れる団長として。
「俺はリヒターの心を知ることはなかった。知らないままに騎士をやめてしまった。聞いた話題が悪かった、配慮がなかったよすまない」
「もう過ぎた事だ。どうにもならんさ。それに別に俺は好んで身の上話なんてことはしない。されたところで面白い話でもないからな」
……ちょうどそれは、俺の騎士団時代の話と似たようなモノだろう。
その時の話をグランドベル卿から言うように求められた時、俺は八つ当たり気味に彼女に当たってしまった。リヒターと俺のその差に、俺自身の未熟さを今更になって痛感する。
「ロダン。お前は俺が知らん間に随分変わったらしい。あの時の初々しく瑞々しいお前は何処にもいない。いい意味でも、悪い意味でも騎士姿はもうお前には似合わんだろうよ」
「騎士なんてガラじゃないとは思っていたつもりだが、いざ言われると若干悲しいな。騎士の肩書に未練という奴はあるらしい」
騎士の時の事はあまり思い出さないように努めてはいたが、それでもどうしてもグランドベル卿とリヒターを相手にすると思い出してしまう。
俺が騎士を辞めるといった時にグランドベル卿とリヒターだけは俺を止めようとしてくれた。それだけは本当に感謝している。
リヒターは飯時を邪魔して悪かったと謝しながら、それからぷらりと手を振って背を向けて去っていく。その刹那に、少しだけ立ち止まって俺に言伝を残していった。
「じゃあな、ロダン。あの銀のお嬢さんと良き日々を過ごしてくれ。……ああ、それと副長官からの言伝があってな。お嬢さんとロダンと、三人でしたい話が夜にあるそうだ」
―――
皇都のはずれ、跡形も残らない焼け野原と化した大地に、その男は白目をむきながら倒れ伏していた。
臓腑が熔け、肉は焼き尽くされ、土星天の闇は英雄を前にして二度目の蒸発を迎えた。もはや彼の肉体はぐつぐつと煮える臓物を受ける鍋以上の機能をはたしていなかった。
……当然だ、天霆の轟く地平に一片の闇もあってはならないのだから。
「――酷い有様だな、土星天。その損傷では例え魔星であろうと機能停止に陥るのが道理であろうに」
「……堕天」
血にぼやける視界の中に居たのは至高天――ルシファーだった。
死の淵に在った己を魔星として生かし、英雄との再戦の機を与えてくれた。至高天の階たちの主。
「俺を笑いに来たか、堕天」
「笑う? お前の神星鉄の反応が微弱ながら残留していたから跡地に訪れたのみだが」
顎に指を充てながら、その土星天の有様を検分するようにルシファーは呟く。
土星天は確かに生物として再起不能なレベルまで内燃機関が焼き尽くされていた。それは攻撃性の一点に振り切れた木星天の脅威の証明でもあり、これであればなるほど恐らく己にも届き得るだろうとルシファーは木星天の脅威を評価していた。
「たしか貴様はよく口にしていたな、この世界に在るという事実のみが己の実在を肯定すると」
「何を喋っているのか判然つかん、人間の言語体系で喋れ」
「見て分からんか、堕天。今、
土星天は、そう損耗した肉体で白目をむきながら高らかに天に叫ぶ。
その有様に、ルシファーはため息をつく――コイツはダメだと。恐らくかなり深部にまで極光剣の斬撃が食い込んだせいなのだろう、生前から続く錯乱は更に深度を増していた。
同時に、土星天の肉体の変容にも目を向けた。
「……相も変わらず頭の沸いた事をのたまう。そしてその有様――なるほど、これがウェルギリウスの提唱する心一つによる進化という奴か」
「然り――俺は死なん。光は闇を生むように英雄がいる限り、俺は不滅だ。
肉の欠損を、土星天の星辰光が補填し毒光によってその肉の輪郭を取り戻している。
もはや躯体の構成物は、もはや土星天ではなく土星天の星辰光に置き換わりつつあるという事実をも示していた。
確かに土星天は木星天の一撃によってその肉体の大半は蒸発させられた。肉片を残す事でさえも決して容易な試みではなかった。
「恐らくは維持性による欠損部位の補填か。神星鉄を核として、肉を捨て星辰光に肉体の構成が置き換わっている。……人類種の執念の為せる技という奴か。もはやそれでは理性などいよいよとして残っているまい」
もはやそこに土星天の正気は微塵も残っていない。
白目をむきながら意識を寸断に追い込むほどの激痛に悶え、それでもなお歓喜と愉悦の放射能に塗れた吐息を漏らす様はまさしく怪異、化外と云う他ないだろう。
魔星が最も星を振るえる時というモノは、すなわち最も己が本性を発揮している時とも言い換えられる。
星で肉を補い、あまつさえ再起すらしようとしている今の土星天の頭蓋の中等、ルシファーであろうとも解析も予想もしようがなかった。
慮外の執念が導いた進化と言えば聞こえはいいが、もはやその生命は魔星の枠すら超越を果たそうとしていた。
そしてその姿を目に焼き付けると、一切の興味を失ったようにルシファーは土星天から視線を切った。それから空を仰ぎ、少し息をつく。ルシファーがこの場に立ち会ったのは、実際のところは社会勉強という側面もあった。
極晃に至るために人間性を学べというウェルギリウスから課された課題。
そこに解を見出すためのテストケースとして、土星天と木星天の因縁を観察していたがとんだ徒労に終わったとばかりに嘆息する。
「人間性を学び、見出せ、かウェルギリウス。土星天や魔星ではケースとしては極端すぎる。ならば――」
そう、少しルシファーは思考を巡らせて――その明晰たる頭脳はウェルギリウスから与えられた課題にある一つの解法を見出す。
「居るではないか、最初から道理だったなウェルギリウス。俺達の先駆者にして第四世代型人造惑星のモデルケース。――なぁ、