無明の獣に孔穿つ   作:はたけのなすび

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では。


8話

 

 

 

 闇天(あんてん)が墜ちて来た。

 その領域の内側に飲まれたとき、虎杖はそう思った。

 自分の手の造作さえも見えない暗闇。上下左右の判断もつかないほどの、無明の中に引きずり込まれた。

 咄嗟に思ったのは、仲間のことだった。

 九相図の長兄が飛び現れてきた一瞬の隙に拳銃をやおら空に向けて撃った伏黒に、それに合わせるように手を叩いた東堂。駆けつけてきた東堂以外の京都校の生徒と、パンダ先輩と刀を携えた見知らぬ呪術師。

 次に敵のこと。

 つい先ほど真人を取り込んだ袈裟の男。五条先生を攫った敵。尚、九相図の兄を名乗り袈裟の男に憤怒形相で食って掛かったやつはどちらか不明。

 その全員が、空から風呂敷のように広がり墜ちて来た闇に、飲まれたのだ。

 

 そして闇が広がる直前、前触れもなく空に現れた誰か。見間違いでないのなら、あれは犖だった。その胴に、唐突に出現した大蛇の牙が食いつき貫くのも見えた。

 

 誰かの名を呼ぼうと虎杖が口を開けたそのときに、光が地上に現れた。

 星のような白い光がぽつりと地の上に灯り、たちまちのうちに縦横無尽に広がる。足元に、空に、白銀の光の道が現れて闇を白く照らし出す。

 

 その中央、すべての光の道を起点となる場に、一人佇む姿があった。

 俯きがちに立つその人影の髪は、色がすべて抜け落ちたような白。長く長く伸び、膝裏にまで届いている。

 肌も白い。白の顔料を幾重にも塗り重ねた面のように一切混じりけ無い純白で、蝋人形かと思うほど硬質な肌。血の気というものが凡そなかった。

 纏っている着物のような袖の長い服と、額から生えている二本の湾曲した長い角だけが黒い。

 

 白と黒で統一された人物がゆらりとこうべを上げ、一歩を踏み出す。足音もないその歩みは、絹連れの音も立てていなかった。

 

 ────人間じゃ、ない。

 

 頭を掠めたのは、単なる直感。それでもその横顔の線には、否が応でも見覚えがあった。

 

「ラク……先輩?」

 

 犖の顔形をした、しかし決して人間でない何者か。

 この領域を束ねていると思しい異形は、虎杖の呟きにかくり、と首を傾げた。糸を斬られた操り人形のように、真横に首が傾いでいる。

 虎杖を見るその眼は、白と黒が反転していた。瞳孔と虹彩が白く染まり、漆黒の角膜の中にぽつんと浮いている。

 顔にも佇まいにも犖の面影がありながら、気配が人のそれではなかった。

 確かに視線が交わっているはずなのに、黒と白の反転した瞳が見ているのは、もっと違う、遥か隔たったところにある何かだ。

 喉の奥で言葉が潰れて、ひゅうと笛のような音が鳴る。

 角持つ異形は、何も言わない虎杖に不思議そうに目を細め、視線を逸らす。

 次に真白な瞳孔が捉えたのは、ただ一人だった。

 五条悟を封印したと思しい袈裟を纏った男、ついさっき場に飛び込んで来た九相図によれば、その名は加茂憲倫。

 百年以上を生きるという、虎杖からすればわけのわからない男だ。

 黒白(こくびゃく)の異形は、彼しか最早見ていなかった。

 

「こんばんは、骸の中の誰かさん」

 

 鈴を振るような、軽やかな声だった。唄うように楽し気に、有角の少女は一歩、二歩と僧衣の男へ近づく。

 男は手を広げ、迎え入れるような仕草をする。

 

「これは驚いた。その姿、魂の本質を掴んだのか?くだん獣ともあろうものが」

「そうね、そうよ、そうかもしれないわ。わたし、白痴の獣でなくなってしまったの」

 

 少女の形の黒白は嗤い、笑った。

 数メートルはあった距離を、一度軽く地面を踏みしめただけで詰め、袈裟の男の前に現れる。白い手のひらを蜘蛛のように広げ、無造作にその顔を掴んだ。

 

「だから、あなたは死んで」

 

 瞬間、二つの人影の間で凄まじい炎が迸る。

 少女がたたらを踏んで軽く後ろに仰け反り、男は息を荒げて後ろへ跳ぶ。

 じゅうじゅうと黒い煙の上がる自身の手を見下ろして、少女は目を瞬いた。

 

「あなた、やはり厄介ね。半分しか削れなかったなんて」

 

 ぶわり、と無言のままの男の足元から影が伸びる。泡が浮かび弾けるように何十体もの呪霊が影から膨れ上がり、鎌首を擡げて少女目掛けて放たれる。

 虎杖は、駆け出そうとした。

 人でなくとも、人と思えなくとも、犖の面影がある。呪霊に潰されるのを、黙って見るわけには行かない。

 けれど。

 

「無駄」

  

 袖を絡げて硬質な皮膚の腕を持ち上げた少女が、軽く手刀を上から下へ振り下ろす。ただそれだけの動作で、呪霊が一体残らず内側から弾ける。

 にこり、と少女が微笑んだ。男は苦虫を噛み潰したように眉をひそめる。

 

「……化け物め。幾年も、ただの呪術師に擬態していたのか?」

「いいえ、まさか。宿儺のおかげよ」

 

 宿儺のせい、とも言えるかしら、と少女は反対側にことりと首を傾げる。

 

「あなた、わたしの眼を弾いていたでしょう。彼処でわたしがしくじっていなければ、五条悟が封印されることもなかったのにと、これでも後悔しているのよ」

 

 黒い着物の胸元に手を当て、少女は続けた。

 

「あり得ないはずだ。八咫家の器が、完全な呪霊になることなど」

「その通り。器のままなら手が届かなかった。だから、皮を一枚と生命をひとつ支払ったのよ」

 

 感情を伺い知れない蝋作りの人形のような相貌がふと曇る。相対する男は、剃刀のように瞳を細めていた。

 

「器の体を呪胎に……お前は呪霊として孵化した、というのか」

 

 少女の口元が吊り上がり、歪む。

 肯定の笑みを浮かべ胸に手を当て、少女は言った。

 

「わたしは呪いだけれど、夢でもある。獣が見た夢のカタチが、わたし。だからわたしはね、胎の中からようやくこの世へ生まれて来られた気分なの。だから少し、()()()()()

 

 蝋人形のような少女の手が、印を結ぶ。ぶわりと、その足元に広がる光の網が呪力を迸らせた。

 

「全員、構えろォッ!」

 

 東堂の声に虎杖は身構え────しかし、爆風も衝撃も何も訪れないことに我に返った。

 顔を上げれば、じとりとした視線を東堂に向ける角の少女がいた。その目の奥にある光を見て、虎杖は呼吸がす、と通るのを感じた。

 白に染まった瞳の奥に、犖の面影が透けていた。不服そうに角の少女が言い募る。

 

「東堂葵。あなたいきなり、何を吠えているの。あなたたちも何なのかしら、その全力の防御姿勢は」

「いや、オマエ今なんかヤベェ技出しかけてただろ!?」

「失礼ね、パンダ。間違っていないけれど」

 

 少女は指をほどき、印を解く。

 解いたその指が示すのは、相対していた男。彼は胸元をきつく掴んでいた。

 

「人には、いえ、呪霊を含めたありとあらゆる生き物には、運命というものがある。わたしは世界に、それを視ている。今こうして、あなたたちにも視えるようにしているけれどね」

 

 軽やかに、言葉が紡がれる。闇天と星を宿した術式が、開かれていく。

 半球の空に無数の光の道が刻まれ、蔓草のように絡まり合い、捻じり合って縺れては解ける。刻一刻と変化し、目で追うこともできない大河のような複雑怪奇な光を束ね手繰るのは、この領域の持ち主だった。

 光網に白い細面を照らされながら、少女が唄う。術式を己の言葉によって開示し、世界をさらに深く速く、侵食していく。

 眩しいはずなのに、少女の足元には光を呑む底無しの闇が口を開けているようだった。

 

「くだんの術式は、未来予知ではない。未来を選び、定める力、『未来決定術式』。未来視も過去視も、所詮はその影法師。本質ではない」

「……それを私に使ったのか」

「ええ。言ったでしょう。少し乱暴する、と。それとも、うずまきでも放ってみるかしら?」

 

 その未来はお前には届かないけれど、と少女が両手を広げる。

 花束を抱くように、少女は鮮やかな微笑みを浮かべた。

 

「お前自身と、お前の描くこれからは、すべて掴み潰した。この意味が、わかるかしら?」

「そんなことができると、本気で言っているのか?」

「できるわ。わたしの生命ひとつで、国一つに禍つを下ろすのと同じだもの」

 

 袈裟の男の姿が動く。少女の細首目掛けて、猛禽の爪のように五指を伸ばす。

 それを一歩ふわりと下がって躱し、少女は一つ、高らかに柏手を打った。

 ぱきん、と硝子の割れる音が領域に響き渡る。闇の空に無数のひび割れが走り、世界が砕けた。

 迫りくる白い闇に視界を奪われ、虎杖は目を閉じる。

 次に目を開いたときには、闇天の領域は消え去っていた。

 夜空の下に広がるのはアスファルトの地面に、破壊されたコンクリートの建物、嗅ぎなれてしまった血と埃のにおいが一気に押し寄せる。闇天の領域が無臭な空間であったことに、虎杖は今更に気づく。

 

 なぎ倒され、剥き出しの断面を晒す建物の間に、細い人影がひとつ、真夏の陽炎のように立っていた。

 

 白髪黒角の、純白の瞳を持つ、少女が。

 

 音もなく少女は膝を折り、屈みこんだ。黒い袖が花びらのように瓦礫の上に広がる。その足元に仰向けに倒れるのは、僧衣黒髪の男。

 血の一滴も、流れていない。けれど、冗談のように()()()()()。生命の気配が感じ取れない。

 真人を取り込み、何かをしようとしていた男が。枯れ木が倒れるように死んでいるのだ。

 何の躊躇いも見せることなく、少女は袈裟の懐に手を差し入れた。蝋のように硬く白い指が掴み出したのは、表面に無数の目玉が開いた、小さな箱。

 その箱を、少女は一度お手玉のように投げ上げ、受け止め、それから口をぱくりと大きく開く。 

  

「えっ」

「おまっ!?」

 

 ごくり、と白い喉が上下して少女は握っていた獄門彊を嚥下した。

 驚愕の声をあげた呪術師たちに、獄門彊をつるりと飲み込んだ少女は首だけを向けた。

 白の瞳と黒の強膜の眼で、地に膝をついたまま少女は一同をぐるりと見渡す。

 虎杖と真っ直ぐに視線が交わった。

 

「先、輩?」

 

 その言葉に、ほんの微かに少女が口の端を吊り上げる。

 けれど何も言わないままに、少女はまた男へ手を伸ばす。額に手をかけたかと思うと、無表情に頭の半分をねじでも外すように回した。

 菓子缶の蓋が外れるように、頭の上四分の一ほどが取れ、少女は顕になった脳味噌へ爪を立てる。

 ぐちゅり、と肉が剥がれる音がして、ぽつりと声が落とされた。

  

「みつけた」

 

 両手で肉塊を持った少女は立ち上がり、無造作に瓦礫を踏み越え、呪術師たちのただ中に飛び降りた。

 その手が持つのは、ただの肉塊ではない。ぬらりと艶のある脳を丸ごとひとつ、彼女は手にしていた。

 弓に手をかけたまま、京都の加茂憲紀が探るような眼を向けた。

 

「……八咫犖、か?」

「どうかしら。あなたにそう呼ばれていた体は、ほら、そこにあるけれど」

 

 脳を手にしたまま、少女は細いおとがいで背後を示す。そちらに目を向けて、虎杖は腹の底を冷たいものが掠めた。

 壁のように直角に聳えるコンクリートの大きな瓦礫に、体が一つ背中を預けて座っている。壁には長く、引きずったような血の跡がある。

 打ち捨てられた倉庫の人形のように俯き、欠片も身動ぎをしない少女の短い黒髪と角の形には、見覚えがあった。何故かその姿に、空になった蛹が重なる。

 あれが犖だというなら、では、目の前のこれは誰なのだ。

 流暢に言葉を操り、犖と同じ顔で、犖が決してしなかった微笑みを浮かべて、五条悟が封じられた獄門彊を躊躇いもせず飲み込んだ、この存在は。

 

「贄というのは旧くとも便利ね。去年の乙骨憂太のように、自らの生命を捧げて呪力の制限を外すでもしなければ領域を開けない、わたしの術式の悪食ぶりのせいだけれど」

「じゃ、なんでオマエは生きてんだよ。あんときゃ、里香が憂太の生命を取らなかったから、憂太は無事だったけどよ。オマエの術式もそーいうタイプか?」

 

 目を細め、韜晦するように少女は淡く微笑んだ。

 苦虫を噛み潰したような顔で刀の柄に手をかけたまま、パンダと共に現れた呪術師が問う。

 

「贄にしたのは、人間としての生命なんだろう。オマエには、八咫犖の体が持つ生命と、特級呪物『くだん』のミイラが持つ、二つの生命があった。複数の核を持つ呪骸みたいにな」

 

 脳を持ったまま、少女はやわらかい表情を浮かべ、返した。

 

「さすがに五条悟と同じ先生ね。日下部篤也」

「うるせぇよ。つまりはだ、今のオマエは人の部分を捨てた混じりっけなしの特級呪霊……『予言獣・くだん』なんだな?」

「ええ」

 

 明日の天気でも言うような軽さで、少女は首肯した。

 緊張が走る呪術師たちの只中で、有角の少女だけが何も変わらなかった。

 

「五条悟がいたら一目でわかったのでしょうけれど、これだもの。仕方ないことね」

 

 腹の辺りを撫でながら、少女は宣う。

 虎杖はけれど拳を固められなかった。

 目の前の少女は、もう人ではない。気配が違う。呪術師としての感覚はそう言っている。

 それでも、言葉と目の奥の感情がそのまま過ぎた。黄昏時に蓮池のほとりで、帰ろうと高専の方角を示した、あの先輩と。

 

「一応聞いてやるが、腹ん中のそれを返す気はあるか?とっとと吐き出さねぇと、腹下すぞ」

「断るわ。今すぐ取り返したいならば、わたしの(はらわた)をかき分けて探し出して」

 

 それよりも、と少女は脳を片手に持ち替え、空を指さす。

 

「死にたくないなら、全員、今すぐここを離れるべきではないかしら」

 

 つられて空を見上げた瞬間、視界に映ったのは巨大な、隕石のような火球。

 街を押し潰さんばかりの炎の塊が、渋谷の空を赤く染め上げていた。あまりの熱さに喉が焼け、肌がじりりと熱を帯びる。

 

「は、……はぁっ!?」

「ほうらね、逃げたほうがいいんじゃないかしら。先生でしょう?日下部篤也、庵歌姫」

 

 脳を無造作に袂に投げ入れ、押し寄せる炎の下で少女はくるりとその場で回る。

 白い髪と黒い袂が、扇のように広がった。

 

「全員退避ッ!さっさと逃げろ!」

「でもっ、先生が……先輩がっ!」

「やめとけ!あれはもうラクじゃねえ!あいつだったとしても、もう間に合わねえんだ!」

 

 パンダに胴を抱えられて持ち上げられながら、虎杖は身を捩じる。

 火球の下に一人佇む少女と、その瞬間目が合う。

 真白な瞳が、眩しいものを視るかのように細められる。口元が動き、何か、言葉を話している。なのに轟々と燃え轟く炎がうるさくて、何も聞きとれない。

 先輩、と己が呼ぶ声すらも聞こえない。

 

 そうして、劫火が街に直撃した。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 十月三十一日夜、渋谷に突如として放たれた炎は、半径約百メートルを焼き払った。

 渋谷駅周辺の人間の避難は進んでいたものの完了しておらず、少なくない数の人間が犠牲となった。

 渋谷駅構内に閉じ込められていた非術師らは解放されたものの、死体の数も夥しい。五条悟の気を逸らすためだけに虐殺された人間の数は、百や二百では効かないだろう。

 

 それでも、霜月初めの朝日は破壊された街をただ穏やかに照らした。

 詰まる所、未来は変えられたのだ。

 肉を削り、文字通りに骨を折り、その果てに未来を変えられたという結果を手に入れられたのならいい。

 

 ざまあみろ、と、一体の角持つ白髪に白い瞳の異形はこの国の都を見下ろしてそう嘯いた。

 その罵倒が誰に対してかは異形自身特に考えていない。ただ、言いたくなったから口に出したのだ。

 

 足元では蟻のように人間たちが群れ、営みを繰り返している。とはいえ渋谷が半径百メートルに渡って焼き尽くされ、人が大量に死んだ事実が消えることはない。

 愛する者をあの夜に失った者は、この日の光の下で嘆きに沈んでいるだろう。爪痕は深く、失われたものは還らない。

 或いはその嘆きは、救いきれなかった呪術師たちの咎となるのかもしれない。が、無理なものはある。

 呪術師たちも傷つき倒れ、死者が出た。 

 果てに、準一級術師の一人が、事もあろうに特級の怨霊へ堕したのだ。

 登録された名は、特級仮想怨霊『予言獣・くだん』。人であったころの名は、八咫犖。

 

 呪術界上層部は、その術者ならびに術者が転化した怨霊こそが今回の渋谷の事件の首謀者だとして、全術者に通達したという。

 

「おまけに、あなたがわたしと夏油傑の共犯だそうよ。ある意味で、間違っていないのが腹立たしいわ」

 

 東京屈指の摩天楼、スカイツリーの頂点に、長い黒角を持つ異形は腰かけていた。

 かつて犖という名で、人の器に宿っていた存在、その姿を捨て去った少女の成りをした呪いは、足元に東京の街を広げて、一人呟く。

 語り掛けるのは、太腿の間に置いた一つの箱だった。表面に目玉の浮いた特級呪物、五条悟を封じた獄門彊である。

 

「あれから数日経つけれど、夏油傑の遺体は高専に届けたのに、どうしてわたしが実は生きていた夏油と手を組んだ犯人にされるの。髪まで燃やして遺体を拾ったのに、証拠として扱われないなんて非道よね」

 

 膝裏にまで伸びていた白い髪は、項を隠すだけの長さにまで焼き切れていた。

 あの夜、火球で以て街を焼いたのは、犖ではない。

 五条悟と虎杖悠仁が、頭富士山と呼んでいた特級呪霊だ。恐らくは大地か火山か、その辺りの呪いだろう。街を灰燼に帰した豪火の球は隕石と言うより、マグマや火山弾に近いものだった。

 そもそも『くだん』にそのような術式はないのだ。

 宿儺でもあるまいに、大量破壊大量虐殺などお門違いも良いところ。未来の呪霊たる『くだん』が干渉するのは、人の世そのものだ。

 

 未来を選び決定するその力で以て、犖はあの袈裟の男の未来を握り潰した。

 男から伸びていた無数の運命の道を、ひとつも余さず、徹底的に、闇に焚べた。

 彼が望んでいた未来に至る因子も、すべて凍結させた。

 『くだん』は未来決定術式により凶事を選び、現実とし、己は死んで来たのだ。術式の対価として生命を捨ててはまた生まれ、予言して死ぬことを繰り返して来た。これまでの『くだん』が選択し決定した未来は、戦争、流行病、飢饉と、どれも国が傾くほどの災いだ。

 歴史に残るような禍つ事を引き起こせる力を総動員しなければ潰しきれなかったあの男の底知れなさは、犖にも素直に恐ろしい。絶対に、二度と敵対したくない。

 誤魔化し賢しらに余裕ぶっていただけで、実のところは夏油傑の肉体が持つ呪霊操術に己が絡めとられないか、紙一重のところだった。内心では、冷や汗どころか脂汗を流すほどに張り詰めていたのだ。

 それでも、犖は押し切った。すべてを捧げた賭けに、勝った。

 終わってみれば二つあった生命のひとつを対価にするだけで済み、犖は今も生きている。傷跡は深く残れど、東京は都の形を保っている。

 

 その手で未来を潰し殺した呪詛師に対し、別段犖は恨みを持っていなかった。しかし、あれは宿儺が虎杖の体を奪って復活することを望んでいた。あまつさえ、夏油傑という他人の体を乗っ取っていたのだ。

 だから、全力で以て叩き潰した。

 他人の体を我がものとして使う存在が、犖はどうしても嫌いだから。

 己の好悪の感情ひとつで、犖はあの呪詛師が意のままに描いていた未来を引っ掻き回し、選び直した。

 衝動のまま他人のすべてを御破算にするのは、如何にも呪いらしいと己で思う。

 

 尤も、『くだん』の力で以て因果を捻じ曲げ、留めているだけだ。これからどうにかしなければ、箍が外れてしっぺ返しが飛んでくるだろう。

 脳だけになって夏油傑の遺体に巣くっていた術者は、それだけの破壊の芽を都中に仕込んでいた。

 解き放たれれば、東京が一夜にして壊滅するだけの膨大な、ざっと一千万の呪霊と、その他の呪物や人間を。

 そうまでして、あの呪詛師が何を望んでいたのやら。

 けれど、もう犖の興味はそこになかった。昔よりも、これから先に横たわっている脅威が先だ。

 

 だからその仲間であったあの炎の呪霊は、犖が遺体の中にいた術者を殺し、体内に獄門彊を収めたと見るや、炎を放って焼き尽くそうとした。

 獄門彊を飲んだ犖は、初撃を凌いで渋谷から飛び出した後、翌日の夜まで炎の呪霊に追いかけ回されたのだ。中途から、宿儺様がどうのと言う白髪の小柄な童姿の者まで加わり、燃やされかけるわ凍らされかけるわ、散々な目に遭った。

 お陰で、髪は焦げてなかなか戻らない。

 あの場にいた者の中であの炎の呪いの相手ができるのは、五条悟か両面宿儺くらいなものだろう。だが、五条は箱の中、宿儺は虎杖の中に封印されていたから、実質的に無理だ。

 特級術師の一人、九十九由基も駆けつけてくれたらしいが、犖は彼女と相対しなかった。呪霊となったのだから、見ず知らずの術師にはもう頼れない。

 領域を展開し呪力を削った状態では、特級呪霊『くだん』と言えどあの炎の呪霊には勝てない。

 未来視を駆使して逃げ切りはしたが、見つけ次第彼らはまた追って来るだろう。

 五条悟を封印した獄門彊には、それだけの価値がある。

 

「呪霊共にあなたを渡すのは言うまでもなく駄目。かと言って、呪術師たちへ返しても上層部に奪われてどうせ永久封印。それなら、どちらにも属していない者が勝手に封を解くのが、一番手っ取り早い」

 

 だから、犖はここにいる。

 炎の特級呪霊と、宿儺の縁者から逃げ切ったその足で高専から強奪した特級呪具を、白蝋のような肌をした手に持って。

 太腿の上に乗せた獄門彊に、犖は手にした刀の形の呪具の切っ先を真っ直ぐに向けた。

 

「特級呪具、天逆鉾。効果は発動中の術式解除……だったかしら?これとわたしの術式の組み合わせで駄目なら、本格的にまずいから効いてくれなければ困るのだけれど」

 

 天逆鉾は、五条悟がどこぞから回収し高専に収めたものだ。そう考えれば、因果な品だった。

 つぷ、と犖は特級呪具の切っ先を目玉の浮いた箱の表面に突き刺す。同時に術式を開き、幾つかの未来を手繰り寄せた。

 効果は、一瞬で現れた。

 ぱきり、ぱきり、と表面に罅を走らせ始めた獄門彊を持ったまま、犖は塔のてっぺんから跳び下りた。

 逆さになり落下しながら、犖は天逆鉾が突き立った獄門彊をスカイツリーの中へ投げ入れる。

 ガラスが脆く砕け、剣が刺さった封印の箱から光が漏れる。その光の中に、ぼんやりとした長身の人影が浮かび上がった。

 一瞬だけ、碧眼と視線が交わった気がした。

 けれど犖は止まることなく、墜ちるに任せた。呪力で編まれた体は、非術師たちの目に留まることなく地上に着地する。

 

 スカイツリーの最上階で唐突に解放された五条悟は、訳が分からないだろう。

 夜の渋谷の地下5階にいたと思ったら、いきなり朝の摩天楼に放り出されたのだから。

 それでも、事態を事細かく書いた紙を天逆鉾の柄に矢文よろしく結んでおいたから、あとは五条悟が自力でどうにかするはずだ。

 

 五条悟は、渋谷事変の共犯であると上層部は発表した。

 が、完全に復活した彼に立ち向かえる胆力や能力は、上層部にはない。封印解除は厳罰に処すと言えば呪術師たちは止められるかもしれないが、呪術師どころか人であることを捨てた犖には、そのような縛めは障害にもならない。

 鬼の居ぬ間の洗濯とばかりに下した判決など、鬼が戻ればたちまちご破算だ。精々慌てて震えればいい。

 渋谷に訪れることなく引きこもっていた人間たちの姿を思い返して、犖はうっそりと微笑む。

 自らは運命に翻弄されないと思い込んだ者たちが目論見をひっくり返され、巣に水を流し込まれた蟻のように慌てふためく様は、愉快だから。

 

 だから呪術師たちが五条悟を見つけやすいよう、スカイツリーなどという目立ちやすく丈高い建物に上ったのだ。

 ほどなく彼らはわざと足跡のように残した犖の残穢を見つけて駆けつけ、五条悟とも対面するだろう。

 そのときどうなるかは、五条悟次第だ。

 もしかすると、温厚不真面目に構えているあの男もついに怒って首都のランドマークタワー上階を吹っ飛ばすかもしれないが、そのときはそのときである。

 東京が吹き飛ぶより、よほどましだろう。

 

 未来視によって()()()()()()()()()()()()()()()()を辿りながら、犖は一度だけ雲突く塔を振り返り、仰ぎ見た。

 

 かつて五条悟の甘さが、犖を生かした。

 君は人間にもなれるから、とあの最強は小さな化け物を日の当たる場所に連れ出した。

 生かせと強請った覚えはないし、何を言っているのだこの馬鹿はと思ったものだ。それでもあのとき、五条悟は犖の生命の恩人になった。

 その借りは、忌々しいことに返しきれないと思っていた。

 犖は、八咫犖の体を捨て去る最後まで、人間のことは好きになれなかった。

 一人ひとりが多少なりまともであっても、人間は寄り集まれば愚行を重ね、己の首を絞めて嘆きの声ばかり膨れ上がらせる。

 未来へ向けた感情の澱から、ついには未来そのものを歪める力を持った呪霊まで生んだ、度し難い生き物だ。

 五条悟が、虎杖悠仁が、多くの術者が、己の存在を削り続けてまで尽くすようなものが人の世の中にあるとは、思えなかった。

 犖には、見つけられなかった。未来と過去を視通す眼を持ってさえ、できなかった。今際の際に至ってさえも。

 それでも生まれてすぐに死していては、人の世について、己自身のことについて考え、思いめぐらせることすらなく犖は終わっていただろう。

 五条悟が犖に手にしてほしいと望んでいたものは、得られなかったのかもしれない。

 けれど、無意味に無価値に未来に呪いを撒いて死するだけの、宿儺に嘲笑われた白痴の獣として消え去る未来だけは既になくなっていた。犖はもう、そのことを識っている。

 

 人の中にいたから得られたものがあり、人の生を自ら失ったことを少し、悔やんだ。

 なら、案外に人と過ごした生は悪いものではなかったのだ。

 捨てた後でしか価値に気づけないとは皮肉だが、失ってからしかわからぬものも、時にはあろう。

 棘が指先に刺さった程度とはいえ、喪失の痛みは痛み。それを覚えている限り、得たものの価値を犖が忘れることはない。

 だから、犖はひとつ呟いた。

 

「これで借りはないわ。先生」

 

 八咫犖という少女の体は、既に失われた。

 夏油傑の遺体を拾うに精一杯で、あの体は回収できずに炎で焼かれてしまった。炭すら残っていないかもしれない。

 術式を完全に展開する代償には『くだん』は生命を捧げなければならず、未来選択術式を使いこなすためには、人の身で扱える呪力に限界があった。

 だから人の体を呪胎として捨て去り、犖は呪物の力を完全に体に行き渡らせることができる呪いとして羽化することを選んだ。

 成功するか否か五分五分だった目論見は、なされた。

 なされたから、今の犖は完全に呪霊となっている。

 肉体はなく、ほとんどの非術師の眼には姿すら映らず、仮に首だけになっても呪力の補完さえできれば死ぬことはない。

 犖は、呪術師が祓うべき生き物だ。たとえ今の形が本来の姿からかけ離れ、器だった少女の面影が、色濃く投影されていたとしても、影であって実はない。

 体が完全に人から外れたなら、いずれ心も引きずられて、今よりさらに人の枠を外れ、崩れていくかもしれない。

 

「とりあえず、帳尻合わせをしなければならないわね」

 

 摩天楼より離れた地下水道へ移り、水溝の縁に腰かけつつ犖は頬杖を突いた。

 因果を捻じ曲げ凍結させ、今は事実上の封印状態を保っている、この世に混沌を撒くものたち。

 彼らを祓うなりなんなりしなければ、あの呪詛師の思惑通りになってしまう。

 人がばたばた巻き藁のように斃れ、死ぬのはともかくとして、あれの望む未来が訪れるのは大いに癪に障った。それでは何のために、領域まで展開したかわからない。

 五条悟が復活して事態を収拾すれば、呪術師たちも事の重大さに気づいて動き出すだろうが、それまでは犖が因子を消し潰していくしかない。

 

 途方もなく気が遠くなる上に、呪霊となり術師にも追われるようになった犖には生命がけの作業だが、目的なく当てどなくこの世をさ迷うよりは幾分緊張感がある日々のほうが、楽しめるはずだ。

 それを成し遂げられたとして、果てに何があるかは、何も視ていない。呪霊となった心や体がどう変じていくかは、無明に包まれている。

 

「まぁ、何とかはなるでしょう」

 

 そう呟いた少女の形の呪いは暗がりへ踏み出し、振り返ることなく消えて行く。

 あとにはただ、下水の生臭い風と、さあさあと音を立てて流れる水音だけが残った。

 

 

 

 

 




「これからの世界の話をしよう」のすぐ後ぐらいに主人公は東堂によって飛ばされ領域展開したため、術式の遠隔発動はされていません。裏梅が駆けつけてたら積んでいた、タイミング一発勝負でした。

人間生活を教えてくれた相手の口調が移っている主人公です。
人外系主人公(ヒロイン)のチートラスボス化を、一度書いてみたかったのです。

しかし次話が最終と言って普通に無理でした。
もう一話続きます。

あと、虚構推理の蘇生能力+未来決定能力はドのつくチートだと思います。
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