エリスの中での呼び方は月乙女達は「お母様」か「お姉様」で、ヘリオス君についてはその出自の複雑さも相俟って基本的に「お兄様」です。
オウカ様に仕えてから、面白くなかった日々などなかった。
色を得て色彩に溢れる毎日。私に自由に研究をさせてくれたオウカ様には私は感謝している。急に視界が開けたような気分で、私には尽きぬ美食を並べられているが如き体験だった。
あの人こそは私の
「ウェルギリウス、貴方休まないの? よくも数週に渡って書斎にこもって私の過去の論文について目を通し続けているのね」
「何かにつけて、先行研究というものは大事でしょう。神星――そして神祖は間違いなくこの新西暦の最先端です。先駆者に学ぶという事はそれこそ貴方達神祖も辿ってきた道では?」
……私が目を通していたのは星辰体そのものの性質についてのオウカ様の研究だった。
神国大和が第二太陽と呼ばれるモノとなり、神祖と呼ばれる者が地上に誕生して間もない頃の論文でもある。星辰体の基本的な性質を探るための試みがそこには山と記載されている。
星辰体の物質への影響の及ぼし方について詳細にまとめられていた。
聖教皇国の創成期には彼らは旧暦において消滅した半導体技術の再興を介し、より優れた演算機を得ようとする試みを行っていた。
金属が消滅したのなら有機物による半導体は動作は可能なのかという試みはこの点非常に興味深かったと思う。
結果としては旧暦に謳われる半導体と同等の動作をするはずの演算素子は皆一様に動作不良を生じたという。
他には金属とも非金属とも分類のしがたい炭素やゲルマニウムなどといった、いわゆる半金属と言われる元素についても半導体文明の再起の可能性を求めていた跡がうかがえる。
この事からオウカ様は自身の論文において、金属やそれに類するものが一様に抵抗値の消滅を迎えただけではなく、第二太陽の影響は「金属・半金属の使用の有無に関わら
出した結論がオウカ様や神祖たちの論文とは信じられないほどに荒唐無稽であるにもかかわらず、それを呑み込ませるに足るだけの論拠を列挙し説得力を持たせている。
単純な学術としてだけではなく、彼らの論文は私の知的な好奇心を満たしてくれた。
そこで、私達しかいない書斎に一人男が入ってくる。
「ウェルギリウス。呼んだか。たしか今日は午後から研究の助手をしろとのことだったが」
「あぁ、来たのねルシファー」
彼の名はルシファー。当時の名を試製人造惑星壱型という、私の製造した魔星の一つだった。
怜悧な顔貌で、彼は創造主たる私――それからオウカ様へと視線を向ける。
オウカ様も特に何ら考える事もなく、ルシファーに視線を映す。
「神祖オウカ、ウェルギリウスと俺は今日は何をすればいい?」
「……そうね、今日はアメノクラトの調整に移るわ。
「了解した。ではそのように俺は努めよう、神祖オウカ」
言って、ルシファーはその部屋を退出していった。それから再びオウカ様は一切表情を変えず私へと視線を戻す。
「……アレ、貴女の趣味なのかしら。
「顔はともかく、頭脳に関して言えば恐らく彼は私と同列です。実際オウカ様の研究にも何度か参加させましたが彼は
「そうね。手先の精巧さも頭脳も彼は間違いなく素晴らしかったわ。アメノクラトの実践投入において彼と貴女、シュウの貢献によるモノは間違いなく大きいでしょう」
ルシファー、私の手で創り上げた暁の子。
卓越した頭脳は、やはり素体譲りなのだろう。
初対面の時は彼を前にして、多少驚くことはあるかと思ったけれどオウカ様は眦一つ動かしさえしなかった。
……きっとこれではまだオウカ様を驚嘆させるには足りないのだろう。少しだけ私はあの時挫折を味わった。
当然の事だろうと思う。神星や軍事帝国という先駆者がいる以上、今私がしていることは彼らの前例をなぞっているだけに他ならないのだから。
けれど、そんなオウカ様だからこそ私は目標を高く持てるという側面はある。
彼女はまるで揺れない――世界樹の幹のように。千年の時を超えて培った経験と見識こそが彼女を神なる者へと押しあげたモノなのだから、私がその領域に至るには千年をかけなければならないのだろう。
けれどそれではダメだ。彼女と同じ時間かけて同じ領域に至ったのでは結局千年の開きは埋まらない。私の歩みをオウカ様は待たないのだから。
彼女の千年に私は密度で勝負しなければならないのだ。彼女の領域に九百年でもいいから早く辿り着きたい。例えわずかでも成長の速度で上回れば、何年かかろうとその差分の集積で私は彼女は並んでみせようと思う。
不意に、オウカ様は私に向き直って綺麗な形の顎に指をあてて私に問う。
「ああ、そう言えば。新しく私達の仲間にしようと思う人がいるだけれど。それについて少し、ウェルギリウスに意見を求めたいのだけれどいいかしら」
「……? 相談相手がシュウ様であったり神祖であったり、あるいはご自身で裁断なさるならまだわかりますが、なぜ私如きに?」
「普段ならそうね。けれど、今回私が引き入れようとしている人間だけに関しては、貴女に意見を仰ぐのが
奇妙なことを、オウカ様は仰る。
……私に意見を仰ぐことが適切であるとオウカ様が判断し得る人物――そう考えると私の頭に浮かんだのはただ一人だった。
「――オフィーリアの事ですか、オウカ様」
「まだ名前すら出していないのだけれど。まぁいいわ。明察の通り、オフィーリア・ディートリンデ・アインシュタイン。確か貴女と同門ね」
想像を裏切らない、ある意味予想通りの答えと言えば答えだった。
今、聖教皇国の技術部門の表側のトップとして私が認めるのは彼女だけしかいないから。
「経歴を調査する限りでは、決して己が天性のみに解法を求めず堅実に堅実に経験を積み上げていく人種――例えるならスメラギに近いかしら。重ねた時間を財産に変えていくことに長けている所謂努力家と言われるタイプね」
「教皇猊下に、ですか」
……オフィーリアはそう、オウカ様には評価されていたのだと思うと私は例えようのない誇らしさを感じた。
確かに、彼女の人物評は私のオフィーリアに対する人物評と一致していた。ともすれば、私以上に彼女を理解しているのではと思うほどに。
それはそれで、少しだけ複雑な気分になる。
恐らく人間観察の審美眼は千年を超えて鍛え上げられたモノなのだろう。
「アインシュタイン家の一人娘で家は貧しいながらも親の愛情を受けて歪む事無く育っている。聖教皇国の機関学校を主席で卒業しその後は聖教皇国研究部門へ勤務。性格は温和で、多少人見知りの気性はあるものの、嘘のない堅実な仕事と人柄で信頼されている。……私は彼女の事を是非欲しいと思うけれど、貴女はどうかしら」
「……
「そうね。彼女は確かに研究者としての倫理観も強く、少しでも倫理的な問題を持つ研究には決して彼女は従事しなかった。加えて彼女は非常に考え方が堅実ね。ウェルギリウスのように、数段飛ばしで走ろうとはしない。ただそこに確かに足場が在る事を確認しながら、一歩ずつ階段の歩を進めていくような性質の人間よ。それに、彼女の倫理観に抵触しない研究に従事させる選択肢も当然私は用意しているわ」
「彼女に才能があり――しかしそれは天性や天授のそれではありません。ですが人望と信頼に関しては彼女は私が知る限り、誰よりも優れていました。……単に優秀なだけの人間とは、彼女は違います。私にさえ、彼女は理解者となろうと粘り強く努めてくれた。だから――」
私はなぜ、言葉を重ねてオウカ様の提案を否定する事に躍起になっているのか、自分ですら分からなかった。
分かるはずもない。……私は私自身の機微というモノでさえ言語化できないのだから。
本当に大事な、言いたい事を理論で覆い隠している。そんな自覚はあっても、私の理性は私の
「だから……彼女は聖教皇国の表側を担うべき人材です。事実、今は彼女が聖教皇国の星辰体技術開発の大きな支柱となっていることはオウカ様もご存じでしょう。柱が抜かれれば土台は揺らぎ――」
「つまり分かったわ。――
眼鏡の位置を直しながら、オウカ様はそう言った。
私は恐れていた。それは何をだろうか。
オウカ様に下につく競争相手が増える事を恐れていたのか。いや、違う。オフィーリアはそもそも才能で問うならば私には追い付けない。彼女の才能を私は誰よりも正当に評価している。
だからこそ彼女は私に追い付くことなどできはしない。
才能で追いつかれることなど私は微塵も危惧していないし、仮にそうであったとしても私には別にそのような競争心はない。
「貴女の意見も理がある。認めるわ、唐突な提案でごめんなさいウェルギリウス。機関の長としても、貴女のモチベーションに関わる決断はするべきではなかった」
オウカ様は、そう言って驚くほどあっさりとオフィーリアの登用を取り下げた。
取り下げられた瞬間に私の胸に訪れたのは暗澹とした、後ろめたい安堵だった。
そして私は遅れて自覚する――私の所業をオフィーリアに知られる事を恐れていたのだと。
言えるわけが無い――それまで、私は何人もの人間を平静のままに犠牲にし続けてきたのかなど。
言えるわけが無い――ルシファーの素体が何で在ったのかなど。
子供が寝小便を隠すような感慨を、私の感性はまだ残していたのだな思う。
そして、オウカ様は少しだけ私を見つめて言う。
「……貴女もいずれ使徒にする予定だから一足早いかもしれないけれど、神託を授けましょう。――ウェルギリウス。
―――
収容室で、エリスと俺は再び顔を合わせる。
エリスは途中までグランドベル卿を伴い、収容室につくと同時にグランドベル卿は会釈を一度返すと、扉の前から去っていった。
「グランドベル卿とはどうだった、エリス」
「やはりあの人が私は苦手です。けれど勘違いし、すれ違ったままでいたい人でもありませんでした。悪しき人ではないと思います」
「……そうだな。グランドベル卿は
グランドベル卿は決して恐れるべき人ではないという事は分かってもらえたのだろう。エリスの顔からは畏怖の色は消えていた。
「昔のロダン様がどのような方だったのか、聞きました。御姉様は幼少期の――弟としてのロダン様を知っています。マリアンナ様は騎士としてのロダン様を知っています」
「俺の過去はそんな面白い話じゃないだろう、エリス。情けない思い出だからな、出来れば触られたくはなかった。……全くエリスの事を笑えない、俺はエリスの寝起きのあくびを笑っていたのにな」
「ならこれでお互い様でしょう、ロダン様。……ですが
エリスはしばしば俺の過去を知らない事、過去に関われなかった事を悔しがることがあった。
加えてその前例のなさ故にエリス自身にもまた過去というモノが欠落している。どうしようもなく、彼女には自他ともに過去というモノが無い。
だけれどそれでもエリスは前に進みたいのだと、言ってくれている。それを俺は嬉しく思う。
「ありがとう、エリス。……絶対神に感謝するべきなのかなこれは」
「……きっかけを作ったことは感謝してもよいのでしょう。そうした意味では間違いなく私達の恩人であり、同時に絶対神の采配に狂いはなかったと思います」
身分の違いもあり、言葉を交わす機会等無かった、もうこの地上にはいない
彼らの下で俺達は確かに極晃を描き、縁を結び、そして今に至っている。
「そう言えば、あの極晃を描いたときもそうだったがエリスのあの服は――その」
「
「……舞台で晒したら翌日どころか即日には絶対発禁を喰らいそうだな」
……エリスは恥ずかし気に言う。確かに、戦闘時のエリスの姿はよく冷静になると、相当に布面積が小さい。
服としての機能を果たしているかは怪しい。思えば、エリスと似たような装束の女性があの主観記憶における星辰人奏者の傍らにはいたなと思い出す。
……
――
……それから恥ずかしがりながらもエリスと目が合う。
今度は恥じらいこそはしても目線を逸らさずに、まっすぐとその綺麗な紅い目を俺を見つめている。
どこまでも吸い込まれそうな、紅玉のような美しい赤。月光を映したような銀色の髪。
エリスと顔が近づいて、あと少しで唇が触れそうになり。
「――ロダンさん、エリスさん。ランスロット卿から話は聞いてると思うけど……」
収容室に、オフィーリア副長官は入ってきた。
……互いに既に腰に手を回していて、唇が後少しで触れ合う所だった。
少しだけ彼女は眼鏡の位置を直して、真顔を呈しながら非常に間の悪そうな引きつった微笑を浮かべながら俺達を見つめていた。
「……これはグランドベル卿に報告かしら。聖庁内では節度を護ってください、と確か言われていたはずだけれど」
「誤解じゃないが、後生だ副長官。どうか見逃してくれ、頼む」
もう少し副長官が尋ねる時間が遅れていればどうなっていただろう。あまりそのことは想像しないようにした。
とにかく、今ここですべきは平謝りただそれのみだった。
―――
珍しく、俺達は装甲監獄の外に出された。オフィーリア副長官に招かれた先は、初めてエリスと一緒に聖庁に訪れた時にエリスが窓を蹴破ったあの部屋だった。
蹴り破った窓は綺麗に修復されており、あの時と同じようにリヒターとグランドベル卿も立っていた。
時間がそっくりそのまま巻き戻ったようだった。
「……リヒターから帰り際に聞かされたけど、話とはなんだ。副長官」
「私達に関わる事、なのでしょう」
エリスも俺も、副長官に聞きたいことはソレだった。
それから少しだけ息ついて、副長官は言う。
「……恐らくは至高天の階の創造主――ないしはその創造主とやらの関係者と思われるある人物の事よ。元々、彼女については目下レディ・アクトレイテの指揮の下捜索中ではあるのだけれど」
「……!!」
その言葉に、この場にいた人間達は一様に息を呑み、副長官の次の言葉を待っていた。
ひとしきり、彼女は決意するように目を閉じ、それから重々しくも口を開く。
……創造主。木星天を、至高天の階――ひいては銀月天をこの世界に送り出した、恐らくすべての元凶。
あの子を魔星に変えた人物の名を。
「――聖教皇国研究部門元最高統括官、ウェルギリウス・フィ―ゼ。かつて私と同門だった友人の名前よ」