また、近い内にニルヴァーナも加筆修正を行い新しく作り直す予定です。
それは私ではない私の、原風景だった。
その女の子は、脳の病に冒されていた。
夢は、大舞台で踊る事。女優になる事。そう言ってはばからなかった彼女の、無慈悲な末路がそれだった。
日を重ねるごとに衰弱していく体、私のモノではなくなっていく体。
新西暦における一〇〇〇年間ですら非常に希な病気だと、当時の研究者は語っていた。……そのあまりのレアケース故にカンタベリー聖教皇国秘跡庁の面々まで総出で私の体と病気についての分析が行われた。
しかしあらゆる投薬治療も芽は成さず、単に死ぬまでのタイムリミットを――苦しみを延長する以上の意味は持たなかった。
その当時、秘跡庁の人間を名乗り私を見舞った人物は「■■■■■■■」と名乗っていた。
名前が長いから、先生とだけ私は呼んでいた。
「……先生。私、治りますか」
「治るように、最善は尽しているわ」
病室のベッドで、私はいつも空を眺める事しかできなかった。
その空の蒼を、私は誰よりも憎悪した。
躍る事も、舞う事も出来ない、翼をもがれた惨めな小鳥。それが私という女だった。そんな女の容態のモニタリングや聞き取り、そうしたものを担当していたのが"先生"だった。
「嘘。下手なんですね先生」
「そう、思うかしら」
「えぇ。……本当は、私の病気は治るなんて微塵もきっと思ってないんでしょう。オウカ様までいらしているのに私の容態は良くならないというのなら、つまりそれはそういうことなのでしょう」
実際、先生は事務的に徹していた。どこまでも仕事と割り切って、私に接していたように思える。
飽くまでも欲しいのは数字とデータ。そう言っているような目をしていたから。
けれども何もかもが自暴自棄になっていた当時の私にとってはそんなことはどうでもよかった。自分が例え貴重な病気のサンプルとして生かされているのだとしても、別段の文句はなかった。
「そうね。オウカ様でもついぞこの有様なのだから、無理もないでしょう」
「否定しないんですね」
「……否定して、在りもしない希望を抱かせ結局ダメでした、となるよりは遥かに慈悲に溢れてる処置だと思うけれど?」
化けの皮がはがれたのね先生、などとは思わなかった。
むしろ、きっとそれが地金なのだろうと理解できた。取り繕う事を辞めようが辞めるまいが、私にとっては変わりのない事だった。
私のゴールが変わらないのなら嘲笑われようと、実験動物みたいに観察されても、何も変わらないから。
つまりそれはそういうことであり、そういう教訓なのだろうと、私は諦観していた。絶望していた。
私の症例を、必ず医学の為に生かして見せるから?
知見は生かしても、私が生きていなければ私には何の意味もない。私は私と同じ症例に苦しんでいる子の為に私の体を分析してください、なんて言えるほど人間は出来ていない。
私の代わりに他の人間を救うために、その貴重なサンプルケースになってくれなんて馬鹿げてる。自慰じみたそんな聖性なんて私は持ってなかったし、心底から反吐が出る。
「一つ、聴いておきたいことがあるのだけれど」
「なんですか、先生」
「貴方がもし近い内に死ぬとして。……私にどうかその亡骸を委ねてくれないかしら」
そう、先生は突拍子もない事を言う。
私の死体を、一体どうしたいのだろう。概ね医学の為と切り刻まれるのだろうことは想像できたけれど。もう、そんな事さえもどうでもよかった。
「……好きにすればいいと思います。私の姉さんも、親も、私を見放した。なら私が死ねばどの道抗議する人はいない。死人に口無しと、よく言うでしょう。そうですね、願う事があるとすれば。貴方が優秀だと自負するのなら、せいぜい有意義に使ってください」
「承知したわ。……一人の科学の徒として、今ここに神に誓う。貴方の尊い犠牲を糧に、私は科学を前に進めて見せる。貴方のような悲劇を、二度と生まないためにも」
そこにはどのような感情が籠っていたかなど、知りはしない。
尊い犠牲も、神も、何もかもが死という運命の前では等しくくだらない。
「神? おかしなことを言うんですね、先生。私みたいな只人一人救えない、究極の無能の代名詞に一体何を誓うの?」
「まったく手厳しい。しかし事実ね、私も実は無神論者なの」
「カンタベリーでそれは禁句でしょうに。……貴方は本当に聖職者ですか?」
神様、もしそんな存在がいたとしたら、きっとそれは馬鹿だ。嘲笑する権利の一つぐらいは誰にだってあるだろう。
何処までも、先生とは意見はすれ違う。――食い違ったままに。
全知全能な神様が人間を設計したというのなら、どうして人間は寿命なんてものが、病気なんてものがあるのだろうと思うから。
命は限りあるからこそ美しい、不治の病にかかるのもまた運命?
馬鹿げてる。そんなものを喜ぶのは悲劇作家とそのファンだけだ。どこまで行っても、当事者は痛くて、辛くて、そして悲しい。
そんなモノを運命と呼ぶのなら、まさしく神の無能と不在の証明に他ならないだろう。
「別に、聖職者である前に研究者なだけよ」
「そうですか。普通、カンタベリーでは逆ではないのですか」
そんな先生との会話は、少しだけ楽しく思えた。
私が死ぬまでの間、しばしば私はこうして先生と言葉を交える事があった。
どこか不遜で、傲慢で、人をモノ扱いしているようにも見える人。結論から言って、正直よくわからない人だった。
そうして、一切のイレギュラーはなく私は意識を終えた。
何のために、私は生まれたのだろう。やり残したことは、未来にやりたかったことは、それこそ無限にあったはずなのに。何も、何も、私という無名の少女は何も残すことなくこの世を去った。
そのようにして、私というシステムはこの世に産声を上げた。
―――
「誰――、て。エリス、さん?」
俺の背後には、一切見まごう余地なくエリスが立っていた。
あの舞台に立っていたはずのエリス・ルナハイムがいた。
「……そう。私が拾わなかったら野垂れ死んでいた無職の分際で女の子誑かすなんて、いい御身分なことで。ロダン」
「違う、待てハル姉さん。違う。これは違うんだよ」
「何が、どのように、何故、違うのか。浅学非才な私にちゃんと分かるように説明してくれるとありがたいのだけれど」
明らかに、不服極まる声色が感じ取れる。
頭が何から何まで混乱しすぎて、頭が追い付かない。
傍らにいるエリス――あの大舞台の大女優、新進気鋭の超新星は在ろうことか、俺と腕を組んだ。
「すみません、家主の方ですか? 私、この方に助けて頂いたんです。けれどその日暮らしの宿がなく、路頭に迷っていたところをこの方に――」
「おい、待て。お嬢さん。俺はそんな事」
「――貴方があの時言ってくれた言葉は、嘘だったのですか?」
目尻に涙を湛えて、エリスは泣訴するように俺をまっすぐ見つめていた。
あの時とは何だ。俺は何も言っていない。……大体なんだこの女は、演技力がある事は認めるが、それをなぜ今この場で使っている?
……いやそもそも、なぜ俺はこの女に尾行されている事に気づかなかった?
騎士時代の名残で、尾行を察知したり撒く事には慣れているつもりだった。だがそれにしても不審感を抱かせなかった。
演技で慣れているから、とかそういう問題じゃない。尾行はそう簡単な技術ではない。その時点で眼前の彼女の得体の知れなさの程度が分かるというものだが。
「私の名前を、貴方は呼んでくれたでしょう。行かないでくれって」
「何のことだよ、さっぱり見当がつかない」
ハル姉さんをそっちのけで抗議するように、エリスは俺になおも泣きついている。
何の事を喋っているのかまるで意味が不明だと、ハル姉さんは半ば呆れ混じりで混乱している。
けれど、次に放ったエリスの言葉で、俺は確信に至った。
「――ベアトリーチェ。あの観客席でただ一人。エリス・ルナハイムじゃない、貴方が呼んでくれた私の名前よ!!」
そう、叫ばれて。俺は確かに思い出す。
けれど、どうして彼女がベアトリーチェという名前に反応した? 舞台から客席の俺の口元は見えるものなのか?
頭に駆け巡る疑問の嵐が、この眼前の彼女を看過する事を許さなかった。
お前は知らなければならないと、脳裏のどこかが疼いている。
あの日、握れなかった手をお前が握れと、心のどこかで叫んでいる。違う、偶然の一致だ、彼女はあの日俺が手を取れなかったヒトじゃない。
姿形が似通っているだけの只の別人に過ぎない。そう思えば思うほどに、胸の奥が苦しくなる。
まるで、彼女とはそこに一緒に居るのが普通だったみたいに――
「……大丈夫? ロダン。汗、びっしょりだけど」
「え……」
ハル姉さんに言われて、俺は初めて額に流れる汗の雫に気づく。
まるで悪夢に魘された時のように。背中まで汗でびっしょりだ
コホン、とハル姉さんは場を一旦均すように咳払いをしてから、俺達に向き直る。
「とにかく、いったん貴方達は中に入りなさい。ロダンの申し開きはそこで聞くから。それと、貴方。エリスだったか、ベアトクスだったかは知らないけれど。本当に一応聞くけど、ロダンに無理矢理連れてこられたわけじゃないのよね?」
「信用無いにもほどがあるだろ、ハル姉さん」
「無職三文作家のロダンは黙ってなさい」
冷ややかな、塵屑を見る様な視線を向けられると俺はさすがに委縮する。ハル姉さんの冷ややかな目に俺は騎士時代ですら数える程度しか感じなかった恐怖を垣間見る。
けれどそれに対して、エリスは飽くまでも楚々とした態度で優雅に頭を下げている。
「ご温情、痛み入ります。御姉様」
そう、言って俺達は屋敷の中に迎え入れられた。
ハル姉さんはエリスには距離感を計りかねつつも優しく、そして俺には距離感を把握した上で冷徹に接していた。
高等法院のような厳粛さで、卓を挟んでハル姉さんは俺とエリスに相対している。
「……それで。今も全く以って納得が欠片も出来ないのだけど。まずはっきりさせたいのは、ロダンは本当に乱暴を働いてはいないのね?」
「はい、ロダン様はむしろ私に一切れのパンと温情を下さった優しき人です」
「そう、なら良かった。……で、ロダン。その一切れのパンと温情とやらに、やましいものはないの?」
完全に、決めつけにかかっている。
まずそもそも俺は温情はともかく、パンなど寄越していなければ縁があったのはあの大劇場で一瞬目が合った時ぐらいだ。
「姉さん、勘違いしている。俺はまずパンなどよこ――」
「すみません、ロダン様は恥ずかしがり屋だから、こうして謙遜してしまうのです」
メリ、と俺の足の爪先にエリスのハイヒールはめり込んでいた。騎士の身を経験していたり星辰奏者でなければきっと耐えられなかった痛みだ。
流し目の彼女が暗に「話のつじつまを合わせろ」と告げていた。それどころか、俺と組んでいる腕もまるで振り払おうとしてもびくともしていない。
この華奢で細い体でありながら、これだけの力がある事。
それを曲がりなりにも星辰奏者であるはずの俺が振りほどけなかった事。
……それはつまり、エリスも星辰奏者であると考えられる。そんな彼女が今「話を合わせろ」と目で告げているのだから是非もない。
ともすれば恐らくハル姉さんに危害の塁が及ぶ可能性も否定できない。
「……ああ、分かった。認めるよ。永遠の淑女、その役者さんだった人だ。何でもその界隈では有名だった女優さんだが、家が無く宿を点々として寝泊りしていたらしい。それが不憫に思えてな、チップ代わりにパンを恵んだ」
「女優さん? ……ああ、なるほど。道理で可愛らしいと思ったわ。それで? その有名な女優を攫ってきて、貴方は何がしたいの?」
宿を点々としていた、は推測の域だが、合わせる話の筋書きとして特に破綻はないという事はエリスのヒールの籠められている力が変わらない事から察する事が出来た。
要はするに、俺が思いつきで言ったでまかせはエリスというこの女が求める筋書きを大きく逸脱してはいないということだ。
「ロダン様は私に、宿に困るならこの御屋敷に来るといいと言ったのです」
「待て、エリス。そこまでは――」
そこで、抗議の声はハイヒールによって殺された。
足の指は大事でしょう、と彼女の笑顔が暗にそう伝えていた。既に爪先が悲鳴を上げていながら、同時に腕もしっかり極められている。
この場で逃げたらついでに腕も折ると、言われているような気分だった。
「……話は分かりました。エリス……さん、つまり貴方はロダンに住む場所を与えるから来なさいと、そう誘われたわけね」
「えぇ、御姉様。でももし家主の同意がないのなら、それは礼を欠きます。ですからその御裁断は貴方様に委ねようと思います」
「……」
そう、粛々と頭を下げるエリスは頭を下げる。
誠心誠意という言葉に似合うその姿で、ハル姉さんにお願いいたしますと仰いでいる――依然、俺の爪先は踏みつぶしたままで。
それから渋くなった門が軋んだ音を立てながら開くように、重い口をハル姉さんは開いた。
「……分かった、分かりました。ロダンが適当を言い出したこととは言え、路頭に迷う貴方のような若くて美しい人を放っておけるほど私は鬼ではないですから」
「誠にございますか、御姉様。……なればこのエリス、まことに嬉しゅうございます」
「ただし。条件はあります」
そうハル姉さんは言葉を置いてエリスへと、指を向ける。
「……エリスさんの滞在期間は四か月まで。その間の金銭的な面倒はロダンが見る事と不純異性交遊は禁止。それでいいなら、エリスさんは泊ってくれていい」
「異存在りません、御姉様。ロダン様はいかがですか?」
エリスの言葉は、表面上はとても穏やかだった。
少しでもおかしなことを言ったら、その右腕と左足の爪先がどうなるか分かっているでしょうねと。笑顔で圧力をかけていた。
貴方に拒否権など、微塵も認めていないと。
「……俺も異存はないよ、エリス。ハル姉さん」
「じゃあ、決まりね。空き部屋案内するから、どうぞ使って、エリス・ルナハイムさん。細々した決め事は、追々伝えるから」
そう言って、エリスとハル姉さんは共々、上の階に去っていった。
一人、下の階に取り残された俺はハイヒールに踏まれ続けた爪先の痛みを噛みしめながら、混乱する頭を整理していた。
あのエリスという女は人知れず俺をつけてきて、しかも単なる女役者かと思ったら恐らくは星辰奏者であり。
加えてそれは夢の中で別離を遂げた「彼女」とよく似ていて。ベアトリーチェという単語に反応していた。
……俺はエリスという銀髪の知り合いを知らない。
生まれてこの方、現実でそんな知り合いを見たことが無い。であるというのに、彼女ははっきりとベアトリーチェと口にした。
なぜ、俺があの夢の中で叫んだ名前に反応しているのだろう。その真意を俺は知りたいと思っている。
本当に俺はエリスと名乗るあの女と、何も関係がないのかを、今の俺は断言できなかった。
理性は明瞭で、知性も正常に機能している。その上で、俺は断言が出来なかったのだ。
―――
自分の部屋でベッドに背中を預けて、重い溜息をつく。
エリスを名乗るあの女は果たして一体何者だというのだろう。それが。それだけが、皆目見当つかない。
机に散らばる原稿用紙も、今はその続きを書こうとは思い至らなかった。
「何も、考えたくねぇ……疲れた……」
心から、思う。
何もかもがあり過ぎで。けれど――そんな俺の安息をあの女は許してくれないようだった。
こんこん、と扉を叩く音が聞こえる。
『ロダン様、入ってよろしいですか?』
「……入るなと言っても入るだろうから勝手にしてくれ。聞きたいことは山のようにありすぎて正直困ってる」
言う、ぎこりと扉を開けてエリスは俺の書斎へと入ってきた。
今の彼女が、すこぶる得体の知れない存在なのはもう言うまでもないとして。聞きたいことがありすぎてまずは何から聞くべきなのか。
それに迷っていた。
「言わずとも、分かります。ロダン様。聞きたいことが、あるのでしょう? であれば存分にお聞きください」
「そうだな、じゃあまず。なんで俺の跡をつけてきた? 俺の家になんで転がり込もうとした?」
「おかしなことを言いますね、この家の主はハル様で、貴方様は居候では?」
「……訂正する。なんでハル姉さんの家に上がり込もうとした?」
それがまず第一の疑問だ。
俺の跡をつけてきた経緯も、その理由も、まるで彼女は真実を姉さんに告げていない。
「それは、貴方様があの舞台で涙を流してくださったから。そのような理由ではなりませんか?」
「涙を流していた人間は、ほかにもいただろう」
「では付け加えます。涙を流しながら、私の事をベアトリーチェ、と呼んでくれたからという理由では?」
「……そう、それだ。俺がある意味で一番聞きたかったのは」
なぜ、彼女はベアトリーチェという言葉に反応したのか、それが分からない。
その言葉の内容は、俺しか知らないはずだったから。
「問いを返すようで申し訳ありませんが、ベアトリーチェという名前をどこで知ったのですか?」
「神天地創造事件、て知ってるか。カンタベリーで八か月ほど前におこった大事件だ」
「えぇ、存じ上げています。……貴方もまた、その被害者だったのですか」
俺は、そう頷く。
同時に彼女の言い方にも引っかかりを覚えてこう思わず聞き返した。
「……貴方も、とさっきお前は言ったな。もしかしてお前もかあの事件に巻き込まれたのか」
「ご名答です。その当時、私もまたあの神天地創造事件に巻き込まれ――そして多くの人々が言う通り、大切な誰かと会ったような、そんな夢を見たんです。……という事は、貴方もまたその夢を?」
「察しが良くて助かる。……ベアトリーチェと名乗る、一人の女の子にその夢で出会った」
その女の子との邂逅と別離。それが新説・神曲のルーツになっている。
「私が夢で出会った人は、男の人でした。私はダンテ、と勝手に読んでいましたが――その時の男の人の顔が、貴方にそっくりで――私の事をベアトリーチェ、と呼んでいました」
「だから、俺をつけてきたと? 他人の空似かもしれない奴の顔を見るたったそれだけの為に?」
「はい」
……不気味なほど、彼女の語る夢は俺の体験した夢と符合する。
彼女の夢の中にはベアトリーチェと呼んだ俺――とよく似た男が登場し、対して俺の夢の中には、俺がベアトリーチェと呼んだエリスとそっくりな女が登場し。
偶然にしてはパズルのピースのようにぴったりはまりすぎていて、構図としてあまりにも出来過ぎている。
「……なんだそれは。都合が良すぎるだろう。ともすれば不審者と何も変わりはしない」
「私もつくづくそう思います。……あの場で貴方とお会いするまでは、そう思っていました」
その言葉に、不思議と俺もうなずきを返していた。
……彼女と目があったその時に、初めてもやがかって曖昧だった彼女の輪郭は脳裏に示されたのだから。
これが偶然の一致だというのならそれまでだろうが、それでも同じくあの神天地創造事件の被害者であった事、全く同一の夢を見ていた事を無視はできなかった。
何より。
「……エリス・ルナハイム。お前は星辰奏者なのか?」
「やはり、気づきましたか」
「馬鹿力、という言葉を知っているかお嬢さん」
爪先の痛みや極められた腕が、彼女が常人ではない事を如実に示してた。
神天地創造事件に巻き込まれた同じ被害者同士で、星辰奏者で、加えて全く同一の夢を見ている。
神天地創造事件の顛末は、この国の支配者であった教皇スメラギやヴェラチュール卿といった要職級の人間たちが起こした、人為的な星辰体運用兵器の創造実験の弊害ということになっている。
それならば、同じ星辰奏者であった自分たちは事件と何か相互作用が働いた結果、皆一様な夢を見たのでは――そんな朧気な仮説がたつ。
けれどそれは直に俺自身の理性に否定された。あの事件に巻き込まれたの星辰奏者ではないハル姉さんも同じだったし、星辰奏者でもなければ貴種でもない人間たちも同様の症状に巻き込まれていたのだから。
「とにかく、お前が夢見がちな乙女だという事はよくわかったよエリス」
「……ベアトリーチェ、とは呼ばないのですね」
「夢の人間は夢の人間だ。他人の空似につけた名前で呼ぶわけにはいかないだろう」
目の前の彼女は、エリス・ルナハイムという一人の人間だ。
……幻想につけた名前で彼女を呼ぶのはそれは冒涜も甚だしい。それは一人の人間に対してまっとうな態度ではないだろうから。
「それとエリス。もう一つ聞きたいがハル姉さんをどうするつもりだ?」
「どうする、とは?」
「とぼけるな。騎士団にエリス・ルナハイムという人間の名前を聞いたことはない。要はするに経緯は知らないが野良の星辰奏者なんだよお前は。そんなお前が、ハル姉さんに危害を加えないとどうして断言できる」
それは今この場で何よりはっきりとさせなければならない事だった。
脅迫されたとはいえ、彼女を屋敷に迎えてしまったのは俺だ。もしエリスが姉さんに危害を加える事があったなら、その時こそ俺は自分を憎むことになるだろうから。
「あの尾行と関節技を決めた身で、俺を脅迫して家に転がり込んだ身で、信用があると本気で思っているのか?」
「存じています。とんでもない無礼を働いたことも。その上で、私はロダン様を追いかけたのです。……証を立てようにも、立てられるモノをお出しできません。しかし、私は貴方の御姉様に危害を加えるような事は決して、在りません。それだけはどうか信じて頂きたいのです」
「……信じない、と言ったら?」
「なら、このように」
言うと、彼女は突然姿勢を低く落として――刹那に俺へと手首を掴んで、冷たい床に押し倒された。
ぎしり、と手首を掴まれ抵抗を抑えられ、こうして彼女に馬乗りにさている。
「……それでも私は、私の気持ちに整理をつけたいのです。だから貴方と共に一つの屋根の下で生活したい――というのはダメですか」
「気持ちの整理をつけたいのは、夢の中の方か? それとも現実の俺か? どっちなんだ」
「分かりません。……分からないから、それも含めて答えを見つけたいのです」
綺麗な、目だと思った。
不純物の見えない、感情の見えない、どこまでも澄んだ目で俺を見つめている。その目が、俺には空恐ろしかった。
いったいこの子は、俺の目の奥に何を見ているのだろう、と。思いの外に過激な手段に訴えるものだとも思う。
「分かった。分かったから離れてくれエリス。もしここで姉さんが来たら勘違いされて即日お前は退去だ。それでいいのか」
「……信じるまで、こうして拘束するだけです。尤も、貴方に拒否権はあると思えませんが」
瞬間に手首を握る腕に込められた力が強まる
筋と関節がみちみちと音を立てて、俺は思わず叫びそうになった。
「信じる、信じれば……いいんだろ!?」
「初めから、そう言っています。……ありがとう、ございます」
言うと、彼女はその力をようやく緩めてくれた。馬乗りになっている格好から立ち上がると、そこでふと彼女は俺の机へと視線を向ける。
何か、見たのだろうかと思ったがその視線の先には書きかけのちらばった原稿用紙があった。
まるで、興味の矛先がそちらに剥いたとでも言いたいのか、俺を後目にその机の上の原稿用紙を手に取る。
みられることに、別に抵抗はないがそこまでしげしげと見られていると若干に恥ずかしさが感じられる。
「……何か?」
「いいえ、これは貴方のですか?」
「そうだよ、……アレクシス・ロダン。元騎士勤め。色々経緯があって、今はつまらない物書きをしている」
一枚、原稿用紙に目を通したのだろう。手に持った一枚を机に戻すと、彼女は改めて俺へと向き直った。
それから童女のように目を輝かせ、視線を向けている。この上なく、嫌な予感が俺はした。
「……貴方のお話を、もっと私に読ませていただけますか?」