三雲少年が何故だか疲労を色濃く残した面構えで本部を彷徨う昼過ぎのことであった。
否、彼の疲弊の理由は明確であるが、言葉にするまでもないのだ。
原因は白猪との特訓であった。
彼が師事する人間は多いが、その中でも積極的に教えに来るので断りづらいのだろう。
背丈も雨取に近い為、少年の親切心というのか、一種のお人好しとも言うべき側面が働いてしまうのだ。
その結果、三雲の顔色は廊下で擦れ違っただけの二宮が心配して声を掛けるか悩む程の無惨となっていた。
痛みを伴う訓練は、生身であればそうおかしなことではない。
徒手格闘は当然として、防具を付けた剣術などでも避けては通れない道だ。
剣道を例にとれば、竹刀を使い面をつけ、手拭いで耐衝撃性を高めていても叩かれた衝撃は内部に響く。
小手など真面に入れば内出血も珍しくはない。
だから、痛みがあるということ自体は問題ではないのだ。
この場合は、その度合いである。
ボーダーのトリオン体は破損がイコールで死亡ではない。ベイルアウトを行い、トリオンが充足すれば再度出撃することが可能である。
訓練空間において、そのサイクルは瞬時のうちに行われると言っても差し支えはない。
死ぬほどの傷を受けては再生する。
頭が真っ二つにされる感覚を確りと感じてから、復活する。
当然訓練の一環である。死にはしない。危険性も、直接的にはない。
然れども、畢竟、至って拷問的である。
「おい、何があった」
最終的にげっそりとした三雲の肩を叩いたのは、風間であった。
小柄にして童顔の持ち主であり、ともすれば高校生にも見られかねない男であるが、A級でも最上位の実力を持つ人間である。
三雲にとっては幾度となく不愛想ながらも真摯な助言を寄越してくれる、尊敬の対象であった。
A級隊員の知り合いは多いが、一対一で対峙したという意味では数少ない一人でもある。
「風間さん……?」
「誤魔化すこともできないなら、休息は十分に取れ。効率が悪い」
──周囲にも良い影響がない。
風間は仏頂面で自販機でスポーツ飲料を買い、三雲に放った。
「白猪に付き合わされているらしいな」
「ご存知なんですか」
「本人から聞いた」
三雲は全くタイプの合わない彼らが知人であったことに驚きつつも、風間の勧めに従ってバルコニーの席に着いた。
風間が自然にパックの牛乳に口を付けるのを眺め、彼は口を開いた。
「あの、白猪さんはいつも
「昔はもう少しまともだったが、概ね
「昔、ということは──」
「──学区が同じでな。小中は一緒だった」
静かな嘆息が、凡そ碌な思い出ではなかったことを如実に示していた。
彼が無表情ながらも非常に疲れた空気を醸し出すので、三雲はそれ以上突っ込むことはやめた。
奇天烈生物に十年近くも付き合わされていたのだから、風間の苦労は推して知るべしである。
何だかんだと面倒見の良い男である故、距離を置くことも出来なかったのだろう。
「ふむ、お前は射手寄りの立ち回りを学んでいると聞いていたが」
「序盤の配置次第では、ぼくが攻撃手と当たることもあるかと」
「そうか」
虻蜂取らずとはならないのか。
風間は敢えてその危惧を口にしないようだった。
三雲という人間が、その程度のことを考慮していないとは思っていないのだろう。
「しかし、まさか痛覚設定を同じにしているのか」
「はい。その方が効率がいいとお聞きして……」
「良い訳がないだろう」
即否定である。
え、と三雲の額から汗が流れる。
「現にお前は調子を崩している」
「これは、まあ……」
「痛みへの恐怖を忘れないのは正しい。だが程度というものがある」
全くの正論である。
トリオン体は基本的に痛覚を軽減する設定となっている。
これにより多少の傷はおろか、四肢が欠損する事態においても冷静な思考を保ち、作戦行動の一端を担うことすら可能である。
反面、痛覚がない故の問題もある。
負傷に対する危機感の低減である。
かつてボーダーでは一切の痛覚を無くし、恐怖といった感情を抑制する方向の調整は模索された。
研究の成果として、むしろ戦績は悪化することが判明した。
傷を恐れぬ勇猛と、単に自らを省みないだけの蛮勇は似て非なるもの。
後者を無意識に選択してしまうようになるのであれば、害でしかない。
その恐れを受け止める意志の弛緩を、白猪は鈍りと称するのである。
少し切り傷がついただけであっても、トリオンは消耗される。
怪我をすれば血が流れる。
血を失えば、動きが鈍る。
足が止まれば、次は息が止まる。
トリオン体でもそれは共通だ。
故に、風間も考え自体は否定しない。
だが、生身とトリオン体での戦いとでは、発想から異なることが多々存在する。
通常不可能な動きも可能である。前述の通り、身動きが取れない程の負傷であっても、無視して行動が出来る。
何より、当然ボーダーの戦いはトリオン体で行われるわけである。
つまり、痛みを感じる訓練も役に立たないではないが、総括するに効率が悪いのである。
「それもあって、やつはC級への勧誘行為が禁止されている」
「……禁止なんですか」
「そこを差し引いても教えるのが極端に下手だからな」
そうだったのか、と三雲は形容し難い感情に駆られた。
つまり、城戸を始めとしてあらかたの上層部から「お前は指導するな」と名指しで注意されている人物なのである。
勿論三雲はB級なので、別にその縛りに反しているわけではない。
ただ、一言何かを言いたくなるような、そんな気分であった。
「しかし、何故痛覚を元に戻さない。流石にやつも強く反対はしないだろう」
「いえ、一応白猪さんの言葉にも一理あるかと思い……」
「
「違います」
全力の否定であった。
風間はのんびりと牛乳を飲み干し、パックを握り潰した。
「──違うのか」
「はい」
「そうか」
どうでもよさそうな物言いだった。
三雲は時々風間の無表情に、内心を測りかねることがあったが、この日においては正しく何を考えているのか全く分からなかった。
ひとまず、甚だしい名誉の棄損を否定したかったのだろう。
彼は口の中で違いますと繰り返した。
「そういえば、風間さんもクラブに誘われていると聞きましたが……」
「ああ、アレか。戦術という意味では一考する価値はあるが──」
三雲は、風間が拒否するものと思っていたので、少しばかりの違和感を覚えた。
戦術、という言葉が件の少女には噛み合わない。
今のところ三雲の持つ印象としては、正面から技術と力で叩き潰す、正に猪武者といったものである。
だが、それだけで上がれる程A級が温くないだろうことも、実体験で学んでいた。
彼が尋ねたそうにしているのを察してか、風間は首を振った。
「先に言っておくが、やつの戦術はお前の参考にはならない」
「……そう、なんですか」
「傾向としては二宮に近い。雨取ならば似たようなことは出来るかもしれんが」
二宮の戦い方は、三雲の記憶にも新しかった。
曰く、極めて丁寧なゴリ押し戦術。
単純ながら、それ故に真っ当に対峙すれば対処法がなくなる部類であった。
言ってしまえば防がせてから火力で叩き割るか、強力な一撃で押さえたところを速度と軌道で撃ち抜くか、その二拓を強制するだけである。
正面からぶつかっていれば確実に負けていただろう。
それに近い、というのは恐ろしい話であった。
「千佳なら出来る、ですか」
「可能性の話だ」
誰とてあのトリオン量で旋空を使うとどうなるのか、くらいは考えるだろう。
そう言って風間は僅かに表情を和らげた。
「あの大砲でも十分過ぎる脅威だがな」
彼の言葉の裏には、人を撃つことが出来ればより大きな脅威となるという前提があった。
既に雨取が人を撃てないということは、周知の事実に近い状態になっていた。
気質が向かないのだ。
こればかりは周囲の人間がどうすることも出来ない。
現状でも地形を変えるレベルの大砲火は反則級である。
だとして、能動的に敵を撃ち落とせないのであれば、対策は可能だ。
トリオン量からすれば、彼女にも二宮と同様の戦術が採れるはずだった。
三雲や彼女自身の思惑はさておき、事実としてはそうなのだ。
風間は、すっと二本目の牛乳を取り出して、慣れた手つきでストローを差し込んだ。
まだ飲むのか──三雲は口を突いて出そうになる言葉を呑み込んだ。
「もし、千佳が同じことが出来るようになれば──」
「対策には難儀するだろうが、それ以前に間違いなく実現しない」
本人らの気性が正反対という次元で異なっている。
片や猪、片や少女である。
才能という意味では可能性があっても、性格という側面では不可。
風間の言っているのは、実現以前の想定でしかないということだった。
「
「熊……」
笑顔で頭蓋を叩き割ってくる女の顔を思い出し、三雲は背筋に怖気を感じた。
彼と対峙している時はレイガストを携えているが、いつもは斧のようなものを使っているとは彼も聞いていた。
にこにことしているので、余計に怖いのだ。
しかも、見た目は本当に小さな女だ。
得てして夢の内容を覚えていることは少ないが、最近の寝不足の原因になっているような気がしている三雲である。
考えるうちにげっそりとしてきた三雲に、風間は息を吐いた。
「……あまり支障が出るようならば早めに断っておけ」
「い、いえ……ぼくが頼んだことですし、支障という程じゃ」
「はっきり言えば通じる。物分かりは悪いが、配慮が出来ないわけでは――」
風間は思い出したように言葉を切って、
「――たぶん、ない」
と言った。
「断言出来ないんですか……」
「残念だが」
本当に残念の一言である。
「まあ、恐らくそう気にすることはない」
風間は思慮するように口元に手を当て、周囲を見回した。
――こういう話をしていると大概
完全に被害に慣れ切った様子であった。
案の定渦中の人は遣って来た。どちらかといえば、常に他人を火中に放り込むような輩であるが。
しかし、見るからに白猪は萎れていた。
悪戯をして怒られた室内犬のようだった。
彼女は風間に気付き、同時に三雲の姿を認めると、更に萎んでしまった。
「あの……三雲くん。とても申し上げづらいのですが、謝らなくてはならないことが」
とことこと近づいてきて、白猪は開口一番そう言った。
「え、あの、何かあったんですか?」
三雲が尋ねると、彼女は小さく目を逸らした。
風間は察したかのように、何も言わずに綺麗に紙パックを畳み始めた。そういう気分らしい。
「その、城戸さんからも止められまして」
「城戸司令から
「あ、あの……唐沢さんとか、皆さんから」
三雲は三雲で目的があってやっているのだから、少し彼の思うようにやらせてあげなさい――といったことを言われたらしい。
上から全力でストップがかかった形であった。
被害者本人があまりのことに何も言えないでいる程である。
「だから言っただろう」
そう気にすることはない、と。
ばっさり切り捨てた風間に、白猪は無言で泣きついた。
なお、後日、彼女の要求が通ることはなかった。