ひげを剃る。やはり社畜の俺が女子高生を拾うのはまちがっている。 作:ステ
家の中では結構だらしないとこあるけれど。
『じゃ、行ってくるわ』
黒いスーツ、水色のワイシャツ、青いネクタイ、それを着こなしている比企谷さんの背筋はピンと伸びている。家の中で心配になるくらいの猫背なのは、仕事でちゃんとキリッとしているからこその反動なのだろうか。
彼が家を出て、急に静かになった気がする。
元々、自分からはあまり話さない人だけど、こっちから話してて、気が楽で、楽しくて。まあ、たまによくわかんないことも言うけど、むしろそれがないと味気ないというか。
「……よし」
小さく呟いて、玄関からリビングに戻って、私はまずテーブルの上にある食器を重ねていく。ご飯粒が1つも残っていない、そんなお茶碗に、なんだか頬が緩んじゃう。
同じ家に、1週間以上滞在することは珍しくことではない。けれども、『いつか』が来ることは分かっている。いや、いつか出て行かなければならないのだと、ちゃんとわかっている。
例えば、彼に恋人ができたときだ。
でも。
このぬるま湯が、気持ちいい。
お皿がカチャカチャと鳴る音は、静かさを紛らせる。
お礼とか感謝だとかを言ってくれることもあるし、言われなくてもなんだかわかる。彼の不器用な優しさは、ほんとあざとい。調子がくるうし、責任を取ってほしいくらいだ。
お皿洗いも終わり、再び布団を床に敷いて寝転ぶ。
電源を付けた携帯は、4月23日を表示しており、平日の終わりの金曜日だ。なんとかフライデーってわけでもないし、今日は飲み会があるって言ってたし、ともかくとして、比企谷さんの帰りは遅くなると言っていた。
となると、夕食の献立を考える必要もない。
今日は、1日暇ということになる。
「描こ……」
『誰かのために』というわけではなく、『自分のために』
比企谷さんを思い出しながら、アニメ風に、デフォルメっぽく。
寝癖のアホ毛だとか、ぬぼーっとした目だとか、そういうとこが彼の特徴的なところで、私的にチャームポイントだ。男子に『かわいい』とか言うと、微妙な顔をされるんだけれどもね。
「はやく帰ってこないかなー」
まだ、1時間も経っていないから、ウケる。
昔も、他の男の家も、『1人でいる時間』のほうが、ずっと楽で、自由気ままに過ごせる時間だった。もしこんなお兄ちゃんがいたらなー、と小町さんが羨ましくなってきた。
だから、比企谷さんに恋人ができた時には、出て行こう。
私は、妹でもなんでもないから。
****
黒塗りの高級車から、慎重に降りる。
「まったねー、比企谷くん」
「こちらこそ、どもです」
葉山のやつに覆い被さるくらいに、身を乗り出して、こっちに手を振ってきた。そういう子どもっぽいところは相変わらずのようだが、わかっててやってそうなのが、雪ノ下家長女である。
「比企谷、今度またラーメンな!」
「わかってますよ」
別れの言葉なのだが、また会う予定をこじつける。こういう男勝りなところが婚期が遅れた理由なのだろうが、ほんと平塚先生を貰ってくれる人がいてよかった。
微笑んで、まるでお嬢様のように、軽く手を振っている雪ノ下のお嬢様に、軽く手を挙げておく。言葉を交わさなくとも『また会おう』という意味だ。すでに家に送られた由比ヶ浜も含めて、季節が廻ったとしても、関係は続いている。
雪ノ下の、その奥にいる、若い運転手さんが会釈すると、車内の灯りが消えた。再び、雨の中を、その見るからに高級車が走っていく。雪ノ下姉妹に呼び出され、『お勤めご苦労様です』、と言いたいくらいだ。
すでに22時で、いろははどう過ごしているだろうか。
待っているのか、それとも寝ているのか。
便利な電子ロックで鍵を開けて、家に入ると、電気は付いていない。
またうなされているのかもしれないと、あまり物音を立てないようにして、リビングに向かう。
布団は綺麗に畳まれていて、スーツケースも置いたままだ。
「靴……」
急いで、もう一度、玄関に向かった。
まず前提として、玄関からして電子ロックだから、そう簡単に不法侵入されることは考えられない。使い古したローファーがない。それに、俺が普段から使っている、黒い傘がない。
「あいつまさか……」
もしかすると、入れ違いになるかもしれない。
こういうときに、連絡手段がない。
苛立ちを覚えてしまう。
手段を用意していなかった俺に、非がある。
****
雨で前が見えない。
それに、やばい、電池が。
「いま、何時……」
ああ、もう。
最近、充電切れるのが早くなってたけど。
充電器は家に置いてきちゃったし。
「かんぜんに、迷子……」
いくらなんでも、バカをやった。
「はぁ……」
見つけた公園で、ベンチに座り込んだ。濡れた感触がイヤだけど、仕方がない。ここで朝まで待って、見覚えのある場所を少しでも探すことにする。まあ、戻らないべきなのかもしれないけれど。
傘を持ったまま、だから、寝転ぶこともできない。
雨宿りにでも駅に移動するとしても、補導されちゃう。
比企谷さんが言っていた焼肉店は、駅前くらいしかないと調べてわかっていた。そもそも、人通りの多い駅前で、比企谷さんを見つけるのは難しいことはわかっていた。
でも、気になったのだから仕方ない。
あの人付き合いが微妙そうな比企谷さんが、少し嬉しそうに、飲み会に行く、って言っていたから。比企谷さんと、比企谷さんと一緒にいる人を見て、帰る。それだけだ。
良くも悪くも見つけることはできた。もう1人男の人がいたけど、綺麗な女の人たちに囲まれる、比企谷さんがいた。特に、白衣を着ていて目立っている人とは、これでもかっていうくらい楽しそうにスキンシップをしていたし。
あんな人たちがいるなら、私を『女』として見るはずがない。
そりゃあ、優良物件の比企谷さんを放っておくわけないだろう。
私は、いつか比企谷さんが幸せになるためには、邪魔になるとわかった。あの人たちに踏み込むことができるわけないし、過ごした時間も圧倒的な差があるのだろう。もし人に優先順位を付けるとしたら、私は選ばれない。
今まで、『私のために』終わらせてきた居候だけど、初めて『誰かのために』終わらせようとしている。袖で抑えた目に溢れている涙は、何が悲しいのか、自分でもよくわからない。比企谷さんに恩返しができるなら、嬉しいはずなのに。
ほんと、きらい。
「家出?」
なんだか、ぶっきらぼうに、声をかけられた。
女性の声であることに、複雑な感情が芽生える。
「お姉さん、大丈夫ですか?」
私は涙を拭う。
たぶん、中学生くらいで、お下げの女の子が心配そうにしている。その隣には、スーツを着て、綺麗な長い黒髪をポニーテールにしている女性がいた。なんというか、女子から見てもかっこいい感じの美人さん。
「その、どこに帰ったらいいか、わかんなくて」
言うことに迷って、出た言葉だ。
半年以上前に出た家なのか、比企谷さんの家なのか、それともまた新しい居場所なのか。
「お姉さん、迷子なんですか?」
「うーん、そうかも」
この歳になっても迷子って、中学生からすると笑い者だろうか。でも、目の前の女の子は、不安そうに、たぶんお姉さんの顔を見ただけだ。
「帰る場所があるんなら、良かった。1時間だけだよ」
そんな不器用な優しさを、くれる人がまた現れた。
隣にあるベンチに、姉妹揃って腰かける。
「……ありがとう、ございます」
「別に、仕事の範疇だから」
「けーかも大丈夫ですよ。塾の帰りなので」
まるで、お姉さんの照れ隠しが比企谷さんみたいで、妹さんの優しさが小町さんみたいだ。
「あの、お仕事って?」
「これでも、教師やってるからね」
「高校の先生なの!」
ああ、なるほど。
確かに似合っている。
「うらやましいです、あなたみたいな人が先生で」
「私のできる範囲でしか、やってないけどね」
その大人っぽい表情は、どこか達観している。
「してあげられないこともいっぱいあるよ。
子どもたちの家のこととか、特にね」
「……でしょうね」
昔の私がそうだった。
なんだか、保護者のほうが上みたいになってるし。
先生も、強くは言えない立場なのだろう。
「でも、今の保護者みたいな人は、信じられないくらい優しい、です」
「なのに、家出したの?」
『家族大好きです』って感じの妹さんは、少し表情を明るくして、だからこそ不思議そうに聞いてきた。
「無条件な優しさって、こわくないですか?」
まだ、媚びる男子とか、冷やかす女子だとか、そっちのほうが上手く対処できる。
「ものすごく優しい人なんですけど、でも、優しい理由がわからなくて……。そんな人からも愛想尽かされちゃったら、なんかもう立ち直れなくなりそうで……」
彼女でもないのに、家出した女子高生を泊めるって、そんなの善意だけでしてくれるはずはない。そして、もしも、彼が善意に溢れる人間だとして、彼が私を嫌いになったのなら、どれだけ私はダメなやつなのだろう。
彼女がいるのに、妹でもなんでもない異性の居候を作ったままだなんて、あの責任感が強い比企谷さんは、苦しむに決まっている。
「こういうとき、あいつらなら、どうするんだろうね」
お姉さんは、そう呟いた。
「根っからの優しいやつらは結構いる。そういうやつに限って、不器用、ド天然、孤高、あと女王様気質、だったりするんだけどね」
この2人や比企谷さんを入れて、7人。
なんだ、結構いるものらしい。
「それに、優しすぎるのもいいけど、『待たないで、こっちから行く』くらいの気概じゃないと。何もしないまま、望むものが手に入らないやつもいる」
手のひらに顎を置くように、背を丸めて、そう呟いた。
「ま、動いたところで変わらないものもあるみたいだけど」
「じゃあ、がんばっても、意味ないんじゃないですか」
思わず、語気が強くなってしまう。
自分にいら立つ。
半年間がんばってきたけど、無駄かもしれないと。
「徒労に終わるかもね。まあ、それでも何かは残ったんじゃない?」
その言葉は、一体、誰に向けられたのだろうか。
この女性は、どんな素敵な人と会えたのだろう。
「その人のこと、その、好きだったんですか?」
「……べつに」
わかりやすいなぁ。
「え~、ほんとにござるか~?」
「ほんと~?」
「けーちゃんまで……」
けーちゃんというらしい妹さんが、お姉さんの向こうからニコニコと顔を覗かせた。こうやって、静かな空の下で、外で過ごすことは多いけれど、久しぶりに誰かといられる。根っからの優しい人みたいだし、選択肢として、『この人たちに付いていけば』なんて考えてしまう。
「お姉さんは、好きなの? えーと、家族? 彼氏さん?」
「好き、ではあるかな」
嫌いではないのは確か。
ならば、その反対で、好きでいいのか。
「お姉さんの言う、すごく優しい人なら、悩んでること、ちゃんと聞いてくれると思います」
「まあ、たぶんね」
警戒心は結構強いみたいだけど、過保護すぎると思うくらいには優しい。でも、そうか、あれだけ過保護になってくれているのは、少なからず、信用だとか、信頼だとか、してくれているのだろう。
どれだけ、心配をかけてしまっているか。
怒るんじゃなくて、ちゃんと叱ってくれそうだ。
「お姉さんも、信じてみようよ」
「うん、がんばってみる。だから、その……」
その後、お姉さんの携帯を借りて、だいたいの方角を確認する。元々、あちこちをうろつくことは、そう珍しいことではない。方向音痴って、実際には会ったことないけど、いるのだろうか。
お姉さんたちは送ってくれるみたいだったけど、そこまでお世話になるわけにもいかない。
どうにか、補導されないように、家に、帰らないと。
「またね」
「気を付けなよ」
「ありがとうございました。それでは」
近所迷惑にならないよう、声を抑えて、2人と別れる。雨は相変わらずだけど、ここが千葉で、4月末で、温かくなってきたから助かった。冬になる前に、関東に入っておいてよかったと、過去の私を褒めたいくらいだ。
いい人たちだった。
千葉に住んでいる時に、また会えるかもしれない。
その時は、またお礼を言おう。
そして。
「いろは、か……?」
びしょ濡れで、スーツのままで。
「いや、その、ごめんなさい」
言うことに困って、傘を差し出す。
まさか探しにくるほど、感情的な行動をするなんて。
「まあ、なんだ、無事でよかった。わるかったな」
「どうして、謝るんですか」
私から受け取った傘で、私と一緒に入る。
相合傘なんて、初めてだ。
「こういうときに、連絡手段を用意していなかったこと、だな。時計や辞書にも便利だしな」
「それがその、持ってるんです、携帯」
言った。
言ってしまった。
「その、勝手に、Wi-Fiとか使って、充電とかも」
常に持っているスマホを見せる。
取り上げられないって、信用してる。
「いや、まあ、それはいいけどな。ていうか、そうか、ネットに繋がってないのか……」
怒ることはなく、呟くようにそう告げるだけだ。
ほんとう、どんなワガママも聞いてくれそう。
「それは追々だな。ひとまず帰るか」
「なんですか、ほんとう……」
ほんとう、好きになってしまいそうだ。
これはあくまで自分より、こっちに傘を向けてくるせいだけど。
比企谷さんの隣に近づいて歩く。
「明日、休みの日ですよね」
「たぶんな」
雨に濡れた匂いに、焼肉の匂いが混じっていて、明日は高いお肉でも食べさせてもらおうかなって思って。
ワガママを言ってみようかなって。
そう思った。