パラダイスロスト   作:緑川蓮

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 こんな救えもしないまま、月は滲む。

 

 

 

 

 

 

 まだ昼と呼ぶには、少しだけ早い時間帯だ。

 そこらで猫たちも気ままに背筋を伸ばしたり、後ろ足で首元を掻いたり、大口を開けて欠伸なんぞ繰り広げている。

 店の主であるアーテルも、控えめな刺繍の入った布巾で静かにコーヒーカップを磨いていた。

 だからこそいきなり大きな音を立てて戸が開かれた方へ振り向いた。猫たちも背筋を跳ね上げて、午前の陽光が差す出入り口へ目を見開く。

 

「さあ颯爽と新たな虐殺者がエントリーだ!」

 

 高々と言い放った声の主は、ブロンドの髪をポニーテールでまとめ上げた少女である。青空色のオーバーサイズなダッフルコートに身を包み、快活な笑顔でずんずんと店内へ行進する。

 

「猫達よ、この僕を蹂躙できるものならしてみるが良い。僕はその悉くを撫で回し、おひさまの様なおなかを吸い尽くしてみせよう。今から撫で回すぜ。小便は済ませたか? 神様にお祈りは? 部屋の隅でガタガタ震える準備はオーケー?」

 

 言うが早いか2秒後に、彼女は飛びかかる猫たちの洗礼を受けた。

 小柄な少女が真後ろに打ち倒される。ぐわーっ、と迫真の悲鳴を上げながら後頭部を木造りの床へ強かにぶつけた少女は、見る見る間に襲いかかる毛玉で包まれていく。

 アーテルが呑気な足取りで駆け寄る頃には、人型を模した猫のコロニーが出来上がっていた。

 

「お久しぶりねェ。このところ姿を見せなかったけれど、このコ達は貴女を忘れていないみたいよォ」

「……ッモモガ、モガ……」

 

 返事代わりに窒息寸前のうめき声が、申し訳程度に溢れる。

 

「元気にしていたかしらァ、ライレア」

 

 アーテルは慈愛に満ちた眼差しを向けながら、しゃがみ込む。それから赤子をあやすようになだめながら、ライレアと呼ばれた少女の、ちょうど口元あたりに居座っていた猫を引き剥がす。

 

「らー! なにしろ年中無休の健康優良不良アークスなので!」

 

 口周りだけ開放された毛玉が、威勢の良い声で高らかに宣言する。

 アーテルの黒いリップが塗られた口元から笑みが溢れる。

 ふと脳内に去来するのは、どうしたって過去の記憶だった。それに比べれば、今ここで繰り広げられる光景は、陽光が照らす草原で過ごす一時のような……そんな穏やかな、きっとフラアウスも望んでいた平和だ。

 

 

 

 

 

 

 アーテルは元を辿れば虚空機関の、それも一室の室長たる研究員だった。

 虚空機関といえば、かつて実質的にオラクルの全権を握っていた研究機関である。計り知れない力を持つルーサーを筆頭として、数多の非人道的な研究さえ厭わない、アークスの最暗部として君臨していた。

 何しろアークス史上最悪の犯罪者と名高い『共食い』ニウェウスが……アークスの肉を食し、それを至上目的とする異常者が幹部として君臨していた組織である。組織の実態も推して知れようというものだ。

 当時のアーテルは辟易していた。燦然たる大義を掲げながら学を尊び、知を磨き、半ば狂気に近い学問追求の果てにたどり着いた聖地が、血みどろな白い地獄であった事に。

 だからこそフラアウスという後輩に目が眩んだ。

 

「むう……分かんない」

 

 まだ男性と女性の境界が入り交じる前のアーテルと、隣で満面の笑顔を浮かべるフラアウスが、白い部屋の入り口で並び立っている。

 部屋では2人の少女が頭を突き合わせ、まるで部屋そのものみたいに真っ白なジグソーパズルの盤面とにらめっこしていた。

 

「分かんないよぉ……ここまでは間違ってないよね、でも……ここから先が……どのピースをはめたらいいの?」

「ひょっとしてアズレア……そこは、このピースじゃないかな」

 

 アズレアと呼ばれた少女は、もうひとりの少女が差し出したピースを見て、パッと途端に曇らせていた表情を明るい笑顔に変える。

 

 

「おお……さっすがお姉ちゃん、きっとそれだ!」

 

 嬉しそうにピースを指先で受け取りながら、アズレアは得意げに盤面へはめ込む。

 

「今日は……ジグソーパズルか」

「そうですパズルです。まあ、とは言っても……研究室の中ですから、真っ白のヤツとかいう殺風景で意地悪なモノしか無かったんですけれどね……」

 

 どうしてこう虚空機関の中は、遊びっ気がないものしか置いていないのか。そんな今更にも思える呆れを含んだ苦笑で、フラアウスはアーテルの言葉に応じる。

 元より、ここで行われているのは非人道的な研究だ。実験体たる子供達の待遇も、実験の際に「使い物にならない程まで壊れしまわなければ問題ない」という程度の認識でまかり通っていた。

 人の心とは強い。生まれてより一度も幸福を知らなければ、どれだけ傍から見れば「不幸」と断じられてしまう境遇に置かれようが、荒みはすれど折れはしない。

 今こうして彼女たちが娯楽に興じているのは、単にフラアウスの天才的な(研究者達に対する)人身籠絡と説得が功を奏したからである。

 あの真っ白なジグソーパズルも、元々は研究員達が息抜きをするために、休憩室に備え付けられていたモノだ。

 実際のところ、それすら研究員たちの憩いには成り得ない。ここに集う研究者達の頭脳であれば、そんなパズルは解けて当たり前なのだ。淡々と指先を動かしていく作業に成り下がる。

 

「ああっ……また分かんない……ム~、お姉ちゃん助けて!」

「全くもう、さっき助けたばかりだよ。ほら、そこだけ見るんじゃなくて……もっと全体を見てみなよ」

 

 頭を掻いて可愛らしい癇癪を起こすアズレアに、姉は口元へ手を当てて苦笑する。

 まるでオラクルの市民が暮らす家庭で繰り広げられるような、あまりに他愛の無いひとときだ。アーテルは長らく目にし得なかった光景が、身に沁みるように思えた。

 アーテルの気持ちを察していたのだろうか、隣へ視線を移せば、そんなアーテルをフラアウスが慈しみを湛えた微笑みで見ていた。

 この時すでに、アーテルはフラアウスから、実験体である子供達も巻き込んだ脱走計画を持ち掛けられていた。

 あの共食いニウェウスの目から潜り抜けた先に、これほど穏やかな、日だまりの中でまどろむ様な日々が待っているというなら。ことさら覚悟も決まるというものだ。

 アーテルは額の真ん中で分けた短髪を指先で撫ぜて、ひとつ、静かな笑いまじりの吐息をこぼした。

 

「さて……ここからは僕達大人組も混ぜてもらおうか」

「待ってました。ねえねえ、アタシ達も混ぜてよ。一緒に作ろ?」

「こっちこそ、待っていましたとも。さすがに僕だけじゃあ、アズレアのお世話に手を焼いていたんだ」

「ちょっと、手を焼くって何よ、お姉ちゃん。よし見ててよ、ここからはアズレアも本気を出しちゃうんだから!」

 

 今度は少女2人と、大の大人2人が盤面に向かって、眉間に皺を寄せつつ頭を突き合わせる。

 それから何時間が過ぎた頃だろうか。真っ白なジグソーパズルはその完成に至り、アズレアが勝利の証とばかりに、満面の笑みで埋まった盤面を高らかに天へと突き上げた。

 アズレアの姉も、アーテルも、フラアウスも、嬉しそうな笑顔と共に拍手喝采を贈った。アーテルだけは「いい大人がこんな事で喜ぶなんて」と、ふと現実的な脳内の叱咤に曇りかけたが……すぐに振り払って、ただ今の温もりを噛み締めた。

 

 

 

 

 

 

「お姉ちゃんに会いたいな……」

 

 アズレアは黒い、汚れひとつ無いほどに磨かれた黒壇のテーブルへ突っ伏しながら零した。

 そろそろ酔いも回ってきた頃である。

 実際のところアズレアは少女と呼ぶべき年頃であるし、だからこそファンにも「酒精も喫煙も嗜まない清純派のアイドル」として通している。そもそも身体をキャスト体に換装しているから、酔いが回るという概念すら有り得ないハズだった。

 しかしそこは(少なくとも地球人からしてみれば)テクノロジー的に常軌を逸したオラクル、キャストも酔える酒(※厳密には酒と同列に扱うべきか悩む、それどころか飲料としてカテゴリすべきか論議の分かれる液体)が横行している。

 アイドル的にそれがセーフかと言えば、もちろんアウトである。ただしそれを各方面からもみ消すのは、隣でワイングラスを傾ける、光の翼の首魁たるラナンクルスからすれば容易い事だった。

 

「もちろん逢えるとも。君と僕が本懐を遂げた日には、それも叶う」

「それは耳にタコが出来るくらい聞いたけれどさあ……」

 

 アズレアはオラクル様式かつシンプルモダンな内装の、木製のテクスチャを施した天井に向かい、グラスを傾けながら胡乱な呂律を巡らす。グラスには氷とカルアーミ・ルックがまだ残っていた。

 

「たまにこうやって愚痴をこぼす、くらいは、さあ……」

 

 ことん、とグラスがテーブルに置かれ、言葉尻は沈黙の後に穏やかな寝息へと変わった。

 今日は信者たちに向けたライブを始めとして、いつもよりひときわ多忙なスケジュールを駆け抜けた後であったのだ。無理もない……とラナンクルスは思わず笑みを漏らしつつ、彼女の肩へ、自らが羽織っていた薄手のカーディガンを恭しく掛ける。

 親が子へ向けるような眼差しの後で、ラナンクルスは打って変わり、鋭い目つきで窓の外を睨んだ。

 これもオラクル様式の正装に身を包んだままの彼は、ベランダへ出ると、夜闇……が投影されている、オラクル船団の外殻を覆うモニター……を見上げた。

 

「あと少しだ……」

 

 長い、本当に長い路であった。

 永らく身を潜め、機を伺い、ようやく辿り着いた今だ。

 ラナンクルス達の悲願が果たされるまで、ようやく秒読みを数え始めた。

 

 

 

……そう少しだ。だからこそ僅かな綻びも見逃せませんな、ラナンクルス卿

 

 

 

 ラナンクルスは後方から差した穏やかな老人の声へ、剣呑な視線を差し向ける。

 視線の先には、白髪を後ろへ撫で付けた長身の老紳士が佇んでいる。どこから持ち出したのか、真紅の酒が注がれているワイングラスを傾けていた。

 グラスから立ち上る香りを堪能する所作は優雅で、黒いスラックスとシャツ、そして白いベストで身を包んだ姿によく似合っている。

 

「ニウェウス教授……」

「オセロ、と呼ばれる……惑星地球のボードゲームでも同じ事ですが……最後の局面こそ危ういのです。たった一手、されど一手の見落としが、世にも語り継がれるべき逆転劇の活路と成り得てしまう。そして白と黒は容易く塗り替わるのです」

 

 老紳士は、ニウェウスは音もなく、血の色にも似た緋色のワインを啜る。よく口に含んで堪能してから、満足げに頷き、喉を鳴らして嚥下した。

 

「……存じておりますとも。僕はルーサーのような失態を繰り返さない」

「心得ているのであれば結構」

 

 ニウェウスは愉快げな心持ちをこらえきれないといった様子で、喉の奥で嗤いながら、静かにラナンクルスの方へと歩み寄る。ベランダでラナンクルスに並び立ってから、既に光を失した両目をどこかへ向ける。

 

「しかし……未だに貴方の目論見は計り知れない。謂わば僕達の悲願は、貴方を含めて、滅びをもたらす事そのものであるというのに」

「何、どうせ老い先短いこの身です。老いさらばえた老骨が、燦然たる花を咲かせるというのなら、それも美学と言えましょう」

 

 そして変わらずこの老骨は、上手く核心を躱して居座るのだ。

 それが互いにとって最も居心地良く、なおかつ許容出来る最大限のボーダーラインだと見透かした上で。

 ラナンクルスは、ルーサーが存命だった当時から、それが何よりも気に食わなかった。

 

「果たして……何を企んでいる」

「さて……少なくともラナンクルス卿が抱えている大義とは程遠い、極めて個人的な、それも小さな執着が……僅かな興味を湛えているばかりで御座います」

 

 音もしなかった。

 ただするりといつの間にか、ラナンクルスより後方に居たはずのニウェウスが、彼が肘をもたれかけているカウンターの横合いに寄り添っている。

 

「2人の元アークスが居ります」

 

 ニウェウスはバイザーを外し、そっと目元を指先で撫ぜた。

 光を失い、白く濁った両目を横断するように、深い傷跡が残っている。それはかつて流星と呼ばれた凄腕のアサシンに切り捨てられて以降、オラクルの医療技術を以てさえ、回復することの無かった置き土産だ。

 

「彼と彼女は、数多の試練を超え、その身を円熟させつつある……」

「……どうやら、ニウェウス卿」

 

 ラナンクルスはニウェウスの方へと振り返る。そこに知性を纏わせる老紳士の姿は、既に無かった。溜め息を吐いてワイングラスを傾ける。それから言い捨てた。

 

「あと少し、はお互い様かと。貴方も貴方でお好きになさるが良い」

 

 端役が何をどう蠢こうが、盤面を漆黒に塗り潰すのは、我々に他ならない。

 そして拍手喝采に湧くカーテンコールと共に未来へ歩み出すのは、断じて今このオラクルに跋扈するアークス達ではない。ラナンクルスは、その決意を更に強く固めた。

 ──懐かしき友たちの笑顔を、また見るためにも。

 

 

 

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