……早く居なくなってくれないかしら。
私は今。滝壺の、滝の裏側の僅かなスペースに入り込んで水中に身を沈め、顔だけを水面に出した状態で息を潜めていた。流れ落ちる水を挟んだ向こうには、私の体よりも二回り程大きい、鋭い牙と銀色の毛並みを持つ狼らしき獣が3匹見える。
水を飲みに来たか、若しくは匂いに気付いて
何回か滝壺の周囲をぐるぐると回ったあと、狼達はその場を後にした。思わず「ふぅ」って息を吐いた。どうにか危機は脱したみたい。
折角乾いたワンピースが台無し。何せ脱いで何処かに置いておくなんて余裕なかったから。そんな事していたら隠れるのが間に合わず今頃私はヤツらの餌になっていたでしょうね。私が居たのが風下だったのも幸いした。もしかしてこれも主神の加護?
でもまた乾かすのかぁ。このワンピースもオダチェン礼装……もといカルデア戦闘服みたいに収納できたら楽なのに。
……って思った時。私の左足首が微かに光って、着ているワンピースやら下着やらサンダルやらが消えた。突然過ぎて理解が追い付かなかったけど、水から左足だけをあげてみるとその足首にはさっきまでは無かった左手首と同じようなリング状のアザが付いてる。
あ……成る程ね。シルクのワンピースなんかも礼装と同じ扱いってわけね。オダチェン礼装みたいに何度でも出し入れできる、と。推測だけど、このリング状のアザは礼装の設計図みたいなもので、私の意思で組み立てて実体化するんでしょうね。その際材料になるのはこれも推測だけど、使い道の無い私の魔力じゃないかしら。ほら、アムラエルさんも『攻撃や防御などには使えない』って言ってたし、それ以外の用途なら使えるって事でしょう。
ちゃんと説明してよ、そういうの……分かるわけないじゃない……あの〈
はぁ。このぶつけ先の無い怒りはどうすればいいの?そのうち円形脱毛症とかになりそう……あ、女神の神核があるからならないか。
狼達の気配が完全に消えた(多分)のを確かめて、注意深く水から揚がった。
もう一度ワンピース姿になろう、と左足首に意識を飛ばすと、サンダルや下着も含めて着ている状態に戻った。さっきびしょ濡れになったにも関わらず、今は乾いた状態。先に試しておいたオダチェン礼装と同じで、損傷なんかも再展開すれば直ってると思っていいかな。
さて、困った。さっきの狼の件もあるし、安全地帯を探さないと。これがよくある異世界転生ものの主人公とかなら、魔物を寄せ付けない結界魔法!みたいな都合の良いものがあって安全に夜営できたりするんでしょうけれど、生憎私はこの世界の基本魔法すら使えない。
普通、どう考えてもそういう攻防に使う魔法とかを優先するでしょう。服とか優先順位下でしょう。何度も一瞬で服出入れできるとか確かに便利だけど、便利だけれど!
そんなわけで、私は林檎を噛りながらこの滝壺周辺の散策を始めた。これだけ草木が生い茂り、起伏も激しい森だもの。都合の良い洞窟とか身を隠せる岩場とかあるはず……あるわよね?林檎の木まで用意してくれたんだもの、そのくらい用意するのなんてわけないわよね?
「………………嘘でしょう?」
思わず声をあげた。あれからどのくらい探したか。さっき狼から隠れた滝の裏以上に隠れられそうな、夜を越せそうな場所は何処にも無かった。身の安全が保証できない以上ここで夜を迎えるわけにはいかない。私だって不眠不休なんて無理。空を見上げれば、太陽はさっきより少し低い位置。どうやら日の出ている時間は残り半分を切っているみたい。
この目の前の滝を少し離れれば、鬱蒼とした木々が生い茂る森がずっと広がっているだけ。でも安全地帯が無いなら進むしかない。どのみち水と林檎だけじゃこの軟弱な体は何日もは維持できない。体力があるうちに動くべきでしょう。
あてが無いわけじゃない。滝壺から水が小川となって何処かへと流れている。冷静になって考えれば、この小川に沿って歩いていけばやがて大きな川にぶつかり、その先にはきっと人の住む街がある筈。ただ問題は距離がどれだけあるかだけど。
私はまだ成っている林檎に手を伸ばし、2つ、3つ、4つ……ともぎ取っていく。林檎って確か1つ300gくらい、つまり10個もあれば約3kg。これで数日頑張る……もし足りなくなったら……ならやっぱりもう少し取った方が……。
ワンピースを脱いで林檎をその上に置いて。風呂敷代わりにして包む。道中草木で手足に傷が付かないようにオダチェン礼装を展開して、林檎を持ち上げた。
…………重い。え?待って。いま10個入れたから約3kgよね?どうしてこんなに重いの?この世界の林檎がおかしい……じゃない、私が非力過ぎるんだ。でもこれ以上減らすのは自殺行為だし。
悩んだのはほんの一瞬。今行かないと手遅れになりかねない。よし、って心の中で踏ん切りをつけて、風呂敷にしたワンピースをもう一度持ち上げて歩き始めた。
─────────
「ハァ……ハァ……ハァ……」
どのくらい歩いたかしら。高い位置にあった太陽も今は沈もうかという位置にあって、空が赤く染まってきた。こんな状況じゃなかったら異世界の綺麗な夕焼けに感動していたのかも知れない。
焦りがどんどん加速していく。太陽の位置に合わせて森も少しずつ暗くなっていってる。日が完全に沈めば、危険極まりない夜が訪れる。その前に休める、夜営に適した場所を見つけられたら良かったんだけど、そんな場所素人かつ何の知識も無い私に探せる筈が無かった。異世界転生ものの主人公はよく色んな知識を持っていて『知識チート』!とかやってるけど、そんなの普通に生きてる一般人には無理だから。ボロック・ダガーよりもファイアスターターが欲しかったわ。
何処か、何処かに少しでも身を隠せるような場所はないかしら。歩き過ぎて足がそろそろ限界なんだけど……。
あれ何かしら?ちょうど小川の対岸、ここからちょっと遠い場所から煙が空へと昇っている。火事……にしては局所的過ぎる煙。ひょっとして、もしかして、人間が起こした焚き火だったりするんじゃ?
……そうよね、幾ら〈
あれはきっと旅の商人とかが夜営してるに違いない。それで街まで送ってもらえるとか、だったらいいなぁ。私が出せる物といったら……林檎くらい?
……分かった、きっとその商人が獣に襲われそうになって、私がガンドで助けるとかそんなイベントが起こるのね。まぁそういうイベントがなくても私みたいな絶世の超絶美少女の頼みなら聞いてくれるわよね?多分。
そうと決まれば後はあの煙を目指して歩くだけ。足は重いけれどもう少し頑張れば人に会える、きっと安心して眠れる。
水面が膝程度まである小川を渡って、森の中を進む。もう周りはすっかり暗くなってしまったけれど、あの天まで伸びる煙を目印に行けばいいんだもの、迷う事はない。
その煙はやはり、焚き火から発生していたものだった。つまりはそこで夜営する人間が居たってわけ。この世界で初めて出会う人間……って、そういえば言葉はちゃんと通じる?自動翻訳とか現地の言葉の理解とか特典で付けてもらった覚え無いんだけど。
念のために少し遠目から観察してみようかしら。
焚き火を囲んでいる人間は二人。がっちりした筋肉質の体格の、無精髭のくすんだ茶髪の男と、つり目で性格がキツそうな顔の、赤い髪の女性。どっちも皮で出来た濃い茶色の鎧を着ていて、その手元にはブロードソード。二人の奥側に小さな荷馬車。中には数人の気配。
近くの茂みに身を隠し、私は彼等の声に聞き耳を立ててる。
「今回の仕入れは駄目だな」
「ほんと。あんまり高値にならなそうね」
二人とも日本語を話してる……?いや、違う。口の動きと発せられる言葉が合ってない。自動翻訳、というか多分私が女神だから、言語が違っても言葉が理解できるようになってる……とかだと思う。
仕入れ……って事はやっぱり商人かしら。一応女の人も居るみたいだし、出ていっても大丈夫よね?そうそう、カルデア戦闘服は解除しておかないと。こっちの世界ではかなり異質な格好だろうし。
風呂敷代わりにしていたワンピースから林檎を全て取り出して、両手に抱える。カルデア戦闘服を解除した後ワンピースを一度解除し、再度展開。私は林檎は抱えたままにワンピース姿になった。
隠れていた茂みから出て「ちょっといいかしら?」と声をかける。皮鎧を着た二人が「あ?」「お?」って声をあげて私の方に視線を向けた。
「道に迷ってしまったみたいなの。良かったら開けた場所に出るまで同行させてもらえないかしら?」
こんな森の中、林檎を抱えてそんな事を言う私。我ながら怪しい人間に見えてると思う。目の前の二人は顔を見合せ一時停止。先に反応を返したのは女性のほう。
「おい、ゲイル」って男のほうに呼び掛けたその女性。それに「あいよ、姉御」って返して立ち上がった男、もといゲイルさんは荷馬車の方へ歩いていった。
「そいつは大変だったろう。大丈夫だ、ちゃんと馬車で街まで運んでやるよ。立ってるのも疲れただろ?まあその辺に座っときな。アタシはピトスってんだ。アンタ名前は?」
ピトスと名乗った皮鎧の赤髪の女性。思ったより良い人じゃない。名前……名前か。どうしようかしら。前世?の名前なんて意味無いし。もうステンノで良いわよね?どうせこの世界にはギリシャ神話なんて無いだろうし。
「ステンノよ。ありがとう、助かるわ」
ピトスに促されて、私は隣に腰をおろした。焚き火が暖かい。あ、勿論林檎は彼女に渡したわ。
直ぐに戻って来たゲイルが、水の入った水筒とパンを渡してくれた。見た目はライ麦パンのようだけど。食べられない程じゃないけど固い、私の掌サイズのパン。現代日本の柔らかいパンに慣れた私にはこれは食べ難そう……。
「嬢ちゃん、森ん中歩き回ったってなら腹も減っただろ?それでも食っときな」
「ええ。ゲイルさん、だったかしら?ありがとう」
しかめっ面にならないよう愛想笑いを返して、水で流し込むようにしてそのパンを食べた。ハッキリ言って美味しくない。やっぱり固い、口の中がモゴモゴする。でも久しぶりの炭水化物、無いよりマシ。
食べ終わると、急激に眠気が襲ってきた。ずっと緊張していたし、人に会って安心したのもあるかも知れない。でもこんなすぐ眠ってしまっては申し訳ないかしら。
「なんだ嬢ちゃん、眠っちまっても大丈夫だぞ、馬車の荷台まで運んどいてやるよ」ってゲイルさんも言ってるし、ここはお言葉に甘えて……ふぁぁぁあ。
膝を抱えるようにしてスゥ、スゥ、と静かに寝息をたてて眠る私。ピトスさんはその私の様子を眺めながら口元を緩める。それはまるで金貨を見るような目だった。
「睡眠薬が効いたみたいだね。遠出したのに碌な奴隷が手に入らなくてケチでもついたかと思ったけど……とんだ上玉が手に入ったね」
「だな、姉御。肌も手も綺麗だしどっかの令嬢とかだなコイツ。こりゃ久々の高値がつきそうだ」
「ゲイル、分かってるだろうけどあんたらコイツには手ぇ出すんじゃないよ?折角の値が下がっちまうからね。いつも通り身ぐるみ剥いでさっさと拘束しときなよ」
「あいよ」ってゲイルさんは答えて、私をひょいと持ち上げて馬車の荷台へと運んでいく。睡眠薬、のせいか私に起きる気配は皆無。
そうよね。ここは日本じゃないんだもの。もっと警戒しなきゃいけなかった。事態に私が気付くのは翌日の事、だった。
転生初日から踏んだり蹴ったりのステンノさん、何の抵抗も出来ず捕まりました。次回から無事(?)奴隷生活、はっじまーるよー