無明の獣に孔穿つ   作:はたけのなすび

1 / 10
こんばんは、こんにちは、おはようございます。

10話くらいで終わります。

では。


1話

 

 別に、あなたのためではない。

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 『未来予知』は、はっきり言って外れな術式である。

 何でどうして便利じゃん、と無邪気に言い返されるたび、わたしはこう答える。

 あれは、毎回毎回戦うたびに、超高難易度のリズムゲームをやらされるようなものだと。

 

 リズムゲームではどこに次が来るのかわかっても、プレイヤーが動けなければどうしようもない。あれと同じだ。

 上からぽんぽん降って来るアイコンは見えているのに、体が思うように動かずGAME OVERなんてこと、音ゲーを嗜めば人生に一度はあるだろう。

 わたしの場合、そのGAME OVERテロップで生命がオーバーになる。

 

 秘匿死刑寸前で五条悟に拾われ、呪術高専の在学中に準一級術師となれても、わたしにとって未来予知というのは、リズムゲームの如き面妖な術式だ。

 何せただ『視える』だけ。

 術式を発動した途端、世界が二重に重なり現在と未来にぶれて動き出す。ただそれだけだ。

 たとえば目の前に、大口を開け突進しこちらを丸呑みしようとしている呪霊がいたとする。

 術式を発動した瞬間に、現実の呪霊と重なった呪霊の未来像が幻影として現れ、背後から尾を伸ばしてこちらの背中を刺そうとするのが視えるのだ。

 だからまず横に跳んで突進と刺突の双方を躱し、地面から伸ばされた尻尾に弾丸を叩きこんで消し飛ばす。

 本命の尾での攻撃を潰されたことに呪霊が動揺したその隙に、倒すのだ。

 先を視て得られた最適解通りに体を動かすのは、わたしである。

 

 対応を誤れば、未来視の視界と現実の中で二度己の死を体験する羽目になるのみ。

 垣間見た未来の情報に即応できる身体能力と反射神経、状況判断能力がなければ、『未来予知』の術者など、ただの呪霊の餌だ。

 

 それも当然。

 未来予知という術式の本命は、たかが数秒数瞬先の未来を視ることではない。

 人の世に災いを齎す戦争、天災、疫病、呪霊の大量発生などなど、多くの人間が死ぬはるか先の未来を視通し、人の世の安寧を守るのが、本来意図されていた使い方であった。

 そのために用意されたのが特級呪物『くだんの木乃伊』と、特級呪物を飲むように『調整』された人間一人。

 極めて精度の高い未来視を行う妖怪、仮想怨霊の体から作った呪物を人に食わせ、人に『くだん』の術式を使わせようとしたのだ。

 

 結果、試みは諸々でしくじり、呪物の器の子どもは死にはしなかったものの、人を人たらしめる何かを失い、魂が砕けて呪霊と混ざり、得た術式も型落ち劣化品となった。

 それがわたしだ。

 呪物を飲む前のこの体とわたしは、完全に別人な自覚がある。

 いつかに読んだ物語で、転生した主人公があとから記憶を取り戻し、それまでの人格を塗り潰してしまう話があったが、あれに近い。転生系主人公の業だろう。生まれさせろと、強請り集った覚えはなくとも。

 

 娘が呪物に適合できるように、孕む前からも孕んでからも調整し、生まれてからは彼らなりに愛情を込めて育てた両親は、別人のように心が変わり果て、額に鬼の如き角まで生やした娘を見て、発狂一歩手前まで行った。

 めりめりと、額の肉を突き破って生えた二本の黒い角は、彼らにとって娘が人でなくなった呪印となった。

 その角は今でもわたしに生えていて、わかりやすい異形の証として、とても目立っている。

 

 彼らは己らの娘が呪物に耐えられぬ可能性も、考えておくべきだったと思う。

 この子ならば大丈夫という根拠のない思い込みが、人としての娘を破滅させた。

 

 自らの手で娘が生贄の祭壇へ歩む道を整えておいて、呪力を高めるために言葉まで奪っておいて、いざ娘が似ても似つかぬ異形の角と心を持つ者と成り果てれば、前後不覚に陥るほど苦しむというのは、愚か極まりない。

 道具であるならば徹底的に道具として扱えばよいのに、半端に愛などを注ぐから、無様を晒す。

 

 かくて生まれたわたしの名前は、犖だ。犖と書いて、『らく』と読ませる。画数が多くて面倒な名前だ。

 名前の意味は、まだらの牛。ぴったりだと思うから、呪物を食べる前と後でも、名前を変えはしなかった。

 わたしは今でも八咫の当主とその妻を徹底的に軽蔑しているし、嘲笑っている。親の愛とやらから、どうしようもない呪いを生んで自らを呪った夫婦を。

 

 今でも彼らは、わたしの死を望んでいる。

 彼らは、呪いに食われた娘を解放してやりたいと願っているらしい。

 彼らの娘の体にわたしという別の人格が宿り、動かしているのも真実で、娘の姿をした違う何かを消したいと思うのも無理からぬことだろう。

 そうすればせめて、弔いはできるのだ。

 その親の願いを、聞き届けてやる気などない。

 

 親の愛という呪いで娘を縛り、呪いを食べさせたのは誰であったか、その糞の役にも立たぬ後悔を抱いて生きながら考えろと嗤ってやる。

 わたしが生きているだけで彼らは苦しむから、だから、殺されてやらない。

  

 わたしは、人が嫌いなのだ。

 

 人と呪霊の魂で心が斑になっているからか、基本的に人嫌いである。

 人の群れが動くのを見るのは物珍しくて好きでも、個体と深く関わり合いたいと思えない。

 人の形をしている己も嫌いな、偏屈者である。

 

 しかし、失敗したとはいえ呪物の器となった時点でわたしには人を守る呪術師になるか、死刑になるかしか道がなかった。

 偏屈で人嫌いであっても死にたがりではないし、己が生きる時間の分だけ、八咫の当主とその妻が後悔を抱いて苦しむことも、知っていたから、死なない道を選んで呪術師となった。

 我ながら捩じれた性根だが、呪物に宿って人間と混ざったのは呪霊の意識なのだから、捻じれもする。

 

 とにかく、わたしを『拾った』五条悟という呪術師はわたしのどこかを見て、人側だと決めたらしかった。

 彼の力のお陰で特級呪物の器であるわたしに八咫家の凶刃は届かず、呪術高専の生徒として扱われている。

 

 わたしが生徒として、呪術師として扱われ三年生となり、そうして出会ったのが、虎杖悠仁という少年だ。

 

 虎杖悠仁は、非術師の少年である。

 尤もそれは、虎杖が特級呪物を飲み込み、両面宿儺の器となるまでの話。

 宿儺の器となった彼は秘匿死刑に処せられるところを、五条悟の介入によってすべての宿儺の指を取り込んだ後に死刑とする、というふうに執行猶予を与えられ、呪術高専に入学して来たのだ。

 同じ特級呪物であっても、わたしが身に収めたくだんの木乃伊(ミイラ)と宿儺の指では、知名度も宿す呪いも段違いだ。

 無論、段違いに宿儺の指のほうがえげつなく、恐ろしい。魑魅魍魎が跋扈した呪術全盛期の千年前に呪術師たちを破り、人々を鏖殺した呪いの王なのだから。

 

 虎杖悠仁は、人を助けるために宿儺の指のうち一本を呑み、それでも尚宿儺を抑え込んで己を保っている、天与の器だった。

 本当にそんな天与が現れたのかと疑いもしたけれど、六眼で虎杖悠仁を観察した五条悟が天与というから、天与なのであろう。偶然と現実は、かくも残酷だった。

 器ひとりを造るのに五百年もかけ、しかも失敗した八咫家の人間が聞けば憤死ものである。

  

「憤死ものどころか、実際にラクん家の人間から、悠仁のこと解剖させろって要請来てたよ?とーぜん蹴ったけど」

「……」

  

 五条悟からそう聞かされたときは、呆れ果てた。五百年かけて駄目ならば、いい加減別の道を模索すべきだ。

 最早、八咫家のほうがひとつの呪いに成り果てたのだろう。

 何のために呪物の器を造ろうとしたのかが抜け落ち、目的と手段を完全に取り違えている。

 

 しかし、そうした因習は呪術界隈では珍しいことではない。

 天与の器として宿儺を取り込んだ虎杖悠仁も、ほどなくして執行猶予を快く思わない呪術界上層部の老人たちによって、謀殺された。

 到底生き残れるはずがない、特級呪霊との任務に同級生共々放り込まれて。

 

 わたしが初めて虎杖悠仁と邂逅したのは、仲間を逃がすために残って死んだ彼の遺体が運び込まれた、解剖室である。

 

 呪物の器としても学年としても先輩なんだし会っておきなよと五条悟に言われてはいたものの、ごく単純に気が乗らなかったから、虎杖悠仁を見てすらいなかった。

 

 姿を見たのは、死体になってからだ。

 

 その虎杖悠仁が解剖台からむくりと起き上がったのは、解剖室を訪れたわたしが、こうなる前に会っておけばよかったのだろうかと、珍しくまともな後悔の念らしきものを覚えたところである。

 検体として運び込まれていたのだから、当然のように全裸だった虎杖悠仁に、とりあえず着ていたコートをぶん投げた。これでまともな年頃の少女だったら、絹を裂くような悲鳴でも上げていたかもしれない。

 虎杖は虎杖で、目覚めたとき隣に見知らぬ少女がただ一人突っ立っていたことに、驚いていた。

 

 割と、どうしようもない感じの出会い方であった。

 

 後でわかったことだが、虎杖悠仁の蘇生は彼の中にいる両面宿儺の力によるものであったらしい。

 それならそれで、直前に呪力を高めるとか何とか前振りをしてほしい。前振りを。ホラーかよと。

 

 呪術師という職務上死体も見慣れているが、死体が蘇ったのは見たことがない。悪いことに術式も切っていて、未来予知も何もなかった。

 やっぱり、肝心なところで役に立たない術式だ。

 

「俺は虎杖悠仁。あんたの名前は?」

「ん」

 

 かくて蘇った虎杖相手に、ろくな言葉の発音を行えないわたしは、いつものように携帯に文字を書いて見せた。

 わたしは、言葉が話せない。

 発話機能は体に備わっているが、言葉を発そうとすると舌がもつれる程の激痛が頭に走るから、「ん」という鼻にかかったような音しか出さない。

 それは八咫の家の施した、いくつかの調整のうちのひとつだ。言葉を封じることで呪力を高める、乱暴だが効果的な方法だ。術式開示による効果の底上げというメリットを、捨ててもいるけれど。

 機械を介さなければ話せない煩わしさは何をしていてもつき纏うし、人嫌いに拍車もかかっているのだが、虎杖悠仁は存外に普通に接してきて、こちらはそのままなし崩し的に彼の鍛錬まで見ることになった。

 

「悠仁はしばらく死んだことにして、その間に呪力のコントロールとか諸々の修行してもらうつもりなんだよ。復帰は京都との交流会ね」

 

 それは、妥当だろう。

 虎杖の蘇りは隠し通せるものではないし、京都校学長の保守派筆頭には交流会での虎杖の活躍は頃合いの牽制になるだろう。

 ただ、予想外なことはあった。

 

「てことでラク、手伝って」

「ん?」

「だって君、休学中だからって交流会を後輩に押し付けたでしょ。それくらいの面倒は見て青春しなさーい」

 

 解剖室で後輩の死体見るところから始まる青春があってたまるか、と言い返したかった。できなかったけれど。

 ただ確かに、わたしは虎杖悠仁にそう易々と死んでほしくないとは思っていた。 

 

 八咫の家がなりたいと願い、なれなかった人間だ。

 見ていて、単純に興味が尽きない。 

 とはいえ呪術師はとかく、死にやすい。

 人の負の感情から生まれて人を襲い、殺す呪霊と日々戦い、しかも人を呪殺する呪詛師も相手にせねばならない。

 水泡や朝露のような、儚さのある生き物だ。

 両面宿儺の力によって蘇った虎杖悠仁がどうなるかも、本人と、それに人の手には届かぬ運次第。

 わたしも、明日死ぬかもしれない。

 人よりも多少先が視えたところで、世にはびこる呪いと比べれば特級呪物からこぼれた劣化術式など、蟷螂の斧である。

 

 やたらと生徒に青春させたがる五条悟に言われたからにしても、教えるとなったら出来うる限りまともにやる。虎杖悠仁にも、伝えるべきことを伝える。

 呪力のコントロールや体術は五条が教えるだろうから、わたしに言えるのはそれ以外の、細かい知識や呪術界の立ち位置や魔窟ぶりである。 

 些細な術式の知識や解釈が、生死を分けるのを身を以て知っているし、伊達に齢五つで最初の特級呪物を飲んでから、高専三年生になるまで生きていない。

 

「ラク先輩さ、最近よく顔出してくれっけど任務とかは大丈夫なのか?あ、俺は来てくれて嬉しいんだけど、ほら先輩は仕事あるんだし?」

『任務なら行っている。今は人心が少し落ち着いて、年末の繁忙期よりはややマシだ』

「呪いに繁忙期ってあるんだ」

『ある。それに五条悟に、都外へ行くなと止められた。お前の殺害で上層部が勢いづくかもしれないから、だそうだ』

「あー……それは何かゴメン?」

『お前のせいではない』

 

 そんな調子で、スマートフォンを通して会話をこなしていった。

 頭に角が生えていてかつ無表情な先輩に、最初虎杖は少し遠慮していたようだったが、元々人懐っこい性格なのかすぐに打ち解けた。

 今現在問題を起こして停学処分になってしまった同級生とも、これだけ打ち解けられれば五条悟はああも煩くならなかったのだろうかとふと思い返すほど、虎杖の順応は速かった。

 

「先輩の術式って、未来予知なんだよね?」

「ん」

「それってなんかさ、ポケモンみてぇ」

 

 初めて聞いた感想だった。

 

「ん」

「あー、説明ムズいんだよなぁ。なんつーか、そういう……文化?」

「……ん?」

「元々はゲームなんだけど、アニメにも映画にもなってっからオススメだよ。すっげぇ泣ける話もあるし」

「ん」

「ラク先輩に似たキャラもいるんだぜ。ネイティオとか、ニャオニクスとかさ」

『そいつら無表情な鳥と猫だろう』

「いや知ってんじゃん!」

「ん」

 

 知らんとは言ってない。

 首を左右に傾げていたら、虎杖が間違えただけである。

 わたしは、鳥でも猫でもない。

 敢えて言うなら牛だ。『件』なのだから。焼肉も食べるけど。

 兎にも角にもそのようにして虎杖に色々と教えているうちに、彼は五条悟の指示で実地任務に赴いて行った。

 訓練を積んだからこその、実戦実習なのだろう。

 何につけても血生臭い業界だとわたしが目を細めていれば、したり顔の五条悟はこちらにも話の矛先を向けて来た。

 

「それでラク、悠仁とは仲良くなれた?」

「ん」

「わからんってのはないでしょー。結局ラクって、任務やら怪我やらで秤とも仲良くできなかったんだし。青春しときなよ、若人」

「……」

 

 生徒の青春にこうも拘る辺り、物好きである。

 人は嫌い己も嫌い、ただし呪霊はもっと嫌いだし死にたくもないから生きるため殺す、という偏屈角付き呪術師など、放っておいてよかろうに。もう担任でもないのだし。今の担任には、確かに放置され気味だけど。

 五条悟は、いつまで経ってもよくわからなくて、わたしはかぶりを振る。

 

『私も任務に行って来る。京都を、あまり刺激するな』

「それは相手の出方次第~」

 

 ならば無理だ。これは煽る、間違いなく煽る。

 元々教え子を殺されているのだから、五条悟に憤る理由はある。だから、徹底的に煽るだろう。

 

 あっさり諦めたわたしが高専を出て、向かったのは東京の街である。

 渋谷新宿青山通りと、人が集まる地区には呪いも発生しやすい。

 呪霊は人の心から生まれる。

 嫉妬、傲慢、憤怒、悲哀などなど、いわゆる負の感情を糧に肥太り人を襲い、大概の場合は食らう。

 負の感情がなければ人は生きていけないが、そこからこうも化け物が生まれていてはどうしようもないと思いながら、わたしは銃を握る。

 四種の銃器に変形可能な、人具融合型の呪具がわたしの武器だ。

 『銃』という武器へ人が抱く負の感情を集め、銃を投影するという呪霊もかくやなけったいな呪具である。

 その難物呪具の性能と術式による徹底的な先読みと、元々八咫犖の体が持っていた射撃の才能があったからこそ、この戦闘方法は成り立っている。

 

 青山通りの裏路地に蔓延るガマガエルとナンヨウハギが合体したかのような呪いの額にモーゼル拳銃の弾を叩き込み、数百メートル離れた廃ビルの窓に姿を現した、異常に手足が薄っぺらい人の輪郭をした呪霊を、トカレフM1940型狙撃銃で撃ち抜いて祓う。

 

 東京の街を補助監督の指示を受けつつ練り歩いて、目に付いた呪霊を撃って撃って、撃った。

 

 最大火力の対戦車ライフルを振り回す事態にはならなかったが、狙撃銃と拳銃に短機関銃は、何度も火を吹いた。

 呪霊に返り血がないのが幸いだなと、独りごちたのは高専を出てから数日後、目黒の外れに辿り着いたときだ。

 影が長くのびる黄昏時の路地を歩いていれば、五条悟が電話がかかる。珍しくふざけた声音ではない当代最強呪術師からの指示は、端的だった。

 

「ラク、一回高専に戻って。君に見てもらいたい死体が出た」

「?」

「人間が、呪霊みたいな形に変えられて死んだ。それの外見が、()()()()()()()()()()()()()とそっくりなんだよ」

「……ん」

 

 今すぐ戻る、というと電話を切った。

 補助監督に車を回してもらい向かったのは、高専の霊安室。

 以前虎杖悠仁と遭遇した部屋とはまた違う場所だったが、死の気配が蟠る場であるのは変わらない。

 

 そこに、またも虎杖悠仁はいた。

 

 今度は死体ではなく、生者として。

 黒の袋に収められた台の上に乗せられた遺体の側に、佇んでいたのだ。

 彼はわたしの気配を感じるや、片手を上げた。

 

「あ、先輩、どったの?」

 

 お前こそどうした、と聞き返しそうになった。

 最後に会った虎杖悠仁は、快活であった。だが今の虎杖は、己の一部が切り取られ奪われたような、痛みを堪える顔をしていた。

 己が死んだときも明るさを損なわず、二度と宿儺の力を暴走させて仲間を殺させない、と言っていただろうに。

 

『ここに運ばれた遺体を見に来た』

「そっか」

 

 一歩下がった虎杖と場所を変わり、一瞬手を合わせてから遺体が収められていた袋の口を開けた。

 

 そこにあったのは、人の体ではなかった。

 

 布越しでもわかるほどの異形に成り果てた、何かの体だ。

 辛うじて毛髪とわかるものが頭部にあり、四肢のつき方からして二足歩行は可能だろう。

 だが、顔はまるで鰐のように平たく長くのび、眼球は膨れ上がっている。手足も象のように太く短く、到底人とは思えない。

 それでも、その体に僅かに残っているのは、人の気配だった。

 呪物を飲み魂が一度砕け壊れた影響か、わたしには魂らしい何かの気配を感じ取れる。生きているものは大体、体の中に何か光るものが入っているのだ。

 人には人の、呪霊には呪霊の魂の気配が体の中に収められていて、わたしはそれでヒトか呪霊かを測る。

 

 到底、人と呼べぬような化物から微かに感じ取れるのは、紛れもない人の魂の気配だったのだ。

 人の首を切って、別人と縫い付け挿げ替えたよりも、さらに不気味な気配があった。

 人間の子どもが虫をこねくり回して遊ぶように、人の死体を徒に損壊し戯れる呪霊はいるが、あれよりもやり口が余程高度だ。

 

「……」

 

 袋を閉じ、他の台を順に見て行く。寝かされているすべての異形から人の魂の気配が感じ取れ、気づいたら口元を押さえていた。

 呪術師になってから、惨い死体は腐るほど見、呪霊の残虐さにも人の冷酷さにも、幾度も触れた。

 それでも、今感じているのはこれまでにない嫌悪感だった。

 この遺体はすべて、魂を犯された。

 粘土をこねるように魂の形を変えられ、その結果として異形の姿となって、死んだのだ。

 わたしは、壊れた人の魂と砕けた呪物の魂の、その欠片同士からつくられた。だから、それがわかった。わかってしまった。

 生きたまま、己の魂が別のものとなる苦痛も恐怖も絶望も、ありありと思い出せてしまう。

 亡骸の最後の一つを見聞し、袋をしっかりと閉め直してつい天井を仰ぎ見た。

 

「先輩、大丈夫か?」

 

 かけられた言葉に、ようやくまだ虎杖が部屋にいたことを思い出した。

 ひとつひとつの遺体を見、そこに僅かに残る術式と魂の気配を感じ取ろうと集中している間に、部屋に己以外の誰かがいることを、すっかり忘れていたのだ。

 

「ん」

「大丈夫……ってことでいいんだよな?すっげぇクマできてるけど」

 

 はは、と何かが乾ききったような笑顔を浮かべた虎杖が急にもどかしく思えた。

 スマートフォンを抜いて、言葉を打ち込む。

 

『私よりお前だ。顔色と血色が悪い。血を失ったか?』

「俺は平気だよ。確かに体に穴開いてたけど、治してもらったし」

 

 普通の人間は、言うまでもないが体に穴が開いたら死ぬ。

 だがこの少年に限って言えば、穴が穿たれたのは体でなく心に見えた。

 わたしには人間の心など見えないし、わからない。

 それでも虎杖の視線を辿れば、彼がひとつの遺体を特に気にかけているのは察せられた。

 最初に見た、扁平頭の異形に変えられた人間だ。

  

『あの人間お前の知り合いか?』

「……ひょっとして、心読めんの?」

『お前の視線を辿った』

「……」

 

 虎杖は、頷いた。

 任務先で出会った、同年代の少年だったそうだ。

 映画が好きで、よく笑う母親と暮らしていた、普通の少年。名は吉野順平。

 彼は母親を呪いに殺され、その犯人が学校にいると唆されて呪術を用いて学校を襲った。

 虎杖はそれを止めに入り、吉野順平をあと少しで説得できるところまで持ち込めたそうだ。

 けれど、乱入して来た人型の特級呪霊によって、吉野順平は異形に姿を変えられ、絶命。

 虎杖は合流できた一級呪術師の七海建人と共に、そのまま人型でツギハギの皮膚を持つ特級呪霊と交戦。辛うじて退けたのだという。

 吉野順平の母を殺したのも、彼を唆したのも、そのツギハギの呪霊である公算が大きかった。

 

「俺は、あの呪霊を殺せなかった。殺さなきゃいけなかったんだ。絶対に。あいつは、これからもたくさんの人を殺す。なのに、俺が……」

「ん」 

 

 それ以上はやめるべきだ。

 呪術戦の頂点、領域展開まで会得した特級呪霊と呪術に触れて一年未満の人間が会敵して、生きているだけでマシなほうだろう。

 だがそんな正論を述べたところで、呪霊を取り逃がしてしまった悔いが、こいつの心から取り除かれることはない。

 ここに並べられた片手の指で足りない数の異形は、すべて元は人間であったのだ。これを成したツギハギの特級を殺さぬ限り、無残な死体が増えていくのは事実なのだから。

 

『お前が呪術師を続けていれば、また現れるだろう。そのとき祓え』

「……ありがと。俺、もう負けない」

『負けないより、死なないことを考えろ、後輩』

「……」

 

 と言ってもどうせ、虎杖悠仁は聞かないのだろうな、とため息を吐いた。

 

『私は出る。お前、外の自販機で私にコーヒー買え』

「え、なんで」

『三日くらい寝るのを忘れた。超眠い』

「それ絶対忘れたら駄目なやつだろ。ラク先輩何やってんの」

『呪物の器はそう簡単に壊れない』

「いやいやいや、壊れんでも体に悪いからな。ンな体調でコーヒーとかますます駄目だわ。ココアにしなさい」

吝嗇(ケチ)め』

「あんま値段変わんねーよ!」

 

 ついさっき、体に穴が開いたけど大丈夫と抜かしたのはどこのどいつだろうか。ブーメランが頭に刺さっている。

 そこまで言えば、虎杖のほうが解剖室から地上へ、さらに自販機の方へわたしを引っ張るようにして向かう。こいつの性格からして、他人を放っておけないのだ。

 虎杖はぶつぶつと言いながらもココアのボタンを押し、その隣の自販機で、わたしはコーラを買って虎杖へ投げた。

 飲み物の好みは知らないが、この前虎杖は映画を見ながらコーラを飲んでいたので、外れではないだろう。

 

「これ結局交換じゃん」

「ん」

「……ご馳走になりマス」

 

 買えと言ったのであって、奢れとは言っていない。

 大体呪術師同士で奢り合いなんぞ、縛りに引っかかりそうでやりたくない。

 肌寒い夜気を感じながら、プシッとココアの缶を開ける。

 呪霊退治に熱心になり過ぎて、三日ほど睡眠を放っていたのは事実だった。

 それにしても自販機のココアはやはり温かった。空も遠いし、暗い。

 

 呪霊をいくら撃ったところで、また今晩にはこの空の下、町のどこかで新たな呪霊が産声を上げる。倒しても倒しても底に届かぬその無益さを、今更どうこう言う気はない。

 非術師から生まれ出て、非術師も術師も見境なく殺す呪霊を、祓って祓って、祓い続ける。わたしが、使いものにならなくなるまで。

 呪霊を祓って殺し続けること以外に、特級呪物の器に生きる道などないし、わたしは、自分が生きるため他者から奪い、殺すことに、躊躇いを感じない。

 だからまあ、別に悪くない生き方だと思っているのだ。仮にどこぞの裏路地で呪霊に殺され死ぬとしても、そこまでの生命だったと諦めもつく。

 

 しかし隣のこの少年は、同じ呪物の器と言っても大分違うのだ。

 ココアの缶を両手で包むようにして傾けながら、深く息を吐いた。

 

「先輩はさ、何のために呪術師やってんの?」

「ん?」

 

 俯きがちにコーラを飲んでいた虎杖が、ぽつりと言ったのはそのときだ。

 缶をポケットに押し込み、携帯に文字を入れて画面を見せる。

 

『他人の領域へ踏み込む問いを投げるなら、先にお前が喋れ』

「うっ。……それはごめん」

『聞かれても、私の理由は自分が生きるためだ。処刑か、呪術師かと聞かれて、私は後者を取った。生存以外に理由はない』

 

 自分が生きるために他者を殺す。

 そこに恨みや怒りがなくとも、必要だから殺害する。

 極めて単純な動機で、他に裏も表もない。

 

「それ、ひょっとして五条先生に言われた?」

『正解。あいつは、秘匿死刑差し止め常習犯』

「どんな常習犯だよそれ。って、そのお陰で俺生きてんのか」

 

 缶を片手で握り潰して、虎杖はスマートフォンを取り出した。

 

「あのさ、ラク先輩と同じ速さで喋りたくてさ……トークアプリ使いたいんだけど、いい?なんか俺ばっか喋って、急かしてるみたいっつーか」

『おkまる』

 

 わたしが打ち込んだ文字に、虎杖悠仁は噴き出した。

 

「先輩!真顔でボケんのはナシだろ!」

『何がなしだ?連絡先の交換だろう。どうやるんだ?』

「いややり方知らねえのかよ。いつもピコピコ弄ってんのに」

 

 思えば数週間稽古を見ていたのに、何故か連絡先を交換するという頭がなかったのだ。

 IDとやらを交換してアプリを開き、並んだまま画面を見つめた。

 

『それで、お前が呪術師になったのには、死刑を免れる以外の理由があったのか?』

『ある。ってか、爺ちゃんの遺言なんだわ。お前は強いから人を助けろ、大勢に囲まれて死ね、ってな』

 

 互いに無言のまま、ただ文字だけが連なる画面を、ココアの残りを啜りながら眺めた。

 

『だから、宿儺の指は全部食うよ。それは俺にしかできんことだし』

『だろうな。また千年宿儺の指が放っておかれたら、呪いを蓄積しすぎてどうしようもなくなるだろう。ではお前の動機は、広義の意味で人助けか?』

『あともう一個、できるだけ人には正しい死に方をしてほしいんだ』

 

 はたと指を止めて、虎杖の顔を見た。

 視線が合い、虎杖の瞳の中が見える。

 むつかしいことを言うやつだった。

 

『畳の上の大往生ということか?』

『そう……だと思う。だけどちょっと、わかんなくなった。正しい死ってさ、何なんだろう』

 

 それが任務であの異形化した人間の死を目の当たりにしたせいなのか、彼らにとどめを刺してやったせいなのか、それは尋ねられなかった。

 おそらくは、両方だろうから。

 そしてその問いを、高々少し訓練を見ただけのわたしに向ける辺り、虎杖悠仁は相当参っているのだろう。

 

『私は、人間は畳の上で死ぬべきものだと聞いた。畳の上で誰かに看取られて死ぬのは、寂しくはないだろう』

 

 人間の幸せの形は大体同じでも、不幸せの形は皆違う。それでもきっと、寂しくないことは幸せなはずだ。

 心に混ざった子どもの魂の名残が、そう言っている。言っているけれど、呪術師でその終わりを迎えられた者をわたしは知らない。

 在り方からして人の盾とならざるを得ない呪術師は、削られ錆付き、倒れて行くものだからだ。

 

『寂しくないことが、先輩の正しい終わり方、ってこと?』

『多分な。私なぞに聞くより、五条悟にでも聞いて来い。お前の担任だろう』

『そりゃそうなんだけど、ラク先輩にも色々世話んなったから、つい聞いちまうんだ。困らせてごめん』

『困ってはいない』

 

 五条悟に言われなければ、あの日解剖室に立ち入らなければ、こんなことはしていなかった。

 それでも、結局わたしはこうして虎杖悠仁の横でこいつの言葉を聞いている。

 ココアの缶は、もう空になっていた。

 

『話はこれでいいか?ココアがもうないから、帰る』

『ん、聞いてくれてありがと。ただしマジで帰ったら寝てくれよ』

『お前もな。無理やりにでも寝ろ』

『わかった。おやすみ』

 

 バイバイと手を振る丸っこいフォルムの虎のスタンプが送られて来る。

 プツンとスマートフォンの電源を切って、ひらりと手を振って別れる。

 そういえばあいつ、片手で缶を握り潰していたっけと、ふと手に持った缶を握る。

 ぐしゃり、と案外簡単に缶は潰れた。

 

 

 




黒髪黒目、無表情角っ娘銃使い。
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