アグネスは大変聡明な皇女であったが、望んでそうなったかというと、絶対に違った。娘が知識をつけることを皇帝が望み、多くの教師をアグネスにつけた。音楽、乗馬、歴史、文学、政治、軍事……その他、数え切れぬほどたくさんの分野の教師を、である。
最初の頃は興味のない分野をアグネスはまともに学ぼうとしなかったのだが――いつからか常軌を逸した庇護を自分に向けるようになった皇帝は、娘が成長していないと認識すると、その分野の教師を破滅させていることを知ったからである。
その分野の教師自身の地位身分を喪失するというのならまだマシで、即座に死刑されることもあったし、ひどい場合には教師の親族にまで被害が及び、連座で死刑に処されたり、思想犯罪者扱いされて矯正区収容所に送致されていることもあった。
それを知ってからのアグネスは、どんな分野の教師の御進講でも必死になって聞き、内容を理解して自分のものにしようと努力した。自分の不真面目さのせいで教える側の人の人生のみならず、その周囲の人々まで破滅してしまっているなど、優しい彼女には耐えられることではなかったのである。
……それでも、彼女の勉学の努力が足らなかったのか、必死の努力をしても伸び悩みを抱えることがしばしばあって、十数人かの教師が父帝の怒りを買って『断罪』された。彼らがどうなったのか、そう考えるたびにアグネスの胸は罪悪感でいっぱいになるのである。
その罪悪の果てに得た叡智に比例するように、皇帝は娘にさまざまな地位を与えた。帝国軍大将、軍務省高等参事官というのも、そうして得てしまった彼女の罪深い肩書きのひとつなのであるが……
「お願いでございます! 殿下、どうか私にお力添えをォ!」
「リューデリッツ伯爵、落ち着いてくださいまし……」
そんな自分の力を頼って頭を下げてくる老軍人がいる。セバスティアン・フォン・リューデリッツという名の将校で、アグネスにつけられた軍事の教師の一人であった人物であり――巷で「父帝の寵愛を傘にきた残虐極まりない【滅びの皇女】」と噂されている自分が、兄と並んで注意を払いつつも気を許している一人である。
リューデリッツも当初はその噂を信じていて、絶望しきった状態でアグネスに軍事理論の教育を行ったのだが、教育しているうちに噂との齟齬に気づき、一人の人間としてアグネスを尊重してくれるようになったのである。
「落ち着いております。落ち着いておるから、こうして頼んでおるのです」
「前にも言いましたが、もっと正規の手段では無理なのですか」
「試しました! そりゃあ、試しましたとも! ですが、もうこれ以上は、時間的余裕が失われてしまう! 我々帝国軍が叛徒どもの領域に大きく勢力圏を食い込ませている今の内でなくば、イゼルローン回廊に要塞を建設することはできない! そのためにはこれ以上、陛下の翻意を促すために時間を浪費するわけにはいかぬのです! ですので、どうか、殿下のお力添えをォ!!」
リューデリッツの言いたいことは、アグネスにもわかる。たしかに今の機を逃せば、イゼルローン回廊に要塞を建設できるほどの軍事的優位を帝国軍が叛乱軍に対して維持し続けられるかどうか。昨今の自分のところにあがってきた前線や情報部からの報告から、そうアグネスも認識していた。
だが、軍事がどうとかいう話以前に、アグネスは賛成にせよ反対にせよ、自分の意思を表明などしたくはなかった。
「伯爵、あなただから言いますが、私はどのような形であれ、自分の意見を公的にしたくありません。そうしたら、どんな形に自分の意見が転がり、それでお父様がお怒りになられ、たくさんの人が死ぬなんてことになりかねないからです。それに要塞建設時に思わしくないことがあれば、きっと提案者である伯爵が……」
「そんなもの覚悟の上です! 私と私の一族の命運と、帝国の命運を比すれば、どちらに天秤が傾くかなどの自明の理でございましょう! それに殿下が民草を思いやる優しい心の持ち主であることを臣はよく心得ておりまする。帝国軍の優位が確立し、帝国本土が叛徒どもに蹂躙される可能性が激減するとなれば、民のためにもなりましょう。ですから、どうか」
「…………それでも私は伯爵をそんな危険な状況に置きたくありません。もしもそれで伯爵もいなくなったらと想像してしまうので、いやです」
ほとんど哀願に近いアグネスの言葉で少しだけリューデリッツは動揺したようだが、それでも瞬時にそれを押し殺した。
「用兵のなんたるかを弁えない不届きな叛乱軍の連中相手ならともかく、軍事土木や補給計画で常に大きな成果を出してきたことを、殿下はご存知ではございませぬかな。なに、この程度の要塞、何の問題もなく建設してみせますとも。どうか、殿下は私の才幹を信じて、陛下に賛同の意思を伝えていただけませぬか」
そう言われるとリューデリッツの実績もあって、アグネスは悩んだ。たしかにリューデリッツは実戦家としての才能を大いに疑問視されている人物であったが、戦略眼や補給兵站に関しては高い評価を軍内で受けている人物でもあったのである。
父帝に対する恐怖、ないしは自分が意見を表明することに対する恐怖。リューデリッツへの信頼。帝国軍将兵に対する慈愛の心。さまざまな感情が複雑に混ざり合い、一時間近く懊悩した末、アグネスは決心した。
「……わかりました。イゼルローン回廊に要塞を建設する計画に、私も高等参事官として賛同しましょう」
「ありがとうございます、殿下!」
あれから数年後、新無憂宮に備えられた薔薇園においてアグネスは薔薇の世話をしていた。
「リューデリッツ伯爵、だから私はあんなにいやだと言ったのに……」
要塞建設に際して当初の予算を大きく超過したということで、セバスティアン・フォン・リューデリッツ伯爵は責任を取る形で皇帝に自裁を強要させられて、ヴァルハラへと旅たってしまったのである。
まったく、あの自信満々な態度は何だったのかしら。あれのせいで、私は信じる気になってしまったし、だからこそ恐怖を押し殺して軍務省高等参事官としてリューデリッツの計画に賛同の表明をしたのに。伯爵は私を騙したのかしら。
「違うわ。悪いのは私だわ。いくら頼まれたと言っても、最終的に決めたのは私じゃない」
ドロドロした自分の黒い感情を感じ、それを拒絶するように、自分に言い聞かせるかのようにアグネスは独語する。こんな気分になった時はそうしなければ、とても自分を維持できる気がしない。いつもの発作みたいなものである。
「でも不思議ね。悲しいと感じているのに。ちっとも涙が零れそうにないのよ、伯爵。これは慣れなのかもしれないけど……」
涙など枯れ果てたとは思っていた。自分が泣くたびに、側付きの従卒が父帝の命を受けて殺されるようなことが続いたのだから、涙が流れそうになるのを堪える労力が必要ないのは良かったとは思う。
しかしそれなりに心を許していた恩師が死んだというのに、涙がまるで流れないのはどうかという気持ちもある。そこまで、自分は人形になってしまったのかと。
ましてまるであてつけかのように、父帝からの勅命により彼女の軍における罪深い肩書きは変化していた。帝国軍上級大将・イゼルローン方面軍最高司令官。要塞が完成した暁には、要塞司令官と要塞駐留艦隊司令官の二名の上に君臨することになるポストだとか。
これについて軍内での風評は、彼女の耳にも届いてきていた。「殿下は恩師の功績を力ずくで奪って今の地位を手に入れたのだ。本来であれば、そのポストはリューデリッツのものであったろうに。【黒薔薇の冷血姫】のおそろしきことよな」――こうしたことを聞いても、頭ではひどいと思うが、心は揺らぎそうもないのである。
薔薇の世話を一通り終えたアグネスは手を洗おうと手洗い場へと向かい、手を洗いながら何気なく正面の鏡を見た。
「ひっどい笑顔……」
鏡に映った、歪に引きつった自分の笑顔を見て、アグネスは空虚に呟いた。
担当はクライス