「落ちねえ」
「ち…ちが…うえすぎさん…」
「ハンカチが…やべえ」
「…
うぅ、そっちじゃないよっ」
「ハンカチもタダじゃねーんだぞ」
公園の水道で赤黒いハンカチを洗うが完全に変色してしまったようだ。
頭に水を流して血を洗い流すと傷口が分かった。額の横で脈がある辺りだ。そりゃあ切れたら血が溢れる。今は血が止まったようで安心した。
血を洗い流し、四葉に痕がないか確認してもらった。血は付いてないようだ。
髪も上着も水で濡れてしまった。衣服に血痕が付かなくて本当に良かった。そのままベンチに座って四葉に麦茶を飲ませた。
夏の日差しがだいぶ辛くなってきた。公園には人気はない。風太郎もわざわざこんな熱く苦しい中外で遊ぶ気はないし、子供がしようとすれば止める。それほど暑くなってきた。
四葉は麦茶を飲み干した。おかわりを注いでやる。嫌な汗も涙も大量に流したからな。いっぱい飲め。
「こ、これ…ふけるの」
「あ?」
「ちが…」
「あー、少し滲んでるか
で、そのリボンどうしろってんだ」
「ふ、ふけるの」
「おまえ…それを血で汚したら完全にホラーだぞ
母親が卒倒するからやめろ
見ろ、血は出ても大した傷じゃねえだろ」
「うぅ…でも、ちが…
…んっ!」
リボンを弄って何を考えてるのかと思ったら、突っ込んできて額の傷を舐められてしまった。
「なにしてんだおまえ」
「だって…ちが…」
「舐めたって治らねえよ
まずいだろ」
「うぅ…おいしゃさんいこうよ」
「平気だ
それに、罰ゲームがあるしな
五月だけ聞こうとしたが追加しよう」
仲直りできればいいと思って、姉妹を話題にしたがもういいだろう。それに今のこの子の心中は仲直りに専念できそうになさそうだ。
「五月は好きか?」
「だいすきですよ」
「おまえ、あいつが何を企んでるか知ってるよな」
「たくらむ?」
「俺と母親をくっつけようって奴だ
お父さん、お父さんってしつこいだろ
子供だから大目に見るがな、生徒と教師ってのはそういう話はダメなんだ
娘から言われたんじゃ言い逃れできねーぜ」
「ダメなんですか…」
「泊まりの時覚えてるか
食いすぎを心配したら怒られたぞ」
「あれってうえすぎさんがわるいような…」
「マジで太るんだぞ」
「あわわ…」
冗談じゃないことを教えると四葉は慌てだした。子供の頃から大食いになったら後が大変だろうが。太ってもいいのなら止めはしないが明らかに気にしているからな。
「一花たちも我侭だが、あいつも同じだ
食い意地も酷いし、母親にべったりの甘えん坊で、母親がいないと泣き出す寂しがり屋だ」
「五月もがまんしてるんですよっ」
「すげー食ってるぞ」
「そっちじゃないです!
おかあさんといたいのに、がまんしてるんですよ
ようちえんでも、しずかだし
さいしょは、ずっとないてましたよっ
でも、おかあさんにいわないでって、がまんするからって、ないてたんですっ!
だから、みんな五月がだいじなんですよ」
「にしては我侭というかな」
「うえすぎさんが、だいすきだからですよ!」
「…でもおまえ、妹だからって贔屓してるの嫌だろ、一つ順番が違うだけでよ」
「…」
「羨ましいんじゃないのか?」
「…うらやましいです…けど
五月はだいじな、いもうとだもん!
だから、わるくちダメです!」
何が何でも悪口は聞き捨てならないようだ。律儀な奴だ。それとも本気で思ってないと安心しているからか。
残念だが思うところはあるぞ。思ったところで何とも思わないが。
「となると、嫌いな奴はいないか」
「いないですよ!」
「お母さんも好きだもんな」
「だいすきです!」
「じゃあ自分はどうだ」
「?
あ、だいすきです!えへへ」
「いや、俺じゃなくて四葉、おまえだ」
「わたしですか!?」
「姉が大好きなら従ってればいい
五月が大事なら甘やかしてやればいい
それで、おまえはどうする
おまえだってしたいこと、してほしいことがあるだろ」
「あ、ありますっ」
「でもお母さんに言えないんだろ
一花にも言わない
二乃にもいわない
三玖も
五月も
どうするんだ、あいつらは好き勝手やってるぞ」
「…」
結局風太郎と遊ぶことも姉妹が選んだことだ。興味があるものには惹かれるし、それが楽しいものだと知れば虜になっても文句は言えないだろう。
姉妹が以前より離れてしまったのは風太郎が原因だったが、そんなことこの先必ず起こるものだ。小学校に入学すれば尚更、他の子と仲良くなって疎遠になる部分があるはずだ。
四葉が求めるような姉妹と仲良く、優しくすれば優しくしてくれるものとは違ってくるだろう。
好きなものが重なった時、共有することもできない。こうして揉め事が起きて、その度に四葉が落ち込んでしまっては他の姉妹も戸惑うだろう。
姉妹なのだから本音でぶつかってもいいだろう。それで誰が折れるのかはその時自然と決まればいい。最初から自分が折れて不満を募らせて落ち込んだら誰も本音で話せなくなる。
「おまえは今一人残っちまったんだよ
寂しいだろ、四葉」
「…」
「…俺もな、そう長くいられないんだぞ」
「し、しんじゃうんですか!?」
「馬鹿、勝手に殺すなよ
受験ってのがあるんだよ、おまえらはまだ分かんないだろうがな」
「じゅ、じゅけん…」
「来年だがな…
一花の約束も早く終わらせるし
二乃の菓子つくりもできないし
三玖が泣くからって遊んでやれない
五月の結婚なんて論外だ」
「…」
「おまえが心配だ、四葉」
蒸し暑い、ジリジリと地面が焼けている中で子供に話す内容ではない。今まで話していたことだって幼稚園児の四葉には8割9割分からなかったのかもしれない。
しかし、本音で話さないとこの子は変われないと思っている。子供だからと嘘をついても…この子には勘づかれる。嘘だと知って、嘘をつかれる自分に落ち度があるんだと責めるんだ。冗談じゃない。
心配だ。馬鹿みたいに笑っていればいいんだ。何も憂いなくその時間を一生懸命生きてくれればいい。それが子供の特権だ。
楽しんだ分、人を労わる気持ちに理由が備わるはずだ。自分が楽しめなかったのに他人を優先してどうするんだ。楽しんだからこそ他人に共有させようとする子になってほしい。
「やだよ…やだ
おにいちゃんいったら…四葉ひとりだよっ」
「そうなるかもな」
「おにいちゃんっ!」
「だから、あいつらを捕まえろ
助けてって言うしかねーだろ」
「…おにいちゃんは?」
「いなくなるのはまだ先の話だからな、それでもいいんだが
俺は最後だ、まず姉妹を頼れ」
「でも…でも、いまはいいけどっ
ぜったい、いつか…きらわれるもん!」
「何でだよ、悪さしてないだろ」
「してないよ?
でも、みんな…つかれちゃうんだよ
わらってるけどわかるよ!
ほんとうに、わらってないんだよ!
わたしのせいで、むりしてわらってるんだよ!」
「…四葉、それは迷惑とは違う
悪いことだけじゃない」
無理して笑うこと。それはこの子が見せたことだ。自分がやっていたことだから分かってしまったのかもしれない。一花たちが優しい嘘をついていると知ってしまった。
だがそれは嘘をつきたいからではないだろう。もっとべつの、優しい理由があるからだ。この子はそれを知らないようだ。
「おまえ、今俺はすげー疲れてるけど、迷惑だと思ってるのか?」
「…けが…させちゃった
もう、もう…あそんでくれない、かな…?」
「ああ…くそ、これは事故だ
おまえは…俺がどれだけ嫌な奴か知らないんだろうな
こんなこと普通しねえんだぞ、四葉」
今に泣きそうな四葉の頭を抱えてやった。言っても分からないようだ。
どうしたものか悩んで、分かりやすく示すことにした。
馬鹿みたいに不安で泣きそうな子の額に口付けしてやった。さっき舐められた仕返しだ。
「疲れたっていい
おまえが大好きだから遊んでやったんだろうが
おまえが笑うまで笑えねえんだよ、わかったか」
「…あ、あれ?
えええ!?
わ、わーー!?」
おでこをさすっていると四葉の顔が真っ赤になり始めた。夏の暑さも限界が近いようだな。そろそろ帰るとしよう。
自覚がないのなら強硬手段しかないだろう。恥ずかしさはあるが仕方ないだろう。これ以外にどう分からせればいいのだ、幼稚園児の子供に。
嫌いじゃない。そんなことまで認められない子は恥ずかしそうに俯いていた。その手を掴んで公園を後にした。
家族が待っているんだ。泣いている顔より恥ずかしそうに慌てた顔のほうがいいだろう。
黒歴史になりそうな自分の行いに少しだけ笑い飛ばせる理由があった。
風太郎の苦笑に、四葉は恥ずかしがりながらも、はにかんで笑顔を見せてくれた。
「俺が怪我したことは絶対に言うなよ」
「で、でも
わー!? わかりました!」
抗議の目はそのリボンを掴み上げると理解したようだ。中野家のアパートの前まで着き改めて確認したのだ。既に傷は塞がって血が滲むことはない。
「うえすぎさん!
じゃあ、おねがいします」
「あ?」
「もっかいチューしてください!」
「誰が、二度と、するかっ」
「いたたたっ!」
それも絶対に言うなとチョップを食らわせて忠告しておく。
先生の自宅の前で話していたら確実に筒抜けになる声だった。なんつうことを大声で言ってくれるんだ。
恐る恐る聞かれていないか警戒しながら、中野家のインターホンを鳴らした。あの人は地獄耳だからな。
応答した声に風太郎だと告げるとドアが開いた。
「四葉~!!」
「え?
わー!?」
開いたのは先生だったが、その先生を通り越して子供たちが四葉を囲って抱きしめていた。
一花。二乃。三玖。五月が口々にごめんね、と謝っていた。
四葉は恥ずかしそうにして、黙ってしまったようだ。その様子に姉妹が不安そうに顔色を窺っている。言ってやれよ。
「…今日話したな
こいつはおまえらが大好きだってよ」
「う、うえすぎさん!?」
「ほんと…?
四葉…ほんと?
もう…おこってない?」
「三玖…おこってなんかないよぉ
ごめんね…ごめんねぇ…」
「ううん…ううん…」
三玖と四葉が泣き出して、他の三人もわんわん泣き始めた。感動するのはいいが近所迷惑になるぞ。うるさいから部屋でやったほうがいい。
正直に告げると子供たちは泣きながら文句を言って部屋に入っていった。
先生が玄関から出てきて頭を下げた。
「…いつも、ありがとうございます上杉君」
「昨日も言ったでしょう
俺にも原因はあったんです
長く話せたお陰で、四葉から悩みを話してくれましたよ」
「…教えてもらえますか?」
「あいつ、五月と同じで先生の不調に気づいてたんですよ、薬も知ってましたよ」
「…四葉まで…そうですか
…もしかしたら、あの子たち全員知ってるのかもしれませんね」
「どうっすかね」
だとしたら、姉3人はかなりの曲者に見える。一方で頼りになる娘にも見えるんじゃないか。母親は自身の不甲斐なさに嘆いているが割り切ったほうがいいと思った。
母親の不調を心配していたが、その母親が笑うようになった。それが風太郎のお陰だと知った。
風太郎がお父さんなら良いな。そんな願望を抱いたのもその頃。漠然としたものだった。ただ一緒にいたかったのだ。母親と一緒にいてほしかった。
四葉も風太郎を好んでいた。遊んでくれるし頼りになる。甘えられるお兄さんだったのだ。
しかし四葉は知っている。父親が離れてしまったことを知っている。理由は分からない。だが自分たちを見捨てて行ったことだけは分かっている。
7月も半ば。風太郎の期末試験の試験期間となり子供たちと会わない日が二週間ほどあった。不安だったそうだ。
風太郎までいなくなるのは嫌だった。いっぱい遊んでもらって楽しかったが何度も迷惑をかけている。自分は嫌な子だ。このままだと自分のせいで風太郎が行ってしまうのではと不安になった。
ちょうどその頃に一花から鬼ごっこに誘われたようだ。今まで頼んでもつまらなさそうにしていたのに気を遣わせてしまった。その気遣いが胸に突き刺さってしまったようだ。姉妹にも迷惑をかけているんだと。
遊びたい気持ちもあった。そこで思い出したのが風太郎との鬼ごっこだった。風太郎は嫌そうな顔をしていた。だがあの時最後まで追ってきてくれた。嘘のない優しさが嬉しかった。
きっと風太郎は離れない。根拠はないがそう分かったようだ。恐らく勘だ。四葉の勘は鋭い…恐ろしい奴だ。
それからは風太郎に甘えたくて仕方なかった。母親にいつ会えるのか聞いても確証のない日々に不満が積もったようだ。
祖父の家に行くというのも嫌だったそうだ。だがこれ以上迷惑はかけられない。我慢していたつもりだが色々と拗れていたのは先生の話を聞いてわかった。
「四葉なりに、自分が抱えてる悩みを解消してきたんでしょうが
立て続けに起きて困っていたんだ
子供のくせに繊細なのかタフだったのか分かりづらい」
「…甘えたい貴方だから、あの子は素直に話せたのですね」
「前半のほとんどは忘れてましたがね…
前半は断片的なものを聞いて俺が予想したものです」
四葉が間違えたのは優しさは憐れみだと捉えたことだ。それだけ正していれば問題はない。それさえ分かっていればあの子は姉妹に甘えられるはずだ。
この答えを導くためにどれだけ時間を浪費したか。面倒な子だった。
「じゃあ、先生
俺はバイトに行きます」
「はい、ありがとうございました
このお礼もしたいので、またいらしてください」
「はい、また近いうちに」
やることは成し遂げた。後は21時までのバイトを終わらせることだ。
四葉の件が思ったよりすぐに済んで良かった。公園で転落して打った背中を確認しておくか。未だに所々痛みがある。
水道で髪を洗ったとはいえ砂が付いて清潔ではないだろう。帰って一度シャワーを浴びよう。
そう考えてると、手を引っ張られた。振り向けば先生が風太郎の手を掴んでいた。
「?
あ、あの…」
「上杉君…どこか、具合を悪くしていませんか?」
「え?」
「…」
「…いえ、どうしてそんなことを」
先生の目は真剣だった。何か見られたのだろうか。少し背中の痛みで歩き方が歪だったのかもしれない。
確証があるからこうして手を掴まれているのは分かった。誤魔化せるわけもなかった。その目を見ていられなかった。
口から出たのは紛い物だった。
先生の手がより一層強く握ってきた。
「私の目を見て言えますか」
「…すみません」
何で嘘をつこうとしたのか分からない。この人には嘘は通じないと分かっていたのに。目を伏せた時点で誰にでも分かるような嘘をついたのだ。
四葉が今日転落したことを伝えた。
「なぜ隠すのですか」
「も、申し訳ありませんでした
預かっておいて怪我をさせるようなことをしたのが後ろめたく思っていました
無事に済んだからって軽視していました、すみま――」
「髪が乱れて、服に土が付いているのに顔は綺麗ですね」
「…は?
あ、ああ…流石に…顔は洗いました」
「上杉君、ハンカチを見せてくれますか
いつも持ち歩いてますよね」
「…」
もうバレているようだ。なぜ完全にバレてしまったのかは分からないが降参するべきだ。最初から降参していたが口から出るのは言い訳ばかりだった。
黙って。ポケットからハンカチを取り出して渡した。自分の血で一面変色してしまったものを。
先生はハンカチに付着する程度だと思ったのだろう。その量に驚いていた。
そんな顔をするのか。頭部を小石で切ったせいだと笑って教えた。
「上杉君ッ!」
笑っていたのが悪かったのだろうか。
先生の片方の手が上がるのが見えて、とっさに目を瞑ってしまった。
パチンと叩かれた。片側の頬が痛い。
少しして、両方の頬に手が添えられた。
目を開くと、先生は俯いて肩を震わせていた。
「大怪我をしたのに、嘘をつくのですね…
私は貴方の教師です…貴方より十も年上です」
「…」
「頼りないと思いますか
惨めな人間だと思いますか?
…捨てられて、不幸な人間だと…思っているのですかッ!」
「いいえ」
「ならなぜ、正直に話さないのですか
こんなに怪我をして、隠すのはなぜですか!
私の不甲斐なさが一因なのは分かっています
でも…そこまでされるのは心外です」
「…あんたが悲しまなければ、こんな嘘はつく
あんたが嘘をついたようにな
騙されたからって怒るのは、あんたの我侭だろ」
教師の貴方が許されて、自分がしてはいけないなんて心外だ。
それは横暴じゃないか先生。俺だってあんたに嘘をつかれたんだ。
あの時、言われるまでは少なくとも信じていたんだ。嘘かもしれないと分かっていても信じていたんだぜ。
風太郎の言い分に先生は押し黙ってしまった。
そのまま沈黙が続いた。
「…我侭を」
「…はい」
「我侭を、許してくれませんか…」
「…いえ、すみませんでした
もうしません」
「…消毒しましょう
うちに寄っていきなさい」
「いや、べつに…バイトだし
それに、あの…手…」
「…」
「す、すみません
ですがね、頭に血が上ると傷が開くかもしれないというか」
「何をしているのですか」
「緊張ぐらいするわ」
さっきからきつく手を握られているのだ。逃げないからもう離してほしい。掴まれた指はまったく開けそうにない。真夏だというのに暑苦しい。
こっちは怒られて、最後に甘えられて気がおかしくなりそうなのだ。勘弁してほしい。我侭を許してほしいって…大人が言う言葉なのか。少しいじらしかった。
教え子が訴えても離さないこの教師はやはり鬼だ。そんなに虐めて楽しいのかッ!暑いのに余計に熱くさせないでほしい。
「…でも先生
頼りないとも、憐れだとも、不幸だとも思ってないんすけど
流石に叩かれたのは心外です」
「…ごめんなさい…つい…本当に…無我夢中でした」
謝られてもこの手は繋いだままだった。
当然部屋に入れば、目を赤くした子供たちが騒ぎ出した。おまえら仲直りした後でもテンションが高いな。
四葉は姉妹に囲まれて不出来なみかんのケーキを食べていた。二乃が作ったのだろうか、姉妹で作ったのだろうか。
姉妹に感想を聞かれる四葉はおいしい、おいしいよとずっと笑顔だった。フォークからケーキが落ちても、口元をクリームだらけにしても、ずっと笑っていた。
しんどかった。時計を見て12時間前も動き回っていたことを思い返すとげっそりする。やっとバイトが終わったのだ。
21時が過ぎると店長も他のスタッフも早く上がれるように気を配ってくれるのだ。高校生の深夜のアルバイトは禁じられているから、接客などしていたら怪しまれる。
これから帰ることをらいはにメールすると、あちらからメールが届いていた。
みんなと花火してるよ。何のことだと考えて昨日の祭りで花火セットを買っていたのを思い出した。公園に集合とのことだ。その公園朝遊んだところ…
21時半だぞ。子供は早く寝かせるべきだ。皆とは中野一家のことだとすぐに分かった。朝から夜まで詰め込みすぎだ…
公園に着くと子供たちのはしゃぎ声が聞こえた。日中は猛暑だったが今は少し涼しい。
公園の水道の近くで子供たちが花火を持って走り回っていた。その遊び方は即効で母親に怒られるぞ。
風太郎に気づいた子供たちは駆け寄ってきた。花火を持って。ふざけるな。
「それを置け!危ないぞ!」
「うえすぎさーん!」
「うえすぎおそい!」
「フータロー!せんこー!せんこーはなびあるよっ!」
「まだあるよー!やろー!」
「うえすぎくん、はい!」
眩い凶器を持って突撃してくる子供たちから風太郎は逃げた。笑いながら恩を仇で返す奴らだった。
花火を持ってきてくれるのはいいが引火したらどうするんだ。ちゃんと両手に分けて、姉妹同士離れているが危なくないか。
先生と妹を見やると疲れているようだ。止めても聞かなかったのが分かる。問題児共め。
光が消えた花火を持つ子供たちに囲まれてしまった。足に引っ付かれて動けない。
手渡してきたのは花火だった。既に役割を終えたほうを。ゴミを押しつけるな。仕方なく持っておいてやる。
「仲直りできてよかったじゃねーか」
「えへへ」
いつも通り、五人一緒。楽しそうに笑った四葉は恥ずかしそうに距離を取った。
四葉が花火を握っていた手のもう片方の手。握っていたのは丸めた厚紙。公園の電灯だけが照らす薄暗がりでよく分からなかったがそんなものを持っていた。
五人が四葉を中央にして横に並んだ。恥ずかしそうにする五人の子供たちを見て察した。以前見たことがある光景だった。
「…」
「…」
「…?」
「…」
「…
あれ、一花いわないの!?」
「え、四葉からじゃなかったっけ?」
「えー!? 一花だよ!?」
「四葉からだってはなした…」
「そのあとに、やっぱ一花からって
四葉からは、らいはおねえちゃんのときじゃん」
「ごめん、わすれちゃった!」
「一花ぁ!?」
「なにしてんだよ」
「えと、その…はい!
うえすぎさんにこれ!」
何かを決めていたようだが頭から抜けているようだ。花火ではしゃいで忘れたんじゃないか。
四葉が渡したものは似顔絵だった。子供が作る小さな贈り物。家に帰った昼過ぎから描いたのだろうか。
先生のほうを見ると何も言わず見守っていた。隣のらいはは二枚の厚紙を振ってアピールしていた。らいはも貰ったのだろう。おとうさんもー!と叫んでいた。親父の分もあるのか。四葉が描いたのだろう。
「ありがとな
…でも何で俺笑ってねーんだよ」
「だってフータローわらわない」
「いっつもふきげんじゃん」
「しかってばっかりだよね」
「怒らせてるのは誰だよ」
「もうおこってますっ」
似顔絵を見れば子供らしく多少歪な風太郎の顔が描かれていた。どう見ても怒っている。その周りに五人の子供の笑顔があった。風太郎の顔に近い、というかくっついている。
急な贈り物に驚きその顔に呆れたが、受け取ってみれば心は様変わりしてしまうものだ。
風太郎の感想に文句を言っていた子供たちが恥ずかしそうに笑い始めた。きっと自分も笑っている。大事なものができてしまった。
「えっと、うえすぎさん
おれいがしたいですっ」
「お礼はこれで十分だろ」
「い、いいから
すこし、こっち!」
「ん?」
「そのままですよっ
…んー!」
「あー!?」
何のお礼なのか分からなかったが、かがんでみせると四葉が飛びついてきた。飛びついてそのまま、頬に唇を押し付けられた。
押し付けるのはいいが体当たりに近かった。歯が当たって痛かった。成し遂げた達成感でもあるのだろうか。子供は顔を赤くして笑っていた。
文句を言ってやろうとしたが四葉は恥ずかしそうに逃げていった。小悪魔め。
「ふ、ふたろ…よ、四葉となにがあったの」
「鬼ごっこで虐めてやっただけだ」
「四葉だけずるい!
おねえちゃんもしたい!したーいー!」
「あわわ…四葉がだいたんです…」
「…」
四葉の暴走に残った姉妹が何か言いたいようだ。
子供相手に何をされようとどうでもいいが、この手の挑戦は後に黒歴史になることが多い。あまりお勧めしない。
それを説明しても聞いていないようだ。絶対に後悔するのに。
「止めてもうるせーし、勝手にすればいいけどな
絶対に責任は取らねーからな、文句言うなよ」
「いわないもん!」
「流石に今のおまえの言葉は信用ならん」
「もー!うそじゃないのに!したいの!」
「いや、そうじゃなくてな…将来分かるようになるから
わかったから泣くな…ほら」
「…とどかない」
「四葉は届いたぞ」
「やさしくしてあげるの!」
「それはお優しいことで…」
もう少しかがむと一花に両頬を掴まれた。そのまま頬に何かが当たった。
あまり意識しないようにしていたが、正直よく分からない。柔らかいものが当たったのは分かったが子供は大体柔らかい。鼻なのか指なのかさっぱりだ。
「えへへ…」
「忠告しておくぞ、こういうこと簡単にする奴は嫌われる」
「んー…わかった!
ふーたろーくんだけだよ!」
「そうじゃねーよ」
「フータローくんは、わたしをみてなきゃダメなんだからね!」
やることやって満足なのか。姉として妹に譲ったのか。母親と四葉の下へ走っていった。ませたお姉ちゃんだ。
「フータロー…いい?」
「おまえも後悔するぞ」
「や、やだ…?
よ、四葉とけんかしちゃったし、きらいになった…?」
「嫌いじゃねーよ
でもな…あー
じゃあ、小学校…4年生ぐらいか
その時にしたかったらさせてやる、どうだ」
「いましたいの」
「そうかよ」
泣きそうなくせに頑固な奴。三玖は両手を伸ばしてせがんでいる。
昼間に三玖が陰気な子にならないか心配していたが、もし現実になったとして、これが黒歴史になったら何かの決定打にならないか非常に心配になる。その場合責任を取らされるのだろうか。理不尽だ。
いつも通り相手をしてやろう。両手を見せて甘えてくる子を抱えると首に抱きついてきた。
「ひさしぶり…やっぱすき」
「そういえば、一月くらいしてなかったか」
「さびしかった」
「悪いな、試験期間は許してくれ」
「…うん、まってるから…
フータロー、すき」
頭を抱えられたままくっつかれた。やはりよく分からん。もう終わったと思うが三玖は変わらずひっついたままだった。すりすりされても困る。
降ろしてやると三玖はすんなり降りた。いつもならもっと甘えてくるのだが。何か思うものがあるのか、一人立ちしようとしているのだろうか。願ってはいたが少し寂しいものだった。
…三玖なりに頑張ろうとしているのは分かった。風太郎も応援するし時々甘えられるくらいなら目一杯応えてやるつもりだった。
風太郎から離れていく三玖は数歩歩いては振り向いて、歩いて振り向いてを繰り返していた。物足りないのか、風太郎の顔色を窺っていた。もう少し踏ん張ってくれ…
「おまえらもか、やめとけよ」
「き、きらいじゃないですっ」
「嫌いじゃないからってするもんじゃない」
「きらいじゃないです!
い、いきます!いくからね!
う、…く…んぅ……!」
「真正面はやめてくれ」
押し黙ったままの二乃と、もじもじしている五月に溜め息が漏れる。さっきから先生は黙っているがこれでいいのだろうか。
こんなことをして害はないのは風太郎だけだ。得ではない。断じて。
五月が風太郎に突撃してきた。正面までやってきて目を瞑って顔を上げている。ぷるぷる震えて今にも転びそうだ。
嫌いじゃない。好意的だ。それは嬉しいがまず言っておかなければならない。
「言っておくがな
お母さんとは結婚しないからな」
「う」
「お母さんも大事にしてたと思うぜ
そういうのはちゃんと大事に取っておけ」
「…い、いいんですっ
これは、ちがうほうです!
いきます!」
「母親から遠のいてももう知らん」
腕を引っ張られて仕方なくかがむと激突してきた。四葉ではなく一花を見習ってほしい。
目標が母親だと言いながら早くも逸脱した行為に走った不良娘となってしまった。
違うほうってなんだ。問い詰める前に逃げられた。先生へ直行してしまった。後で何を言われるか恐ろしい。
「…」
「…花火するか」
「何で無視するのよ!」
げしげしと足を蹴られた。その顔は拒絶のものだと思っていたが違ったらしい。分かりづらい子だ。
あまり機嫌を損ねても可哀想だ。やるのなら早く終わらせてしまおう。
「おまえもしたいのか
ほらよ」
「なんでそんなに、てきとーなの!
き、キスはね、だいじなんだから…
はくばのおうじさまにね、してもらうんだから」
「…
じゃあちゃんと大事にしておけ」
「うぅうっ! いいから!
してもらうの!」
四葉は昼間に姉の本性をちくっていたことを思い出す。
本当に分かりづらい。嫌いなら嫌い。好きなら好きでいいだろう。子供のくせに。
子供だから素直になれないのだろうか。風太郎の手を離さない女の子は何を求めているのだろうか。分からない。
分からないが、いきなり頬にキスは難易度が高すぎる。失敗すれば絶交と変態の烙印を押されてしまうぞ。正直冷や汗が止まらない。
「…うぅ
じゃあ、じゃあしてあげるから!」
「しないからしなくていいわ」
「う、うえすぎっ!
…ねえ…き、きらい…?
やっぱり、きらい?
さいしょ、いじわるしたの、あやまるからっ」
「…二乃、言っただろ
おまえが、俺を嫌ったのは悪いことじゃないって
おまえは立派だぞ、嫌いじゃねーって」
「でも…わたしだけ
やだぁ…」
子供はよく分からない。こっちが心配していたことはすぐに忘れたり、こっちが些細なことだと捉えていたらやけに拘っていたり。
欲しいものが得られなければ他の物なんてどうでもよくなる。一つに拘り夢中になってしまう。まだ幼稚な証拠だ。だからいつも一生懸命に生きている。
忘れられないことをしでかすのだ。それなりに忘れないでもらいたいものだ。感謝するか恥部として記憶に残ってしまうかは分からないが。
望み通りにいかないことに俯いている二乃の前髪をかき上げて寄せてやった。ませた子供に振り回されてばかりだ。今日で自分はどれだけ軽い男になってしまったのだ。
やはり恋愛などしたくない。勉強して知識だけあれば十分だ。子供相手にこれだけ疲れるのだから同年代が相手だと地獄を見る。
おでこをおさえて呆然としていた二乃は、だんだんと慌てだした。必死に額を触って何かを確かめている。だがそこには何もない。
「あ、あれ…!?
いまの…いまのなに!?」
「一回しかやらないからな」
「ええええ!?
ちょ、ちょっと、やだ!
わかんなかったぁ!わかんなかったぁ!」
「眠りのお姫様だって、されても分かんなかっただろうな
リアルな体験で良かったじゃねーか」
「やーだー!
もういっかい!
ねえ、うえすぎ!」
白馬の王子様やお姫様など知らないが憧れているのなら壊すのも忍びない。本人がいくら無知で後々に後悔するかもしれないのだから大人が止めるべきだ。
子供たちに顔にくっつかれて暑苦しかった。夜になって多少涼しくなったとはいえ熱いものは熱い。
二乃が懲りずに腰にしがみついて訴えている。我侭である。子供たちのお陰で風太郎の品位がガタ落ちだ。見ていた妹が同情しているのか苦笑していた。もうおまえがしてやれ。
先生にも見られてしまった。謝りたいのか何なのかよく分からない表情をされた。もしかしたら自分が喜んでいると勘違いしているのかもしれない。誤解である。
だが弁明するより先にしたいことがある。水を張って花火が刺さっているバケツをどけて、水道の蛇口を捻った。
「あー!!」
「すると思った」
「まだしてないのにっ!」
頭から水を浴びる。暑いし何かがまとわりついているようで嫌だった。この水と一緒に先程の一件を洗い流してしまいたい。全く流れてないが。
妹に呆れられ、子供たちから悲鳴が上がった。二乃が引っ張って揺らしてくるが放っておく。自分が付けた痕が消えることが嫌なのだろうか。嫌な子供たちだった。
再開した花火を持って子供たちが走ってきた。だからそれは危ないからやめろ。らいはから花火を受け取った二乃まで参戦してきた。
追いかけ回され、しばらくは解放してくれないだろう。子供たちに振り回されてばかりだった。
恥ずかしい思い出など忘れてくれますように。そう願いながら風太郎は無邪気な子供たちに付き合うことにした。
「ですから――」
意地悪はしないほうがいい。口は災いの元という。余計なことは言わないほうがいい。あの時の風太郎は後悔していた。
「区切りを、つけましょう」
意趣返しだろうか。先生の不安を煽るようなことを口にしたら返されてしまった。
先生の目は至って真剣だった。それでもどこか穏やかな空気を見せている。
カフェでこのような気の重い話題をしていても、談笑で賑わう周りの客も通り過ぎる従業員も不自然に思わないものだ。
だが、風太郎には重く圧し掛かってくる言葉だった。
「貴方には感謝しています
貴方と再会して4ヶ月…ですか
この大恩は私にとって掛け替えのないものです
必ずお返しします」
「そんないつになるか分からない先の話なんてどうでもいい
あんたは認めたじゃないか、心を病んでいるって」
これがまだ子供だと思われる原因なのだろうか。話し合うことよりも拒絶したい気持ちが強い。否定して自分を正したい気持ちが募る。
なぜこんなに自分は焦っているのだ。本人が大丈夫だと自覚して、区切りを設けようとしているのなら歓迎するべきだろう。話を聞くべきだ。
なのに自分は受け入れることを拒んでいる。分かっている。これは、我侭だ。
先生は風太郎の言葉を黙って聞いていた。
「ろくに医者にも行っていない
…旦那とも別れて間もない
恩着せがましいことは言いたくないが…言わせてもらいます」
「はい」
「…あんたには子供がいる
あんたなら一人でやっていけても、必ずどこかで子供たちに不遇を強いることになる
それが嫌で俺を頼ってたんじゃないのか?
それが解決しないまま、終わりを決めるんですか」
今日聞いて分かった。自分が関わってからこの人は全く救われていない。変わっていないのだ。だが悪化はしていないと思っている。
自分がいなければ子供たちは母親の不調に気づき、右往左往して戸惑っていたはずだ。薬を飲んでいることを知った五月は明らかに問題を抱えていた。
五月だけじゃない。他の四人だって母親がいなければ寂しい。五月ほど依存はしていなくても、健気に頑張っていくだろうがその気持ちを知ったこの人は自分を責めるだろう。
放っておけるわけがない。恩師なんだこの人は。幸せになってほしい。そのためなら力になりたい。
認められないことがただ、悲しかった。
「私が…変われません」
「…は?」
「言いましたよね、私は…臆病者です
逃げられると思ったら、逃げるんです
貴方の優しさに甘えて、満足してしまえば…最低な親のまま変われません、変わる気がなくなるんです」
「あんたは最低なんかじゃない
人に頼ることが悪いと決めつけるのかよ、教師のあんたが」
「…そうではありません
ずっと、気にかけていたことがあります」
目尻を拭う先生を見て後ろめたくなった。泣かせてしまったのだろうか。
臆病者でもいいじゃないか。最初は完璧な人だと思っていた。無自覚で何でもこなす人だと期待していたのもあった。
この人は苦労している。子供が関わっているから苦労だと思いたくない気持ちは分かる。でも疲れているじゃないか。あんた今泣きそうになってるだろ。
高校生と教師。子供と大人。どうすればこの人を慰められるか、風太郎には答えはわからなかった。答えでないと踏み出せなかった。
「貴方の人生はどうするのですか」
「…適当に進学して就職します
俺の学力なら可能です」
「貴方ならきっと、貴方が考えているものよりもっと上を目指せます」
「俺のしたいことだと言ったはずだ
上なんて関係ないんだ」
「…貴方は自分の魅力を分かっていないようですね」
「み、魅力…?」
突拍子のない単語に面食らってしまった。
呆けている風太郎を見て先生は少し笑った。
「そうです
貴方ほど優しくて、芯の強い人はいませんよ
貴方を知る人は少ない
けれど、知ればきっと…貴方と出逢えたことに心から喜ぶでしょう
貴方は、優しすぎます」
「ないです、流石に
俺クラスで嫌われてますよ」
「ふふ…それで構いません」
「ええ…」
学校での風太郎の立ち居地を知っているだろう先生は笑っていた。孤立気味なのになぜ笑われるのだ。酷い教師だ。
「今しか得られないもの、得るべきものがあります
私が足枷になっているのです
貴方が、私と子供たちを見捨てられないのは分かっています」
「…そんなもので、俺を否定されても困る」
「…これでは平行線を辿るだけです
だから区切りをつけましょう
決して、貴方にとって悪い話ではないはずです
信じてくれませんか」
「…」
「これが認められなければ…
上杉君、ごめんなさい」
「…
わかりました
話してください」
自分が折れるしかないみたいだ。自分の口から発した声はとても虚しいものだった。
先生が風太郎の手を握った。テーブルの上で、優しく包んでくれた。
あの時、京都で会った時もそうだ。自分の落ち込んだ声に気づいて、こうして慰めてくれた。
自然と自分の手がゆっくりと、その人の手を握り返した。
「期限は…貴方が3年生に進級する来年の4月まで」
「あと半年ですか」
「…それまでは、貴方の手を借りていいですか」
「構いません
…その間どうするんですか」
「貴方が安心して見送れる人間になってみせます」
その言葉は力強くて、今まで聞いた無表情に似た声質ではなかった。子供みたいな、何かを弾ませて鼓舞するような意気込みを感じた。
先生は風太郎の目を見ていた。そんな顔されたら頷くしかないだろう。
「それは俺も望むことですが…
ちなみに絶縁ってわけじゃないんですよね」
「はい
ですが…4月以降は子供たちの面倒は看る必要はありませんし、お断りします
もちろん…遊んであげてくれると嬉しいです
お別れとなってしまったら悲しみますから
「…
いつかはそうなるんですけどね」
「…具体的には…?」
「いや、ただの心構えです」
「…ごめんなさい」
完全に関係を断つわけではないと知って少しほっとした。子供たちと疎遠になるのも正直嫌だった。あんなに慕ってくれるのだから。
だがいつか…それも2年や、3年で別れることになる。風太郎が大学生になるか就職するかまだ決まっていないが、どちらも忙しくなる。
子供たちも小学生に上がる。仲の良い友達ができるだろう。幼稚園の頃に知り合った年の離れた学生と遊ぶ理由はなくなる。
最初から、接する時に念頭に置いていたものだ。先生が謝ることじゃない。
「私の身勝手を、許してください」
「本当に勝手ですね
でも…俺も勝手にやってたんで文句は言えません
それに、俺が先生の負担になる前に教えてくれただけ感謝している
「…
なぜそこまで肩入れするのですか
子供たちに随分と苦労していたでしょう」
「なんでですかね…わかりません
ただ…なんつーか
…
いえ、なんでもないです」
「…」
「…はは、難しいですね…
俺も先生みたいに苦労するんでしょうね
何もかも上手くいきません」
先生の学生時代は知らない。どんな人だったのだろうか。今のように無表情で取っ付きにくい人だったのだろうか。それともよく笑っていたのだろうか。
離婚してしまったが、恋人とはどう知り合って仲良くなったのだろうか。先生ならきっと過ちで結ばれた関係ではないだろう。将来を見据えて自分の人生に胸を張って生きようとしたんじゃないだろうか。
それでも失敗してしまった。裏切られてしまった。先生でも上手くいかなかったんだ。不器用な自分はもっと苦労するだろう。
だから今からでも変わらないといけない。
変わらないといけない。あの時変わったから、自分は救われたんだと分かったんだ。
変わらないといけない。今すぐに。分かっている。今自分は失敗したのだから。
変わらないと。
「先生…」
「…はい、上杉君」
「人が変わる時は、弱い人は、誰かと一緒じゃないとできない…俺はそう思います
…俺がそうでした」
「…」
「一人にはならないでください」
この手を包んでくれる手は冷たかった。両手で包まれても冷たかった。冷たくて涼しいが…温めてあげたくなるこの気持ちはお節介だろうか。
こんな風に、自分の手を取ってくれたら良かったのに。
失敗した後は辛い。この手から離れたくなくて、もう少しこのままでいたかった。
「来年って言いましたけど、良かったんですかね」
「…学校のことですか」
約束してしまったのなら守らないといけない。それが約束だ。
花火を見よう。そう約束したが、一つ前に結んだ約束に違反するのではないだろうか。
子供たちとらいはが輪になって線香花火をしていた。先生と風太郎はベンチに座ってそれを眺めていた。
風太郎が言いたいことと、先生が考えているものは違った。受験勉強は抜かりなくするつもりだがそうじゃない。
果たして聞いていいものだろうか。無粋極まりないのだが、先生はいいから言え、と目で訴えているようだ。もうバレてやがる…
「いや…その、失礼っすけど
再婚とか…
仲の良い男とか」
「…」
「…」
「子供が中学か高校に上がるまでするつもりはありません」
溜めがなげー。えらい睨まれて心臓に悪かった。高校生の風太郎が触れていい領域ではなかったようだ。
しかし確認はしておきたかった。邪魔などしたくはないのだ。来年の夏に予定があるのならそちらを優先するべきだ。
もし相手がいるのなら、また悩んでいるのかもしれない。事実だけは伝えておこう。
「あいつらを心配してるんすか?
でも五人も子供がいるのなら早め――」
「するつもりはありません」
「あ、はい…
いや、少なくとも四葉と五月は賛せ――」
「ありません」
「失礼しました」
純粋に助言したかっただけなのだが、余計なお世話だった。
「私のことより上杉君はどうなのですか?」
「何がっすか」
「青春を謳歌する学生ですし
好きな子や気になる子はいませんか
私のような教師とその子供たちと祭りを回るより――」
「いませんよ」
「本当に? 聞いていますよ
期末試験前、クラスメイトに限らず同学年や1年生相手に図書館で丁寧に勉強を教えていたようですね」
「な、なぜそれを…」
「貴方は学年一位の優秀な子ですから、教師の間では有名ですよ
来年の3年生の夏も勉強に励むのでしょう
思い出を作れる時間はそう多くはありませんよ
私が言うのも滑稽でしょうが…人を愛して悪いことはありません」
鉄仮面で有名な教師が恋愛を推奨して微笑んでいるのだが、どんな反応をすればいいのだ。
「…いや、そもそも好きってのがいまいち…」
「誰かのことをふと思い浮かんだり
一日中考えてしまったり、ありませんか?」
「思い浮かんだり考えたりですか…ないですね
考えたり…ね…
…」
「…」
「…」
「…あの、上杉君?」
「見ないでくれ」
ある。この夏休みで妹に指摘された。
だがあれはただ心配だったからだ。そういった気持ちではないはずだ。
自分の整理で忙しいのに隣に座る先生はジト目で睨んできた。完全に疑惑をかけられている。プライバシーの侵害はやめてほしい。
「こっちを向きなさい」
「無理です」
「上杉君」
「か、勘弁してくれ…」
「笑ってませんか?」
「そうじゃねえ!?」
「良い歳したバツ1が、と思っているでしょう」
「被害妄想です」
そっちかよ。良い歳つったってまだ20代なんだろうが。結婚するのがはえーんだよ。
同年代よりは精神年齢は老けているとは思うがな。これもバレそうだから考えないようにしよう。
「私は30半ばでも遅くはないと思っていますがおかしいでしょうか」
「知りませんが、相手がいるのなら何も言いません」
「なぜ急かすようなことを」
「来年の話をした流れからです」
完全に被害妄想である。バツ1となったのは事実だが悲観することないだろう。
学校で有名な美人だ。学生からファンクラブまでできているほどだ。男なら捕まるはずだ。
五人の子供の親になるかは別だがな。そこは重いかもしれん。
「…となると早くて五年ですか」
「六年です」
「…
く、く…ふ
くくく」
「…」
「い、一年の差でも…そんな真顔で――いっつっ!」
34も35も大して変わらないだろうが。さっきは子供が中学か高校って言ってたから長ければ10年は先の話だと言ってたのに。
おかしくて笑ってしまった。お陰で思いっきりゲンコツを受けてしまった。
結婚ことはあまり考えてないとよくわかった。
「笑うとは失礼ですね」
「先生がそんな顔するからだ」
「貴方のせいですよ」
先生は笑っていた。仕方のない人だと呆れている。
あの時約束したものは決して覆せない。きっと春になればこの関係も変わってしまうだろう。
寂しいものだったが今は違う。
また来年。そんな曖昧で小さな約束が今とても嬉しい。
そんな約束が増えて、続けばいいな。そう願うのは我侭だろうか。
自分も臆病だ。逃げられる場所があれば逃げてしまうぞ、先生。直さないとな。
風太郎も変わらないといけない。少なくとも4月までに。このままだときっと後悔するだろうから。
そんなことをいくら考えても、ぼんやりと希薄なものになってしまう。つい別のことを考えてしまうから。
線香花火は既に終えただろう。それでも遊びまわる子供たちと妹を見ている。先生と並んで眺めている。
この時間が長く続けばいい。そう願ってしまう。
「お祭り、楽しみですね」
「…そうだな…」