「桜、殆ど散っちゃったね」
薄曇りの午前、曙の少し残念そうな呟きが潮の耳に届く
もう暫く楽しめるかと思っていた花見の季節は、昨夜の冷たい雨で唐突に幕を下ろしていた
桜の花はいつか散るものと分かってはいるが、なにもこんなに慌てて散ることもないだろうにと曙は肩を落とす
憂鬱そうな顔で散ってしまった桜を眺める曙に潮はそれでもと声をかける
「鎮守府の桜は散っちゃったけど、今度は裏山の八重桜が咲くよ」
桜も散ればまた次の花が咲く、だから元気を出してと潮は言う
その柔らかな言葉に曙は思い至る、ああ、潮は以前自分が辿々しい励ましをした時の事を思い出したのだ
小さな事でしょげている自分に何かを与えようとしてくれている、だからそんなにも気遣わしげなのだと
合点が行くと曙はなんだか急に気恥ずかしくなった、花が散って悲しんでいるのを友達に慰めてもらうだなんて子供っぽいと
それに潮の言うとおりではないか、桜が散ってもまた花は咲く、昨日よりも明日のことを楽しみにしよう
気恥ずかしさに少々赤くなった顔で曙は潮に同意の言葉を返し、それにほっとしたように潮も微笑みを返す
その微笑みは、昨夜の雨にも負けず僅かに残った桜の花のように可憐だった
今日はこの笑顔の花と一緒に花見といこうと思い、曙は潮に声をかける
「そういえばそろそろお昼だけど、潮はどこで食べたい?」
――――桜の花弁が、散る
なぜだか分からないが、曙は瞬間、そのような思いに囚われた
「……ごめんね、お昼休み、提督に呼ばれてるの」
申し訳無さそうに話す潮
どうやらあの"クソ提督"との先約のせいで自分と一緒に昼食というわけにはいかないようだと曙は悟る
せめて潮の申し訳無さだけでも払拭しようと、提督に対する恨み言を吐いてお茶を濁す
最後に秘書艦業務へのねぎらいと、頑張ってねというありきたりな言葉をかけて別れる
「……うん、がんばる」
この時も、やはり曙は気づけなかった
別れ際、告げた潮の返事の平坦さも、桜の花に例えた微笑みが失われていたことも
彼女が自身の鈍さを呪い殺したくなるほど後悔するのは、まだずっと先の話だった
鎮守府の廊下を歩く潮は、先ほどの曙との会話を思い出していた
自分の卑しさと浅ましさ、そして厚かましさを自嘲しながら
潮は雨が好きだった
雨音に耳と心を塞がれ、何も考えずに済むからだ
雨が全部隠してくれる、恐怖も、不快感も、よくわからない何かすらも
そうしていると、なんだかぐっすり眠ることが出来た
昨夜の雨は幸運だった、今朝の薄曇りの空すらも清々しく思えるほどに
だから、曙の呟きにハっとした
いつも花と鈴の髪飾りを愛用する、草花が好きな自分の友人の言葉に
なんだか、雨を喜んでいた自分のせいで友人の楽しみを奪ってしまったような気さえした
だから曙に元気を出して欲しかった、次の花が咲くだなんて気休めの言葉と分かっていても口から出ていた
以前の遣り取りを思い出したのか、曙はすぐに明るい顔を浮かべてくれたが、その顔に一番救われたのは自分の心だった
だが、不意の一言で自分の心は凍えを思い出した
「そういえばそろそろお昼だけど、潮はどこで食べたい?」
『明日の昼休み、執務室に来なさい』
雨のおかげで、蓋をしていられた
五月蝿い静寂の中で、深く眠ることが出来た
薄曇りの朝も、草の匂いが心地よかった
しかし、もう余韻は終わりだった
「……ごめんね、お昼休み、提督に呼ばれてるの」
なるだけ自然に聞こえるように告げたつもりだが、まともな顔ができたか自分でも自信がない
曙の提督への悪態に曖昧な言葉を返す間にも、自分の心がどんどんと冷えていくのは実感できた
同時に思う、ああ、自分が提督との事を思い浮かべる時に抱く感情はやはり凍えたものなのだと
このままではいけない、誰もが傷つくことになる
自分でどうにかできないならば誰かに相談すべきだ、目の前の友人なら自分に道を示してくれるはずだ
そうだ、あの時も寸前まで――――
――――瞬間、思い出す
そうだ、曙は巻き込めない、そうあの時決めたじゃないかと
彼女は繊細な子だ、桜の花が散っただけで心を痛めるような優しい子だ
自分のことを話してしまったら、きっと彼女は必要以上に抱え込む、どんな無理をしてでも
それに彼女は提督の事を内心気にかけている、もしかしたら――――もしかした、ら?
自分の心のなかのよくわからないもの、そのうちのひとつが暗い淀みの中から輪郭を表したような気がした
しかしそれをなぜだか認めたくなくて、必死にそれに蓋をする、きっと、これは、ダメだ――――
「秘書艦って大変だね、頑張ってね!」
「……うん、がんばる」
ぐちゃぐちゃな頭の中を無理矢理なだめすかして、ようやく絞り出した言葉にどんな声色が混ざってしまったか、考えたくもなかった
幸い、言うだけ言って踵を返しかけていた曙には内心を伝えず済んだようだと少しだけほっとする
そしてふと気付いて自嘲する、自分はここ最近ずいぶんと人を騙すことに慣れってしまったんだなと
騙していたのは他人だけではなく自分自身もだったことに、彼女は気付いてはいなかった
ノックをしてから執務室に入ると、窓辺に立つ提督の顔が目に入った
まるで窓から見える桜の木の散り残った花を愛でているような風情があるが、その目に昏さが宿っている事に気づいた
自分も窓辺に歩み寄り提督の目線の先を追うと、そこには自分の姉妹、曙が漣達と連れ添って歩く姿があった
品定めをする目、自分がかつて、こうなるより前によく向けられていた目だった
――――提督の背に体を預ける
不相応に育った自分の柔らかさが、そして体温が提督の背に伝わるのが分かる
提督が驚いて身動ぎすることで逆に感覚が鮮明になり、圧力に歪む肉感に囚われたことも
吐息が背中を走り、耳から入って脳を焼き、一瞬にして先ほどの"品定め"なんて忘れさせてしまうことも、分かる
じっくりと背に当たる肉感を堪能した後に、提督が振り返った
目が合う、足が震える、心臓が潰れる、怖くてたまらない
でも、今だけはダメだ、でないと焼き付けることができない
合わせた目を逸らしてはいけない、逸らさせてはいけない
提督が自分の頬に手を当てる
そこに自分の手を重ねることで、相手の考えが見える
"ああ、欲しいものはここにあるじゃないか"
それでいい、こちらだけを見ていればいいのだ
これでやっと安心できる、恐怖に竦んで縮こまっていられる
よく分からない自分の心と、向き合わなくて済む
ああ、それにしても――――
――――早く、雨が降らないかなぁ