────あの人がいつも笑うようになったのは、きっとあたしのせいだ。
あたしが初めてあの人に出会ったのは、まだ物心付く前のこと。
隣の家に住んでいた4つ年上のあの人は、まだ生まれたばかりだったあたしのことを、まるで実の妹のように可愛がってくれていたらしい。
そして、それはあたしが成長して小学生になった頃まで変わらず、あたしもまた、あの人のことを兄のように慕うようになっていた。
もう一人の幼馴染みである駿も含め、毎日のように野山を駆け回り、泥だらけになっては互いに笑い合う。
そんな、素朴だけど幸せな日々をあたしたちは過ごしていた。
────全てが変わった、あの日までは。
三門市の空に真っ黒な穴、
山間にあるあたしの家の周りには、全くと言っていいほど近界民は現れなかったけど、あの人が偶々訪れていた市街地には、大量の近界民が出現した。
幼かったあたしは、家の中にいたのに怖くて仕方がなくて、そんなあたしを両親はずっと慰めてくれていた。
そうして、あたしが怯えている間に、両親に庇われてあの人はずっと独りきりになった。
どれもが偶然の出来事で、何かが違えばこうはならなかったのかもしれない。
けれど、全ては紛れもなく現実で、それはあたしよりもあの人にとって厳しいものだった。
近界民の侵攻から数日が経って、あの人は家に帰ってきた。
それを知ったあたしは、後から話をしに行くから、と諌める両親を振り切って自宅を飛び出し、隣の家へと向かった。
これまで、何度も往復してきた短い道のり。
全力で走ると、たった十数秒の所要時間。
それだけで、初めて息が上がった。
心配と不安で胸が詰まりそうで。
それでも、あたしはあの人を励まそうと必死だった。
ぶるぶると震える手を力一杯握り締める。
あたしは背伸びをして、インターホンを鳴らした。
ピンポーンという間の抜けた音だけが虚しく響く。
返事はない。
衝動的に、あたしは玄関のドアに手を掛けた。
思えば、この時点で引き返すべきだったのかもしれない。
けれど、あたしは恐る恐る家の中へと入っていった。
物音一つない、静まり返った室内。
うろうろと家の中を探したけれど、リビングにも、他の部屋にもあの人の姿は見当たらない。
探していない場所はあと一つ。
あたしもよく遊んでいた広い裏庭。
そこに、あの人はぽつんと一人で座っていた。
遠くには、白黒のボールが転がっているのが見える。
何をしてるんだろう。
そう思って、あたしはあの人に近付こうとした。
あの人が暗くなるまで父親と二人でボールを蹴り合う姿を、あたしは知っていたはずなのに。
泣いていた。
あの人が泣いているところを見たのは、それが初めてだった。
あ、という言葉にならない声があたしの口から洩れる。
すうっと背筋が冷えたような気がした。
あの人は周りの全てが見える。
後ろで立ち尽くすあたしの姿もきっと見えていた。
そのときのあたしは、どんな顔をしていたのだろう。
どんな顔を、あの人に向けていたのだろう。
声をかけることはできなかった。
居ても立っても居られず、その場から逃げるように、あたしは家を飛び出していた。
あの人の方がずっと苦しいはずなのに、あたしの目からも涙が溢れていた。
「こないだは構ってやれなくてごめんな、双葉」
次に顔を合わせたとき、そう言って、あの人はあたしの頭を撫でた。
何もなかったように微笑みながら。
その様子を見て周りの人たちは、あたしの両親でさえも、少しでも笑えるようになったなら良かった、とどこか安心したように言った。
違う。
絶対に、違う。
あの笑顔は。
周りの人を、あたしを、不安にさせないためのものだ。
弱さを見せないためのものだ。
あたしのせいだ。
あたしが、苦しんでいるはずのあの人にあんな顔をさせたんだ。
あの日から、あたしはあの人が笑ったところを見ていない。
◇◇◇
『2号室、用意』
仮想戦闘モードの訓練室の中で、あたしは
少し小型化されているらしいバムスターは、それでもあたしよりは遥かに大きい。二階建ての一軒家くらいはあるだろう。
けれど、特別怖いとは思わなかった。
ただ、あのとき、今のあたしよりも幼かったあの人には怖かっただろうなと思っただけだ。
近界民という存在を知らなければ、あたしもきっとそう思っていたに違いない。
手にした弧月を強く握り直す。
あたしの身体には少し大きすぎる武器。
それでも、これがあれば、あたしもあの人のために戦える。
あの人が、もう笑わなくて済むように。
あの人が、心から笑えるように、あたしは強くなると決めたんだ。
『始め!』
開始の合図と同時にバムスターが動き始める。
動き自体は大した速さじゃない。
トリオン体の反応速度からすれば遅いくらいだ。
その巨体を揺らして、こちらへ近付いてくる。
一歩、また一歩。
バムスターが、ゆっくりとその大きな口を開く。
あたしを捕食するつもりなのだろうか。
中からは巨大な目玉がこちらを覗いている。
あたしはそれを睨み返すように、ただじっと見据えた。
一瞬の間を置いて、バムスターが勢いよく口であたしを捕らえようとしてくる。
単調な動きだ。
あたしはそれを、軽く跳んで躱し、バムスターの懐へと踏み込む。
眼前に映るトリオン兵、共通の弱点。
その巨大な目玉に向けて、あたしは弧月を振り抜いた。
◇◇◇
『2号室、終了。記録11秒』
11秒。今日見た中ではあたしが一番のタイムだ。どれくらい良いのかは分からない。
「すごいね、歴代でもかなり上位のタイムだよ」
訓練室を出ると、新人指導の担当である、嵐山隊の時枝先輩がそう教えてくれた。上位、ということは一番ではないらしい。もしかすると幼馴染たちがあたしよりも早かったのだろうか。あの二人なら、それも不思議じゃない。
「────はーい、ちょっとそこ通してもらえるかしら?」
あたしの記録に驚いているC級隊員たちの人混みを割るようにして、一人の女性が近付いてきた。モデルだと言われても何の違和感もないくらい綺麗な人だ。
「加古さん、急にどうしたんですか?」
「邪魔してごめんね、時枝くん。ちょっとこの子と話したかったの」
時枝先輩に加古と呼ばれた女性の目的は、どうやらあたしだったらしい。入隊初日のあたしに、一体何の用があるのだろう。あたし自身に、心当たりは全くない。
「あなた、名前は?」
自分から名乗ることもなく、彼女はあたしの名前を聞いてきた。こういう時は自分から名乗るものでは、と思ったけれど、不思議と悪い気はしない。それはきっと、その方が彼女にとって自然だと感じたからだ。
それくらい、目の前の女性から惹きつけられるような雰囲気を、あたしは感じている。
「黒江、黒江双葉です」
あたしの名前を聞いた彼女は一瞬ハッとした表情を見せたかと思うと、ニヤリと口角を上げた。
「……完璧ね」
「はい?」
何が完璧なのだろうか。
そう思って首を捻ったあたしを特に気にすることもなく、彼女は言葉を続ける。
「言い忘れてたわね、私の名前は加古望。あなた、私の
周囲の隊員達がどよめく。
それはC級隊員だけではなく、指導員である嵐山隊の人たちも同様で、それくらい彼女の発言は意外なことだったらしい。入隊初日に部隊への勧誘を受けるのは確かに珍しいことのように思えるし、嬉しくもある。
ただ、それよりもあたしには一つ確認しておきたいことがあった。
「あなたの部隊は強いんですか?」
「うーん、まあ一応A級部隊よ?」
少しだけ驚いた表情を見せてから、彼女はそう答えた。
A級といえば、ボーダーの中でもトップクラスの精鋭部隊のはずだ。そこに勧誘されるということは、あたしもA級隊員になるということ。自分がそれに相応しいかはまだ分からないけど、そこで戦えるくらい強くなりたいとは思う。
それにそういえば、駿もA級部隊に入るかもしれないと言っていた。同じボーダー隊員になるからには負けたくない。
「それにあなたがいれば、私たちはもっと強くなるわ。もちろん、あなた自身もね」
その言葉で、あたしは決心した。
これは、きっとチャンスだ。
迷う必要なんてない。
あの人の弱さを受け入れられるように、あたしは強くなりたかった。
「分かりました、正隊員になったらよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそよろしく頼むわね、双葉」
満足そうな表情を浮かべた加古さんは、当然のようにあたしを名前で呼んだ。
それもやっぱり、悪い気はしなかった。
強さにストイック過ぎる黒江さん。