先におや、と声を掛けたのは、白猪であった。
彼女はボーダ本部のロビーをぶらついていた。大して用事があったわけではないようで、せいぜいが既知の隊員を見かければ話してみよう言ったところか。
目線の先には、色々と特徴的な青年が揚げ菓子をむさぼっていた。
迅である。
未来視の
只でさえの腕利きが、風刃を手にして、まさに手が付けられなくなったという傑物である。
尤も、自分からその黒トリガーを手放してしまったのであるが、そこも含めてのイレギュラーな人物という評価が相応しい。
「お、つむさんじゃん」
「……まあ、
白猪蝸牛の蝸牛を取って、蝸牛=かたつむりという発想から付けたのだろう。
そもそも元の名前に全く所縁もない響きなので、当初は戸惑った白猪であった。
それでも、今や慣れっこという程度には馴染みがある仲であった。
迅からぼんち揚げを受け取り、彼女はため息を吐いた。
「終わりましたね、ランク戦」
「つむさんの後輩、出てた?」
「一時期隊員だったという意味なら」
すぐにいなくなったのだが。
「そういえばメガネくんのこと、ちょっと見てくれてたって聞いたよ」
「もう少し見て居たかったのですが……」
「あっはっは、上の人たち総出で止められたんだっけ」
残念残念、と迅は笑い、白猪に大いに睨まれることになった。
何しろボーダー内評価においても指導力0とされる娘である。
笑い飛ばすくらいが丁度いいのだ。
下手の横好きに他人を巻き込むのだから、性質が悪いのである。
加えていえば、根本的な指導の
少ないトリオン量ながらも隊員の支援を重視するためにアステロイドを選んだ者に、今になって近接戦闘の技術を速成で仕込もうというのが無謀なのだ。
勿論、そういったセンスがあれば多少は形になったかもしれない。
しかし、悲しいことに三雲少年にそういった方向の才能はない。
有無が誤魔化せないのだから、遣りようもないわけである。
「誰も彼を止めなかったのですか? トリオン量のない射手では大成しないでしょう」
「まあ、軽くは止めたよ。お勧めできないってね。でもそれで止まるメガネくんだと思うかい?」
「止まらないでしょうね、ああいう人は。うん、だから沢山の人が見守っているのでしょうけれども」
その上で、彼は二宮をも撃ち抜いて見せた。
最後の最後まで勝ちを捨てず、隠し玉を丁寧に持ち続け、最高のタイミングで披露した。
「いいですね、ああいうのは。私は好みですよ」
「ま、つむさんは好きだよね」
「ええ」
あまりに率直な肯定に、迅は耐えきれず小さく噴き出した。
思ったことを思ったように実行する。
子供ではないのだから、と思うかもしれない。
しかし、ある種稀有な資質と言い換えることも出来よう。
落ち着いたようでありながら、感情がすぐに顔に出るばかりか、言動もほぼそのままに飛び出してくる。
行動まで伴ってしまうことが多いのは玉に瑕だが、実直さという意味では美徳ともいえる。
感情を強制的に受け取ってしまう影浦が比較的彼女との会話を避けないのは、こういった部分が原因だった。
「しかし、良いの? 城戸さん一筋だと思ってたんだけどさ」
「無論、極めて別格です。真綿のごとき雲の上です」
「……あれから外堀埋められた?」
「いいえ、全然!」
前述の通り、搦手など全くと言っても差し支えのない程適性がない娘である。
本人が断言するくらいには望みがないのだろう。
年齢としては別に犯罪になるわけではない。
しかし、外見はそうはいかない。
彼女の容姿では、外で城戸と話しているだけで最悪通報されかねない。
何よりの問題は、彼女が城戸とその家族のことをよく知っていることであった。
「皆さん好い方々なのですよ……」
「それ以前に演技とか無理なんでしょ」
「無理ですが」
がくんと肩を落とす白猪。
迅からすれば一応年上なのだが、そんな扱いが出来る相手ではない。
彼はまあまあと言いつつ、白猪の肩に手を置いた。
「――おや、セクハラは控えるようになったのですね。良い傾向です」
「まあね」
白々しくもそっぽを向く迅は、目の前の女は悪戯をされて怒る程度では済まさないことを知っているようだった。
何か痛むように手首を擦る彼の額を汗が滑り落ちていく。
「男の子なので仕方がない部分もあるのかもしれませんが、ああいうのは良くないですからね」
「うん、もうやってないからさ。大丈夫。うん」
「本当ですか?」
「本当さ。信用ないなあ」
「太刀川くんが単位を落とさないと言い出すくらいの信用度でしょうか」
「絶望的だな……」
補足すると、多くの場合大学の単位というのは必須でない限り、一つ二つを落としたところで卒業の可否という意味では大層な問題ではない。
最終的に4年で必要な分を取得していればよいのだ。
太刀川が散々な言われようをしているのは、その必須分を落としかけているというのが大きい。
しかも本人の危機感が欠如している。
毎度期末の時期に入ると周囲の人間が慌てだす羽目になるのである。
同じ大学なので、その度に過去のノートを引っ張り出して教えていたのが白猪であった。
迅はそこで些か唐突に、ところでと話を切り出した。
「つむさんってこれから就職だっけ」
「もうボーダーに決定していますよ。色々頂ける手当てが増えますね」
「そっか」
彼はそう言って、口を噤んだ。
「――見ましたね」
比較的多弁な青年には珍しい態度に、少女は断言した。
迅は見た者の未来を見通す。
便利ではあるが、一方で見せられてしまうという意味では、それでは済まない。
対峙した人間がどうなるのかを見る。
その者が何を為すのかを、見てしまう。
先にあるものが破滅だとしても、修正が利くとは限らない。
修正方法があったとしても、それが実行できるとも言えないのだ。
最悪の場合、誰かが死ぬ未来を素通りさせるという選択を強いられる。
見えさえしなければ自覚することもなかろうに、見捨てたことを強制的に認識させられるとすれば――果たしてそれは便利な力と言えるのだろうか。
影浦が普通は気付くこともない悪意をも常に感知してしまうように。
或いは、菊池原が本来は聞かずに済む陰口を全て聞き取ってしまうように。
もしくは――白猪が常人を遥かに超える
それは全く、副作用なのである。
「……ああ。どうしたものか、困ってる」
「なら――」
「――うん、だからさ」
頼み事があるんだ、と彼は言った。
白猪は無言で頷いた。
――時間は夜になっていた。
玉狛支部は夕食の時間が過ぎた頃合いで、それぞれの私室に戻ってくつろごうかといった雰囲気であった。
「よう、ちょっといいか」
そう言って三雲を呼び出したのは、迅であった。
返事をしたはいいものの、三雲は迅の言葉に違和感を覚えた。
声色が硬いのだ。
飄々としてつかみどころのない、しかして頼れる先輩。
三雲にとっての迅は簡便に評せばそういった人物だ。
調子を崩しているところは殆ど目にしたことすらない。
戸惑う三雲を余所に迅は足早に屋上に出ると、息を吐いた。
「悪いね、休みたいだろうに」
「いえ。何があったんですか?」
数歩、屋上の淵に近づき、迅は言った。
「ちょっとマズい未来が見えた」
生温い風が男の外套を靡かせる。
室外だというのに、無性に湿度が上がってような感覚があった。
三雲が先を促すと、意を決したか迅は言い切った。
「つむさん……白猪さんがガロプラの人たちに接触する」
「――!?」
「同盟破綻どころか、最悪次の大規模侵攻につながりかねないんだ。困ったことに」
可能な限り後輩に負担を掛けたくはないようだったが、その声色がそんなことを考えて居られる状況ではないことを示していた。
三雲も、白猪が近界民を嫌っていることは知っていた。
あくまでも話に聞く範囲ではあるが、あの三輪と比べて上回るとすら言われるのだから、相当なのだろう。
しかし、である。
「一人で、ですか」
「ああ。ガロプラの皆さん全員相手に向かっていくところが見えた」
「無謀じゃないですか……」
三雲も以前の襲撃時の戦闘は小南から嫌という程に聞かされていた。
ボーダーの攻撃手上位陣数名を相手に大立ち回りを演じた程の手練れが揃っているのである。
確かに、白猪の実力は彼も身を以て理解していた。
それでも、迅の話を聞くだけでは命を無駄にするだけの特攻を仕掛けるようにしか考えられない。
彼の思考を読んでか、迅は首肯した。
「無謀さ。でもあの人は止まらない」
「止まらないとしても、それじゃ全員から袋叩きに遭うだけじゃ」
「勿論そうさ。だけど間違いなく、一人は仕留める。そういう人なんだよ。」
何があれども敵は殺す。
自分が死ぬことになろうと、必ず敵の頭数を減らしてみせる。
当然、トリオン体であれば、戦術としてアリではある。
だがそれを行うのは痛覚を生身と同様に設定している者である。
「そこまでするということは、ご家族などが……?」
「一次の時にな。唯一の身内だったおじいさんと、実家の道場に居た門下生たち、全員だ」
「……白猪さんは」
「丁度高校の卒業旅行に出てた。幸か不幸か、分からないけど」
帰ってみれば家もなく、家族もない。
――果たして耐えられるだろうか。
三雲は想像しようと努めたが、出来なかった。
彼は善良な人間だ。家族を大事にしたいと当たり前に考え、友人を助けたいと願う者だ。
だが、そこまでの事態に陥ってはいない。
三輪の時もそうだが、温度差がある過去を十全に理解することは出来ない。
逆に言えば、だというのに友人の為に即座に自らの命を捨てるような決断が出来るという異常性を有しているとも表現できるだろう。
「じゃあ、その時にボーダーへ?」
「いや、保護されるまで生身でトリオン兵と戦ってた」
「――――は?」
素っ頓狂な声を上げる三雲だが、無理もない。
トリオン体はトリオン以外では殆ど傷を受けることもない。
耐久度も筋力も、通常の物理体とは比較にならないのである。
もし当時彼女が副作用に目覚めていたとしても、幾ら何でも無理がある。
「まあ当然、生きてるのが不思議ってくらいの状態だったらしい。で、その時保護したのが城戸さん」
「そう、だったんですか……」
死ななかっただけ重畳とでも言おうか。
むしろ超常故に死ななかったのか。
そうなんだよ、と迅は三雲に向き直った。
顔にはいつもの気の抜けたような笑みが戻っている。
「で、さ。ここにあの人に気に入られてるやつがいるんだ」
「え、ここにですか? ああ、千佳ですか」
「いやいや、メガネくん。ここまで話したのにはきちんと理由があってさ」
――実は頼みたいことがあるんだ。
彼は本日二度目となるその言葉を、神妙な面持ちで告げた。