無明の獣に孔穿つ   作:はたけのなすび

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これは本日2話目の投稿です。

では。


6話

 

 

 この学校にも先輩がいるというのは、思っていたよりも嬉しいことだなぁと、虎杖悠仁は思っていた。

 

 呪いに触れる前通っていた杉沢第三高校にも先輩はいたし、彼らと過ごしていたオカルト研究会の空気も気に入っていた。

 オカ研の活動として心霊スポットに赴くとき、虎杖がいなければたどり着けないような、怖がりな人たちでもあったが、虎杖は彼らを先輩と呼んだし、彼らも虎杖を後輩として扱ってくれていた。 

 特級呪物たる宿儺の指を食べてから、虎杖悠仁が別れを告げたものは多くあるが、彼らもそのうちのひとつだ。

 そうして飛び込んだ呪術高専にも、『先輩』はいた。

 

 ただし、初めて会ったのはちょっと、いやかなり変わった先輩ではあった。

 短く切られた黒い髪に、アーモンド形の黒い瞳をした、整った綺麗な顔の女子の先輩である。虎杖が最初に出会った呪術高専の先輩が、彼女だったのだ。

 だがこの先輩、なんと頭から黒い角が生えていた。

 アクセサリーでもおもちゃでもない、漫画の鬼のような真っ黒い二本の角が、本当に頭から生えていたのだ。

 

 加えて、この先輩は喋らない。もとい、喋れない。

 生まれた家の呪術によってそうなったらしく、出すのは「ん」の一音だけ。

 相槌は打つし、高低や長短で肯定否定はわかるのだが、細かい会話は当然できないし、表情がウサギ並みに『無』なので、とっつきにくさはある。大爆笑すら無表情で肩を震わせるバイブレーションなのだから、通常の喜怒哀楽は推して知るべし。

 どうしても細かな会話をするときは、スマートフォンのトークアプリを使っている先輩の名前は、八咫犖(やたのらく)。五条先生曰く『ラク』。尚、初見では読めなかった名前である。

 『未来予知』という術式を持つ準一級術師で、虎杖と同じく特級呪物を食べて生きている器だった。

   

 だが会話のテンポにさえ慣れてしまえば、犖は案外に面倒見が良かった。少なくとも、虎杖に対しては。

 人によっちゃ、あの頭に生えた角並みにツンツンツンツンのドラだよ、とは虎杖の担任、五条悟の言である。

 五条悟は、そのツンドラ対応をくらっている一人らしい。

 が、当然そのようなこと彼は歯牙にもかけず、虎杖の訓練見てあげてねと犖に言いつけてもいる。

 犖は、たまたま解剖室で虎杖が蘇るところに遭遇し、なし崩しで秘密の共有者になった。しかも、丁度いいから後輩の面倒も見ておいてねと五条に言われたのだ。

 

 経緯が経緯なので、正直虎杖は、犖に塩対応されることも予想していたのだが、案外に犖は真面目に訓練を見てくれた。

 東京校と京都校の交流会のこととか、呪術界上層部がどんなものかとか、そういう薄暗くも呪術師として生きるために必要な知識と一緒くたにして、東京のおすすめB級グルメとか長身アイドル高田ちゃんの魅力とかの話をすべてまとめてぶっ込んでくる辺り、ノリが掴みづらくはあったが。

 

 ちなみに、組手の相手もしてくれた。

 

 犖の動き自体は軽業のようで、飛んだり跳ねたりとよく動いた。そこが付け入る隙にも見えるのに、鍛えられた体幹で猫のようにするりと抜けられ、気配が掴みづらい。

 戦う際の空気というか、気の流れのようなものが捉えられないのだ。歩き方からして喧嘩が強いとは思っていたが、予想以上だった。

 一撃は重くないのに、狙いが正確で的確に急所を取りに来る。肝臓とか、人中とか、そういうところを抉りに来るのだ。拳銃を抜く速度も速いから、気を抜けば背後を取られ、後頭部に銃口である。

 組み手を始めた最初のころは、十センチ近く背の低い女子の先輩とステゴロすることに躊躇いがないでもなかったのだが、この先輩、虎杖より上手だった。

 悔しさに頭を抱えて唸れば、その前にスマートフォンが差し出される。

 

『お前の身体能力は、私より上だ』

「え、そうなん?」

『私は術式も使っている。それでようやくお前の動きに間に合う。お前は基礎が強靭』

 

 この先輩が、世辞や気休めを言う性格でないことは短い交流の間でわかっていた。だから、本当のことなのだ。

 そうやって、虎杖を徒手格闘でいなす犖の術式は、本人曰く『未来予知』。

 要するに、虎杖は攻撃のすべてを先読みされているのだ。

 予知していて尚避けられない速さや手数、面で攻めれば崩せるのだろうが、これがなかなかに難しく、拳も蹴りもひらひら避けられ、わずかでも体勢が崩れたら銃口を突きつけられ、なかなか一本が取れない。

 未来が視えていても、犖の術式そのものに攻撃力はない。

 視たものを組み立て攻撃するのはあくまで術者本人であって、犖は銃器と体術でそこを補っている呪術師だった。

 戦闘で物を言うのが結局本人の身体能力だというのは、虎杖と同じだ。五条先生が犖を呼んだのには、そういう事情もありそうだった。

 

 地下室での訓練が終わって、外の任務に虎杖が行っていいと言われたあたりで、犖と虎杖は一度別れた。

 犖は虎杖の同級生の伏黒よりも階級が高い準一級だから単独任務にも赴け、普通に仕事へ行ったのだ。

 ちなみに、同じ準一級は二年生にもいて、こっちはおにぎりの具でしか会話しないらしい。

 他の二年の面子は、犖曰くパンダと呪具使いと特級の女たらし、犖以外の三年は停学をくらったバカらしいから、どうやらこっちの学校の先輩は、全員クセがありそうだなと虎杖は思ったものだ。

 虎杖が、クセのある先輩筆頭の犖ともう一度顔を合わせたのは、霊安室だった。

 

 ばたんと霊安室の扉を開けて入って来た犖は、目の下に隈をつくっていた。

 犖が来たのは、呪霊によって異形に姿を変えられ殺された順平や、他の人々の亡骸を見るためだった。

 額から黒い角の生えた先輩が、遺体が収められた袋を開けるたびに手を合わせて、ひとつひとつの遺体を確かめて行くのを虎杖は見ていた。

 所作に音はなく、凍りついたような横顔には、底冷えするような嫌悪があった。

 それが、人の魂を変形させて異形をつくりだした術式への嫌悪だとわかったのは、それから後のことだ。

 

「ラクが生まれた家の相伝の術式は、人体改造なんだよね。ラクは生まれる前も生まれてからも、その相伝術式で色々と呪物の器に適合するように調整されてるから、肉体の改造には色々思うところがあるんだよ。まして魂が絡むとなるとね」

 

 ラク先輩の家ってどんななの、という虎杖の質問への五条悟の回答が、これだった。犖本人に聞かなかったのは、確実にまともに答えてくれないだろうという確信があったからだ。

 とはいえ、まさかそんな真っ黒な答えが返って来るとは思わなかったのだが。

 

「調整って……そんな機械みたいなことすんの?自分の子どもに?」

「するよ。むしろ、実子や宗家に近い血筋の子のほうが適合値が高くなるからってんで、盛んにやってたらしい。さすがにやりすぎってことで相伝のいくつかを禁術にできたけど、それ、ラクを高専に連れて来れてからだし、ラクに掛けられてる術は下手に解いたらバランスが崩れて大変なことになるしで、放置安定しかないんだよね」

 

 口ぶり的に、八咫家の相伝を禁術にしたのは五条悟だったのだろう。口調は軽かったが、雰囲気が尖るのを感じた。

 

「悠仁のこと話したときも、ラクってまず疑ってたからね。本当にただ偶然に生まれた器なのかって。まあそこまで気にしといて、悠仁に会いに来なかった辺り、気まぐれが天元突破してるけど。牛というより猫だよね、ロシアンブルーとかそういう洋猫」

 

 そのたとえは、わからないでもなかった。とりあえず、女子を牛に例えるのは駄目な気がしたが。

 

「いやいやいや、たとえじゃないよ。ラクが食べたのが牛系の呪物なんだって。頭に角があっただろ?ま、呪物に関しては、ラクに聞きなさい。クソみたいな家のことはともかく、呪物のことはラクの心の領域に踏み込む質問だから。僕からは言えないな」

 

 信頼度上げたらちゃんと答えてくれるよ、というのが、五条の言葉だった。

 そんなシュミレーションゲームみたいな話、と思っている間に交流会になって、虎杖は伏黒や釘崎に再会したし、これまで話しか聞いていなかった先輩たちにも会った。

 結局その交流会は、特級呪霊と呪詛師に襲撃され、とんでもないことになったのだが。

 

 高専内で、交流会に不参加の犖が順平を殺したツギハギの特級呪霊と会敵し、続けて呪詛師に襲撃され大怪我を負ったと聞いたときは、虎杖は一時周りの音が聞こえなくなった。

 医師の下へ運び込まれた当の本人が、ケロリとした顔でぽてぽて廊下を歩いているのを見たときは、思わず声を上げて駆け寄ってしまったほどだ。

 犖は、うるさそうに両耳を押さえていたが。

 

「あの人は、死に癖があるからな」

 

 ぽつりと漏らした伏黒は、入学前から犖と面識があったそうだ。

 奢ってやるから飲み物でも買って来いと犖に財布を預けられ、二年生の先輩共々自販機コーナーへ行ったときのことだ。

 

「普通なら、反転術式で大概の怪我は治る。だけどラク先輩は、食べた呪物の影響で他人の反転術式が効かないし、自力では自殺した時しか使えない。だから、致命傷を負った場合敢えて自殺して治すってことは、何回かやってんだよ。今回みたいに、死んだふりをしてからの不意討ちも初めてじゃない」

 

 正確には完全に死を迎えているのではなく、死の縁まで行くことで強制的に反転術式を発動させる方法らしい。

 術式の細かなことは虎杖にはよくわからないが、かなり無茶苦茶なことをしているのはわかった。

 発動の度怪我は治るにしても、まる一日分の記憶が消えるのだから、目覚めたら覚えのない場所にいて昨日の記憶がすっかりない、というようなことを何回か犖は経験しているらしい。記憶喪失慣れ、とでも言えるのだろうか。

 嫌な話だな、と虎杖は思った。

 自分で自分を殺す決断をしなければ傷が治らないなんて、とんだ呪いだ。

 けれどその術がなければ、昨日確実に犖は死んでいたという。

 出血痕と戦闘痕、残穢から見て、犖が反転術式を必要とするだけの重傷を負っていたのは間違いなかった。

 犖は、何も覚えてないなら何もなかったのと同じだと言っていたが、そんな簡単に消えてしまうのだろうか。

 殺されかけた記憶も、殺した記憶も、見えなくなって、気づけなくなっただけのような気がした。

 二年生の禪院真希は、それを聞いて肩をすくめていた。

 

「ラク先輩はしっかり強え人だが、しっかりイカレてんだ。ま、あの人の射撃訓練は私は好きだけどな」

「射撃訓練?何スかそれ?」

「ひたすらラクに銃で狙い撃ちされる訓練さ。あいつ、棘の呪言が届かない距離からでもバンバン撃っていいとこに当てて来るから、動きも止めづらいしな」

「しゃけぇ……」

「この前恵とやったときは傑作だったんだぜ。こいつ、先輩の狙撃対策にってわざわざ大量の兎の式神調伏したんだけどよ。結局、兎の群れ抜けて来たゴム弾額にくらって、見事に気絶したからな」

 

 マジかと、虎杖が釘崎と一緒に伏黒の方を見れば、式神使いの同級生は苦虫を噛み潰したような顔になっていた。

 

「その話はやめてください。どうやったのか聞いたら、『行ける気がして撃った。できた』って言う人ですよ?五百メートルは離れてたくせに。絶対前世ゴルゴかなんかです」

「……あんたに冗談言わせてる辺り、ホントみたいね。てか私もその訓練参加したいんだけど」

「悟に言えば引っ張って来てくれるぞー。俺らじゃ、ラクを捕まえんのちっと厳しいからな。間合い詰めたら行けそうなんだが、まず近寄る前に術式使って逃げられるし」

「そのときは私も呼べよ。あの先輩の狙撃避けて距離詰めんのは、いい鍛錬になるからな」

「明太子!」

 

 ゴルゴほど厳つくないにしても、少なくとも、あの無表情は確かにゴルゴ並みだと、虎杖は思わず頷いていた。

 それにさらりと五条先生に売り飛ばされているが、二年生の先輩たちにとっても、犖は良い先輩らしい。

 

「ラクは呪具メインだし、真希とは結構話合うんだよ。ま、野薔薇と悠仁もちょっと見てやってくれ。あいつ、結構見境いなく任務詰め込んでるときあるからな」

「そーなんすか?」

「そ。術式の副作用とかで夢見が悪いんだとさ。だから、限界ぎりぎりまで頭使って寝たら夢見ずに安眠できるからって、よく無茶してんだよ」

「だけど、たまーに寮の部屋まで辿り着けずに、校内にバッタリ落ちてるときがあってな。見つけたら起こしてやれ」

「しゃけしゃけ」

 

 ぶっきらぼうで無表情で、それでも面倒見がいいと思っていた先輩は、存外にポンコツな面があったらしい。

 だが思い返せば、犖は目の下にべったり隈をつくっていたときがあった。

 三日寝るのを忘れたと聞いたときは無茶な人だと思ったが、あれはわざとやっていたのだろうか。

 

「ラク先輩も、色々あんだな」

「まぁな。物心ついたときにゃもう器だったらしいし。だけど、ラクは悪いやつじゃねぇよ。それだけは保証する」

「あ、それは知ってる」

 

 そんな会話をしながら部屋に戻ってみれば、犖はなんとベッドの上で手足を縮め丸まって、すうすうと爆睡していた。

 普通、他人に自分の財布を預けたままにして寝たりしないだろう。疲れていたのか、財布を預けた真希を信頼していたのか、単なる無頓着か、理由は定かでないにせよ。

 いずれにしても、ああ、先輩のポンコツってのはこういうところかと、犖に毛布をかけてやりながら、虎杖は妙に納得したものだ。

 

 それからも、犖は虎杖の先輩であった。

 

 死んでいた二ヶ月の間ほど頻繁に顔を合わせたりはしないのだが、学内では時々見かけた。

 任務帰りに、犖が射撃場で立ったままニメートルはあるゴツい銃を撃っているのを見たときは、伏黒や釘崎と顔を見合わせてしまったものだ。

 人を腕力ゴリラ呼ばわりしてくるが、対戦車ライフルを立って撃てる先輩も、大概じゃねぇのかと。あれは、普通なら地面に伏せて撃つ代物である。映画ではそうしていたから。

 というか、的に当てるのでなく的が立っている地面ごと吹き飛ばしている辺り、射撃訓練に入るのかあれは。

 無表情のまま、対戦車ライフル、狙撃銃、拳銃、短機関銃、と一瞬で銃器を変えて的を無言でドッカンバッコンドガガガガガと次々壊していく犖の背中には、妙な迫力があった。術式もはや関係ないし。呪術師というより一人砲台である。トリガーハッピーかあの人。

 ふぅ、と帽子のつばを持ち上げ額の汗を拭った犖は、一年生三人を振り返って首を傾げた。

 

「ん?」

「こんちは、ラクさん。それがラクさんの呪具なんですか?四つ?」

「……ん」

「あ、違うんですね。じゃ、四つで一つ?」

「ん」

「で、これが伏黒を仕留めた狙撃銃よね」

「仕留められてはねぇよ」

「何言ってんの。実戦だったらあんた死んでるわよ。デコに弾くらって気絶したんでしょーが」

「……」

「んー」

 

 釘崎と伏黒の前で、犖はカシャカシャと銃を切り替えて見せている。

 やっぱり案外、先輩はノリが良かったんだと、それを見て虎杖は思った。あれこれ話しかけている釘崎や仏頂面の伏黒と逆に、犖は「ん」しか言ってないし、表情は『無』であったにしても。

 

 犖は、虎杖よりもずっと幼いときに呪物を飲み込んだ人間だ。

 パンダ先輩が言うには、物心つくかつかないかのころにそうなったらい。

 理由までは知らないが、もしも自分のように呪物を取り込むことを選べもしなかったのならば、ひどく残酷なことがあったのではないかと思う。

 それでも、犖はちゃんと人間で、呪術師をやっていた。少なくとも、虎杖にとっては犖はいい人間で、先輩だった。

 

 だから、あのときも尋ねることができたのだ。

 八十八橋の任務のあとのことだ。

 八十八橋を基点に人を呪殺していた特級呪霊は、宿儺の指を取り込んでいた。その呪霊が活発化し、人間を殺したのは宿儺の受肉がきっかけだ。

 虎杖が宿儺の指を飲み込んだから、眠っていた特級呪霊が目覚め、人が死んだ。

 宿儺は無論、嘲笑ってきた。お前が生きているだけで、人が死ぬのだと。

 伏黒に言うなと言い返したが、もしかしたら気づかれているのではないかとも思った。

 確かに虎杖が宿儺の指を飲んだのは、呪霊に殺されかけていた伏黒や先輩たちを、助けるためだった。

 が、飲むことを選んだのは虎杖だったし、そもそも宿儺の指を拾って封印が解かれるきっかけを作ったのも、虎杖だ。伏黒に背負ってほしくはなかった。

 だがその理由理屈も、宿儺の指に共振して目覚めた呪霊に殺される人々にとって、何の関係があるのだろうか。呪霊に殺される人たちが、正しい死を迎えられるわけがない。

 宿儺諸共死刑にされることに完全に納得がいっておらずとも、宿儺の呪いを消すため指を飲むのをやめるつもりはない。

 だけど、人が死ぬのだ。

 自分が生きている限り、目覚める呪霊がいて、殺される人がいる。

 

 だからだろう。休みの日にふと赴いた街で見知った“先輩”の姿を見つけたとき、虎杖はつい声をかけてしまっていた。

 だってあまりにいつも通りに、珍しい私服の犖がココア缶を片手に足を振って、ベンチに座っていたから。

 この人、しょっちゅうココア飲んでんのなと思ったら、もう声をかけていた。

 しかし初めて見た私服の犖は、呪詛師の討伐任務中だった。それに虎杖が割り込む形で一緒に任務をこなして、終わってから誘ってみたのだ。ただ、話を聞いてほしかったから。

 先生や同級生ではなくて、同じ呪物を抱えて生きている先輩に。

 

 意外や、犖はすんなり頷いてくれた。

 休日に五条先生によって交流会へ引っ張り出されたときは、目つきがヤバいことになっていたから、断られることも予想していたのに。

 多分犖にとっては、呪詛師に壊された帽子の代わりを買う、ついでだったと思うけど。

 

 翌日に虎杖は、犖と浅草雷門にいた。

 もっきゅもっきゅと、あんまんやたい焼きやメンチカツを吸い込むように食べている先輩は、見ていて面白くもあった。そういうからくり人形みたいだったからだ。もしくは某ピンクの悪魔。

 ちなみに話を持ち掛けたのはこっちなので奢ると言ったのだが、先輩的に後輩に奢られたくないと全然頷いてくれなかった。

 このままでも、普通に楽しいなと思ったときだ。

 

『聞きたいことがあるなら、聞けばどうだ?』

 

 角も鋭ければ視線が鋭い先輩は、質問も鋭かった。

 呪物を飲んだときにどうだったのかと、誤魔化すように尋ねれば、淡々と答えてくれた。

 

『呪物を食ったのは、それが生まれた理由だったからだ。予言の術式を持つ術師をつくりたい親の言うことを聞いた』

『八咫犖の魂や心は、十一歳の時点で壊れている。この私は、八咫犖と呪霊のくだんが混ざった魂だ。だから、人でも呪いでもない。私にも、私のことはよくわからない』

 

 驚かなかったと言ったら、嘘になる。

 宿儺と虎杖は同じ体を共有する、完全に別の魂だ。

 だからこそ体の主導権を虎杖が握っていることが肝心になる。だが犖の場合は、主導権の奪い合いという概念がそもそもなかった。

 人と呪物が共に砕けて、混ざって、出来上がったのが『ラク』なのだ。人と呪いが、不可分になって、その状態で生まれてきてしまった。

 『ラク』が生まれたのは、八咫犖が呪物を飲んだ時点。だからこの先輩が人間でない呪いなのかと言えば、とてもそうは見えなかった。

 これまで虎杖が見てきた犖は、確かに人間であったから。

 動揺を隠しながら、魂が呪物を飲んだことで壊れることがあるのかと聞けば、犖は変わらずに返して来た。

 

『あったから私が生まれた。何故生きていられるのはわからない。普通なら、私のような状態は死んでいるらしい』

 

 お前と宿儺は根が分かれているから同じことにはならない、という言葉を綴る犖の横顔は、静謐と言ってもいいくらいに凪いでいた。

 尤も、虎杖の顔に表れた宿儺に、凶事を招く獣と煽られたときは何かが逆鱗に触れたらしい。黙れと言うや否や速攻で手を出し、虎杖の頬に出た宿儺の口を張り飛ばして来た。

 当然虎杖も宿儺ごと頬にビンタを浴びたのだが、それよりも犖が言葉を発した途端、頭を押さえて苦しんだことに驚いて、それどころではなかった。

 それもまた、犖が呪物の器となるために受けた、調整の一つだった。

 驚く虎杖に対して、犖は頭痛をやり過ごしまたいつも通りの顔をして、この前の任務で何かあったんだろうと正解を遠慮なく言い当てて来た。

 言われるがままに話せば、犖は頷いて聞いてくれた。

 

 言葉を封じて呪力を高める縛りも、与えられた呪物も、その結果生まれた自分のことも、犖の中では、もう、飲み下したことなのだ。

 

 『くだん』なる仮想怨霊の受肉体から作られた、七つに切り分けられた木乃伊を、犖は十一歳の時点ですべて飲み込んでいる。

 術式で縛られても、生きる道を選べなくとも、己が誰なのか、何者なのかという解を得られないままでも、立って歩いて生きて来た呪術師が一人、そこにいた。人を呪わず、呪いを宿して呪いを祓う人間がいたのだ。

 虎杖より小さな体には、痛々しさではない力強さがあって、それが眩しかった。

 

『お前も私も、呪術師だ。そして、他の何者にもなれない。今更だがな』

『食ったものは吐き出せないし、背負った荷も下ろせない。できるのは、分かち合ってくれる人間を増やすことだけだろう』

『他人のも少し背負って、お互いに持って、歩けばいい。預けず、足を止めずに。お前、腕力あるんだからそれくらいできる』

 

 言葉は厳しくも突き放してはいなくて、だから、素直に嬉しかった。嬉しいと思えた。

 だから、ありがとうとお礼も言ったのに、ちょっとポンコツが入った先輩は、こんなときでもやっぱりポンコツであった。

 

『言われるほど何か教えた覚えがない』

 

 マジでこの人何言ってんだ、と思った。

 確かに犖はつっけんどんだしぶっきらぼうだし、表情には愛想の欠片もないし笑顔だって見たことがないし、何なら声すら今初めて聞いたが、そんな些細なことを補って余りある人だ。虎杖に、たくさんのことをくれた先輩だ。 

 呪術高専の先輩と言われたとき、一番に顔が出る人なのだ。

 戦い方も、生き残り方も、東京の楽しみ方も、五条先生やナナミンとはまた違う色々なことを虎杖に伝えてくれたのに、何かが、どこかが、ずれたまんまのこの人は、自分が人に与えたものに気づいていないらしい。

 少し目を伏せて、しかし強い光がある瞳をして、犖はただ立ち上がって、帰ろうと高専の方を示すだけだ。

 

 いつかこの人に、気づいてほしいと思っていた。

 変に頑固な先輩が、人に与えているものに目を向けて、気づいてほしかった。

 優しくはなくとも、正しく在れる人だから。

 

 だから、だから───いつか、正しく死ねる人だと思っていた、のに。

 

─────おかえ、り。いたどり、ゆ、じ。

 

 届いたのは、初めて呼ばれた自分の名前。虎杖悠仁と呼びかける声だった。

 おかえりと言って、名前を、呼んでくれた。その声を聞いた。

 なのに、それなのに。

 

 どうして、自分の手がアカく染まっていて。

 どうして、この人は動かない?

 

「せん、ぱ、い?」

 

 ずるり、と虎杖に寄りかかるようにして立っていた犖の体が滑った。

 床に叩きつけられる寸前で、その壊れた人形のような体を、支えられた。

 力の抜けた腕が弾みで揺れて、床の上に赤い線が引かれる。

 犖の腕は、片方しかなかった。左、左腕しかない。右の耳もざくりと切れ、ぽたぽた血が垂れている。

 右腕は引き千切られたような無残な傷跡を晒して床の上、血だまりの中に落ちていて。

 銃を握り続けて胼胝ができた白い指が、爪が、血の赤にみるみる侵される。引き換え顔色は、紙のように白く薄くなっていく。

 

 違う。違う違う違う。そうじゃない。

 腕よりも、耳よりも、もっと大事なあるべきものがない。

 

 犖には、心臓が、なかった。

 抉られて、潰されたから。

 それを、それをしたの、は。

 腕を捻じ切り、胸を貫いて、心臓を抉り出し握り潰したのは。

 

 ──────誰だ?

 

 今、虎杖悠仁の手を赤く染める血は、手のひらにこびりつく血管は、爪の間に詰まった肉のかけらは。

 

 ─────誰のものだ?

 

 一瞬で、喉が締めつけられた。叫びすら出ない。息の仕方を忘れる。

 犖の黒い制服の背中には丁度拳が突き抜けたような孔が穿たれていて、支えた体は重かった。まるで、死体のように。

 二つの眼が、薄く開かれたままだ。

 鋭く力強かった黒い瞳は曇ったガラス玉のように凍り付いて、光がない。腕がない。心臓がない。

 

 鼓動が、聞こえない。

 

 抱えた体の重みに引きずられるようにして、虎杖は床の血だまりに膝をついた。

 そのとき、側で呪力の高まりを感じなければ、我を失っていたかもしれない。

 考えるより先に体が動いて、身構えた。まだそれだけの気力と体力が、残っていたから。

 犖の体を両手で抱えて飛び退り、呪力を感じた方を向けば、見知らぬ少女が二人いた。

 一人は黒髪にセーラー服、手にはぬいぐるみ。もう一人は金髪、セーラー服の上にはカーディガン。

 普通の身なりの、一般人の少女たちに見えた。

 それでも薄れていた記憶が、形になる。宿儺の指を虎杖に飲ませたのは、火山頭の呪霊と、この二人だ。

 何本飲まされたかまでは、わからない。だが、一本や二本ではないはずだ。完全に、体の主導権を宿儺に奪われていた。

 犖の声が聞こえるまで、虎杖悠仁は己の体の中で完全に動けないでいたのだ。

 

「そいつ、渡して」

「は?」

「私たちは宿儺様に願いがあるの!そいつを殺したら、宿儺様はまた出て来てくれるでしょ!」

 

 何を言っているのか、わからなかった。

 犖の体を抱えた腕に、力が篭もる。

 

「ッ、宿儺がお前らの言うことなんか聞くか!見てわかんなかったのかよ!」

「うるさい!夏油様を取り戻すためよ!そいつとの縛りを、宿儺様は受けたじゃない!」

 

 金髪の少女が銃口のように構えたスマホから、虎杖は咄嗟に横に跳んで逃れた。呪力からして、あれが恐らく少女の術式の道具。

 今は駄目だ。

 自分一人ならともかく、犖を抱えたままは駄目だ。巻き添えにしてしまう。踵を返して地下道を走り抜けながら、必死に考えた。

 宿儺と犖は縛りを結んだと、呪詛師の少女は言った。それは虎杖にもわかる。

 干渉できないままに目の当たりにしていた記憶が、次第に蘇って来たからだ。

 宿儺によって見させられているのかもしれないが、今はどうでもいい。

 

 考えろ、思い出せ。あのとき、宿儺は何と言った。先輩は何と応えた。

 

 宿儺は犖に耐えきれと言い、犖は頷いた。

 宿儺はその瞬間犖の腕を千切り、心臓を抉り取ったはずだ。それを犖が耐えたから、宿儺は虎杖に体を再び明け渡した。

 それが、犖と宿儺の縛りだったのだ。

 五条先生や犖に聞いた呪術の知識を、頭を必死に回して思い出す。

 縛りは通常己が己に課すもの、他者との間や強制的な縛りは複雑になり、破れば何の罰が下るかも定かでない。

 

 なら、二人で縛りを結び、片方が死んだ場合、縛りはどうなる。

 犖の死によって縛りが破棄されたならば、虎杖の意識は、再び封じられているのではないか。それなのに、まだ虎杖に意識があるということは。

 

 走りながら、虎杖は犖の首の脈を探った。

 

 とくん、とほんの微かな感触を、指先に感じた。

 とく、とく、と途切れそうになりながら、ふたつ、三つと脈が続いている。

 

「─────ッ」

 

 生きて、いる。

 まだ、生きているのだ。

 

「虎杖!?」

「伏黒!」

 

 駅の構内から外に出た瞬間、鉢合わせした同級生は、虎杖を見るなり目を丸くした。

 

「今宿儺の指の気配が……!?」

 

 虎杖が抱えた犖を見て伏黒は止まり、一瞬、悲痛に顔を歪ませた。

 

「ラク先輩は───」

「生きてる!生きてるからな!」

「……」

「いや俺はおかしくなってねぇから!先輩マジでまだ脈あんの!」

「虎杖、落ち着け。……心臓がもうねぇだろ、その人」

「だから生きてんだって!脈!脈あるから!」

 

 がっ、と伏黒の腕を掴んで犖の首に指先を当てれば、伏黒にも伝わったらしい。目が、大きく見開かれた。

 

「……マジか」

「ほらな!」

 

 死を、認められないわけじゃない。錯乱もしていない。

 本当にまだ、犖には脈がある。

 心臓と腕を欠いて、胸に孔が開いて、大量に血を失っていても生きている。生きていてくれている。

 それは多分犖が、呪物の器であるから。

 少年院での宿儺は、心臓を欠いたままでも、伏黒を殺しかけるだけの力を振るったのだ。

 だからきっと、同じ特級呪物の器である犖も生命を繋いでいる。犖は、虎杖と宿儺のように魂が別たれていないから、呪物の力を虎杖よりも使えるはず。

 だけど、ああ、本当は何もわからないのだ。

 ただ今このとき、まだ犖が生きていることだけがすべてで、それすらいつまで保つことか。一瞬先には、脈も途切れているかもしれない。

 こぼれていく生命を繋ぎ留めることが、虎杖にはできない。

 僅かでも、この場から遠いところに送り届けるしかなかった。

 

「ごめん伏黒、俺、先輩を家入さんのとこに連れてく」

 

 犖に反転術式は効かないが、ここにいるよりマシだ。

 今は地下5階の五条先生を取り戻すべきだろうし、犖であったら死に体は放っておいてとっとと下へ戻れと脛を蹴飛ばしてきそうだったが、それでも、置いて行けるわけがなかった。

 

「ああ。だけどお前、宿儺は?」

「今は、大丈夫だ。俺は、大丈夫になったから」

 

 宿儺の気配は、今は限りなく薄い。犖と結んだ縛りで、表に出ては来られないのだ。縛りは確かに有効だった。

 伏黒の視線がちらりと血だらけの虎杖の右腕を見て、それだけで彼は立ち上がった。

 

「わかった。届けたら戻って来い。死ぬなよ」

 

 そっちも、と言いかけた瞬間だった。

 背筋が粟立った。

 犖を抱えたまま転がるように横に跳ぶ。飛び退いたその空間に振り下ろされたのは、巨大な槌の形に変形した、腕。

 次の瞬間視界に広がったのは、歪に縦に長く伸びた人の顔。

 咄嗟に虎杖は、犖の体を放り投げた。空中に浮いたその体の胴に長い舌が巻き付き、引っ張り下ろす。

 開いた両手で以て、虎杖はその改造人間を殴り飛ばした。吹き飛んだ改造人間を陰に迫るのは、ツギハギの皮膚の呪霊。

 

「真人!」

「せぇかぁい!」

 

 体を捩じれば、脇腹すれすれを棘が掠めて行った。

 勢いに乗って放った虎杖の蹴りを軽々跳んで避けて地面に降り立った特級呪霊、真人は、唇を三日月形に歪めて嗤う。

 

「虎杖、そいつは!」

「ここは俺が何とかする!伏黒は先輩頼んだ!」

 

 犖を絡めとったのは、伏黒の式神、蝦蟇の舌だ。人ひとり飲み込めるほどの巨大な蛙を従えて、伏黒が唇を噛むのが見えた。

 

「死んだら、後で殺すからな!」

 

 二度目か三度目になる物騒な台詞を叫んだ伏黒が、犖を体内に収めた蝦蟇と共に走り去る。

 

「いや、そう簡単に逃げられたら困るんだ、よっとぉ!」

 

 真人が投げた干物のような小さな物体、限界まで圧縮された人間の成れの果てを、虎杖は空中に跳んで蹴り飛ばした。膨れ上がり巨大化したその体の上を走り、真人へ殴りかかる。

 拳は頬を掠めて、真人は後ろへ跳んだ。

 

「テメェ……!」

「いちいち吠えんなよ、虎杖悠仁。ていうか、結構宿儺の指食ったんだろ。なのに、何で変わってねぇんだよ?主導権、そんなに速く取り戻せんの?」

 

 一度に何本も食えば、体は宿儺が使えるはずだろ、と問う呪霊に、虎杖はただ拳を握りしめた。

 首を捻る真人は、思いついたように指を鳴らす。

 

「さっきの角付きが、オマエに何かしたわけ?つーかあの角呪術師、この前背中からめった刺しになったはずなんだけどなぁ」

 

 交流会で犖と真人が交戦したことは、虎杖も知っていた。

 知っていたが、改めて言葉にされれば腹の底にどろりと炎が走った。あのとき、犖は一日分死ぬことになったのだ。

 真人は、一層嗤いを深くした。

 

「角付きはオマエと違って、甘ちゃんなガキじゃあなかったぜ。俺が改造した人間を、すぐ撃ち殺したからなぁ!それまで大事に庇ってたヤツを、顔色も変えずにさぁ!」

「ッ……!」

「オマエら呪術師だろ、あのぐちゃぐちゃな斑の魂つくって、人間の体に入れたのは!俺の術式とあの女をつくった人間の、一体どこが違うんだろうなぁ!」

 

 巨大な鎌に変えられた改造人間を、喜悦に顔を歪ませた真人が振り回す、前転して地面を転がり避ければ、背後でアスファルトの地面が抉れていた。

 鎌を手放した真人は、尚も続ける。

 

「アレをオマエが殺しかけたってことはさ……あのくたばり損ないを殺れば、宿儺は出てくるワケ?」

「黙れ!」

「は、図星かよ!」

 

 真人の手の動きに合わせ飛ばされたのは、改造人間である。膨れ上がり、視界を覆うその股下を虎杖は滑り込むようにして潜った。

 低い姿勢から放った回し蹴りで足を払われた真人が、体勢を崩す。

 崩れた真人のその顔面に渾身の力で拳を叩きつければ、呪霊の体は跳ね飛び、たった今出てきたばかりだった駅の入り口に落ちる。

 それを追って、虎杖も駅へ飛び込む。

 真人は、犖と伏黒を間違いなく殺そうとする。

 

 絶対に、この場でこいつを祓わなければならないと虎杖は拳を握りしめた。

 




重面春太が交流会時点で射殺されたため、伏黒はふるべらずに現れました。
真人も『変な魂』のほうへ興味の天秤が動いたため、七海と出会っていません。
とはいえこの時点で漏瑚が生きています。

当初より分量が膨れていますが、支部に上げていた部分はここまでになります。

渋谷事変までで、この物語は終わりです。
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