無明の獣に孔穿つ   作:はたけのなすび

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感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


7話

 

 

 人が死ぬところを、何度も視て来た。

 知らぬ人間が山と息絶える場面を、屍山血河となるほどの骸を。

 視たくないと、目を背けたことはなかった。元より『くだん(わたし)』は人から生まれたものだが、人ではない。己と違う生き物であるならば、その死に様には慣れてしまえるのだ。

 人間が、蟻の巣が潰れる映像を見ても平気であるように。

 そういう術式を持って生まれたのだ。善悪良し悪し関係なく、『くだん』は未来を視る。

 生まれ、視て、予言して、死ぬ。その円環を繰り返すだけの、獣の形をした呪いだ。

 

 何のためにと問うのも馬鹿らしい、獣の生の巡りに、端から意味などない。

 日が東から上って西に沈む天地の摂理と同じくして、『くだん』はその円環の中に生まれ落ち、他のあらゆる呪いと同じく、『くだん』もまた人の負の感情を母胎とした。

 未来を告げる術式を持つ『くだん』の正体はごく単純。その本質は、()()()()()だ。

 

 人間は、未来をさも輝かしいもののように語る。光り輝く未来を夢見て、今日を生きている。

 だが、未来とは輝くだけのものではない。光があれば、必ず影がある。

 人は、未来を恐れている。見えないものを恐れるのと同じように。

 寄る辺の無い明日が来るのを恐れ絶望し、他人の未来を羨み妬み、こんなはずではなかったと己の未来に簡単に呪詛を吐く。大切な誰かを失っても、当たり前のように訪れる未来を嘆き膝を屈して蹲る。

 己を誤魔化して嘘をつき、未来はよいものだと夢見て足を引きずりながら明日へと向かう。

 人間は、未来には希望が見出されて然るべきものなのだと、己に嘘をつかなければ生きてはゆけぬ生き物だ。

 その恐れが、負の感情が、澱のように降り積もり『くだん』を生み出した。

 さりとて、そこより生まれたわたしは、人が欺瞞に満ちているとは思わない。

 そうせねば生きられないから、嘘を吐くだけなのだ。彼らは欺瞞で塗り固めても生きるという道を選んだだけ。嘘つきであることを、醜悪とは感じない。

 

 兎にも角にも『くだん』とは、人が未来を想う感情から生まれた。

 未来への恐れ、不安、恐怖、妬み、恨み、(そね)み、ありとあらゆる負の感情から、くだん獣は力と形と、生命を与えられた。

 

 だから、それを継いだわたしが未来へ希望など抱けないのは、ごく当たり前のことなのだ。

 呪霊であっても何某かの理想とか、未来への展望とかを抱くだろう。むしろ、人間が生きるため獲得した理性という鎖がない分、彼らは素直かつ愚直に未来への欲望と夢を解放することができる。

 だが、核に未来への負の感情を据えて発生する『くだん』は、とことん未来を見限っている。

 わたしも、そうだ。

 生まれ方が尋常でなかったから、つらい痛みを受けたから、愛を注がれなかったから、などという理由はない。

 ただ生まれついての性が、そうであるのだ。

 人の形をしていても、その内実はただの異形。

 半端に呪いが人と混ざり、成立してしまったのがわたし。

 

 未来に希望を見いだせないどころか、生きるための希望を必要としない。

 伽藍とした心であっても、ただ何となくで呪詛師を殺し、呪霊を殺し、生きていける。熱意なく他者を踏みにじり、己の生きる場所を奪い取れる。

 その精神性こそ、わたしが人間から乖離している証であり、最大の欠落なのだろう。

 人の未来も己の未来も、わたしの中では等しく無価値で、ただ木から離れ川に落ちた木の葉のように流れ去って行くものだ。

 明日がたとえ嘆きが詰め込まれたものであっても、ああそうか、と見過ごしてしまうことができる。

 

 それなのに。

 それなのに、このわたしがあろうことか誰かの前に飛び出て己の生命を張ってしまった。

 虎杖悠仁の体を使う宿儺に、己の体を奪われた虎杖に、怒りを覚えたから。

 

 『わたし(ラク)』には、己の体というものがない。

 黒い髪に黒い瞳の角の生えた少女の体は、『八咫犖』という人間のものであって、『わたし』のものではない

 故にわたしはずっと、わたしという生き物が気持ち悪かった。他人の服を纏い過ごしているような落ち着かなさが、背中に被さって常にあった。

 

 この少女のやわらかい体を使うべきは、混じりけの無い八咫犖の魂であるはずだったのだ。

 後付けで生まれたわたしという混ざり物に、本来体は与えられていない。わたしは人間の体に宿らなければ、寄生しなければ、日の光を浴びを感じ、己の頭で物を考えることすらできなかった水子の如き何者かだ。

 その埋めようのない齟齬と隔たりが、濡れた布のようにわたしには貼り付いていた。己にはどうしようもないことと諦めてしまうことも、できなかった。

 

 だから、呪物を体内に取り入れても己の魂を見失っていない虎杖は、わたしにはどうしても無視ができなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()という少女の夢の残滓と、己の体を求めるわたしの心は混ざり合い共鳴し合い、気づかぬうちにわたしの中で降り積もって形を成し、強い想いとなっていた。

 虎杖悠仁は、わたしたちにとってそういう人間だった。

 

 その虎杖が、宿儺に体を奪われた。

 虎杖の体と顔を他人の体に宿った亡霊が使い、嗤うことが、たとえようもなく気持ち悪くて、飲み下せなかった。わたしたちと同じところに、堕ちて来るものがあるかこの馬鹿が、と。

 飲み下せなかったからこそ、怒りとして弾けたのだ。

 

 己の胸に宿儺の腕が生えて心臓を握り潰される瞬間に後悔もしたが、やってしまったことは取り返せない。

 変えられるのは未来のみで、そのためには死なないことに全力を注がなければならなかった。

 心臓があった肉体の孔に呪力を回して、千切れた血管を繋ぐ。腕の血管は絞って出血を止める。

 『くだん』は宿儺と比ぶれば、各段に戦闘力という面で劣る。

 劣るが、虎杖悠仁よりはわたしのほうが呪物との融合率は高い。

 尤も、あいつは宿儺と魂を分けていなければならないだろうから、融合率は一定値でとどめておく必要がある。だがわたしに、その枷はない。

 

 完全に、魂に至るまで呪物と融合したならば、それは最早()()()()()()()()()()()だ。

 丁度、こんなふうに。

 

 カチリ、と何かが入れ替わる音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 暗い場所に蹲っていたところを蹴飛ばされ落ちるようにして、わたしは目覚めた。

 次の瞬間襲い掛かって来たのは、ひどい吐き気。

 横たわったまま身を捩って吐けば、口から出たのは訳のわからぬ黒い血である。そのまま空咳をすれば血の塊がぽろぽろと吐き出され、喉ががらがらと喘鳴した。

 不自然な体勢が崩れ視界がぐるんと逆さに回って、受け身も取れずに落っこちる。

 どうやら、寝台らしいところに寝かされていたのだと気づいたのは、飛び込んで来た見慣れた女医の顔を見たときだ。

 

「八咫ッ!」

 

 呪術高専の医師、家入硝子は、仰向けに倒れ手足を投げ出したままのわたしを見て、僅かに痛みを堪えるように顔を歪めた。

 

「起きたのか?」

「……ん」

 

 家入の差し出した手を取り立ち上がると、体がふらついた。

 それも当然だ。腕を千切られ心臓を抉られたのだ。見てくれだけでも五体満足で意識が戻っただけ、僥倖だろう。

 千切られたはずの右腕に、左手で触れてみる。

 指先を摘まんでいるのに、右の人差し指には何の感覚もなかった。握力はあっても、何も感じ取れない。孔が開いていた胸に手を当ててみれば、一応の鼓動が聞えて来る。

 ただし、ひどく弱々しかった。

 は、と息を吐くと家入の手が肩に添えられる。

 

「お前はもう動くな。その心臓、いつ止まってもおかしくないぞ。……状況説明は必要か?」

「ん」

 

 要らない、と首を振った。

 わたしの体に刻まれた、自死する際にのみ反転術式を発動する術。対価は一日分の記憶。それの発動は確かに行われて、わたしの体には心臓と腕が戻っていた。

 ただし心臓は激しく動けば破裂してしまうそうなほど脆いし、腕は感覚が死んでいる。呪力の限界というやつだろう。宿儺のやつ、よくもやってくれたものだ。

 だけれど、わたしは己が何をしたせいで()()なったのかを、把握できていた。

 

 死に際に至ってこそ触れられる、呪力の核心がある。

 いつだったか、何かの折に五条悟が語ってくれた話。

 あのときは、そんな都合のいいことがあるものかと白い眼をしたが、()はもう、それを笑えなくなっていた。

 

「どうした?」

 

 寝台に戻そうとする家入の手を押し戻して、ふらりと歩み出した。

 ここは、急ごしらえの診療所のようなところだ。わたしが寝かされていた場所の隣にも、幾つか寝台が置かれていて、その上に数名が横たわっている。家入の反転術式によって、治療された人間だ。

 渋谷の生き残り、と言えるだろう。

 彼らの顔を見ることなく、外へ出る。

 未だ帳の夜は開けておらず、其処ここに夜蛾学長のものと思われる呪骸が救護所を護るように配置されていた。彼も来ていたのだな、と改めて渋谷に集まった術師の数を思い出す。

 一歩、二歩、と空を見上げたまま歩いて、立ち止まった。

 

 黒い空に蓋をされたこの世界で、呪力と呪力がぶつかり合い弾けている。

 呪力が衝突して爆ぜる火花を、わたしは感じ取れていた。

 それは星の光のようだが、同時にひたひたと満ち満ちる闇と比べればあまりに儚い。

 深く、深く息を吸って、吐いた。

 『くだん』の術式は、自由自在な未来予知。わたしが継いだのは、その劣化。 

 ずっとそうだと信じていた。

 だけど、何かが今、切り替わっていた。

 カチリ、カチリ、とわたしが切り替わる。視えなかったものが像を結び、届かなかったものに手が届く。

 死に縁深い『くだん獣』が、命数をこそげ落とされ死に歩み寄ったからこそ起きたことだ。

 

 いつかの折りにあの蒼穹の瞳の教師が語ってくれた、死に際にこそ掴める呪力の核心。  

 己の術式の、さらに深淵に触れる行為。

 五条悟はかつてその状態に入り、無下限の呪術の深奥に至ったという。

 

 今のわたしが、まさにそれだった。

 『未来予知』の深淵に踏み込んで素直に術式反転を行えば、起こるのは『過去視』。ありとあらゆる過去の事象の俯瞰だ。

 記憶がなくとも過去を視ることができれば、何があったのかを知ることはできる。

 誰に教えられずとも、未来と過去を一人で知ることができるのだ。

 

 ここへわたしを運んだのは伏黒恵で、虎杖悠仁は虎杖悠仁のままにあの特級呪霊と交戦しているはずだ。名は、真人と言ったか。

 心臓と右腕を縛りのために支払ったのだ。これで虎杖が宿儺に取って代わられていたら怒髪天になっているところであった。そうならずに済んでよかったと、思う。

  

「八咫、何をしているんだ!」

 

 頭を上げ茫洋と突っ立って俯瞰していれば、夜蛾学長が走って来た。

 再生させたとはいえ心臓と片腕を失った生徒が、寝台から抜け出し戦場の方角を向いて佇んでいれば、駆けつけても来るだろう。

 

「……お前はもう休め。その体で戻れば、心臓が今度こそ破れる」

 

 羆のような夜蛾正道は、身を屈めてわたしに告げた。

 黒い色眼鏡に遮られ視線を伺い知ることができなかったが、教職に就いている人間だ。

 致命傷を負った生徒が一人、誘蛾灯に誘われる翅虫のようによろぼい現れれば、止めずにはおられまい。

 それでもその心を、わたしは今から無にする。

 夜蛾正道に頭を下げて、駆け出すことにした。

 

「待て!八咫!」

 

 夜蛾の呪骸によって強制的に阻まれる前に、そこらに乗り捨ててあったバイクに跨った。

 見よう見まねで鍵を捻り、エンジンに火を灯す。たちまちに息を吹き返した単車で以て、わたしは走り出した。

 

 最後に一言、こちらの名前を呼ぶ夜蛾の声が聞えたが、完全に無視する。

 

 渋谷には既に、人の気配が絶えていた。狗巻か誰かが、できる限り避難させたのだろう。

 道路から下へと跳び下り、さらに車を走らせる。目指す場所は、たった一つだった。

 

 今のわたしにならどこに向かうべきなのか、わかる。

 呪力を巡らせて、術式を発動する。未来を視る(まなこ)を開いて、まだ起きていない景色を現実のテクスチャに重ね合わせる。

 再生したばかりだろう心臓が、どくりと嫌な音を立てた。

 呪力と術式で取り繕えたのは見てくれだけ。

 この体はそれほど長くはもたない。

 心臓と腕を、宿儺によって奪われたのだから当たり前だ。あいつが奪ったのはただの体の一部ではなく、命数そのものに等しかった。

 明日の朝日をこの体が見ることは、きっと敵わないだろう。家入や夜蛾が、青ざめた顔で止めるのも道理だ。

 それでも、よかった。

 

 夜風を顔に感じながら走るのは、閉ざされていた瞼を開き、縛られていた力を解き放つのはたとえようもなく、()()()()()。喉が勝手に震えて、抑えきれない笑いがこぼれて泡のように夜空に弾ける。

 ぼろぼろの心臓とずたずたの腕を抱え、夜の街をバイクで疾走しながら笑う少女は、最早それだけで何かの都市伝説だ。

 言うまでもないがまともではない。頭がおかしい。狂っている。螺子が外れて、いずこかへ転がって行った気狂いだ。

 わたしがまともな人間であったことなど、ただの一度もなかったにせよ、今のわたしは明確に気が違っていた。

 それでも、楽しくて楽しくて、堪らなかった。

 数時間のうちに幕を引く生命だからこそ、終わりの時まで存分に使い切る。自分の生命を端から端まで把握し、手にしているこの感触が、快くて堪らない。

 やるべきことではなく、やりたいことをやり切って───死ぬ。

 

 思い出したのだ。

 『くだん(わたし)』は、元よりそういう生き物であったことを。

 

 行く手に、黒い服の少年を一人見つけて、わたしは口の端を吊り上げた。

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 虎杖悠仁は、九相図の長兄に敗れた。

 虎杖悠仁は、己の手で八咫犖の心臓を握り潰した。

 虎杖悠仁の目の前で、釘崎野薔薇の顔が弾け飛んだ。

 

 それでも、虎杖悠仁は呪術師だ。

 

 ───お前も私も、呪術師だ。そして、他の何者にもなれない。

 

 そんな言葉をくれた人の心臓を、己の手は抉り取り、潰してしまった。

 自分が負けたから、失敗したから、仲間が傷つき、斃れた。もう、取り返しがつかない。

 

 だからこそ、絶対に目の前のこの呪いを、真人を祓う。祓わなければならない。

 虎杖悠仁は失敗した。仲間をまたしてもこの手で殺しかけ、仲間が倒れるのを防げなかった。

 それでも、自分たちは呪術師以外の何者にもなれないのだという言葉が、錨のように戦いに括りつける。

 おかえりと、この世に引き戻してくれた人の言葉が灯した炎が、心の奥から消えない。

 だから拳を固めて、倒れた釘崎を庇いながらも虎杖悠仁は真人に殴りかかった。

 

 途中で、京都からの加勢の東堂が現れた。

 彼と共にいた見知らぬ術師に、倒れた釘崎を預けることができた。

 殴って、蹴って、東堂と連携して、戦って、戦って戦い抜く。

 戦いの中で互いに覚醒しながら、力を引き出しながら、さらに強く、目の前のこの呪いを祓える力を求めて、虎杖悠仁は止まらない。地下から地上へと場を移しながら、より速く激しく真人を打ち据えようと足掻く。

 鑢で削られ研がれていくように、鋭く、ただ呪いを殺すために成長を続ける。

 だがそれは、敵も変わらない。

 人間を殺すために、そのためだけに、より強靭に、より逞しく、真人という呪いは進化していく。

 

 しかし、東堂と、虎杖と、真人と、三人きりの戦場に、それは唐突に飛び込んで来た。

 

 真人が東堂と虎杖から距離を開ける。呪力が高まる。

 口腔内に一瞬、印が結ばれるのが見えた。領域展開の言葉が束の間頭を掠め、だが虎杖にはそれを防げない。

 

 真人の口腔の中に、弾丸が飛び込みでもしない限り。

 

 領域が広がるのを阻んだのは、完全に三者の知覚外の距離から放たれ飛来した、銃弾だった。

 領域を展開するための手印を、真人は変形させた口腔内で結んでいた。開いた口のまさにその中に、一発の弾丸が着弾し弾ける。続けて、一つ二つと弾が飛び込み、爆発する。

 口の中で呪弾が弾け、真人の体が仰け反る。その僅かな硬直に滑り込んだのは、巨大な黒犬だった。

 鋭い爪を振り上げ、巨大な顎を開いたその式神が、真人の肩に噛みついて動きを止めた。

 

「虎杖ッ!」

 

 建物の陰から現れた伏黒恵の声。それを認識するより先に、虎杖は前へ跳び出していた。

 伏黒の式神、玉犬の渾が、真人に殴り飛ばされる。だがその刹那に、虎杖は真人の懐へ飛び込んでいた。深く、低く、完全に間合いに入り込む。

 継ぎはぎの皮膚の、歪んだ顔が見える。弾丸で頭の半分を吹き飛ばされていたが、既に真人は再生しつつあった。 

 だが、それでいい。

 見えない射手と伏黒が、十分な時間をくれた。この距離に弾を叩き込んで来たのが誰なのかも、虎杖にはとうにわかった。

 固めた拳が、漆黒に光る。呪力が黒く染まり、高まる。

 かくして虎杖の渾身の黒閃が、特級呪霊に突き刺さった。

 呪霊の体が毬のように跳ね周囲の建物に突き刺さり、げえと呻く。祓い切ろうと、そちらへ虎杖が歩み出したときだ。

 

虎杖(ブラザー)!」

 

 東堂の声と共に、思い切り襟首が引かれた。のみならず、虎杖は後ろに放り投げられた。

 空中で身を捻って着地し、四肢に力を込め立ち上がる。顔を上げれば、たった今まで虎杖がいた地面は大きく抉れていた。投げられなければ、どうなっていたことか。

 

「助けてあげようか、真人」

 

 突如として現れた袈裟の男はそう、罅割れたような笑みを浮かべた。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 伏黒恵の式神、渾が真人を押さえ、虎杖の黒閃が突き刺さったのを見届けた瞬間、犖はその場から跳び下りていた。

 地上二十階の雑居ビル、その屋上と彼らの戦いの場までは、凡そ一・五キロ少々。

 真人なる呪霊の知覚範囲の外からの狙撃を狙ったからこその、距離だった。

 犖にとって、狙撃とは狙って当てるものではない。当たるとわかっているところに、弾を配置するものだ。

 一キロ以上先にいる呪霊の口腔内という、極小の的であっても例外はない。

 だからこそ、弾丸は誰にも気づかれることなく呪霊の頭を抉った。大した攻撃とならずともよかった。

 頭を吹き飛ばして領域を展開するのを防げば、あとは伏黒と虎杖と東堂がやってくれると、視えていたからだ。

 

 真人を弾き飛ばした次の瞬間に現れるその男のことも、視えていた。

 その人間が、自分の上に大量の呪霊を降らせることも。

 

「ッ!」

 

 視えていても、防ぎきれるものではない。

 頭上から雨あられと落ちる大小の呪霊の隙間を犖は走り跳びすり抜けて、屋上の柵を踏み越えた。

 髪が風を切り、胸の奥で心臓が引き絞られたように痛む。

 顎を開いて腕を食い千切ろうとする、龍に似た呪霊の頭に飛び乗り、犖は尾まで走り抜けた。耳と鼻から、生暖かいものが垂れる。血だと知りながら、犖は足を止めない。

 呪霊の背、腕を足場に、ときに滑り落ちるようにして何とか地上へ戻り、乗り捨てるようにして止めてあったバイクへ跨る。

 大量の呪霊に追われながら、犖は走り出した。

 

 この呪霊はすべて、敵の呪詛師の手駒だ。

 こんなことができた人間を、犖は一人しか知らない。

 

 ───夏油、傑。

 

 五条悟の親友だった、呪詛師。呪霊を手駒とする呪霊操術を使う、元特級呪術師だ。

 袈裟を纏った涼し気で胡散臭い風貌の優男で、恐ろしいほどに強かった。

 その人間は、既に死んでいる。去年五条悟が殺したのだから、間違いはない。

 だがその術式がこうして、牙を剥いて呪術師たちを襲っている。

 犖が舌打ちすると同時、バイクの前輪すれすれを、鳥型の呪霊の嘴が掠めていった。

 

「っ───!」

 

 咄嗟に前輪を持ち上げて防ぎ、呪霊の首を引き潰し速度を上げる。渋谷の夜にバイクで大量の呪霊とチェイスなぞ、生まれて初めてだった。それを言うならば、犖は免許を持っていない。見様見真似と勘で操っているだけだ。

 無免許上等な乱暴な運転で、犖は疾走する。だがいきなり、がくんと動きが止まって犖は宙に投げ出された。

 虫のような呪霊、蠅頭が車輪の隙間に食い込んでいた。

 背中からコンクリートに落ち勢い余って転がり身を起こした犖の視界に映ったのは、爪を振り上げた三つ目の猩々のような呪霊。

 

「伏せろ、ラク!」

 

 だがその横っ面を、巨大な拳が殴り飛ばした。

 煙を上げて地面を擦りながら現れたのは、白黒の毛並みの大熊猫────もとい、二年生のパンダ。

 続けて刀の一閃が、犖の頭上で口を開けていた芋虫型の呪霊の頭を切り落とす。

 刀を鞘に収めて着地した男は、犖を見下ろすや目を剥いた。

 

「八咫!?お前こんなとこで何やってんだ!」

「……」

 

 喧しいなこの男、と犖は眉をひそめた。

 刀を携えたスーツの男、日下部(くさかべ)は憤懣やるかたないとばかりに頭をかいた。

 その背後からひょっこりと現れたのは、パンダである。

 

「犖、お前免許持ってたっけ?」

「……」

 

 かぶりを振ってから、犖は口を開いた。

 

「持っていないわ」

 

 パンダと日下部が、ぎょっとばかりに眉をはね上げた。

 頭を締め付ける枷、思考力を維持させないほどの痛みは、もう爪を肉で食い破って耐える。叫び出したいほどに痛く、針を刺されるようだがここで言葉を惜しめば死ぬだろうから。

 

「オマエ、言葉……」

「時間がないの。驚くのはあと。わたし、あそこに行くから」

 

 戦場、虎杖たちの気配のほうを指さす。日下部の顔が微かに引きつる。

 

「本気か?」

「ええ」

「お前、その体ぼろぼろだろ。悪いことは言わねえから、家入先生のとこ戻れって、な?そこまで頑張ったんなら、誰もお前を責めやしねえよ」

 

 黒い角を生やしたまま、犖は日下部を見据えた。

 一級呪術師にして居合いの達人、日下部篤也(くさかべあつや)は二年生のとき犖の担任だった男だ。面識はあるし、人となりも大体は知っていた。

 彼は、逃げて良いと言える人間だ。だから、犖は明日の天気を告げるように告げた。

 

「わたし、もうすぐ死ぬの」 

 

 今度こそ、日下部が驚きを露わにした。

 絶句した彼を放置し、犖はただ軽やかな声で告げた。

 

「だからわたし、あそこに行くわ」

「……本気か?」

「ええ」

 

 吹き飛ばされたバイクを起こして、犖は舌打ちをした。思った通り、タイヤが弾けている。これでは走れない。

 他のバイクを拾おうと辺りを見回したとき、ふわりと持ち上げられた。

 犖の襟首を掴み持ち上げたパンダは、軽々犖を肩に担ぐ。

 

「よし、そういうことなら送ってやる。あっちに悠仁たちがいるんだな?」

「そう。虎杖と東堂と、黒幕も」

「黒幕ぅ?そんなやついるのかよ」

「いるわ。殺せばこの夜は開ける」

「そりゃすっげぇけど、黒幕って誰だ?」

「名前は不要よ。なくても殺せるわ」

 

 そしてその者が、五条悟を連れている。それは、予言でなく確信だった。

 術式が瞳に宿り、廻る。未来と過去を視る呪いの瞳が、ぐるぐると渦を巻く。

 絡み合う螺旋が宿る瞳を見て軽くため息を履いてから犖を軽々片手で担ぎ、パンダは軽く手を上げた。

 

「んじゃ、俺らはちょっくら行って来るな」

「おい、こらオマエら!」

 

 日下部にひらりと手を振って、犖はパンダの毛皮にしがみついた。

 並みのパンダにはあり得ぬ俊敏さで走りながら、パンダが口を開く。

 

「オマエ、どっか変わった?人間ついにやめちまったのか?」

「そんなところよ、パンダ」

 

 突然変異呪骸ゆえの直感か、パンダの言葉は核心をついていた。

 毛皮に覆われた表情の読めない巨体で疾駆しながら、パンダはなおも問うてくる。

 

「口、利けるようになったのか?頭痛むんだろ」

「今も痛いわ、泣いてしまいそう」

「嘘つけ」

 

 その通り、と犖は薄く笑った。

 泣くなど勿体ない。生を実感できるのだから、今は痛みすら愛おしい。

 諦めたように、パンダは太い息を吐く。

 

「お前たちはどうやってここに?」

「日下部と駅の周辺回ってたら、夏油の意志を継ぐ呪詛師ってのに襲われたんだわ。で、戦ってたらオマエがバイクで爆走しながら大量の呪霊に追っかけられてんのが見えたってわけ」

「そいつらは?」

「倒して来たに決まってんだろ!オマエのせいだぞ!」

 

 置いて来た日下部がパンダの隣を並走しながら叫び、犖は目を少し見開く。

 特級呪霊の気配が集まる首魁の目の前になど、この男の性格からして参戦したく無かろうに、やはり生徒が二人も駆け出してしまえば追わざるを得なかったらしい。

 日下部から疑うような視線を感じて、犖はパンダに抱えられたまま首を傾げた。

 

「八咫、オマエどっちだ?」

「見たものを信じなさい」

 

 ぱしりと言い返す。一級ともなれば、やはり感じ取れてしまうものらしい。

 黒目の中に渦巻きを飼ったまま、犖は呪術師に応えた。

 

「あなたたちの味方で、あいつらの敵。それでいいでしょう」

「ラク、オマエまともに答える気ないだろ」

 

 無い、と言う代わりに犖はにっこりと微笑んだ。固まった顔の筋肉が引きつって、多少奇妙な笑みになったことは否めない。

 そのまま、犖はパンダの毛皮に包まれた耳を引っ張った。

 

「パンダ、合図した場所でわたしを下ろして、あなたたちは先に行って」

「ん?」

「言う通りにして。上手くすれば、これ以上死人が出ずに済むの」

「……マジで?」

「上手くやればよ。失敗すれば全員駄目ね」

「最ッ悪な賭け持ち掛けんじゃねぇよ!つーか八咫!オマエそういう性格だったのかよ!口ろくに利かねえから知らなかったじゃねえか!」

 

 うるさい元担任だと、犖は耳を塞いだ。賭け事など、元より一か零だろうに。

 そろそろ頭の痛みに耐えるのも限界であった。それっきり、犖は誰が何を言おうが黙る。

 そうして、空にちかりと光が瞬いたのを見たその瞬間に、犖はパンダの耳を再び強く引いた。

 

「イテッ!……ここで下ろせってか?」

「ん」

「はいはい、わかったよ」

 

 パンダの肩を滑るようにして、犖は地上に降りた。

 

「……何する気かは知らねえけどさ、死ぬなよ。できるだけな」

「ん」

 

 にこり、と再び引きつり気味の笑みを浮かべて、犖はパンダの腕を軽く叩いた。

 たちまち、屈強なゴリラの如き姿へと体を変更したパンダはひとつ頷き走り出す。

 その後を追って、日下部も走り出した。最後にちらりと、犖に疑わし気な、気遣わしげな視線をくれて。

 

 無人のアスファルトの道の上に立ち、犖は彼らの背中を見送る。

 また一人になった。一人きりになった。だから、やりやすい。

 周囲の人間の気配がないのは、呪術師たちが逃がしたからだろう。狗巻の呪言ならば、それが可能だ。

 左手に拳銃を一丁召喚し、眼を閉じてそのときを待つ。

 

 十秒を数えた瞬間、犖は目をかっと見開いた。

 同時に一瞬で足元の地面が消え去り、犖の体は宙に投げ出される。

 開けた視界の中、真下に見えるのは数個の人影。そのうちの幾つかが、唐突に空中に現れた犖の姿を見て、驚いたように目と口を開ける。

  

 そうもなるだろう。入れ替え転移で、犖は空の上に直接飛んだのだから。

 

 だが、それら一切を無視してのけた犖の、渦巻きの瞳が視下ろすのは、たった一人だった。

 袈裟を纏う黒髪の男ただ一人だけを、犖は視ていた。

 そのとき男も、犖を見上げていた。

 空中と地上で視線が交錯し、男はそのまま腕を振り下ろす。その動きに合わせ空中に現れたのは、大蛇の呪霊。

 呪力で以て避けることはしない。時間がないから。

 蛇の白い牙が横腹を食い破って貫くのをそのままに、犖は手で印を結んだ。

 漆黒の瞳の中で渦巻きが激しく巡り廻り、二筋の螺旋を描いて絡み合う。

 手のひらを合わせ、唇の端を吊り上げ嗤って、犖は呪力を体から振り絞り引き摺りだした。

 魂が思い描く形を、己の心を、この場へ具現させるそのために。

 

「領域、展開」

 

 宿儺の嘲笑う顔を、ちらりと思い出した。本来の術式はどうしたというあの言葉。

 確かにそうだ。これを封じられ忘れ果てていた姿は、さぞ滑稽だっただろう。

 蛇の牙が胴を喰い裂き両断していくのを感じつつ、犖は言葉を紡ぐ。己の心で世界を塗り替える呪術の深奥を、この世へ招く。

 

「四諦曼荼羅」

 

 血と共に吐き出された呪いの言葉が、かくて無明の闇をこの世に顕現させた。

 

 

 

 




頭パーンした主人公。
ちなみに普段の口調は入力時間を減らすためのものであり、本来は女性言葉です。

特殊タグ初めて使ってみました。
領域の読みは、「したいまんだら」です。

多分次で終わりです。
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