無明の獣に孔穿つ   作:はたけのなすび

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感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

今更に今更すぎますが、本誌の展開バレ普通にしてます。

では。


9話

 

 

 

 

 

 

 伏黒が空に向けて撃った拳銃は、犖の呪具だったそうだ。

 預けていたのは、犖本人。戦場に駆けつけようと走っていた伏黒にバイクで追いつき、手短に状況を説明して拳銃を渡して来たのだという。

 あの拳銃は、元々二丁で一対となる呪具。片方を発砲すればもう片方の持ち主には自然と伝わる。犖は伏黒に敢えて二丁の片割れを渡し使わせることで、領域を展開するタイミングを計っていたのだ。

 伏黒が撃った弾には、犖の呪力が大量に込められていた。

 呪力弾と化したその弾と犖を東堂が『不義遊戯(ブギウギ)』で入れ替え転移させ、犖本人を召喚した。

 犖は、自分の居場所を東堂に携帯であらかじめ送り、伏黒が拳銃を空に向け撃った瞬間に術式を使えと伝えていたという。携帯を見ろ、とはあの戦いの中で伏黒が東堂に伝えていたことである。

 弾丸と入れ替わる形で、戦場の上空に飛び込んだ犖は高めていた呪力を開放して領域を展開し、全員を己の生得領域に引きずり込んだのだ。

 

 領域展開を絶対に敵に悟られないように、犖は考えていた。

 仲間も道具も使えるものはすべて使い、考え抜いてそうしたのだろう。

 それでも、何か一つ間違えば失敗していた賭けだったのだ。

 途中で呪霊に襲われていた犖を助け、戦場に向かう途中で別れたパンダ先輩と日下部先生曰く、犖は「上手くやれば、これ以上死人が出ずに済む。だが失敗すれば全員が駄目」と言っていたそうだ。

 

 犖が開いた『四諦曼荼羅』は、あのときの彼女本人によれば運命を可視化させ、術者が掌握する領域。

 その領域には万象一切を焼き尽くす炎も、あらゆるものを斬り刻む無数の斬撃もありはしなかった。

 闇の中に無数の光が灯り、その光が束ねられた無数の白銀の川が流れていた。

 一見すれば神秘的とすら言えるうつくしい世界だった。小学生のころ行ったプラネタリウムの天の川を思い出させるような、押し包んでくる闇と、闇の中でも見失わない光に満ちた場所だった。

 だがその実態は、運命という概念そのものに手をかけ現実を捻じ曲げる、規格外の呪法である。

 領域を展開する代償は己の生命という重いものだが、逆に言えば生命ひとつを捧げるだけで未来を選択し決定する力と釣り合いが取れるのだ。

 『くだん』が内包し、その器であった犖が引き出したのは、そういう力だった。

 

 その力を持ったまま、犖の行方は途絶えた。

 

 あの炎が墜ちて来たとき、虎杖も他の仲間も皆退避することはできた。

 巻き込まれた非術師たちは助けることができなかったが、確かに呪術師たちはあれ以上一人も死ななかったのだ。

 炎を放った呪霊が、数ヶ月前に五条先生を襲った単眼の炎の呪霊であることは、虎杖にも確認できた。あの呪霊は、街を焼き払った後呪術師たちには目もくれず、白髪に有角の()()()()だけを追ったのだ。

 空に炎が弾け、ビルの表面を融かす劫火が大気を焼き、街は真昼のように明るくなった。吼え猛って炎を自在に操る呪霊に狙われる影は、炎と比べればあまりに小さかった。

 だが、白と黒の少女の姿は、まるですべて視えているように避け、時には呪力の盾で炎を空へかち上げて逸らし、巧妙に逃げ回っていた。

 特級呪霊たちの鬼事は渋谷から代々木公園へ、代々木から神宮球場へ、果てはレインボーブリッジがかかる海上へと目まぐるしく展開した。

 それでも白髪の犖は、どうにか人の少ない場所へ呪霊を誘導していたようにも見えた。だがやはり彼らの通った後は炎が走り、街が破壊された。

 最後には犖のほうが海上へ飛び出し、炎の熱で発生した白い水蒸気を利用して、炎の呪霊の頭に踵落としを叩きこんで海中に沈めたのだ。

 

 犖はそのままどこかへ飛んで逃げ去り、呪霊はすぐさま海中から復活してその影を追った。

 

 特級呪霊二体による鬼ごっこは、それで終わりとはならなかった。

 

 今度は多摩の森林方面に二体は現れ、辺りを焼きながら炎の呪霊は少女の呪霊を追いかけ続けた。いつのまにやら、炎の呪霊の側には氷の呪法を操る呪詛師らしい人影が加勢し、獄門彊を腹に収めた犖は、二対一のまま逃げ回ったのだ。

 ほぼ一日にも渡る特級呪霊たちの追跡戦は、方々に被害をまき散らした。

 呪術師たちは、特級呪霊二体と呪詛師一人の鬼ごっこの道線上に晒される民間人をどうにか助けようと駆けずり回ることになったのだ。

 状況把握をまともにしている暇すら、なかった。

 日が出ようが中天に差し掛かろうが、一向に衰えない勢いで炎の呪霊は攻撃を放ち続け、犖は躱し、いなし、目まぐるしく逃げ回った。氷の呪詛師に動きを止められかけながら振り切って立ち回り、呪力だけで牽制していた。

 まともに反撃するだけの余裕が、犖にないことは一目瞭然だった。あれだけ異常な威力の領域を展開した後休む間もなかったのだから、当然とも言えた。

 かと言って呪術師たちが援護しようにも、炎の勢いが激しく側にすら寄れない。人々の犠牲を減らすことしかできなかった。

 それでも、翌日の夜になってようやく彼らは退いた。

 一瞬の隙をついて炎の呪霊に接近した犖が、その頬を殴り飛ばしたのだ。

 吹き飛んだ呪霊が山に叩きつけられ気絶したその間に、少女は氷の呪詛師を回し蹴りで地に叩き落し、凄まじい速さで空を滑り、一瞬で姿をくらませた。

 

 すぐに復活した炎の呪霊と氷の呪詛師はそれでようやく諦めたらしく、姿を消したのだ。

 

 あとには、方々が壊された街と焼け爛れた大地、森林が残された。

 民間人たちが活動する日中に至っても彼らは退かなかったため、幾人もの非術師が彼らの戦いを見た。

 大半の人間に呪霊の姿は見えないのだが、『視る』力を持っている何人かは彼らを見てしまった。街が壊れたのは、化物同士が暴れたせいだ、とネットの上では大騒ぎになったらしい。

 帳すら下ろしようがなかったのだ。情報統制をしている時間が、ろくろくあるはずもない。人々を避難させるだけで、呪術師たちには精一杯だった。

 炎の呪霊がそこまで執拗に犖を追跡したのは、彼女が獄門彊を持っていたからだ。

 五条悟さえ封じてしまえば、どうとでもなる。人の世を破壊し、呪霊たちが勝利を収めることができるのだ。

 だから獄門彊をこともあろうに飲み込んだ犖を追って追って、追い回した。

 疲弊した呪術師たちがあのとき獄門彊を手にしていたならば、炎の呪霊と氷の呪詛師に奪われていたかもしれない。

 特級術師の九十九由基も駆けつけたが、その彼女も人々の避難に尽力し、こうして特級呪霊となった少女は、獄門彊を持ったまま姿を消したのだ。

 

 しかし呪術師たちには、休む暇もなかった。

 炎の呪霊たちが姿を消した直後、今度は呪術高専東京校が犖によって襲撃されたのだ。

 天元の結界を難なくすり抜けた彼女は、迷いもせずに高専が保有する特級呪具『天逆鉾』といくつかの呪具を奪い、再び姿を消した。

 阻もうとした者は全員意識を刈り取られており、高専周辺をいくら捜索しても、煙のように犖の姿は消えていた。

 ついでとばかり、犖は高専の解剖室に遺体をひとつ安置していった。

 残していったのは夏油傑という名の、特級呪詛師の体。

 夏油傑の遺体からは、脳が丸ごと失われていた。けれど乱入して来た九相図の一体によれば、夏油傑は夏油傑ではなかった。

 その名は、加茂憲倫だという。百年以上前の呪術師の名を、何故か九相図は口にしたのだ。

 九相図の言うことが正しければ、去年五条悟がその手で処刑した彼の肉体に、加茂憲倫という別人が宿って体を使っていたことになる。

 夏油様を取り戻すためと、虎杖に宿儺の指を飲ませた二人の呪詛師の少女たちが言っていたことを、虎杖は思い出した。

 あの二人は本当に、夏油という人間の体を取り戻したくて、宿儺に縋るほどにまで追い詰められていたのだ。

 体を操る術式の要となっていたのは、誰がどう考えてもあの脳だった。そうでなければ、犖はわざわざ頭を開いてとり出したりなどしない。なのにその脳も、犖が獄門彊や天逆鉾と共に持ち去った。

 何もわからない。犖に問わなければ、何ひとつわからないのだ。

 何をどこまで視通して、どうして誰の前にも姿を現さないのか。

 

 犖を追いかけなければならないと頭でわかってはいても、虎杖も他の皆も、高専に戻って犖を追跡し諦めた頃には、疲労でろくに動くことすら覚束なくなっていた。

 途中で参戦してくれた特級術師の九十九はともかく、十月三十一日の夜から渋谷で戦い続けた呪術師たちは、呪力も体力も限界だったのだ。

 頑丈が取り得だと自負している虎杖すら、疲労と負傷が祟って全身が綿のようにくたくただった。拳を握ろうにも、手が勝手に震えて力を込められない。

 歯がゆさに膝を叩こうが奥歯を折れるほど噛みしめようが、どれほど悔しく惨めであろうが、体が言うことを聞いてくれなかった。

 

 全員休めと言ってくれた保険医の家入硝子も、負傷者たちを治し続けた疲労の色を隠せていなかった。半身が焼かれていたナナミンや真人の手に触れられた釘崎すら治療したのだから、当然だ。

 その彼女に、そんな有り様では八咫や五条を見つける前にお前が死ぬぞと言われ、ようやく虎杖は伏黒や東堂と僅かでも休もうとしたのだ。

 

 ところが今度は、これまで姿どころか気配すら見せていなかった呪術総監部というところから、通達が下りた。

 渋谷の事件はすべて、八咫犖準一級術師及び同術師が転化した特級仮想怨霊『予言獣・くだん』が引き起こしたものである。彼女の共犯が五条悟と夏油傑だと、彼らは言ったのだ。それに彼らを唆したとして、夜蛾学長に死刑を宣告した。

 

 怒るよりも先に、虎杖は何を言われたのかがわからなかった。

 どうしてよりにもよって、その二人が犯人になる。先生と先輩がどうして咎められる。夜蛾先生が死刑にされなくちゃならない。

 あり得ないことを、さも当然の真実だとばかりに命令を下す人間がこの世にいることが、虎杖には信じられなかった。

 この判断に伴い両面宿儺の器の処刑猶予を取り消し、即時執行するという通達すら、一時頭の上っ面を滑って行った。

 宿儺の器の処刑を望む人間、つまり五条先生や先輩たちが言っていた『虎杖悠仁を殺したい上層部』の存在は、虎杖も知っていた。

 確かに、宿儺を恐れる人間がいることはわかっていた。宿儺の凶悪さは、虎杖も嫌と言うほど思い知らされている。その宿儺が体の中にいる自分に恐怖し、生かしておけないと思う人間がいるのも、納得はできなくても理解はできていた。

 同じ特級呪物の器の犖も、飄々淡々と他人からの殺意については受け止め、その上で受け流すしかないとばかりに呪術師をやっていたのだから。

 虎杖は、自分を殺したい人間がいることも自分なりに理解したつもりで、受け止めていた。かと言って殺されてやる気は欠片もなく、虎杖はただ彼らの殺意だけを知って、強くなろうと思っていた。それでいいと、思っていた。

 けれど、彼ら人間の悪意を完全に見誤っていたのだ。

 嘘を正しさにすり変え、真実を闇に投げ入れ、邪魔者をすべて葬り去ろうという意図は余りに明らかで、悪辣だった。五条悟は上層部が嫌いで、保守派も五条悟が嫌い、といつか犖が言っていた言葉が、今更頭を過る。

 知ったつもりになっていて、わかっていなかったのだ。何一つ。憎しみすら感じさせるほどに、彼らは容赦がなかった。

 そんな馬鹿な話があって堪るかと、総監部から差し向けられたらしい術師たちに誰より苛烈な勢いで食って掛かってくれたのは、伏黒だった。

 だが、疲弊しきりの呪術高専の術師たちと総監部側のどちらに分があるかは明らかだった。

 

 そこで、物理的に壁を破壊して五条悟が戻って来なければ全員どうなっていただろう。

 一瞬で総監部側を無力化した現代呪術師は、碧眼を露わにし、嵐のような勢いで激怒していた。

 感情を一切こそげ落としたかのような無表情のまま、五条悟はただ手を一振りするだけで虎杖たちを捕縛しようとしていた術師を薙ぎ払った。

 

「……ごめん」

 

 それでも、伏黒や虎杖を振り返った顔には間違いようもない五条先生がいて、どうしようもなく安堵した。

 有体に言って、膝から力が抜けて尻餅をつきかけた。

 

「ごめん。待たせた。詳しいことはラクが伝えてくれたから、ちょっとだけ待ってて」

 

 そう言って五条悟は再び姿を消し、それから程なくして総監部からの命令は書き換えられた。

 八咫犖準一級術師は、渋谷で起きた大規模な呪霊と呪詛師による襲撃とは無関係、五条悟特級術師も同上。夏油傑に関しては、昨年の時点で既に死亡は確認されており今回目撃された姿は呪詛師が操る傀儡。その呪詛師も既に討伐されたと、通達が入れ替わった。

 一から十までが、引っくり返ったことになる。虎杖の死刑も夜蛾学長の死刑も、取り消しになった。

 五条悟がいなければ最悪日本が終わる、と渋谷で先輩呪術師の猪野さんが言っていた。が、戻って来ればすべてが変わるのだ。

 

 五条先生は、戻って来てくれた。それでも、犖は帰らなかった。特級仮想怨霊『くだん』の名が消えることもなかった。

 犖は天逆鉾を突き刺した獄門彊をスカイツリーに放置し、己は消えてしまったという。

 残穢も足跡も残さず、痕跡を拭い去ったかのように。

 

 あのとき犖が無造作に示した抜け殻のような体も、見つけることができなかった。

 炎の呪霊の初撃が直撃した、謂わば爆心地にあったのだ。骨も残さず燃えても、不思議はない。

 だが、同じ場所にあった夏油傑の遺体が高専に届けられていたから、もしかしたら犖自身が回収したのかもしれないと伏黒やパンダ先輩は言った。

 それでも虎杖には、なんとなく違う気がした。

 黒い角に白い瞳をして言葉を話した犖の、あの突き放すような言い方からは自分の体への執着が感じ取れなかった。

 あの姿の犖は夏油傑の体の回収を優先し、己の体は放置した。だから、骨も残さず燃えてしまったとしか思えない。

 何故だろうか。爺ちゃんの骨を拾った日のことを思い出した。からん、と骨を摘まんで落としたときの乾いた虚しい音が、耳の奥に蘇った。

 焼いた爺ちゃんは小さく白くなって壺に収まり、犖の体は腕しか残らなかった。

 渋谷駅の地下構内に、取り残されていた腕だ。床に広がる乾いた血だまりの中に忘れられたように落ちていた、高専の制服の袖に包まれた腕。それだけが、唯一回収できた犖の体だ。

 宿儺が、虎杖の体で千切り取った腕は、その場に落ちたままにされていたのだ。

 あの場にいた二人の呪詛師の少女たちに回収されたかと思っていたのだが、彼女たちは恐らく虎杖を追うことを優先して腕を残していった。

 彼女たちの行方も、犖の行方もそれきり途絶えた。

 呪霊に殺された者は、遺体の一部でも残っていればいいほうだとは呪術師の中でよく言われることだが。呪霊に転化した者の場合も、同じなのだろうか。

 伏黒に預けられていた拳銃も、気づけば春の淡雪のように消えていた。

 拳銃は、核を使用者の体の中に埋め込み、銃を投影する特級呪具『不珠』の一部だった。『不珠』は核さえ無事ならば、壊されようが何度でも投影できる、負担も大きいが効果も大きな呪具である。

 投影武器の拳銃が消えたということは、核が壊れたか使用者の呪力が尽きたかのどちらかで、いずれにしろ犖の手がかりとはならなかった。

 

 すべての糸が途切れても、それでも、誰も虎杖を責めはしなかった。

 

「ラクが何かやらかすのは、わかってたよ。俺たちが会ったときはもう目の色が違うっつーか、目そのものが違ってたしな。ぐるぐる渦巻いてて、違うモンを見てるみたいだった」

 

 人間の姿の犖と最後に会話をしたパンダ先輩は、むしろ申し訳無さすら感じているようだった。

 

「元々あいつは、人間の部分とそうじゃない部分が綱引きして生きてるようなやつだった。まぁそういう呪術師も、ここにゃいるだろ。人じゃないやつとか、色々白黒つけにくいのがさ」

 

 感情を持った突然変異呪骸のパンダ先輩から見て、あのときの犖は、人側の綱が切れた状態だったという。

 きっと、いや間違いなくその綱が断ち切られてしまった原因は虎杖だ。宿儺に奪われた虎杖の体を取り返そうとして犖は死にかけ、死にかけて何某かの扉を開いた。

 それは、先輩が八咫犖であり続けるためには開いてはならないものだったのだ。

 

「でも、ラクはラクだったからな。だから運んだんだけど、まさか特級呪霊になって姿消しちまうとはなぁ。悟のやつが探しても、見つかってねぇんだろ?」

「五条先生が忙しくなったってのもありますけど……はい、六眼で探すのも難しいと言われました」

 

 伏黒が言うように、犖は六眼からも隠れていた。『未来予知』の術者であったころでさえ、本気で逃げ隠れした犖は容易には捕まらない相手だったのだ。

 術式の解釈を広げ、膨大な呪力を持つ特級呪霊となり、『未来決定術式』にまで能力を昇華したなら、最悪『呪術師に発見される未来』を犖は永遠否定し続けることもできる。

 六眼で見れば術式を解けるかもしれないが、因果そのものに干渉され影を踏むことすら禁じられれば難しい。

 戻って来たその日に上層部をふっ飛ばして事態の主導権を握った五条先生本人が、さらに多忙になったことも捜索が進まない事態に輪をかけている。

 渋谷の事件から、呪霊たちが凶悪化しているのだ。

 多くの人々が原因不明に死に、街が破壊されたことが社会に不安をまき散らしている上に、あの屍使いの呪詛師が東京に様々な破壊の因子を仕込んでいたから。

 その因子の場所を、犖は五条先生に伝えていた。

 獄門彊に突き刺した術式破壊の特級呪具、天逆鉾と共に残されてあった手紙に書いてあったという。

 知り得ないはずのことを犖が視通せたのも、『くだん』の術式の一部なのだろう。

 あるいは、あの持ち去った脳を解析するなり何なりして、解き明かしたのかもしれない。

 

 虎杖も伏黒も、それに復帰できた釘崎も、呪霊を祓う毎日に戻るしかなかった。五条先生は、考え込む時間が増えたように思う。

 

 呪術高専の生徒が、特級呪詛師になった事例はこれまでにもあったそうだ。

 だが呪物の器とはいえ人間が、事もあろうに自らの意志で『未来決定術式』を持つ特級呪霊に転化した前例はない。八咫家の親戚筋からも情報が提供されたが、そこにも人に極めて近い『くだん』は発見できなかった。

 本来の『くだん』は、未来を予言して死ぬだけのはずなのに、犖はそれからも逸脱している。

 領域を展開したこと、明確な意思疎通が測れたこと、人間によく似た外見をしていたことからして、犖は通常観測されていた『くだん』とかけ離れている。

 その危険度を鑑みれば、呪術師たちは討伐しないわけには行かないのだ。

 どれほど心が強靭な人間であったとしても、呪霊になればその意識や形は歪む。決して元には戻らないし、犖には戻る体もない。

 事態を聞いて海外から急ぎ帰って来たという二年の先輩、特級術師の乙骨憂太という人はそう言っていた。

 犖曰く、特級の女たらしだというその先輩は、鋭い眼をした刀を使う人だった。

 

「呪いになった人間を、僕は見たことがある。何にしても、僕たちは『くだん』を捕まえるべきだ。それこそ、傷つけてでも」

 

 そういう乙骨先輩の指には、綺麗な指輪が嵌められていた。

 先輩が言うことは、呪術師として正しいのだろう。呪いを祓うのが呪術師で、犖は自身が呪霊であることを否定しなかった。

 白と黒が反転した瞳も、長く伸びた黒い角も、何から何まで人ではない。顔形は人間のころと瓜二つだったが、それすらも器の面影の投影である。

 生得領域で邂逅した宿儺が、虎杖と瓜二つの外見をしていたように。

 その宿儺は、上機嫌だった。

 

「貴様らはあれを殺すことも視野に入れているようだが、言ってやろう。『くだん』相手にそれは下策だ」

 

 乙骨先輩や日下部先生や五条先生が集っている場で、唐突に虎杖の頬に口を開いた宿儺は、嘲笑うように続けた。

 

「あれは、己の生命を対価に運命を決定する呪い。死に際に最もその能力を発揮する。貴様らが仮に『くだん』を殺せば、その瞬間この世に禍いを引き下ろすことを決めるやもしれんなぁ」

「先輩はそんなことしねえよ!」

「ないとどうしてわかる?元より『くだん』は、短命な生を己に強いるこの世そのものを恨み、災いの未来を選ぶものだ。呪いとして生まれ持った性質に、人間のままごとしか知らん者が飲み込まれないと何故言い切れる」

 

 その危険を知りつつ殺すならば殺せばいい、と宿儺は嗤っていた。

 見つけ出すのに手こずるだけで、殺すこと自体はそう難しくないだろう、とも。

 

「仮にあれが人であった己を忘れていなかったとしよう。その状態で貴様ら術師がやつを殺せば、裏切られた『くだん』の恨みは一層深く、濃くなるだろう。絶望し切ったあの獣の呪いがこの世に解き放たれれば、引き起こされる混沌はさぞ面白かろうよ」

「……ッ!」

「何よりも、貴様らはあれが戻って来ない理由を理解できんのだろう。誰も解き明かせんのだろう?それで仲間を名乗るとは片腹痛いぞ、呪術師共!」

 

 そうだなぁ、と宿儺は口を喜悦に歪ませ続ける。

 

「あれを引き戻したいならば、呪霊操術師にでも取り込ませればいい。元が人でも今は呪霊。調伏し、使役できんことはないだろう。それほどの術者が、貴様らの側に残っていればの話だがな」

 

 宿儺は高らかな哄笑を残して沈黙した。

 呪いの王は、未来を呪う力を持った呪霊の誕生に愉悦を覚えていた。呪術師たちが犖を殺すことを、望んですらいるようだった。

 両面宿儺とは、そういう呪いだ。

 

 呪霊は途切れることなく現れ、犖は煙のように掴めないままに時間が過ぎていく。

 単独任務にも行けるようになって、変わらずに呪霊を祓い続ける。伏黒や釘崎や五条先生や先輩たちと時々笑い合って、それでもどうしても一人は帰って来ない。空間が、伽藍と空いている。 

 最後に送ったスマートフォンのメッセージに、既読がつくこともない。犖が最後に送ってくれていた言葉、『頑張れ』のその先が送られてくることも、ない。

 

 その日もそうやって、任務をこなすだけの日になるはずだった。

 呪霊を祓った帰り道、補助監督の人と別れて通りかかった夜の裏路地で公衆電話が鳴らなければ。

 随分珍しくなった緑色のその電話は、路地の隙間に置き去りにされたように佇んでいた。

 何の気なしにその横を通り抜けようとしたとき、不意に電話が鳴ったのだ。

 

 呪力の気配も何もない、ただ褪せた緑色の電話が、無機質な電子の音をうらぶれた路地に響き渡らせる。

 受話器を取ってしまったのは、呼ばれているようだと思ってしまったから。

 向こう側から流れて来たのは、淡々とした鈴を振るような声だった。

 

『───こんばんは。久しぶりね、虎杖』

 

 三度しか聞いたことがない、それでも間違えようのない声に、答える声が詰まった。

 向こう側で、訝し気に息を吐く音が聞こえる。

 

『番号、間違えたのかしら?あなたが虎杖悠仁という名前の呪術師でないのなら、切るわ』

「ま、待って待った!間違ってない!間違ってないから切らんで待って!ラク先輩!」

『……声がつくと、数倍うるさいわね。あなたと東堂、喋るのに勢いがあり過ぎではない?』

 

 それは、眩暈がするほどに変わらない犖の声だった。

 思わず両手で受話器を握りしめる。ミシ、とプラスチックが軋む音が響いた。

 

「ほんとに、ラク先輩?」

『そうよ。証明する手立てはないけれど。浅草雷門へあなたと帽子を買いに行って、不忍池であなたの話を聞いたのは間違いなくわたし』

 

 それはともかく、と犖の声は一度言葉を切ってから、続けた。

 

『あなたに聞きたいことがあるのだけど、虎杖悠仁の兄を名乗る者に心当たりはあるかしら?』

「……は?」

『生き別れの兄でも血の繋がりがなくてもいいわ。あなたの兄を名乗りそうな身内を知っている?』

 

 よーしよーし全然話がわからん、と虎杖は咄嗟に思った。

 とりあえず、正直に質問には答える。

 

「い、ねえよ。俺の家族は爺ちゃんだけだし」

『そうよね。以前もそう言っていたのだし。……ほら、脹相。聞こえたでしょう。虎杖に兄というのはいないのよ』

 

 そんなはずはない!と叫ぶ男の声が、辛うじて聞こえた。

 何が何だかわからない。だがとりあえずこの、人の話をよく聞いているようでいて実はあんまり聞いてない絶妙に傍若無人な感じは、紛れもなく犖だった。

 バクバク鳴る心臓を押さえ、続ける。

 

「先輩、今誰かといんの?」

『虎杖悠仁の兄を名乗るうろんな者よ。煩くて敵わないわ。……って、待ちなさいこら!脹相!』

 

 ガシャン、と前触れなく電話が叩き切られたように途切れる。

 だが程なくして頭上に影が差し、虎杖は電話ボックスから飛び出た。路地を塞ぐように現れたその姿に、虎杖は一瞬で身構える。

 

「お前、あんときのやつ!」

 

 渋谷駅で虎杖が戦い負けた、血液を操った呪胎九相図の受肉体。

 あの混乱の中でいつの間にか行方をくらませていた敵が、そこにいた。

 だが相手には戦意も殺意もない。どころか、その場でわなわなと手を震わせてこちらを凝視しているのだ。

 何なんだこいつ、と虎杖も動きを止めたときだ。

 ばこん、と間抜けなまでに大きな音と共に、目の前の受肉体が吹っ飛んでゴミ箱にぶつかる。即座に頭を押さえて復活した。

 

「……何をする!」

「それはわたしの台詞。突拍子のない行動をしてくれるのは有り難いけれど、考えなしはやめて」

 

 路地の暗がりから、ゆっくりと誰かが姿を現す。

 街灯のひび割れた明かりが照らし出したのは、白の瞳に黒の角膜、色素を失ったような白い髪、額から伸びる長く黒い角。

 狩衣と高専の制服を合わせたような黒い装束に見覚えはなくとも、忘れようのない少女が、そこにいた。

 ただし拳を振り抜いた、たった今誰かを殴り飛ばしましたと言わんばかりの姿勢で。

 拳を振るわれたらしい青年のほうは、一瞬で立ち上がって少女に食って掛かる。

 

「邪魔をするなと言っているだろう、くだん!俺はお兄ちゃんだ!」

「たった今本人に否定されたところでしょう。今のあなたは、殺しかけた相手を弟呼ばわりして頼まれてもいないのに守ろうとする、徹頭徹尾の不審者よ、脹相。わからないの?」

「いや俺にはわかる!虎杖は俺の弟だ!」

「あなたがわかっていないから言っているの。話を聞きなさい、人間体一年未満」

「オマエこそ兄弟も持たない呪霊だろうが!」

 

 何だこれ。

 何なんだコレ。

 こっちを横において、喧々囂々言い合う二人である。

 というか、電話に出て来た脹相ってこいつかよ!と思ったものの、それ以上先に思考が進まない。

 犖に会えたなら言いたかったことが、根こそぎ頭から吹っ飛んでしまった。

 とりあえず誰かに連絡を入れたほうがいいのかと、スマホをポケットから取り出した瞬間だ。

 

「待った」

 

 びり、と軽い痺れが手に走った。

 スマホが手から滑り落ち、地面に叩きつけられる寸前で黒い糸に巻き取られ白い手に収まる。

 

「誰かを呼ばれたら困るの」

 

 ぱちぱちと切っ先から火花を散らせる両刃の小ぶりな短剣を、犖が虎杖に向けていた。スマホを巻き取った黒い糸は、狩衣のような犖の袂から伸びている。

 虎杖のスマホを袂へ放り込んだ犖は、目を細めた。

 

「高専への連絡なら、電話の最中にすべきだったわね。目の前で携帯を取り出すなんて、邪魔してくださいと言っているようなものよ」

 

 やわらかく、課題の誤りを指摘する口調で犖はゆっくりと首を傾げる。

 懐かしさで胸が突かれる。それでも構えは解かずに、虎杖は言葉を選んだ。

 

「ってことはさ、ラク先輩、高専に戻る気はないってこと?」

「ないわ。この不審者があなたについて訳の分からないことを言って理解しないどころか、高専を襲撃しそうな勢いだったから、納得させる必要があったの。大失敗だったわ」

 

 短剣の先で、犖は雑に脹相を指した。

 渋谷で虎杖と戦い、殺しかけた青年の形の呪いは憤懣やるかたないとばかりに犖を睨む。

 

「不審者不審者と言ってどうして信じない。俺は弟たちと血を通して繋がっているんだ。俺が虎杖の死を感じ取ったならば、こいつは紛れもなく俺の弟だ」

「それなら、殺しかける前に気づきなさいと言っているの。殺されかけた相手にお兄ちゃんだぞとすり寄られても混乱するだけでしょう。傍から見ていたら、あなたはただの立派な不審者」

 

 そうなのかとばかりに脹相の視線が虎杖へ向く。

 虎杖は、遠慮なく大きく頷いた。

 

「俺もオマエみたいなやつは知らん。いや顔は知ってっけどさ、絶対に兄ちゃんじゃねーわ」

「……一回お兄ちゃんと呼んでみてくれないか?」

「アンタ俺の話聞いてねえだろさては!」

「一回だけだ!」

 

 直後、ばりばりばりばりぃ、と短剣から迸った白い稲妻が呪胎九相図の長兄に直撃した。

 結構な良い体格の体が吹っ飛び、壁に叩きつけられる。その全身に、袂から伸びた黒い影の糸がぐるぐると巻き付いて捕縛した。

 天逆鉾と共に奪われた特級呪具の中に、雷光を放つ短剣があったはずだ。これがそうか、と虎杖は内心納得した。

 

「しつこい。兄の名を強請れるほど、あなたは虎杖を知らないでしょう。黙っていなさい」

 

 心底あきれ果てたと言わんばかりの眼で、犖は脹相を見下ろしている。

 その顔形は、ひと月と少し前、あの劫火の下で別れたときと変わらない。

 膝裏まであったはずの白い髪は短くなってこそいたが、却って人間だったころの髪型に近づいたように見えた。

 

「ホントに、ラク先輩なんだ」

「そうね。正確には特級仮想怨霊『くだん』だけど」

「ちっとも正確じゃないだろ。ラク先輩の名前、全然入ってないじゃん」

 

 『くだん』と誰かが呼ぶたびに、記憶の中の犖の形がそぎ落とされて小さく縮んで行くような気がしていた。

 何もかもが反転したような姿で、今の犖は目の前に佇んでいる。

 

「あのさ、何で戻って来ないんだ?」

 

 ことり、と犖は首を傾げた。

 

「呪霊だから。人間の体が、もうないから」

「そんだけ?」

「重要なこと。人間の体がないと、人の感覚はどんどんと薄れる。色々と欠けていくの」

 

 わかるように言うわ、と犖は髪を手で払った。

 

「渋谷でわたしは『上手く行けばこれ以上死人は出ない』と言った。知ってる?」

「パンダ先輩は、そう言ってたよ」

「でも実際はどうだった?わたしが漏瑚……あの炎の呪霊から逃げ回ったから、大勢人が死んだでしょう。嘘をついたわけではなくて、あれを言ったわたしは、あなたたち呪術師以外の人間の死を、本気で忘れていたの」

 

 炎の呪霊が街を燃やしたために出た、大勢の犠牲者を虎杖は思い出した。

 語る犖の白い瞳には、揺らぎが一切なかった。それだけで、遠くから語りかけられているような気分になる。

 

「あなたたちのことは、傷つけたくない人間と認識できる。でもそれ以外の、呪術師が守るべき非術師たちのことを、わたしはもう何とも思えない。あなたたちと同じ人間に見えない。それって、少なくとも呪術師としては致命的でしょう」

「……」

「呪術師を死なせないために、非術師の屍を積み重ねて平気な者を、仲間と思える?いえ、呪術師ならば、それを仲間とみなしてはならない。祓うべきであり、殺すべき対象よ。呪霊操術で、手駒にするならまだしも。そしてわたしは、呪霊操術は嫌いだから絶対に嫌」

 

 淀みなく淡々と犖は応えていった。スマホを使って話していたころと答え方が同じで、だから虎杖には何も返せなかった。

 

「いつか必ず、あなたたちはわたしを殺さなければならなくなる。そのときに、あなたはわたしを殺せる?」

 

 犖の手が音もなく伸び、虎杖の手首を掴み、引き寄せる。

 胸の中心、心臓のある場所に犖は虎杖の手を導いた。

 とくり、とそこで動く音を感じた。同時に思い出したのは、自分の手が、小さな心臓を掴み潰した感触。

 考える間もなく、項の毛が逆立った。

 犖の手はすぐに虎杖の手を持ち上げ、手首を離す。ひんやりとした拒絶が、白い瞳の奥に灯っていた。

 

「殺せると、すぐ応えられないならそういうこと。五条悟ならできるだろうけれど、親友に教え子にと、あの人間にばかり引き金を引かせるのもいい加減駄目。だから、戻らない。それにこちらにいたほうが、都合のいいこともある」

 

 短剣から片手を離さないまま、犖は空いているほうの腕を下げた。

 

「あのときも言ったけれど、わたしが宿儺の前に出たのも、人の振りをやめたのも、あなたのためではないわ。だから、あなたが背負うものはないと思うのだけれど」

「だけど、俺が負けなかったら、宿儺には……!」

「いいえ」

 

 違う、と犖はかぶりを振った。

 

「あなたが脹相に勝てていたとしても、宿儺の指を持っていたのは漏瑚。十本以上の指を呪霊たちが手にし、五条悟が戦闘不能になり、東堂葵も駆けつけていないあの状況の渋谷で、あなたが漏瑚に狙われ勝てる未来に、手が届いた?」

 

 渋谷を焼いた単眼の呪霊の炎を虎杖も見ていた。是、とは答えられない。

 

「脹相との勝負の結末関係なく、漏瑚に捕らえられて指を飲まされていたでしょう。あの呪詛師の二人から飲まされた分は省けたかもしれないけれど、十本飲まされればどのみち宿儺が勝っていた」

 

 言葉が喉の奥に貼り付いて、出て来なかった。

 犖の声は、夏の雨のように平坦に続いた。

 

「わたしがあの場に飛び出せたのは、あなたの体を使って宿儺が虐殺を行う未来を視て、知っていたから。知った上で、その光景を見たくないと思ったから。あなたにそういうの、似合わないと感じたから。でもそれはわたしが抱いた欲求であり、願い」

 

 顔の横に垂れる長い髪を、犖は白蝋のような指で耳にかけた。

 犖の言葉には淀みもなかった。本心をあるがまま口に出しているだけで、背伸びも気負いも酔いもしていない。それが、わかってしまった。

 

「今のわたしは、わたしが選んで決めた形。あなたが負うべきものは、ない」

 

 犖が、自分の眼の下を指す。虎杖悠仁が両面宿儺の器になった証である、眼の傷を示しているのだ。

 

「その上であなたは、わたしに対して何かをしたいと思うの?それは、自己満足と言うのではないかしら」

 

 白刃が、ぎらぎらと光っていた。

 虎杖はひとつ、頷く。答えは、決まっていた。

 

「……思う。先輩がそう思ってても、それが本当のことでも、俺は俺が負けたことを許せないから」

 

 白い瞳が、ゆるりと弧を描いた。

 

「そうね。そうよね。そのほうが好きよ。聞き分けの良さも道理も、ここに至っては馬鹿馬鹿しいわ。わたしの思いもあなたの思いも、どちらもあるがままでいいから」

 

 くすりと犖は笑って、指を一本立てた。

 

「それなら、ひとつ、約束をして」

「約束?」

「約束よ。縛りではないわ」

「……わかった。約束、なんだな」

「ええ。約束。いい?ちゃんと覚えなさい。……もう二度と、何より大切な自分を誰かに明け渡さないと約束して。その体を使う権利を持つのはこの世でただ一人自分だけだと、最期まで我を張り通して。これだけよ」

 

 とん、と犖の指が虎杖の胸を突いた。心臓の真上の位置だった。

 

「それが、先輩がしてほしい約束?」

「そう。期限は、あなたが死ぬまで。虎杖悠仁が、両面宿儺と共に死ぬまでよ。できる?」

「やる」

「……持ち掛けておいて言えた義理はないけれど、もう少し深く考えたらどう?わたし、特級呪霊よ」

「先輩は、ひどいことはしないから」

 

 深く、肺の空気をすべて吐き出したのかと思うほど犖は息を吐いた。

 

「ひどいことはしなくても、わたしは人でなし。次会うときには、わたしを殺せるようになっておいてほしいくらい」

 

 犖の視線が、ふ、と虚空を向く。虎杖には見えない何かを探すように視線が動いて、犖は地面に転がしていた脹相を軽々肩に担いだ。

 

「さようなら。縁があったらまた会いましょう、虎杖。あなたたちと見た夢は、それなりに楽しかったわ」

 

 とん、と犖が地面を蹴って後ろに跳ぶ。

 追おうとした靴の爪先の地面を雷光が深々と切り裂き、次の瞬間には犖と脹相の姿は暗がりに飛び込んでいた。

 とぷん、と影が動いてその姿を飲み込む。影が閉じる寸前、額めがけて飛んできたのは虎杖の携帯。

 反射的に掴んだその間に、溶けるように二つの影は消えていた。

 辿れるような残穢も呪力も、においも残っていない。夢幻か、嘘のような邂逅だった。

 けれど嘘でない証拠に、地面にはくっきりと煙を上げる溝が穿たれ、虎杖は犖の言葉を覚えている。

 虎杖の先輩は、確かにここにいた。決して夢でも、幻でもない。

  

「約束、か」

 

 四角く細長く切り取られた群青色の空には、既にほの白い月が姿を見せていた。犖の瞳と、それはよく似た色をしている。

 

「約束は……絶対、守んなきゃな」

 

 もう二度と、裏切らないために。

 でも帰ったら皆にはなんと言えばいいのだろうと、そう思いながら一人歩く。何で止めなかったと、釘崎に金槌片手に追いかけられるかもしれない。

 それでも伝えなければならないと、夜の街を進む。帰るべき、学び舎の方へ。

 いつかまたこんな夜に、月の瞳をしたひとと出会えることを、望みながら。

 

 

 

 

 




完結です。似て非なる二人が出会ってすれ違って、違う道を歩き始める話でした。また何かの折に道は交わるかもしれません。地獄の縁とかで。

角系人外主人公(ヒロイン)チート化と好き勝手にしました。精神体の実年齢考えると、先輩系ヒロインかは微妙ですが。
お付き合い頂き、ありがとうございました。

番外編は、書けたら書くかもしれません。
書きたくはあります。東京校女子トリオの話とか、2年生のときの話とか、親戚との話とか。

以下はおまけの人物紹介です。長いです。




八咫犖
・主人公。渋谷事変にて、未来を呪う特級呪霊『くだん』へ転化。
・身長165㎝程(人間・呪霊時共通)。胸は小さめ。
・人間時は、特級呪物『くだん』の木乃伊を飲んだ器。木乃伊の七つ目を飲んだ際、魂が呪物によって完全に崩壊。体に宿る人格は破壊され、呪物に宿る呪霊を基盤に再構築された。その精神は呪霊混じりの人間ではなく、人間混じりの呪霊と言える。親戚に桜川家がある。
・自分自身や人同士の感情は観察によりある程度理解できるようになったが、自分へ向けられる人の感情を理解できるようにはなれなかった。言葉を自由に話せれば、今少し理解できていたかもしれない。このずれは、他人からするとポンコツに見える。
・無表情は人間の体に魂が馴染んでいない不具合。呪霊化後のほうが感情が顔に乗る。
・人間時は『未来予知術式』の術者。呪霊化後、因果に干渉する『未来決定術式』を持つ。応用として因果を『凍結』した封印術も使う。ただし『未来決定』は術式使用の条件が己の死なので、疑似的な生命の核を呪力で作りそれを潰すことで補っている。人間だったころ自分に仕込まれていた術式からヒントを得たのだが、大変面倒。大規模な未来を決定するには、本当に生命を捧げなければならない。
・他人の因果にも干渉できるようになったため、能力の試しも兼ね渋谷で負傷した呪術師たちの因果を『回復』方面へ弄っている。
・『未来視』『過去視』は『未来決定術式』の副次的な産物だが、視るだけならば生命を潰す必要はない。
・特級呪霊となってからは、諸々言いくるめた脹相と組んで加茂憲倫(仮)が残した呪霊や呪物を処理している。伏黒津美紀にもいずれ会う。
・冷静沈着に見えて享楽的な刹那主義者だが、視た未来に囚われ無気力かつ無感情になるのを恐れる反動。精神が死なないよう、自分に選択肢を増やしてくれる他者と関わる必要があり、現時点では脹相と行動を共にしている。
・彼が虎杖を弟と呼ぶからくりにも気づけるが、気にしない。虎杖悠仁が仮に宿儺の玉座となるため仕組まれた存在であっても、犖にとって虎杖悠仁は虎杖悠仁以外の誰でもない。
・完全に殺していない加茂憲倫(仮)の脳を所持。呪霊や呪物を処理するため必要なのだが、早く捨てたい。
・自分が死んだら銃の呪具を譲る、と真希と約束していたのだが、漏瑚の炎で体が焼けたとき壊れたため残念に思っている。
・虎杖悠仁は眼で追いかけてしまう後輩、五条悟は一応恩人。東堂と冥冥は付き合いやすい他人。東京校女子同士の仲も悪くないのだが、波長が最も合うのはパンダ。
・呪術師と会う可能性を術式で潰しているため、呪術師側からの接触がほぼ不可能。六眼で解析されないよう、とりわけ五条悟を警戒中。親友が特級呪詛師に、教え子が特級呪霊になるとはあの最強も大変な人生だなと思いつつ、会う気はさらさらない非人間。呪霊呪物の情報だけは東京校へ一方的に送りつけている。
・呪霊化した後は高専からパクった雷光を放つ両刃の短剣と、影を渡る呪具を使用。

・五条悟の封印を、もう少し早く解除することもできた。が、上層部が判断を下すのを待っていた。彼らが予知を覆せるか試したのだが何も変わらず、自身の精神の問題だけでなく高専の外にいたほうが選択肢が増えると判断し、呪術界から離反した。
・仮に負の感情を抱いて死ぬと、大厄災の未来を決定しかねない。それ故、絶望させてから殺したいと宿儺に狙われている。とはいえ当人は仮に仲間だった高専の術者に殺されても、『呪霊を狩るのが呪術師の仕事』と割り切れる。
・呪物や呪霊の封印に呪力の大半を割いているため、単純な戦闘力は大幅に弱体化中。
・殺せば術式が暴発すると目され、呪詛師側に呪霊操術師がいれば取り込まれる可能性もなくはない呪術界にとっての地雷。多分、獄門彊に入れとくのが最適解。
・元来の『くだん』は、未来を選択しすぐ死ぬだけの自我も覚束ない短命な呪いだが、八咫家が人と混ぜ合わせ、五条悟が人の世に連れ出し、虎杖悠仁が関わり、宿儺が死の縁へ追いやったため覚醒し、類を見ない自我が発達した『くだん』が爆誕。要因多々あれど、大体は八咫家と五条悟のせい。

東京は壊滅していませんが、漏瑚裏梅生存中かつ、傾国レベルの災いを招来可能な特級呪霊がうろついてるので、危険といえば危険です。
後輩は結局、先輩を獣とは呼べませんでした。

ここまで読んで頂き、誠にありがとうございました。
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