2学期を終え、年が明けて、正月が過ぎて3学期が始まる。
社会人はその職種によって繁忙期は様々。高校教師にも当然、通勤の歩が重くなる時期がやってくる。
高校教師が忙しい最たる時期はいつなのか。そう問われたら毎年忙しい、と愚問をつっぱねたい。
強いて答えるとすれば、2学期を終える12月だ。教師によって意見は分かれるだろうが、否定はされない回答だろう。
次いで受験が始まる1月。中学生の受験を迎える2月。さらに卒業式に取り掛かる3月。新入生を教え導く4月。
…やはり1年通して忙しいと答えるのが正解である。教師の誰もが否定はしないだろう…溜め息で返されかねないが。
つまるところ、今現在進行形で滅茶苦茶忙しい。
「五月が風邪?」
猫の手を借りたい程一日の予定が埋め尽くされているというのに、病魔はお構いなしである。
朝のHR前、風太郎は自分が受け持つ教室の前でメールの差出人に電話をかけていた。向こうのHRが始まる前に。
連絡先の五つ子の長女は申し訳なさそうに、他のクラスメイトに聞かれないようトーンを落として事情を説明してくれた。
「最近、毎晩遅くまで勉強してたからさ…朝になったら微熱と咳の症状が出てた
風邪ひくから程々にしなよって言った矢先にこれだよ
私、注意が甘かったかなぁ…お母さんの一言なら絶対に辞めてたのに」
「一花、気に病む必要はないぞ
今が受験時だったら落第してると大笑いしてやろうぜ」
「意地悪過ぎる…というかフータロー君にそこまで言われたら泣いちゃうって
で…大げさかもしれないんだけどね
ひとまずね、今日は私が付き添って病院に連れていくよ」
「あ? おまえもう登校してるんじゃ…?」
「ちゃんと勉強するようにって五月ちゃんに追い出されたんだけど…やっぱ心配でさ
これから帰るよ、担任には二乃から事情話してもらうから」
「…そういうことならわかった
おまえが傍にいるのなら一安心だ
何かあったら連絡してくれ」
「うん、じゃあ後で連絡するね
お仕事中にごめんね」
俺が勤務中ということもあって、一花は手早く報告を済ませて通話を切った。
高校1年生ながら成り立てながら女優業で忙しく、眠気を堪えて遥々登校したというのにUターンする姉は健気だった。
俺も教室の横で携帯を片手に棒立ちしていると、生徒からあらぬ噂をされかねない。女に振られただとか、家族に不幸だとか…
仕事終わりに五月の顔を見に行くか。そう決めて、教え子の授業を始めた。
…今日一日、体調を崩した子供が気になって雑念だらけだった。
やがて放課後になり、残っていた仕事は優先順位に従って切り上げ、五つ子の家へ向かった。
道中の電車に揺られ、年明けの冬は日暮れも早く白い吐息はすぐさま消えてしまい、冷え込んだ夜を歩いた。
辿り着いた30階という高層マンション。風邪で苦しんでいるんじゃないかと思って見舞いの品を手にエレベーターへ。
明るく温かな部屋に招かれると…日中、無駄に意識を削いできやがった末っ子はこたつに座り、暢気に蜜柑を貪っていた。
「落ちちまえ」
「な、何からですか!?
高校の先生が物騒な事言わないで下さい、この時期に!」
「分かるわよ上杉、あんたの気持ち
私も精が出るご飯を五月に作ってあげようと買い物袋提げて帰ってきたら
…別の意味で指に痕が付きそうだったわ」
「何なんですか、もう…ご存知ないようですね、私をただの食いしん坊だと決め付けないで下さい
蜜柑は風邪に効くんですよ、病人らしく私は勉強の合間に摂取しようと――」
「五月ぃ! 私がお爺ちゃんに頼んだ蜜柑! もう半分に減ってるんだけど!?
一日でどんだけ食べてたの!? 私の分なくなっちゃうよぉ! 過剰摂取!!」
「お、お爺ちゃんは…私が風邪引いたって一花が電話したら蜜柑を追加で3箱送るって」
「風邪を理由にお爺ちゃんから蜜柑を送って貰うなんて許し難い…というか五月、勉強しないで寝てて
あとフータローは近寄らない方がいい、食い意地がうつるよ」
「とうとう病原菌扱いしましたよね! 虐めの定番ですよ三玖!
テストが近いので怠けてなんかいられませんので」
「五月ちゃん…私が学校もお仕事も休んで看病してあげたのに、全く反省してくれない…
甲斐甲斐しい私を慰めてフータロー君」
「同情はするが反省しない点はおまえにそっくりだぞ、一花…くっつくなッ」
「コートかけておいてあげ――うわ、フータロー君…こんなに冷えちゃって
こんな寒い中、ほんとご苦労様
お姉さんが温めてあげよう、五月ちゃんは放っておいて私の部屋においで?」
「お、大人しくしてたのに、何でこうまで言われなくちゃいけないんですか――こほっけほっ」
「蜜柑手放して、とっとと寝てろ病人」
居間に集る五つ子たちは相変わらず騒がしく。その渦中にいる五月は堪えていた咳を零した。
俺と同じく、学校帰りにこたつで温くしている五月と出くわしたのだろう。二乃と三玖と四葉の反応は渋かった。
こたつで温まっているからって風邪が治るわけがない。上半身は冷えているし、こたつで寝られても困る。
姉4人と保護者の咎めに項垂れる五月を自室まで追いやった。病人に対して惨い仕打ちだが自業自得故容赦しない。
五月の部屋まで辿り着くと、部屋の主はよろよろとベッドに横になった。俺たち5人を睨み返す眼力だけは逞しかった。
四葉は部屋の机に蜜柑が山になった籠を置いた。文句言っていた割に結局あげてしまうらしい。
「もう…おおげさなんですから
ただの風邪なのに…こほっ」
「辛いくせによく言う
成績は順調に改善されているってのに、何を焦っているんだおまえは」
「…受験を考えたら、時間が足りません」
「足りないって…まだ1年生なのに、五月は意識高すぎ」
「長距離走を最初から全力で走る馬鹿はいないわ」
「私でもそのくらい調整して走るのに、五月は私以上にお馬鹿さんかもしれないね」
「四葉以上って、泣く泣く受験諦めるレベルじゃん?」
「やる気のある馬鹿程、救いようがないもんだ」
「あーら、先生がそんな手厳しい事言っていいのかしら」
「いつからこれほど病人に手厳しくなったんですか、我が家は」
「四葉もなぜか被害受けてまーす」
反省を促してもなお、甘えた言葉をほざく末っ子を放って部屋を出た。夕飯は後で部屋に持って行ってやる。
五月の意見は確かに至極当然。風邪は軽視してならないが、今のところ明らかに五月の症状は軽い。
薬もあるし、ちゃんと寝て食べていれば自然と治っていくだろう。家族が愚痴を零して、冷ややかな目を向ける程ではない。
俺も姉4人も過保護なものだ。と、笑って終えることができたら良かった。
病に伏せっていた実母が亡くなって、まだ半年と少し。
平然としていられるにはまだ足りなかった。
「…ほんと馬鹿なんだから、私たちの気も知らないで」
「…お母さんが体調悪くして
心配して怒ってたのは五月も同じだったのに」
「うーん…でも、私たちの態度も良くはなかったかなぁ
軽く見るつもりはないけどさ、病気になる度にお母さんの時と同じくらい緊張してたら
…良くなるものも良くならないよね」
「そっか、お母さんが亡くなってから初めてなんだ…
…前は、お母さんが付きっ切りで看病してくれてたよね」
五月の部屋を後にし、階段を降りる姉達は一人一人ごちる。
母亡き後だと過敏に感じてしまうものがある。この子達にとって母親の死と病気は深く結びついてしまっている。
もしかすると五月はこれを予期して、姉たちの前では明るく振舞っていたのかもしれない。考えすぎだろうか。
この日は五つ子に袖を掴まれ、夕食をご馳走になった。和食で栄養のあるものばかりで、返ってこちらの精が付いた。
まだ月曜日ということもあり、惜しまれつつ早々に帰らせてもらった。家が近ければもう少し長居できたが、生憎片道2時間弱だ。
そして翌日の朝。通勤前の薄暗い早朝に電話が届いた。
「もしもし、上杉?」
「あ? 何だ二乃か 朝からどうした」
「五月の風邪
昨日は一花が面倒看てたから、今日は私
結局あの子、風邪治ってないわ」
「そうか…まあ二日目だしな
薬貰ったんだし、明日、明後日には良くなるだろう」
「咳も熱も治まってないから、もしかすると悪化するかもしれないわ
私たちが連日休みだと担任が気にするから
あんたから言っといてよ、保護者なんだし
私たちが親抜きで暮らしてること、担任心配してたから」
「そういうことか、分かった」
「あと、わざわざ仕事終わりに来なくていいから
昨日だけで十分よ」
「…」
「あ、あんたはあんたでお仕事に専念しなさい、遠いんだから
いいわね、来てもご飯作ってあげないからね
来るのは金曜日、夜に電話はするから…わかった?」
「はいはい、金曜は残業しないで帰るよ
それまでに五月の風邪治しといてくれ」
何とも朝っぱらからキレの良い出禁の通告だぜ。面会お断りを宣告されて風太郎は苦笑する。
昨日は二乃の機嫌を損ねた事故はなく、恐らく俺の負担を慮って釘を刺してくれたのだろう。
五月の容態も重くはなかったし、世話焼きの二乃が看病するのなら心配無用だろ。その日は仕事に専念させてもらった。
そういう約束だったからな。来るなとも言われていたから、遠慮なく仕事に取り組んでいた。
昼過ぎに一本の着信。
着信相手に怪訝な顔をしつつ、少ない休み時間にかけ直した。
中野家の次女が珍しく、歯切れの悪い口調で頼み込んできた。
「どうした、五月の容態が悪化したか」
「あ、相変わらずというか…ふてぶてしくて小憎たらしいというか…」
「…?」
「今朝、来るなって話をしたじゃない?」
「ああ、おまえのそういう遠慮のない物言いは正直ありがたいぜ
お言葉に甘えて今日は直帰させてもらう」
「あ、あの…
その…お言葉に甘えて貰っておいて何だけど…
…ね? あはは…」
「は?」
「ごめん、朝のは無かったことにして…」
「…」
「わ、私も予想外だったのよ
上杉は今日来ないって五月に教えたら…拗ねられちゃったの」
「…それで?」
「あ、あの子、昔から風邪で弱ると極端に甘えん坊になるから
まあ五月に限ったことじゃないし…? 姉妹共通というか
だから、もしお仕事早めに終わったら…寄り道を…」
「…来いってことかよ、そっちに…2時間かけて、往復4時間で」
「…ね? お兄様、君の可愛い教え子よ?
今日は早く帰ってきて? 美味しいご飯作ってあげるから
何なら泊まっていって朝出勤しなさいよ
ナイスアイディアね、それでいいじゃない」
「朝のおまえは女ながらカッコいいと思ってたのに…
今はすげーむかついてしょうがない」
「う、うるさい! 今だって可愛くおねだりしてるでしょーがっ!」
「…分かった、昨日より遅くなるかもしれないが顔出すよ」
「…ご、ごめん…」
唯一頼れる大人に…厳密に言えばらいはと親父もいるんだが、いざ頼りたい時に不在となると不安に思うだろう。
連日早上がりとなれば仕事に支障が出るとしても…致し方ないと割り切る他ない。二乃は侘びを一言置いて通話を切った。
業務がより過酷になれば時の経過はあっという間だ。どうにか放課後すぐに帰宅できる状態に持ち込めた。
「…すぅ……すぅ…」
「…寝ろとは言ったが…」
「う、上杉…ほんとごめん…でも寝かしといてあげて…」
仕事を終えて五月に顔を見せれば、奴は姉4人の説教に懲りてすっかり熟睡していた。
暗い部屋をドアを開いて眺めるだけ。ドアから漏れる光で病人が起きないよう、音も無く閉めた。
俺が来た意味はなかったが、五月の寝顔を拝むとほんの少し、仕事で疲れた心が晴れたようだった。
平日に連日、五つ子と夕飯を食べて帰宅。その日は五つ子に振り回されて終わり、翌日の朝。
3日続いてまたもや五つ子から電話が来た。
「お、おはよう、フータロー
私…三玖」
「今日は三玖か
五月はまだ風邪か、治りが悪いようだな」
「う、うん…大体原因は分かったんだけど」
「…原因?」
「昨日と一昨日、夜遅くに起きて勉強していたことが発覚した
伊勢宗瑞の格言に、暇あれば人目を忍んで本を読み書きすべしってあるけど
五月のは度が過ぎてると思う、治るわけなかった」
「…あいつ、俺が来た時に爆睡していたのは…」
「お昼は当然ベッドの上で勉強して、疲れて寝ちゃったんだね
お見舞いに来てくれたフータローには酷い仕打ち…ごめん」
「もう教科書全て取り上げろ、治療に専念させてくれ」
「うん、皆も同意見で朝取り上げた
問題ない、リビングに布団移したから、フータローのお布団借りて
今は凄く大人しい」
風邪で弱っていながら何という執念だ。普段物静かな三玖の声音には怒りが潜んでいて、我侭娘も従順になったはず。
大方三玖の怒気を察して、今頃五月は大窓から覗く青空を眺めているだろうよ。真面目馬鹿が、反省しろ。
一花、二乃に続き、3日目の看病は三玖が担当するらしい。姉が沢山いると看病が手厚いものだ。
「今日は私が休むから
明日も駄目そうだったら四葉にお願いする」
「ローテーションとは便利だな、五つ子」
「ふふ…お母さんもよく言ってた…五つ子を産んで良かったって
フータローが風邪ひいたら、平日でも毎日看病してあげるね」
「落ち着かねーからやめてくれ、いざって時はらいはに頼む」
「む…遠慮しなくていいのに
い、今はほら私も…妹…みたいなものだよ
私だって看病できるから、安心して身を委ねてほしい
美味しい七草粥作ってあげる」
「…待て待て
おまえが五月を看病するってことは…飯は?」
「? 私がお粥作る、初挑戦」
「は、初挑戦…え? み、三玖が作るんですかっ!?
か、考え直して…う、上杉くーん!!
で、電話してるんですよね! 三玖を止めてください!
私の自業自得とか無関係に寝込んでしまいます!
「五月、静かにして、今せっかくフータローと電話してるんだから」
「通話口を手で抑えないでください! 待って、廊下に逃げな――」
なにやら電話の向こうで病人が昼食の献立に悲鳴を上げていた。どたどたと三玖の避難する足音が丸聞こえである
三玖の料理はまだまだ発展途上だ。俺ならともかく繊細かつ高位な胃に成り上がった五月は耐えられるだろうか。
ひとまず無難にレトルトのお粥を食わせるよう厳命しておいた。看病に張り切っていた三女は少々気落ちしていた。
「…でも、看病する」
「ああ、五月を頼んだぞ」
「違う、それは当然
フータローが辛い時、行くからね」
「…」
「だ、だから…フータローは隠さないでね
…私じゃなくてもいいから
一花でも二乃でも…絶対に助けてくれるから」
「…ああ、覚えておく
一人暮らしで寝込んでると辛いからよ、助かるぜ」
「う、うんっ 思いっきり頼っていいから」
一花が言っていた通り、すっかり過保護になっちまったようだな。年上にまで世話を焼こうとするな。
三玖の控えめな忠告を守り、今日こそは見舞いには向かわずに仕事に専念させてもらった。
帰宅したのは深夜の2時。舌の根の乾かぬうちに体を酷使して深夜まで残業して良いものか。慣れたとはいえ体壊すな…
我が身の勤労感覚が狂ってきている気がする。しかし仕事がある以上手は抜けないのだ。
…今から数ヵ月後、後もう少しだ。
一つの目的を成す為に。どうしても譲れないものがあるからな。
半日どころか6時間も経たずして日が上り身支度をする。飽きずに一日が繰り返される。
朝から届いた着信の相手は…最後の姉だった。
「おはようございます、上杉さん!」
「おはよう、頑張れ、また明日」
「き、切らないでくださいね!? まだ明日の朝まで24時間ありますよ!?
五月が元気ないので今日は四葉が看病します
お休みいただく許可を下さい!」
「わかったわかった…朝から元気なヤツだな
その暑苦しいスタンスは控えてやれよ、五月が寝られなくなる」
「あぁ…その
非常に申し上げ難いのですが」
「…?」
「五月、いつの間にか単語帳を隠し持ってたみたいで…あはは」
「………」
俺が少ない睡眠時間を大事に大事に…一分をも惜しみつつ布団にくるまっていた貴重な時間。
あいつはマイペースにも夜更かししていたようだ。とっとと風邪を治せっつうの。風邪を嘗め腐りすぎだ。
「教科書代わりになるスマホを禁止して安心しきっていたら、予防策張られてました
お母さんのお線香と一緒に置いた蝋燭を灯りに、単語帳で勉強していたそうです
今はお粥食べ終わった後なので幸せそうに寝ています」
「あいつはソフィ・ジェルマンにでもなるつもりか
もう日中叩き起こして寝かせるな、昼夜逆転してるぞ」
「その為の四葉ですね」
「いや、冗談だぞ、疲れてたら寝かせてやってくれ」
「夜更かししてたら体の免疫力落ちちゃいますから、多少は起きててもらいますよ
姉不孝者には容赦しません」
「後詰はスパルタ治療になっちまったか…」
四葉の報告を聞いて早朝から頭痛がし始める。今日は体力が桁外れに高い四女が見張るそうだ。
これでは看病ではなく監視が主になりつつある。今日は安静にして明日には無事に登校してもらいたいものだ。
しかし…勉強熱心なのはこれまで重々思い知らされたが、自分で自分の首絞めてると気づかないのかね。
「それでですね、一つ困ったことがありまして
私、お昼ご飯っておにぎり握るくらいしかできない不束者でして」
「なぜそのスペックで看病を引き受けたんだ」
「私も中野家の四女なわけですし
少なくとも、三玖のお粥を耐えた五月なら私でもいけるかなーと」
「なぜ病人を酷使する流れになっているんだ…
レトルトの…とは言っても、連日既製品ばかりだとあいつの胃が我慢できるかどうか…」
「そこでです、蜜柑のお粥って美味しいと思いませんか?
栄養満点で、甘酸っぱくて美味しいと思うんです!」
「すまん、大人しく二乃を頼ってくれ、それからいは」
「あはは…そうします」
「…
蜜柑はあいつも好んで食ってたから、ヨーグルトと混ぜてやったらどうだ
そのくらいはできるだろ」
「おぉ…はいっ! ありがとうございますっ!」
不器用な姉なりに頑張り屋な妹が心配なようだ。小さくも喜ばれる品の作り方に四葉はお礼を述べた。
元気溌剌な四葉の声から始まる朝は存外悪い気はせず、眠気も飛んだことで今日も張り切って仕事に励んだ。
風太郎は学校の生徒達から鬼教師だの鉄仮面だの、人望はあれど冷めた人間だと見られている。
仕事ばかりの堅物人間だと思われている、表面上は変化のない彼には。
どれほど真面目に、愚直に物事に費やしても。
やはり頭の片隅には、風邪で寝込む五月を囲む五つ子たちと…もう一つ。
病床につき、会えずに終わってしまった恩師の姿が残っていた。
こうあるべきはずだった日常が、どこか歪でも自分自身が求めていて。
五月が寝込んだこの4日間、一度もあの子からは連絡が来ていないことが無性にやるせなかった。
「5日目突入か
六つ子だったらもう一人の姉が看病してくれただろうが…」
「ごめん五月ちゃん、明日は以前から学校休んで仕事に行く日にしてたから休めなくて」
「午前だけでもいようかしら
放課後はケーキ屋でバイトで、シフト変わってくれる人いなかったのよ」
「私もバイト…一昨日休んじゃったから正直休みづらい…」
「四葉も陸上の大会が近くて…どうしよっか」
月曜から始まった入れ替わりの看病制度が5日目に入って崩壊してしまった。
四葉が看病を担ったその夜、風太郎は自宅にて持ち帰った仕事をしながら五つ子と通話していた。
通話をスピーカーにして五つ子達とやり取りをすると、金曜日は一花と四葉の予定が全滅していることが分かった。
残る二乃と三玖も日中は可能でも放課後にはバイト。昼間だけでも看病すべく学校を休もうか思案していた。
どれも無茶を通せば五月の看病に乗り出せる程度の障害だったが…姉たちが踏ん切りがつかない最たる理由は。
「早く治せばこうはならずに済んだんだぞ、この駄々っ子が」
「だってさ五月ちゃん、お代官様も流石に激おこだよ」
「こほっ…けほっ…うぅ…
病人を厄介者扱いする会議をしないでください…当人の横で…こほっこほっ…!」
「見事にぶりっ返してるわね…」
「…おまえ達が五月を心配するなら…明日は妹のらいは呼んでみるか」
「ら、らいはお姉ちゃんにまで迷惑は――ごほっ…それだけは――けほっ
一人でも大丈夫ですよ、大人しく寝てますから」
「流石にお姉ちゃんにまで迷惑かけちゃったら、五月が落ち着かないと思う…」
「甘やかしのプロみたいな人だから…違う意味で大変なことになっちゃうよね」
五月の不摂生が原因で始まった問題で、大事にして他人を巻き込むのは心が痛むようだ。他人行儀とか関係なく。
一花たち4人もこの4日間である程度落ち着きを取り戻したのだろう。妹に呆れつつ困っていた。
姉に守られてばかりの勉強馬鹿の五月もとことん反省したらしい。負い目を感じて、4日前と違い言動が意固地になりつつある。
「あれから懲りて反省していますから
皆は学校に行って、バイトでも部活でもちゃんと行ってきてください
上杉君もお勤めに専念なさって」
「ど、どうしたの五月、ふらふらして危ないよ」
「ちょっと、五月ちゃん? 起きちゃダメだよ――」
「会議はこれまでです、もう時間も遅いんですから
私ももう寝るので解散してください」
「あ、ちょっ 何すんのよ五月――」
ぶつり。仕事の片手間、耳にしていた携帯の音声が途絶えた。
五月の奴、強引に電話切りやがったな。俺だけ強制退場させられてしまった。
リビングが寝床と化した五月の抗議により、居間に集った五つ子も散り散りとなっただろう。一花から謝罪のメールが届いた。
明日は金曜日で、五月は姉4人を見送って1人で家に残るのだろう。何も特別不安に思うことはないはずだ。
五つ子だからといって、これまで一人で行動した経験がなかったわけがなく、高校生相手に付きっ切りの看病は疎ましい思いをさせるだろう。
「…らいはも、昔から病気で寝込みがちだったな」
一人暮らしの一室に、独り言が虚しく響く。心が迷っている表れだった。
五つ子から揃って煙たがられてしまった俺の妹は、昔から体が弱くて子供の頃は俺が夜通し看病したこともあった。
「お兄ちゃん心配しすぎ」だとか「林間学校の土産話聞かせてね」だの、口を開けば兄を追いやる言葉ばかり。
謝罪ばかりで、お礼はいつだって最後だった。思い出の中にはそんな妹の恥ずかしげな笑顔にほっとする自分がいる。
半ば疎まれながらも、弱っている子を守りたいという欲求に従って面倒を看た。その選択に後悔せずに済んだ昔話がある。
そして、何よりも。
俺である必要はないから。俺は求められていないから。
俺は取り返しのつかない大きな後悔をしているのだから。
「…思えば、らいはが高校生になってからはしてやったことなかったな
どうなるのやら」
最善かと問われれば全くの間違いだと言える。
それでも衝動に駆られ、それに従って。
もうしばらくの間、携帯を握り締めていた。
「お邪魔しま…す」
翌日。青い寒空の中、バイクを走らせてやってきたのはお馴染みの高層マンション。
寄り道をして購入した食材をリビングのテーブルに下ろしても、室内は無音だった。
耳を澄ませば、寝息だけは耳にできる。フローリングの上に布団を敷いて眠っている女の子から。
「…叫ばれなければマシなほうか」
5日目。姉のストックが切れた五月の看病役は、この上杉風太郎である。
過去1年だけ兄と慕われ添い寝してやった仲も…十も歳が離れた男女だ。この年齢差が返って安心感を抱かせてくれたらいいのだが…
昨日、一花に連絡を取って五月の面倒を看る役目を買い出た。職場の上司にも一言伝えて急遽休暇を貰って3連休だぜ。
これはこれで五月にいらぬプレッシャーを与えてしまいかねないが、俺の独り善がりが起こした我侭だ。
さりげなくコンタクトを取ろうと五月の携帯にメールを送ったのだが既読にならず。本人はぐっすり眠っていた。
寝ている間に我が家に男が入り込んでいると知ったら泣かれるだろうか。素足で逃げ出すだろうか。困った末っ子である。
「五月」
「…」
「五月…五月」
「…ん…にゅ…」
「…起きない、か」
マジで困った末っ子だ。今ならともかく、誰もいないことで無防備を晒した瞬間に出くわしたら絶対に叫ばれる。何とか起こしたかった。
ちなみに妹のらいはとも似たような現場に遭遇したことがある。兄妹だから怒られはしなかったが、羞恥心と共に逃げてしまった妹が不憫で仕方なかった。
事故を回避すべく叩き起こしたかったのだが、五月の寝顔は十年前に似て愛らしく見える。まあ…だらしない笑みを浮かべてて台無し。
冬の陽光、陽だまりが五月の顔に差し込んでいて、風太郎は遮光カーテンを引いて遮った。部屋は薄暗くもまだまだ明るい時間帯だ。
「…」
光を遮ったところで、五月の傍ら。そのテーブルの上に置かれた写真立てに視線が移る。
半年程前までの、今は跡形も無くなくなった古びた家での光景。忘れもしないあの場所。貰い受けたあのお守り。
5人の娘に囲まれて、弱々しくも柔らかく微笑む母親との写真を眺める。
布団から体を起こすだけが精一杯だった、弱々しい先生の姿が映し出されている。
娘が風邪で寝込んでたら、あんたなら娘全員が安心する看病をしてやっていただろうな。何度も、そうやってきたはずだ。
そして、あんたを治してやれる人間は傍にいなくて。そんな中、俺を待っててくれたんだよな。
俺は五月の傍らに座り、写真を手にその目を見つめる。
…俺が一番に、看病したかった人だ。
…感傷に浸る間もなく、ぎゅっと袖を引っ張られた。
「上杉君…?」
「お、起きたか…悪い
邪魔してるぜ、五月」
「…お、お仕事は…」
「…ある意味これも仕事だ
看護者の…教師は一旦休みだ」
「…こほっ…ん…こほっ」
「…布団、肩までかけて寝てな」
いつの間にか起きていた五月に、非力な手で捕まってしまっていた。
写真を手放して、五月へ向き合う。起き上がりかけた五月を大人しく寝かせて。
予想外にも五月は極めて落ち着いた反応で俺を迎えてくれた。それとも大げさな反応を示す程の体力がないのか。
五月から物言いたげな視線をぶつけられたが、加湿器の音が割り込んだ。水が切れたのでタンクに水を入れなおさねば。
喉が乾燥しないよう加湿器を付けなおす。その最中、五月は布団から顔を出して視線を追わせていた。
「熱、何℃だった?」
「…37.5でした」
「微熱だな…薬を飲めばすぐに良くなるだろ
昼はまだだよな、粥ぐらい作るぜ」
「…あの」
「何だ?」
「…貴方にまで…迷惑をかけて、ごめんなさい
こうなるのなら、ちゃんと治療に専念していたのに…けほっ、うぅ…こほっ」
看病に来た役目を果たそうと台所へ向かったところで、五月から陳謝の声が。
咳をして布団越しに体を震えさせる五月は大人しく窓際へ寝転んだ。俺へと視線を合わさずに。
時刻は12時半。2月の昼時は日向ぼっこでまどろんでしまうものだ。日向と日陰が差す窓を五月は静かに眺めていた。
無音がどこか気まずく。俺は台所で卵の雑炊を作ることにした。
水道からシンクへ水が流れる音。
ざくざくとまな板の上で長ネギと三つ葉を包丁で刻む音。
しゃっしゃっと炊いた米を流水で洗う音。
かちゃかちゃと、卵を解く音。
ことことと鍋の湯が沸騰する音。
そんな音だけが広いリビングに浸透していく。
「…五月、テレビでもつけたらどうだ」
「…」
「…
…なんでもねえ」
台所から振り向けば、背を向けていた五月がこちらをずっと見ていた。
テーブルやソファが邪魔して、俺と五月の目が合うことはなかった。恐らくあっちは俺の視線に気づいていない。
五月が台所を眺めていたことを指摘すれば、あいつはそっぽを向く。悪戯に虐めてやる趣味はないので、適当にはぐらかした。
ぽつんと、一人でこちらを見つめる子が寂しげに見えた。ただ腹を空かせている子供だったら笑ってやったのに。
哀愁漂う空間も、雑炊が完成すれば幾らか朗らかなものに変わっていく。
「…二乃の次に豪華なお昼です」
「苦労した病人生活だったそうだな」
「もう風邪はひかないと誓ったくらいです
昼食にまで影響が及ぶなんて予想外――けほっこほっ!…ごめんなさい」
「風邪はひかないことに越したことはないが
いざって時は素直に身内を頼れ、上手い飯食いたいのなら二乃や俺が作ってやる」
「…絶対断られてましたよ、昨日の貴方の態度からしたら
反省が足りないと怒られていたに違いありません
…食べていいんですか?」
「ああ、もう食べれるくらいには冷めたか」
連日活躍してきただろうお椀が載ったトレイをテーブルに置き、五月を起き上がらせた。
熱々だった粥も程よい温度を保っている。レンゲを手渡すと五月は咳を堪えつつ口に運んだ。
お気に召してくれたようで、五月は無心でお椀を平らげてしまった。
「おかわりあるぞ、沢山」
「…い、いただきます…」
「はいよ、待ってろ」
綺麗に食べ切ったお椀を手渡され、俺はキッチンまで歩いて鍋から粥をよそった。
小さな鍋で作ってやっても良かったんだが、俺も食いたかったので大きめの鍋で作ったのだ。お陰で多少往復する手間が。
盛ったのはいいが、結構熱そうだった。冷まして食ってもらわなければ間違いなく舌が火傷する。
「まだ熱いから気をつけろよ」
「はい…いただきます」
「いや、熱いって…」
「はふっ…んっ! んぅううっ…!」
「人の話聞かないな?」
俺の忠告を聞かずに、食欲に負けてレンゲを口に含んだ五月は悶えていた。
お椀を落としかけて即効で取り上げた。レンゲも受け取って水を渡すとごくごくと飲み始めた。
子供じゃねーんだから。やっていることがまんま十年前と同じで笑ってしまった。
五月はお腹を空かせているようで、恨めしそうに熱々の雑炊に目を向けていた。食欲VS激熱飯だな。
「うぅ…美味しいのが罪深い…」
「冷まして食え」
「はい…
…ふぅ…ふぅ…」
「…」
「…はふっ…んぅううう!!」
「風邪ひくと食べ方が下手くそになるのか、死活問題だな」
2度も同じ過ちを犯し、五月は顔を赤くして身をよじらせる。汗をかく意味では有効かもしれないが、本人至って辛そうである。
せっかく作ってやったのに…舌を痛めつけたら味も感じ取れなくなる。
…仕方ないか。五月からお椀を受け取り、まだまだ熱い雑炊をレンゲで掬うと息を吹きかけて冷ます。
「…ふぅ…
ほら、大丈夫だから食え」
「…
私が風邪ひくと甘えベタになるって…四人から聞いたでしょ、上杉君」
「あ?」
「…別に、してほしくてあんな事してたわけじゃありませんよ…あざといじゃないですか
舌、痛いですし」
「は? あ、ああ…そんなこと二乃が言ってたっけな
いいから食っちまえ、手が疲れる」
「…い、いただきます…
はむ…ん」
五月の顔は真っ赤だった。恥ずかしいことこの上ない。年頃の女子高生が大の男に食べさせてもらうなんて。
頬を赤く染めて、五月はおずおずと口を開いてレンゲを口にした。長い髪を手で掬い上げて、ゆっくり唇から引き抜いた。
「…
いつまでも、子供っぽいですね、私
情けない限りです」
「はぁ? 何言ってんだ
言っとくが、甘えないからって大人ぶる人間になられても軽蔑されるだけだぞ
甘えた分だけ成長して、誰かに甘えられる人間になればいい
それは子供だろうと大人だろうと、何歳になろうと突き詰めていくもの、その頻度が違うだけだ」
「そう…でしょうか」
「…
逆におまえ、仮におまえらの爺さんが見栄張る頑固な親父だったとして
俺やらいはの援助を全て断っておまえらの世話すると言ったらどうしてた?」
「…
たぶん、反対してたと思います」
「それとは逆に赤の他人の手を借りて、保護者として恥ずかしいと思うか?」
「そんなことありえませんよ! こほっ…うぅ
でもそれとこれは違うでしょう、甘え方が」
「…恥入る思いをしたことは共通しているぞ
今は甘えた分風邪を治してくれればいい
ほら、もう食えるぞ」
「…はむっ…」
足を寄せ、レンゲを五月の口へ運ぶに必要なだけ距離が縮まった。
五月は腹を満たすまで俺に食べさせられて、薬を飲むと脱力して布団に横になった。
後片付けをする俺を見上げて、五月は俺の衣服を掴んできた。
「…言い訳を、聞いてほしいんです」
「言い訳?」
五月の急な発言の意図が窺えず、手に持ったお盆を戻して五月へ向き直る。
「風邪をひいて、夜な夜な勝手なことをした言い訳です」
「ああ…夜に勉強してた話か」
「前の家を思い浮かべてください
あの家は狭くて、何をするのも皆一緒で、夜も一緒に寝ていました」
「?」
「…思い出すと、寂しかったんです
私はすっかり慣れてしまったんです、あの空間に
呼べば気づいてくれる、呼ばなくても辛い時は助けてくれるから
目が冴えた夜は静かで、気を紛らわすものが欲しくて参考書を手にしていました
もし上杉君のお家でしたら…きっと安心して寝ていられたんでしょうね…こればかりは子供っぽいです
今日に至っては上杉君にお仕事を休ませてまで、心配かけてしまいました」
子供っぽい。自分の吐露に蔑んで、五月は自虐的に笑った。
五つ子は風邪ひいたら甘えん坊になると二乃は言っていたな。それは頼れる家族がすぐ傍にいたことが起因していたかもしれない。
特に五月は、幼い頃から病気に対してはナイーブな捉え方をしていた。風邪一つでも不安が拭いきれず姉や母親の存在を頼りにしていただろう。
一人で孤独に対応できる術を模索して、試行錯誤した結果の行いだと五月は事情を話した。言い終えて疲れたのか、五月は布団を被った。
寂しがり屋だと一蹴してやれば良かったかもしれない。
返す言葉が見つからず、空になったお椀を載せたトレイを持ってシンクへ向かった。
洗い物をしながら、ふと考えた。休暇を取ってまで看病しに来たのは押し付けがましかったか。
…生徒が心の内を話してくれたんだ。教師が怖気づいていては示しがつかない。食器を洗い終えて、五月の布団の傍らに腰かけた。
「…はぁ…軽蔑、されかねないが
おまえが風邪ひいたと聞いて
正直…機会を窺っていた」
「…?」
「したかったんだ、おまえの看病」
先の告白の恥ずかしさから五月は口元を布団で隠したまま、視線だけを横に向けて返してくれた。
「…」
「…」
…な、何も言ってくれないぞ、こいつ。自白の返答ゼロ。
以上だ。ただ風邪をひいた真面目馬鹿が気になって、妹の看病をした経験から世話を焼きたくなっただけだ。
この続きの事情は流石に話したくはない。
無音に居た堪れなくなり、言葉ではなく手がさ迷う。
子供に見つめられたまま、自然とその額、頭を撫でてしまった。
五月は驚くも、目を細めてされるがままだった。
「…お母さんに悪いですね」
「――」
一瞬、見透かされたと思った。
だが五月のうっとりした表情を見ると、思い違いだと察した。
既視感などないのに、寝込む五月の横に寄り添っていると…あの人の姿と重なる。
醜い欲求だった。
五月を慮っての行為ではなく、故人への懺悔と、自己満足でしかない。
「…
こうしたかったんだ…」
「…はい」
頭を撫でていた手が下りていく。
その手を五月は布団から腕だけ出して、掴んで離さないでくれた。
病人を労わるつもりが、これでは逆だった。
「上杉君、来てくれてありがとうございます
治りますよ、こんなのすぐに
上杉君が看病してくれて…もうへっちゃらです――けほっ」
「…馬鹿」
「えへへ」
「…本当に、馬鹿げてる」
「いいじゃないですか…
私はお母さんの代わりにはなれません
でも…上杉君がこれからしたいことくらい、叶えてみせますよ」
先生にはできなかった。辛い時に、隣にいたかった。守りたかった。
俺の後悔を見通して健気に笑ってみせた五月は、あの鉄仮面の鬼教師とは真逆の笑顔で。
それでも、きっと似ているところは沢山あって。
「…お兄、ちゃん」
「…?」
「あ、ありがとね」
「…今更、違和感しかねーわ」
「そ、そんなー!」
馬鹿。今更妙な気を遣いやがって。母親に似ても似てねーよ、おまえは。
母を一人で死なせてしまったことに泣いた、いつか五月が語った思い出と同じ。
手の平から零れるものはない。手を握って、離さずに過ごした親子と同じように。
今日というこの思い出が、そうあってくれますように。
ただ無言で、もうしばらくの間、俺と五月は手を握ったままでいた。
「うん、熱は平熱まで下がったね
なになに、この4日間は全然治る気配なかったのに
フータロー君が看病した途端に良くなっちゃって…分かりやすいなー五月ちゃん」
「どうしてそうなるんですかっ
ちゃんと寝てたら良くなるに決まってるじゃないですか
快方に向かっているんですから、スマホと参考書も返してください」
「上杉、今日はありがとね
五月、どうだった? 大人しく寝てた?」
「ああ、静かにテレビを見てたぐらいで悪さもせず、可愛いもんだったぜ」
「…まんまお母さんがいた時と同じくらい大人しかったんだ…
私たちと何が違うんだろ…」
「やはりこれが歳の差が成せる安心感というものなのでしょうか…!」
「馬鹿なこと言ってないで手伝え、流石に腹減った」
五月の看病は何事もなく穏やかに時が過ぎて、夜になれば五つ子が帰宅してきた。
出迎えた俺は、バイトや部活で遅い帰宅となった子供たちに夕飯を用意してやった。家事も一通り済ませて。
以前にはない、俺が五つ子を迎えてやるこの時間に教え子たちはだいぶご機嫌だった。
ちなみに超絶生意気度が増していて相手するのが面倒くさかったと言っておく。
「私は仕事帰りにはこんな癒しが欲しいと常々思ってたんだよ」
「は?」
「フータロー君、私が仕事で稼いだら家政夫を雇おうと思うの
どう? 私のお世話
世間体が心配なら妙案もあるんだけど」
「妙案って…ハッ! この俺をヒモにしようとは見くびられたもんだぜ
俺の年収超えたら考えてやるよ」
「言ったね?」
「え、何か怖い…」
「五年で追い越してみせるから覚悟しててね、せんせ」
一人暮らししたら一切の家事を押し付ける気でいる一花から、怪しい誘いを持ち込まれ…つーか本当に生意気でムカっとしたぜ。
「…ただいま」
「ああ、おかえり二乃
バイトお疲れ、あの店のキッチンの仕事は大変だろ」
「ん…まあ」
「制服持ち帰ってきたのか
汚れてたり匂い付いてたら洗剤に浸けておくぞ、貸してみろ」
「…いい」
(…厚かましかったか、疲れてんだからそっとするべきか…俺学ばねえな…)
「…
ねえ、上杉…
あんたさ、保護者なんだし…私たちと一緒に暮らす気とか…ない?
急ぎとかじゃないけど…」
突如、滅茶苦茶重たい議題を突き付ける二乃をやんわりと宥めるのに神経をすり減らし。
「…」
「…三玖? 悪いが、飯は全員帰ってからだから待っててくれ」
「わかってる…」
「…風呂は沸いてるから、先に入ってきたらどうだ?
一番風呂なら入浴剤好きなの入れられるぞ」
「…お風呂…は…ま、まだいい…最後でいい」
「…どうしたんだ、おまえ」
「…ふ、フータローがお家で出迎えてくれると
ほ、本当に家族になったみたい…で…なんか、落ち着かない」
「…嫌だったか?」
「…く、く…苦しゅうない…良きに計らえ…」
「左様でありますか…」
年頃の女子高生の琴線に触れてしまい、何を妄想しているのか三玖から意識されまくり。
「おかえり、四葉」
「―」
「…?」
「――とりゃー! ただいま帰りましたぁ!!」
「ぐはっ!? おい、何のつもりだ!?」
「あはは…いえ、玄関で出迎えていただいたら…無性にこうしたくて
あは、はは…は…っ
う…ひぐ…うぅ」
「…」
「…おかえりって…なぜか
お母さん、思い出して…ごめんなさい…
でも違くて、上杉さんがいてくれてほっとしてるんです…」
「また泣きやがって…あいつら貰い泣きするぞ」
涙を誤魔化すのに抱き着いてきた四葉を姉妹の視線から守るのに苦労させられ。
そんな思い思いの反応をされておきながら、夕飯作りの最中は姉妹揃ってエプロン姿を散々からかわれた。
五月も同じく、借りた猫のようにお淑やかな妹は弄ばれた。
やや遅くなったが、金曜日恒例の6人揃っての夕食となる。
熱も咳も収まった五月も今回は一緒に卓に着き、一週間の務めを終えたことをささやかながら祝った。
「五月には追加で、こいつをやる」
「…?
何でしょう、ゼリーですか?」
「ゼリーというよりかは…」
「…あっ!? それ!!」
「へぇ…一花は覚えてたのか」
「…え、もしかして」
「納得…それもフータロー譲りだったんだね」
五月だけのデザートを渡すと、病人ではなく一花が驚愕の声を上げた。
小さな湯飲みはほんのり温かく、ゼリーのようにぷるぷると揺れて光沢を返していた。
果肉をちりばめて柑橘系の香りがほんのり漂う品は、一花はすぐに察してくれたようだ。次いで二乃も三玖も。
「葛湯だ、蜜柑の葛湯」
「…葛湯、ですか」
「昔、一花が風邪ひいた日に作ってやったことがある」
「うわー そうだよ、フータロー君作ってくれたんだった
懐かしいー! 五月ちゃん、ちょっと見せてよ」
もう20年も前になるか、お袋が風邪をひいた俺や親父に作ってくれたものだ。
何で葛湯なんか作ってくれたのか。当時は気にかけなかったが、後に親父に経緯を尋ねたことがある。
昔、本葛で作ったパンを喫茶店で出していたらしい。母は他のパンにはない柔らかさと膨らみ方が気に入ったとか。
だが採算が取れないことで早々に断念。当時余った葛粉は寝込んだ家族の為に利用されたのだ。
「…ねえ、フータロー これって…その
私の好きな抹茶のお菓子みたいに、フータローが昔作ってくれたんだよね?」
「あ、ああ…それがどうした?」
「…ママも作ってくれたわ、葛湯
蜜柑とか林檎とかね」
「何?」
「上杉さんの受け売りだったんだねぇ」
「いや、あの人なら俺と関連付けなくても葛湯ぐらい作れただろ」
「私の記憶だと、きっと初めてはフータロー君だよ」
「…」
「…ほんと、上杉君とお母さんは仲良しですね」
「からかうな…」
…あの日は、先生と台所に並んで作ってたな。両脇に四葉と三玖がひっついてて、先生に味見してもらったんだ。
お袋も、まさか当時の失敗から出た在庫処理が、20年も経って再利用されるとは思いもしなかっただろう。
まして他所の家にまで影響を及ぼしていたとは。失敗から何が生まれるのか、想像できない。
「いいなー 蜜柑の葛湯、四葉も食べたいなー」
「いいなー 五月ちゃん、私の思い出のデザートなのに」
「いいなー ママのと上杉の、どう違うのか気になるわ、一口ちょうだい」
「私はやっぱり抹茶のムース食べたい」
「…た、食べづらいんですけどっ
病人のご飯を盗らないでくれますかっ!
う、上杉君からも何か言ってあげてください!」
たかが風邪一つで騒がしいものだ。良くも悪くも、気を揉んだ過去とは裏腹にお調子者ばかり。
知らず知らずの内に五つ子の思い出の中に痕が残っていたことに、少し安堵しつつ。
風太郎は五つ子の喧騒を傍観しながら、遅い夕食を口にした。
「おまえらが寝込んで誰もいなけりゃ、その時は看てやるよ」
五つ子が風邪をひいたら作ってやると、そんな約束をして今日も五つ子に振り回された一日が続いたのだ。