私がまだ医師として奔走していたころ、私は難病治療の研究に携わった。
聖教皇国の医療水準の向上――ひいては旧暦相当のソレへの昇華を目されていたし、私もまたその務めを期待されて任官された。
実際、私にとってこれは適材かつ適所だった。
そのころに彼女――ウェルギリウス・フィ―ゼと私は知り合った。
若くして比類ない才覚を持ち、神祖オウカの信任篤い才媛だという。
彼女の才能は多岐にわたり、それゆえに部門を超えて越境的にその意見を求められることもあったという。
実際、私が皇国に在籍していたころに残したいくつかの医学的成果は彼女の寄与がある。
「――罪人や浮浪者を使う人体実験に何か問題でも? ミス・ジュリエット?」
「問題しかないに決まってる。前者については彼らの最期は法と刑によって裁定されている。後者はそも、浮浪者である事そのものには罪がないである以上、それは承服できないに決まってるでしょう」
彼女はその言動に少なからず倫理観の欠如がある事を除けば、非常に優れた科学者だった。
それが故に、私は彼女の事はやや苦手意識があった。仕事以上の付き合いなど、まだその時点ではなかった。
特異的な精神性はしているが、それでも卓越した科学者である事以上の感情は彼女にはなかった。
私がこうしている間にも、病は私の手を待つ人々を蝕んでいく。
けれど、私が見てきた患者たちは「いつになったら治るのか」とは決して一度も私に問わなかった。
私には結局何もできないと悟っていたのだろうか。それを確認する術はない。
そして彼らは最後に、私に「ありがとう」と言って逝く。
諦観であれ、絶望であれ、彼らはとうの昔に死を受け容れている。希望はある、などと私は例え口が裂けようと喋ることはできなかった。
彼らを看取る時、私の心は屈しそうになる。
原理が分かった、病状が分かった――だから何だと言うのだろう。
私の残した成果はいずれも、何一つとして難病の治療法を確立した、という文章は含まれていなかった。こんなモノを成果だと称える人間の知性が優れているとは私は思わなかった。
そうして、私はまた患者の一人を看取った。
何人めかなんて、覚えていない。覚えているのはカルテの上に書かれた名前だけ。
けれど、その人は病床で、私宛てに手紙をつづったという。
――先生、貴女は私が知る誰よりも私に真摯に向き合ってくれたことを知っています。
――いつも窓から見える先生の居室が暗くなっているのを見たことがありません
――貴女がいつも、夜を徹して研究されていることを知っています。
――いつも皆が寝静まった頃に病棟を徘徊しながら病状を心配そうに観察してくれていたことは、多分皆が知っていることだろうと思います。
――皆、先生に感謝しているんです。
――恐らくこの手紙を先生が読まれている頃には私はこの世にいないでしょう。
――本当に、今までありがとうございました。
そんな、文章だった。
その人がどれだけの余力を振り絞ってこの手紙を残したかを想えば、私は胸が潰されそうだった。
私が何行何文字カルテや論文に文字を書き連ねようが、手紙の一文字一文字の価値になぜ並び得るだろうか。
初めて、私は人前で泣いたと思う。
私の力が及ばなかったから。
膝から崩れ落ちて、私は泣いた。
彼らは亡くなった。それは恐らく私にはどうしようもなかった。けれどどうしようもなかったで済ませていいはずがなかった。そんなモノは私の慰めにはならなかった。
それから去るように難病治療の研究から手を引いた。以降、私は従軍医という形で医療に携わることとなった。
さる緩衝地帯において激戦が予想されるとのことだったという。
ブラザーやシスターと私は行動を共にしていた。
彼らの部下の騎士たちとは私は比較的よく打ち解けていたと思う。私が元々は医療部門の出身であったことが彼らにとってはよほど珍しかったのだろう。
彼らと一緒に過ごすうちに、私は少しだけ自分の胸の中に仕舞い込んだ妄執を忘れることができた。
それは、たとえいつか致命的な破局を迎えるモノだったとしても、私にとって楽しかった思い出だと思う。
そしてやがて超人大戦の渦中に私は身を投じることとなる。
事態が終局を迎えるころにはもはや、敵味方など関係なかった。ただ死なないでと叫びながら、私は手当し続けた。
痛い、苦しいと叫ぶ声を、私は振り払うことなどできなかった。
結局私は自分で自分の苦しみを広げるだけだった。見知った顔を結局私は何人も見送った。
そうして私は、太陽の巨神と邂逅した。
それは、憤激と共に勇壮に進軍していく。
あらゆる悲劇を断つために。
不遜かもしれない。けれどその様を見て私は、彼に似ていると思ってしまった。
彼もまた、どうしようもなく憤激している。何に怒っているのか、その怒りが切り開く地平は――。
超人大戦は終わり、そして私は医者の身分を辞すことにした。
医者が医者に精神疾患だと診断された結果がこの様だ。
結局私は、また何もできないままに終わった。精神薬に頼るようになったのもその頃からだ。
そんな私の下を尋ねてくる人がいた。
意外と言えば意外で。
「――ジュリエット、私は貴方の知啓を欲している。……ちょうど、医療分野はあまり私の専門ではないから、手が欲しかったの」
そう、彼女は言う。
傍らに、ルシファーという名の美丈夫を伴って。
そして彼らは言う。
私の抱き続けた願いを知っていると。
それを解決するに足る方法論を、自分たちは準備ができるのだと。
「ジュリエット・エオスライト。貴女の望みを、私はかなえてあげられる。だからどうか私とルシファーに力を貸してくれるかしら。貴女が見たい世界を、私達は私達の願いの過程で用意ができるのだから」
だから、私は悪魔と手を取った。
魔星製造について、死体の取り扱いや心理学についていくつか私は彼女に対し知見を提供し――私もまた魔星となった。
最短最速で私の願望がかなう、たった一つの方法論を求めて。
/
過熱していく戦況の中で、ただ互いに必殺の距離を測る。
星を振るう度に更地が増えていき、地形が変わっていく。
ジュリエットに一刀を焼き捨てられ、残るは一刀のみにありながらポースポロスは何一つとして臆していなかった。
「お前と同じか、或いは俺はお前以上に愚かだろう。俺にはただ怒りしかない。……俺の怒りは誰のためにもなりはしない、結局はそうしなければ治まらないからそうしているともいえるだろう」
「何の根源も、過去もない怒り。そんなつまらないモノのために殉じるなんてどうかしてると思わない? 何のために、何に怒っているのか、それが私には分かる。――けどそれは本当に貴方の裡から出た感情?」
ポースポロスは、その言葉に自嘲するように頷く。
全くその通りで、だからこそ己は愚かで、返す言葉はないのだと。
「……俺はそのように設計された。英雄のうつしみ、光の系譜を継ぐ者として。例えそれが、堕天と魔女によって与えられたモノだとしても。――全く、どうしようもない」
「……本当にどこまでも、どうしようもない人。借り物の怒りで私も、至高天も原動天も討つ? ……本当に救えない人、魔女の盤面から一歩として貴方は出ていない」
筋書き通りに元凶に憤激し、筋書き通りに魔星として成長している。
その果てに彼は死ぬ。皮肉で滑稽で、あまりにも救われない。
「だからそんな救いがたい者でも――救いがたい者だからこそ、お前は救おうとした。お前の在り方を忘れることは、俺には出来ん」
「――で、
首肯は、ただ無情だった。
どれだけ経緯を抱こうが結局殺す事しか彼は選べない。どこまでも魔女と堕天の脚本の上で踊るだけの役者だ。
「私は絶対に貴方を始末する。……そうすれば、楽園は成る。死神の息絶えた地平が」
「堕天が何を目論み何を以って秩序に挑もうとしているのかは知らん。お前が与するのだ、少なくとも絵空事ではないだろう、方法論については
「……全て、私は納得してる。これしか、私が縋れる方法はない。……だから私は決断したよ、未来の永遠のために、今の
飽くまでも、どこまでも、ジュリエットの決断は変わらない。
光のような決意は、確かにポースポロスと同類と言っても差し支えはなかった。
「永遠が救済になる者もいれば、決してそうではない者もいるだろう。病を根絶するならまだしも、お前は
「別に、千年も二千年も生きなさいと言っているわけではないわ。自死の権利だって与えるもの」
「……お前の望む楽園は、自ら死を選ぶ事でしか不死という永遠を終わらせることはできないという事だ。不本意な死、或いは老衰、病が訪れない、
「えぇ、それがあるべき人類の進化よ。人間は自らの意志によってその刻限を決めることができる。これ以上に正しい事も、これ以上に責任のある行為も、決してこの世のどこにもありはしない!!!」
その言葉は、決して自分に言い聞かせるためだけのものではなかった。
少なくとも真実の意志があるが故に彼女はその星を駆動させられているのだから。
「……ヒトの在り方がそうなれば、次いで訪れるモノは停滞だ。いつでも己の意志で終わらせることができる命は、今そこに在る課題を、或いは目標を先延ばしにしようとするだろう。当たり前に、時間とはあればあるだけいいのだから。人がその人たらしめる衝動とは多くの場合その命が有限であることに起因する。……意志が
「死ぬよりは――死の恐怖があるよりはマシでしょう。そんな不完全性を排する事こそ、私の望みよ。例え、後世に私が悪魔の眷属と言われようと、私はそれが正しいと信じている」
言葉では彼女は折れはしないだろう。それが全人類の救済になると本気で信じているのだから。
例えそれしか縋るモノが無かった賢者の叫喚であったとしても。
「有限は所詮有限よ。限りがあるから命は尊い? そんなカビの生えた論説、私は大嫌いだしそんなことをしたり顔で喋る連中の気が知れないわ。時間に限りがあるから大切に生きろと?
「決して否定はできんだろう。だが限りある命だからこそ、それを保全し護ろうとする志は尊いのだろう――例えばそれは、お前のようにな」
「ああそう、おほめにあずかり光栄ですこと。貴方を手当したのは聖戦まで貴方を管理する事も目的ではあったし、無理ではあるとわかってはいたけど聖戦そのものをあきらめてもらう事が最善だった。……けど、医者としての使命感が先だったことだけは誓って事実よ。それだけは医学を志した者として、貴方に嘘はつきたくない」
「そんなことはとうに知っている」
「知った顔されると腹が立つのよ」
輝きながら、爆縮を続ける光炎を斬り伏せ、或いは斬閃を重ねて微塵に引き裂き、ポースポロスは進撃する。
太陽に臨む蝋の翼の如く、だんだんと彼もその肉を削られ続けている。
「私はルシファーとウェルギリウスを護る。彼らだけが、楽園を創れる――死の絶対なる排斥、万人の楽園を!!!」
「死神の息絶えた地平はなるほど、確かに楽園と言えるだろう。不老不死は有史以来の究極の願望だ。……だがな、死も病も廃絶された地平において、お前の手は必要とされない。その温かさを知る者もいない――楽園において、
「――それでこそ、私は本望!!!」
「その答えこそ、万人にとっての光なのだろうよ。だからこそ、俺はお前の願いを越えていく。お前のその尊い願いでさえ、俺は堕天を討ちたいがために踏みにじる」
今この場において、何より誰よりも、己自身にポースポロスは激している。
ジュリエットの善性は決して嘘ではないのだと知っているが、それを踏みにじらなければならない――踏みにじる選択を下せる己自身に。
いらだちと共に、彼女は極小恒星を生み出しそれをポースポロスへ投げつけるがそれすらも縦に一閃両断すると、その間隙を縫いながらポースポロスは翔けていく。
「もう、いいよ。疲れた。……初めからこうすればよかった」
「――、まさか」
……まるでそれは、天使の輪のように光輪がポースポロスとジュリエットを取り囲む。
その一条一条が、人智を逸した熱量で編まれている。
「
その星辰行使に、今ジュリエットが成そうとしている事をポースポロスは理解してしまう。
ジュリエットの星は相打ちや自分自身を巻き込まないよう、その制御に全資質が費やされている。
逆に言い換えればそれが最大の枷であり――それを無視したならそれこそ彼女自身の資質と命が許す限り無制限の破壊を齎せるだろう。
ただ加速を続ける光輪が、その輝きを増していく。己もポースポロスも共々焼き尽くさんがために。
「もういい、終わりだよ。さよなら。……私は、貴方を治療することはできなかった。貴方と心中するなら、救えない同類同士、悪くないのかもね」
「――あぁ」
ジュリエットの瞳に浮かんでいるのは、涙だった。
もはやポースポロスは回避などできないし、するつもりもなかった。
光の只中を駆け抜ける足はもはや彼自身でさえ止めることはできなかった。けれど、少しだけ彼は笑う。
その結末も、決しては悪くはないだろうと。
/
ただ怒りのままに駆け抜ける。
想いを載せるように、その一刀を振り抜く。
――結局殺す道しか選べない己の愚かさをかみしめながら。
ただ前を向くことが光。ただ進行方向に立ちはだかるすべてを焼き尽くす事こそが光だというのなら、それは先駆者と何も変わらない。
尊いと思ったモノを壊してでも進む光。
ジュリエットの胸を彼の一刀は間違いなく貫いた。絶命に足る深度だった。
直後に世界は光に包まれる。
彼も、ジュリエットも蒸発を迎えるだろう。
だから、その刹那に叫ぶ。
先人と同じ道を選びながら太陽とも、英雄とも異なる勝利の形を手にするために。
尊いと思ったモノを破壊しなければならない――そんな自己嫌悪など、もはや要らない。
古来からよく言われることだ。――想ったなら口先ではなく行動で示せと。
「――あぁ、だから。俺の勝利は
そう、叫んだ瞬間に因果は破壊された。
けれど、破壊したのは一秒後に訪れたはずの己の死ではなく――彼女だった。
血のにじむジュリエットの胸からぴしりと、蜘蛛の巣のように広がっていく。
事象が、世界が悲鳴を上げながら彼女の死を破却していくとともに、破局の光輪はその収斂が綻び霧散していく。
ガラスのように霧散していく己の死に、ジュリエットは驚愕する。
何をやったかは理解できている。ポースポロスはそういう設計だからそういう御業ができる事だって知っている。
けれど、だからこそ今彼が眼前で成した行為の意味がまるで理解できなかった。
「……何、してるの。ポース、ポロス」
「――、こうすることでしか、俺は止まることはできなかった」
「バカじゃないの!? ……分かってる? 私は敵よ。貴方が殺すべき、悪に与する者よ!!」
自身の因果律を破壊したのなら、それは至極理にかなった行為だ。
だがあろうことか、ポースポロスはジュリエットの死を――
それは到底理解不能で、英雄の後継であったならば彼には選択できない行為でもあった。
反射的に星を解き崩れ落ちるポースポロスを抱き留めてしまうほどに、その行為に彼女は驚愕していた。
「俺は、それでもお前を砕くことはできなかった。お前の輝きを俺は滅ぼせないと思った。……お前の手の温かさを、俺はこの地上から消し去りたくないと思った」
「……ふざけないで、この光頭の石頭!! ……私と貴方の決着を、こんな形でつけていいと本気で思っているの!? 元からバカだと思ってたけど、本当にバカなんじゃないの!?」
「そう言っているのなら、さっさと殺せば良かろう。それができないからお前は優しいのだ。……あぁ、そうだな認めよう。
閃奏の星もまた、霧散していく。
……ここにきての閃奏の行使によってもはや、彼の体は限界を超えていた。
切り札をこんな無為に使った事はしかし、今この場においてはジュリエットにとって最も大きな意味のある決断だった。
「こんなボロボロになるだけ戦って。それで最後は私を殺した後に救って、やっぱり殺したくありませんでしたとか本当にやってることバカだよ、サイコパスだよ? 自覚持ってる!?」
「……言ったろう。こうすることでしか、俺は止まれなかった。
彼の刀には、血の一滴として付いていなかった。
それは彼が確かに彼女の死を覆したという証明であり――そして何より。
「……貴方の病気、ちゃんと治ったじゃない。重症だとか俺は価値がないとか言っておいて、最後の最後に踏みとどまって、勝利を微塵に砕いて投げ捨てて。そんなこと、貴方には絶対にできなかったことだと思っていたのに」
「恐らく誤診だジュリエット。お前は名医ではなかったのか」
「うっさいわねいちいち。……私の負けよ、ポースポロス。……こんなことされて、今ここで貴方を殺して勝ちました、なんて言えない。……
……ジュリエットはまだ星を扱う余力はあっただろうし、ポースポロスもその一刀を振るうだけの余力があった。
だが今ここでその決着に臨むことは、彼らはしなかった。
ポースポロスは、ただ彼女に背を向けて天に臨むのみだった。
視線の先には、輝く翼をはためかせる堕天と魔女がいた。
空に羽をはためかせながら、黄金の瞳で彼らを睥睨する不遜なる者がその結果を見届けている。
「……私はもう負けた。だから、負けた人間は負けた人間らしく道を譲る。……けれどお勧めしないかな。絶対、今のままじゃ貴方死ぬし」
「要らん心配だ、ジュリエット。俺の最期を俺が決めるだけだ」
ただ、そうとだけ言ってポースポロスは一刀を構える。
やっぱり、そういうところは結局治ってない、とジュリエットは苦笑いする。
「だから、ポースポロス。ここは一つ、
「魔女と堕天に反旗を翻す気か?」
ジュリエットも、もう一度立ち上げる。それからポースポロスと肩を並べるように、堕天と魔女を見据える。
「別に。……前に私言ったでしょ。石頭で知り合い居なさそうな貴方の友達になってあげるって。大体その体で何が出来るのよ」
「……物好きだな、好きにしろ」
もう、特に言葉をすり合わせることもなかった。
交わすまでもなかったろう。
破滅に向かうかのような、最後の輝きを見せながら彼らはもう一度星を駆動させる。
ただ一つ、想いを重ねて。
今一度、焔と雷は甦り、地上に最後の奇跡と聖戦を具象する。
「往くぞ――堕天!!!」