インフィニット・ストラトスJ~ジューダス・レクイエム~ 作:味薄紅茶
誰かが自分の頬に触れている。
その掌はとても暖かい。
その暖かさを自覚すると、今の自身の身体は底冷えする程に熱を失っているのだということがよく分かる。
あまりの寒さで考える暇もなくその手に縋ろうとするが、身体は氷の中に閉じ込められているかのように動かなかった。
「起きて」
女性の声が自分に呼び掛ける。
暖かい手を持つ者の声は、それすらも暖かなものだ。
その声が凍える身体を溶かしてくれたお陰で、漸く一夏は目を開けることが出来た。
「……う」
目の前には白い帽子とワンピースを着た女性がいる。
帽子を深く被っているせいで顔をよく見ることが出来ないが、彼女の口元はとても優しげに微笑んでいることはわかる。
蒼い空が女性の後ろに確認出来ることから、一夏は自分が倒れているのだと理解する。
上半身を起こすと、彼は生まれて一度も見たことがないような美しい場所にいた。
地面は薄く水が張っており、それが空の景色を映しこむことで上下を青空が包み込んでいるように見え、それが地平線まで続いている。
あまりの光景に、彼は息を詰まらせた。
ここはどこだろうと一夏は付近を見回す。
彼の目に映るのは青い世界とこちらの様子をうかがう様に屈む一人の女性だけ。
白く艶やか髪がその色素の薄い肌と相まって、一夏には彼女をとても幻想的なものに昇華させていた。
綺麗な人だと彼が呆けていると、その女性はゆっくりと立ち上がる。
その行動にはっとした一夏は、この見知らぬ女性が何者であるのかを尋ねた。
「お、お前は?」
「…」
女性は何も答えない。
別に一夏を無視している訳ではない。
彼女はただ自分を慈しむようにこちらを見つめてるように一夏は感じられた。
女性の素性を知ることは出来なかったが、そんな女性の様子を見てると、何故か今の自分は彼女に救われたのだと一夏は直感的に思えた。
その感覚を信じた彼は、女性に感謝を述べる。
「その、ありがとうございます。助けてくれたんですよね?」
その感謝を口から出すと、一夏は自分が言っていることに小さな違和感を覚えた。
一体自分は何を助けられたんだ?
助けられたということは、少なくとも今の自分は何か危機に陥っていたはずだ。
考えると、それはすぐに思い出せた。
「ああ!」
一夏の脳裏に映像が閃く。
黒いISの襲撃。
アリーナの惨状。
鈴。
そして堕ちて来た蒼いロボット。
それを記憶から呼び起こした彼は、こんな所で呑気に休んでいる訳にはいかなかった。
「そうだ、俺はこんなことをしてる場合じゃっ、ていうかここどこだよ!?すいません、ここどこですか?」
「……貴方はどうして力を欲しているの?」
「ちから……、え、力?」
「そう、どうして?」
慌てて立ち上がり、一夏が女性にこの場所を尋ねると、彼女はその質問に答えず、逆に質問を返してきた。
質問をしたのは自分の方が先なのに、何故か今は己が先に彼女の質問に答えなければならないように一夏は感じる。
この質問はとても重要な、自分にとっても、彼女にとっても大切なものだと彼の感覚が鋭く告げた。
「力…」
女性の言う力という言葉を一夏は呟いたが、その言葉はどこか容量を得てない感じだ。
一夏は『力』という漠然なものへのイメージを掴み切れずにいたのだ。
言われてみれば自分は力を欲している様に思える。
だがそれは一体どんな力なのか?
力であれば何でも良いのかと言えばそれは違う。
確かな力を自身は求めているはずなのに、答えがどうしても言葉とういう形にならない。
何故自分が力を求めているのかが、今の一夏には分からなかった。
黙る一夏に女性は言う。
「何かがこの世界にやってきた。『力』を持つ存在がこの場所に降ってきた」
彼女の言う力というのはあの蒼いロボットのことを指しているのだろうかと一夏は考える。
既に女性の口元には微笑みが消えており、代わり、それが苦悩の現れのように口角を下げていた。
「世界はその力を求めようと歪み始める。それは貴方も、私も例外じゃない。求める意思は烙印となって、全ての者に消えない傷跡を残すでしょうね」
女性はくるりと後ろを振り向く。
そうすると、幻想的な世界が急に色のないものへと変わり、次第に薄れていく。
空も、地面も、そして一夏自身も消えていく。
それに連れるように彼の意識も虚ろなものへと変わっていく。
意識の途切れる瞬間、一夏は女性の悲しげな声を聞いた。
「次に会う時は貴方の答えを聞かせてね、一夏」
口の中にどろりとしたものを感じる。
口だけではない、それは肺の中にも入っている。
強い胸焼けと息苦しさを感じて一夏は目覚めた。
「ぐはっ」
赤い飛沫が宙を舞う。
一夏は血を吐き出していた。
咳き込みは一度では終わらず、横隔膜が痙攣したかのように止まらない。
それに伴う衝撃が、彼の身体から痛覚を引きずり出す。
全身が痛かった。
どこもかしこも頭からつま先まで万遍なく痛みが存在する。
その苦悶に顔を歪める一夏に、肺の空気を全部吐き出したかのような特大のため息が零れる。
「っ!?はぁ~…、間に合った。一夏、大丈夫?」
「え、ええ?もしかして束さんですか?」
「そうだよ、いっくん久しぶりだね」
視線を彷徨わせると、左側に束がいた。
彼女と一夏が会うのは実に6年ぶりだった。
束が開発したISの重要性に、国の機密保護プログラムが指定され為、彼女の一家は特定の場所にいられなくなったからだ。
それに束は途中で、その国家からも抜け出し、今では世界中で御尋ね者となっている。
会おうと思っても会えないし、連絡など以ての外だ。
その彼女が一夏の側にいた。
「どう、げほっ。どうして、ここに?」
「いっくんの危険を感じてここまで飛んで来たんだよ。本当に助かって良かった~。ISにエネルギー供給しなきゃ今頃死んでたんだよ?さっすが私、いっくん褒めて~」
「死んでた?…そう言えば俺、血を吐いていたような」
死にそうだったと言う彼女の表情は一見明るそうだ。
だが額に滲む汗が、その表情が勤めて出しているものだと分からせる。
痛む身体を無視して起き上がると、一夏の身体は血だらけだった。
ISを操縦する際に着用するスーツもボロボロで、穴だらけである。
穴の空いてる部分が、一番出血の痕が酷く、その穴は表裏一体となっている。
何かが貫通した痕のように一夏には見えた。
「一体何が…」
「ん~?記憶が錯乱してるかな?いっくん、あれ見てもピンとこない?」
束が一夏の身体の検査をしながら、頭についているウサギを模した器具の片方で、右を見ろと指示する。
そこには、彼が気を失う直前に目撃したロボットがいた。
半ばアリーナの大きく隆起した地面に埋まっていたが、蒼い装甲があのロボットであることを証明している。
アリーナはそのロボットが衝突した影響のせいか半壊していた。
「ああ、そういえば俺は…」
「思い出した?いっくんはあれが墜落した現場に一番近くにいたからね~。石やら衝撃波で身体中がぼろぼろだったし、吹き飛ばされてもいたからあっちこっちが骨折してて、私が来た時は虫の息所か呼吸してなかったよ?」
「そう、ですか…。だからこんなに傷が、…ん?」
どうりで痛いわけだ、と一夏は納得しそうになる所を寸前で抑える。
そんな状態になってたらどうして自分は覚醒することが出来た?
普通ならそのまま死んでしまうだろうし、治療を行ったとしても、すぐに目覚めることはないはずだ。
「束さんが俺を治してくれたんですか?」
「ん~ん、私がしたのはエネルギー切れを起こしたISへの燃料補給だけ。いっくんを癒したのは白式だよ」
「白式が?」
「そうだよ~」
待機状態になった白式を束は指差す。
通常のISは、機体を専用の格納庫等に保管されており、搭乗者はそこに行くことでISを操縦することが出来る。
しかし、一夏たちのような専用のISを持っている者はその限りではない。
専用ISの特殊性、機密性から通常ISのように保管されることは少ない。
普通なら封印という形で保管されるか、操縦者が常に身につけていることになる。
そして、身につける際にはISを小さなアクセサリーのように形態変化させることで携帯可能にしていた。
一夏の白式は待機状態の時、姿をリストガードのような形に変えている。
束が指す待機状態の白式は淡く光っていた。
「光ってる…。何ですかこれ?」
「今も治癒能力が発動しているんだよ。どう?そろそろ身体の痛みも取れて来たんじゃないかな?」
彼女の言葉に促されるように、一夏は手を開いたり閉じたりして身体の感触を確かめる。
関節等の痛みは数秒前に比べたら天国のように軽かった。
それと、先程は呼吸するのも辛かったのが、今ではその呼吸が普通に出来ていることに気付いた一夏は驚く。
「凄い、さっきまでの苦しみが嘘みたいだ」
一夏はまだIS学園に入学したばかりで、ISのことを学び始めたばかりであり、そのことを詳しく知らない。
その為、ほえ~と呆れるように驚く一夏。
束はその一夏を見て、少しだけ顔を曇らせた。
「おっと……、え~と、うん。そうだね~」
「束さん?」
何を馬鹿正直に説明してるのだと束は己を責めた。
ISに回復能力があるのは確かだ。
だが、どのISにもその能力があるというのは間違っており、その能力を発動させたのは過去に一機だけである。
「まあ私が開発したISだしね。それ位のことは出来るよ。でも、いつでも誰にでも出来る訳じゃないから今後は気をつけてね?」
「は、はい」
念を押すように人差し指を立てて束は一夏に忠告する。
一夏は釈然としない顔をしていたが、開発者がそう言うのだからと最終的には渋々と頷いた。
そんな能力あったっけ?と首を捻る一夏に、束は何も答えない。
それを知るには彼はまだ幼過ぎるし、これから彼が生きて行く間に、その特異性は嫌でも知っていくことになるはずだ。。
だから、一夏が悩むその能力は、まだ彼には知らなくて良いことだと彼女は考えた。
それを危うく教えかけてしまったのは、束が本気で焦っていて、その焦りがまだ抜けきっていなかったからだ。
束が研究所で感じた違和感を探りにIS学園に向かう最中、研究員からの連絡で知った一夏の心肺停止の報せは、彼女の心臓も止めそうになった。
彼女の姿が研究所から消えて数十秒後、部屋のディスプレイはアリーナの上空から墜ちてくる蒼い機体を捕捉していた。
空間から飛び出るようにその蒼いロボットは出現し、凄まじいスピードで一夏達の元に墜落したのだ。
ゴーレム1の信号は途絶、一夏のバイタルサインは停止状態に陥ってしまう。
幸運だったのは、ゴーレムⅠは破壊されたことによって本体そのものの信号が消えてしまったが、一夏の方は身体に重大なダメージを負ったことによるバイタルサインの停止だけだったことだ。
一夏本人の信号は途絶えていなかった。
つまり、一夏のISはまだ機能停止状態ではなく、彼も死亡した訳ではなく仮死状態に陥っているだけの可能性があるということである。
早鐘の如く鳴り響く心臓を無視し、ようやく束がIS学園のアリーナに到着すると、その現状に彼女は閉口する。
巨大な爆発が起きたように辺りは砂塵が舞っており、そのせいで有視界距離は最悪だ。
それを、束の服の機能で周りを透視させることで、次第に彼女は現在の状況が分かり始めた。
初めに目に付いたのは未確認物体である蒼いロボットだ。
その下に完膚なきまでに潰され、破壊されたゴーレムⅠの残骸を確認し束は全身の血の気が消えて行くのを実感する。
彼女が作成した新型ISは、一夏の本気を見る為にと、現行のISでは破壊不可能な程強くシールドされている。
それがこうまで壊されるようなスピードで地面に衝突したとなると、衝突地点に最も近かった一夏の二次被害は計り知れない。
何よりその時点の彼はISのエネルギーが枯渇していたのが一番最悪だった。
絶対防御すら張れない状態でこの状況に巻き込まれるものなら、人の命などいくつ失っても何らおかしくない。
束が企てる計画の根幹に一夏は存在しているというのもあるが、それを抜きにしても、彼女は一夏のことが大切な存在であるのは変わりなかった。
一夏は束にとって、彼女の大切だった者から託された忘れ形見なのだ。
それを死なせる訳にはいかなかった。
センサーをアリーナへ走らせるとすぐに束は一夏を見つけた。
一夏はゴーレムⅠがいた所から遠く離れ、アリーナの壁付近に倒れていた。
「一夏!」
束は彼の名を叫び、走り寄る。
一夏は酷い状態であった。
身体は衝突で飛び散った土や石で穴だらけで、その傷は脳や内臓にも深刻なダメージを与えている。
現代の医学では即死と判断されてもおかしくない状態だ。
身体に欠損などが起きてなかったのが不幸中の幸いと言えた。
「一夏、ああっ、死なせるものか!!」
だがここにいるのは世界最高の頭脳を持つ束だ。
服から大小様々なケーブルが出現すると、そのまま彼女は緊急手術を開始する。
手術環境としては最悪もいい所だが、二次感染等に気を懸ける暇などないのは明らかだ。
全身の穴という穴から血が溢れており、その量は既に致死量のそれをはるかに上回っている。
今の彼に人口血液を供給した所で、底の抜けた柄杓状態だ。
束が全身に空いた穴を塞ごうとケーブルを操ろうとした時、彼女は一夏の左腕に注目する。
「…?」
待機状態になった白式が僅かに輝いては、消える、というのを繰り返している。
「……まさか!」
展開されたケーブル群から一本の細いケーブルが延びて一夏の白式へ接続される。
接続と同時に白式と一夏が強く輝き始めた。
一夏の周りにあった血溜まりが消えていき、代わりに彼の全身の傷がみるみる消えて行く。
「やっぱり…」
束が彼の左手首を見た時、あることに気が付いた。
微かに光る白式の周りの怪我だけが妙に少なかったのだ。
そして、その傷のない範囲は微々たるものであるが広がっている。
それを目の当たりにした瞬間、過去にこのような能力を使うISがいたことを束は思い出す。
ワンオフ・アビリテイー、生体再生(リジェネイター)
かつて白騎士事件として世界を震わせた一機のISが持つ能力だ。
それを白式は発動させようとしていた。
束がそれをいち早く気がついたお陰で、彼は一命を取り留めることが出来ていたのだった。
自身が焦り、冷静ではいられなくなるという経験は、束にとって生まれて初めての経験だった。
そんな慣れない状況に陥ってしまった為、彼女は危うく一夏に必要ない説明をしそうになったのである。
(全く、私らしくもない)
額の汗を指で拭い、今度こそ心から楽しげに束は一夏に話しかける。
「ふ~、あっ、そうだ。ねぇ、いっくん?」
「は、はい、何ですか?」
「いっくんは束さんに何か言うことないかな?かな?命の恩人なこ、の、わ、た、し、に~」
両手の人差し指を頬に当てて束は首を傾けた。
「いや、えっと…」
一夏はその様子につい言葉を濁す。
多分彼女のやっていることは世間一般的には可愛いとされるポーズの一種なのだろう。
服装も今思えば可愛い感じだし、頭の機械はウサギの耳のようにも見えることからそのポーズも様になっている。
年齢さえ気にしなければ、だ。
確かこの人は、自分の姉と同い年である24。
24歳。
男女共にそろそろ結婚という物が見え始める年齢である。
いうなれば本当の大人へ向かうような年ごろなのだ。
確かに束は、一夏の記憶の中の彼女よりも何倍も大人になっていた。
メイド服を印象させるその服に身を包む束の体つきは、非常に女性的だ。
大きく開けられた胸元には、実に悩ましい谷間が顔を見せている。
くどいようだが、大人であった。
その大人な女性が先ほどのポーズ、例えるなら子供が親にぶりっ子を見せる時にやるような振る舞いは、一夏の頭を冷たくさせるものがあった。
「いっく~ん?」
束が微笑みながら思考停止状態の一夏に催促する。
彼女の微笑みはとても優しい笑顔で見る者を和ませる絶対的な力を持っている。
しかし、あの優しそうに微笑み閉じられた瞼の片方が僅かに開けられており、その隙間から覗く、身の危険を感じる視線があることを一夏は見逃さない。
(こっちの考えが読まれている!?)
彼は迅速に行動を取らなければならなかった。
「あ、ありがとうございます!」
「愛がな~い。もう一回!」
ここで束は、一夏に非常に難しいものを要求してくる。
愛というのはとても不確かなものだ。
この言葉ほど、十人十色なものはない位だ。
そして、それは長い人生を人々が生きて行く中で、各々が作りだしていくものである。
愛を求められた一夏はまだ16歳で、成人すらしていない。
愛などという大それたものを、彼は感じはしても、まだ説明できるほど理解はしていなかった。
「愛ってなんですか…」
「んふふ~それはね~」
束は確かに変わった。
久しぶりに会った彼女は、表面的には年相応の麗しい女性になっていた。
だが中身は昔のままだった。
彼女と話をするといつも何を話しているのかよくわからなくなってしまうのが一夏だ。
それは、束の独特の雰囲気や、それに伴う感情の高さもあるだろうが、そんな彼女についていけなくて疲れてしまうのが一番の原因だった。
一夏の束へ向かう注意が途切れて行くと、彼はこんなことをしている暇がないことに気がついた。
彼が起きてから何もこの場は変わっていないのだ。
意識を失った鈴や、蒼いロボットに巻き込まれるように潰された観客席の中の生徒の安否を一夏はまだ知らなかったのだ。
「って忘れてた!鈴は、みんなは!?」
「鈴も、他の生徒たちも無事だ。奇跡的にな」
束が一夏の愛とは何かという問いに『振り向かないことよ☆』と答え、彼の後ろから後半の質問の答えが返って来た。
彼の姉がいつの間にかそこにはいた。
黒いスーツと同じくらい黒く、そして長く艶やかな髪を後ろで無造作にまとめている彼女は仁王立ちしていた。
女性としては少し駄目な感じが、彼女の持つ超然とした雰囲気に良く似合っている。
彼女は腕を組み、血だらけの一夏をちらりと見やるだけで、あとは視線を束へ固定する。
「千冬姉!」
「学校では…」
弟からの家での呼称を言われた千冬は一夏を窘めようとする。
一夏は度々、というか殆ど彼女のことを千冬姉と学校で呼んでは姉に鉄拳制裁を行われていた。
家は家、学校では学校。
姉と教師としての線引きを常々彼に言っていてもこの有様だった。
いつもの癖で、彼を叱ろうとしたが、この酷い状況の中でそれはあまりにも彼に冷たすぎるかと千冬は少し考えた。
アリーナのモニター室から彼女は弟をずっと見ていた。
試合ではなく、殺し合いに発展した場に一夏が巻き込まれた時は、教師としての手前冷静さを装っていたが、内心では気が気でならかった。
アリーナのシステムは黒いISが侵入した時に破損が生じ、中と外が断絶していた。
助けに行きたくても行けない彼女はただ、生徒の無事と、たった一人の弟の無事を願うしか出来なかった。
それを正体不明の機体が、アリーナを物理的に壊したお陰で断絶が解消されて千冬はやっと中に入れたのだ。
ここに入る時は、果たして教師として入ったのか、それとも一夏の姉として入ったのかを彼女は考える。
そして、千冬は教師ではなく、一人の家族として一夏に接することにした。
「いや、いま位はいいか…。一夏、酷い怪我に見えたが無事か?」
「うん、死にかけてたみたいだけどISが治してくれたみたいなんだ。それが出来たのも束さんがエネルギーを供給してくれたお陰なんだけどね。なんとか助かったよ」
「エネルギー供給?…そうか。……久しぶりだな束」
「やあ、ちーちゃんこそ久しぶり」
本当に久しぶりなのか疑わしい程あっけない再開だった。
そして彼女たちの間には、再開を喜ぶような陽気さは微塵もないことを一夏は感じた。
「……一夏、お前は校内に戻れ。今は大丈夫なように見えるが一応手当をしてもらえ。…歩けそうか?」
「何とか…。姉さんはどうするんだよ?」
「私はこいつと少し話がある。何、すぐに戻るさ」
「そうそう、私もちーちゃんと一杯お話したいした~い」
「千冬姉…」
優しく微笑む千冬と、束の姿が一夏の目に映る。
先ほど感じた不穏な空気は、そこには存在していない。
(勘違いかな……)
彼が校内へ向かおうと身体を立ち上がるのを彼女たちは黙って見つめる。
それは、一夏が二人の様子をもう一度確認する為にちらりと盗み見た時も同じであった。
(大丈夫、なんだよな?)
不安をぬぐい切れない感じではあったが、彼女たちに限って、二人の間に何かが起きるとうのも信じ難い話だ。
一夏の記憶では、昔の二人は仲が良かったことになっている。
もしかしたら、この二人は今も何らかのやり取りをしていた為に、あのような態度になっていたのかもしれないと、一夏は一応の結論をつけることにした。
(それに、今、俺がここに居たって何の意味もないか…)
きっとあの人たちがこの状況をどうにかしてくれるだろうと、一夏は諦める様に二人を信じて、その場を去っていった。
弟の足取りが確かなものであることを確認してから、千冬は視線を束に戻した。
その目は、親の敵を見るかのような慨然としたものだった。
「この惨状について何か言うことはないか?」
「酷いね~」
「どうしてここに来た」
「いっくんの危険を感じて飛んで来たんだよ。本当に、というか本気で死ぬ一歩手前だったから私も焦っちゃった」
「その件については…、感謝する」
「でしょでしょ~。束さん偉い?」
束は千冬からの詰問に、どこ吹く風といった感じに答える。
どれも本当に束はそう思っているし、千冬もそれが本当であることを知っている。
ただ、彼女が一体何に酷さを感じ、何に対して焦りを覚えたのかを知っていると今の束の返答の意味は180度変わって来る。
それを分かっているからこそ、千冬は尚も軽そうにしている束を睨まずにはいられなかった。
「ふざけるのもいい加減にしろ束。…私が今回の件に気づいていないとでも思っているのか?」
この事件の発端は束にあると暗に千冬は束に向かって言う。
あの黒いISも、どうして襲ってきたのかは、一夏への対応を見ていれば一目了然だ。
現行ISの中で最新の第三世代ISの攻撃にびくともしない黒いIS。
そして、一夏を試すような身の振りよう。
千冬は敵の中に束を感じていたのだ。
「うふふ~、ねえちーちゃん」
「何だ」
「あの下にいる奴は好きにしていいから、上の奴持ってっていい?」
質問に答えるのかと思いきや、束がしたのは千冬への要求だった。
しかも、今回の状況を生み出した最大の原因である蒼いロボットだけを貰い、自身が作成したであろう黒いISはこちらに渡すと言ったのだ。
あまりの舐めた態度に千冬は声を上げた。
「何をふざけたことを!」
「千冬」
「…!」
怒鳴る千冬を、一瞬で鎮める冷たい声が束から放たれる。
彼女の目の前には、彼女が良く知る束の本当の顔があった。
感情が抜け落ち、仮面のような束の本当の顔が。
「貴女こそ気づいていないの?あのロボットがどういうものなのかを」
「……どういう意味だ」
意味深に呟く束に、千冬の眉が動く。
「多分、あれはあいつらの物、もしくはそれに近い何か。これがここにあれば、あいつらも黙ってないでしょうね。私は、その矛先がここに向けられるのを防ごうとしているのよ」
「!?」
束の言う『あいつら』という言葉に千冬の目と口が開かれた。
学園では厳しい教師として有名な彼女がこうまで間抜けな顔をするのは滅多にない。
「っく、奴らが来たとでも言うのか」
『あいつら』とは彼女たちの共通の敵だ。
束がISを作成したのも、研究したのも全てはその敵に対抗するためだ。
千冬の焦りの混じった質問に、束は首を振る。
「それは帰ってから調べてみないとわからないわ。それで、千冬はどうするの?これをここに置いて調べるつもり?そんなことしたら生徒どころか、一夏だって守れなくなるるけど、いいのかしら?」
紙にプリントされた文章を読み上げる機械のように、波のない声で彼女は千冬に聞く。
束が言うことは、紛れもない事実であり真実だ。
千冬に彼女の要求を断ることは出来なかった。
喉から声を絞り出すように千冬は言った。
「…好きにしろ」
「ありがと」
束は手短にそう答えると、自身の周りに12個の黒い球体を出現させた。
それは、世界で467個しかないとされるISコアだった。
全てのコアは、それぞれ決められた数を各国が保有しており、その数が増える、減るという例外はない。
つまり彼女が今、出現させたコアはその467個以外の物であった。
世界に提供したのがあくまでその数なだけであって、彼女自身が保有するISコアの数は今も増えているということである。
「そんじゃ帰りますか~。ユニット展開」
号令と同時にコアから黒いISが現れる。
ゴーレムⅠが束の周り大量に浮かんでいても、千冬は僅かばかりの動揺すら見せなかった。
「…」
最早、千冬の心はそれどころではない。
これから来るであろう『敵』のことで頭が一杯になっており、束が作りだした新型のIS程度のことに構ってられる状態でなかったのだ。
黒いISは地中に埋もれたロボットを順調に引っ張り出して行き、ついにはそれを空中に浮かび上がらせる。
それを見た束も、ロボットを追う様に浮かび上がる。
彼女は下にいる共犯者へ別れの言葉を述べた。
「それじゃあ、またね、ちーちゃん」
「ああ、…またな、束」
千冬はそれに力なく応える。
「…」
黒いISの引き上げ作業は、以外な程素早かった。
その為、数分前のアリーナの喧騒は、今の嘘のように静まり返っていた。
だがそれも長くは続かない。
遠くから教師が乗ったISの近付く音が千冬の耳には聞こえていた。
それでも、今この瞬間だけは、ここには彼女以外の人はいないのだ。
ゆっくりと遠くに消えて行く束の姿を千冬は眺め、その状況に甘える様に彼女は唇を強く噛み締めた。