まどろみの中、女のもがき苦しむ声で起こされた。
「…ッ…あ
あぁッ…嫌ッ…やぁあッ!…ああああッ!!」
「…五月?」
五月が俺の家に泊まった日の、その夜。
次はないと忠告した後に、眠っていたはずの五月が布団をかき乱して魘されていた。
切羽詰まったその声に目を覚ました風太郎は、急ぎベッドから降りて哀れな教え子に駆け寄った。
「五月、おい」
「はぁっ…あっ…あっ!」
「魘されているのか、しっかりしろ
五月、起きろ五月
ただの夢だ、五月ッ」
「やだっ…嫌っ…あぁあっ…
お、母さん…ッ!」
本来、夢が現実に影響を及ぼすだろうか。そのような境界線、人間はすぐに区別できる。
追いつめられた人間は些細な感触に怯え竦む。五月は夢を見て叫んでいる。
死んだ母親の夢を見ているのか。
俺も過去に連日幾度も見た…心が弱っている証拠。
寝巻き代わりのジャージを着て、首筋と額には大きな汗が滴になって長い髪に張りついていく。
吹っ切れはしなくても、もう罪悪感に囚われることはないと思い込んでいた。されど目の前の娘は脅えて泣いている。
俺は五月の肩を揺らして起こそうとする。
「違うの…っ!
はぁ…ッ…あ…ッ…あぁあああ…ッ」
「…五月」
「ふぐ――う…うぅううっ…! うううっ!」
手荒いやり方だが、五月を起こして無理矢理抱きしめた。
息苦しいと感じる程胸に強く抱いた。泣き声というよりも呻き声が部屋に響く。
五月は自然と俺の服をきつく掴んで、しがみついていた。
泣く子をあやして、髪を撫でる。夢の中であの母親が娘をあやしてくれることを祈って。
自ずと声は止み、しゃっくりのようにびくびくと酷く肩を揺らして、五月は顔を上げた。
「――ひぐ…ひぅ…ぐす…
おかあさ……う、上杉、君?」
「…先生の夢か」
「…先生…?
――!! ま、また私…!
ご、ごめんなさいっ! わ、私、また…!」
「いいから、このままでいろ」
男に泣きついてしまったことを自覚して、五月は慌てて離れようとした。
しかし母親の死が絡んで泣いていたと分かっていては放っておけず。五月を強引に抱きとめた。
もう涙と鼻水と唾液で俺の寝巻きは濡れてしまった。五月は右往左往していたので、ティッシュだけは取って渡す。
「…上杉君と勉強した日は平気だったのに…」
「…?」
「四葉が…うぅ…
夜に、起こしにきてくれるんですっ
私、寝てても一人で叫んでて
四葉が抱きしめて起こしてくれて…落ち着くまで一緒に寝てくれるんです」
これが初めてじゃないと話す五月は、もう自分でもどうしたらいいのか分からないのだろう。泣き崩れてしまった。
五つ子の自宅では五月は角部屋で、隣室には四葉がいる。
四葉にだけは五月が悪夢に魘されていることに気づいてやれたのだろう。
四葉は以前から知っていたんだ。五月が母親に懺悔して泣いていたことを。
皆が着実に前を向いて歩んでいる中、一人だけ躓いてしまった妹に寄り添い支えてあげていたんだ。
…あいつは能天気に笑っていても本気で笑っているのは稀。心の奥底では何を考えているのかわかりづらい。
「夢を見るんです、お母さんとの、昔のです
何てことない、いつもと変わらない時間だったのに
私が家を出て…帰ってきたら」
俺の腕の輪から逃れて五月は話を続ける。
「…ひぅ…う…何でか…もっと昔のはずだったのに…
暑くて、蝉が泣いてて
私は、鞄を持ってて
夏休みなのに、制服を着てて…」
「…おまえ」
「あの日になってるんです…!
帰ったら…お母さん…死んじゃって…
私、補習で…お母さんが一人で…!」
「…ああ、そうだったな」
忘れたわけではないだろうに。後ろ指を指そうとその光景を繰り返すのか。
トラウマは一生ついて回る。いかに誤魔化し、どれほど勇もうと、心が弱った時には迫ってくる。
とある夏の日。五月が赤点を取ったせいで補習を受けざるをえなかったその日に。母親は一人で逝ってしまった。
親不孝者だと五月は泣いて悔いていた。馬鹿な自分の罪深さに赤の他人の俺に懺悔したこともある。
だから今でも、何時間もかけて教師に教えを募っているんだ。この子は忘れたわけではない。
「…ごめんなさい」
「…」
もう立ち止まらない。悔いて泣かない。
明確に言葉にしなくても五つ子は共に頑張ろうという意味を込めて、過去に囚われることを封印した。
なのに五月一人が、やはり躓いてしまっている。母への愛情故に。
上手く隠し通してきたんだろうな。だが、今日ここに来て俺にバレてしまった。
「勉強が怖いんです」
「…」
赤点を取って人生を後悔した学生の、嘘偽りのない甘えた台詞だった。
さりとて、他人に責められ、笑われたほうが…まだこの子にとって救われるものがあっただろう。
逆に励まし、鼓舞し、大丈夫だと勉強机の前に座らせる事こそ…この子にとって地獄だ。
勉強し続ければ、その負い目は一生ついてくるんだ。背中を突き刺して延々と血を流す茨の道だ。
「怖いのならやめちまえ」
「…でも、私はお母さんのように
上杉君が、お母さんに憧れて…先生になったのなら」
…慰める言葉など、急には用意できない。
悩むことをやめて、俺は五月の悩みを一蹴し払いのける。
「…俺がおまえと同じ高校生だった時は
テストは毎回100点
成績もオール5、卒業まで満点を欠かさず取ったし、全国模試も1位だった
おまえとは天と地の差だな」
五月は以前、俺のような学生だったのなら母を悲しませずに済んだと言った。
勉強に専念している理由に、それも含まれているのかもしれない。
くどいんだ、五月は。
憧れる母親へ向ける感情も。俺へ向けるその苦手な眼差しも。
その上、人の話を全く聞き入れやしない。こうだと思ったら納得するまで折れない、過ちを犯すまで。
「前に伝えたが、先生はそんな奴を認めてはくれなかった
…おまえのその後悔に俺から助言はできん
先生との問題は家族同士でやってくれ、俺が知る中野家の情報はもう古い」
「…」
明らか、五月は俺に助けを求めているというのに。求められても尚、その術を持たない自分が情けない。
俺の拒絶に五月は俯いて黙ったまま。迷惑だと思われて身の置き場に困っているのか、付かず離れずにいた。
「そこまで悩んでいるのなら一度取ってみるか、満点」
「え?」
「それで解決するんだろ、おまえの悪夢は」
「そ、それは…」
そんな単純な思考はしていない、と五月は否定にも似た戸惑いを見せる。
俺にできることとしたら、教師として勉学を叩き込むことしかできそうにない。
極端な話、五月が学生時代の俺のような勉強馬鹿になると、天国にいるあの鉄仮面が怒る。
もっと大事なものがあるんだと、執拗に追いかけられ、手を掴まれてしまうのだ。
家族思いの娘を堅物にしたことで、あの世であの人に追い回されたくはない
あまり気乗りはしない。五月の返事は待たず、寝床に寝転がる。
「いつでも来いよ」
「………え?」
「次はないって言ったが…訂正だ
夜泣きまでしてるのなら、気になってろくに夜も眠れやしねえ」
「う"…」
「魘されたら叩き起こしてやるから、もう寝ちまえ
朝起きれなくなるぜ」
故人への傷心を慰めてやるにしても時間が足りない。夜更かししてはお互い責務に支障が出てしまう。
泣き止んだ五月を置いて瞼を下ろそうとしたところで気づく。当の本人は寝ようとはしなかった。
「…あ、あの…」
「…」
「夢を見ない、方法があって
…一緒に寝ても…いいですか?」
「…」
結構こっ酷くあしらったはずなのに、最後の最後に甘えてきやがった。
睡眠時間も削られ、悪夢にも迫られ、背水の陣を敷く五月は見栄も羞恥心も手放したようだ。
「い、嫌なら結構です…っ
また見ない保証はできませんけど…」
「どんな脅し方だ…
…添い寝なんて、おまえと約束した日を思い出すな」
「…あ、あの日以来…なんですね」
「…ほら
こっち来いよ、とっとと寝ちまえ」
「…ッ…」
添い寝を所望され、承諾すると五月は顔を真っ赤にしてとことこやってきた。
ベッドに膝立ちになり、俺の真横まで四つん這いになって近寄ってくる。どう見ても顔は真っ赤だった。
枕を忘れていると五月に指摘すると慌てて回収しに行き、より慎重に布団の中に潜り込んできた。
少し俯けば肌が重なるくらいの距離。お互いに向き合っていながら、目は逸らさなかった。
「…逆に問うが、これで寝れるのか?」
「と、当然寝れます、安眠で朝までぐっすりですよ
う、上杉君は眠れそうですか?」
「ああ…今日は流石に疲れたし眠気が勝っている」
「お、起こしてごめんなさい…」
「眠れないのなら手ぐらい握るサービスしてやるぞ」
「そこまでされると私がもう眠れませんので…
あと…眠るまででいいので
またお母さんとの思い出話、聞かせてくれませんか」
「眠いっつうの…
あー おまえにはどこまで話したっけ」
「夏祭り、バイト先までのケーキ屋に来て誘われたって」
「ああ、あのデート宣告か、懐かし」
「デ、デート!?」
くだらない話をしばらく続けていたと思う。
なぜか向かい合う体勢のまま、俺たちは自然と目を閉じて眠ってしまっていた。
母親との楽しくも懐かしい、そんな思い出語りのお陰か。
五月は魘されることなく、朝になって俺が叩き起こすまですっかり熟睡していた。
そんな日常が、五月が最も恐れたテストの日まで何度か続くのだった。
余談だが、いつの日か、隠れて俺の家に泊まり込んでいたことがバレて、姉から説教をくらうのは至極当たり前だった。
2月の下旬。もうじき3月に差し迫り、3学期も終わりを迎えようとする頃。
五月の風邪が治って早2週間経ち、普段の日常を繰り返していた。
そのつもりでいた、少なくともあいつの看病をしていた当時は。
一難去ったところにまた一難。楽な日々など知りえない風太郎は五つ子の長女に連絡を取った。
金曜日の昼休み、寒い風が吹き荒ぶ屋上は彼以外誰もいなかった。
「すまない、今日もそっちに行けそうにない」
高校教師は多忙である。
束縛される時間も多く、百を超える生徒と関わることで生まれる疲労も多分にある。
それでも多忙を理由に他者との交流、約束事を反故にしてしまっては…教師として不適格だと指を指されかねない。
目標でもあったあの鬼教師は娘5人を育てながらも全うした。その努力は凄まじいものだったと痛感していた。
「…そっか
了解、皆には私から伝えておくよ
お仕事は当分忙しいのかな?」
「ああ…悪いな
ここ2週間はろくに話もしていない
…そう心配はしていないんだが…何か問題はないか?
らいはとは連絡は取れているか?」
一花のやんわりとした返答は大人を気遣う気持ちが含まれていると感じても、落胆されたようにも聞こえた。
監護者でありながら、五つ子の面倒を看れないでいる。ここ最近はらいはに代わってもらい、電話以外では会話も皆無だった。
所詮社交辞令でしかないが、近況報告を窺うと…想定外にも、一花の返答は快いものではなかった。
「…」
「…一花? ど、どうした?」
「ぶっちゃけていいのなら…」
「………」
「五月ちゃんと三玖、フータロー君のこと凄く心配してる
私と二乃が止めてなかったら休日に押しかけてたよ、たぶん」
「し、心配はいらないぞ? 至って健康そのものだ
体調には細心の注意を払っているからな、病気も何もないぜ
多少帰りが遅くなったり、休日も仕事だったりするが気にするな!」
「いっそのこと風邪で休んだほうがいいかもよ…?
後は…まあ至極当然な流れでもあるんだけど
お兄ちゃんのお家に行きたい派と行っちゃダメ派で
ちょくちょく姉妹の中で口喧嘩になって、たまに殺伐とした空気で過ごしてるよ」
「マジですまん」
問題発生する寸前であった。仕事が家庭に影響を及ぼそうとしている…家庭の事情で仕事を休むはめになりそうだ。
これはそもそも、シングルマザーだった母親が仕事で倒れてしまったことが原因だ。
仕事に追われ体を酷使する。これはあいつらが過剰に気に障ってしまう地雷原なのである。
一花達の懸念も常識人なら当然。俺自身、最近疲れが取れなかったり、頭がぼーっとしたり、手足が痺れたりする。
しかし少し休めば元通りになる。多少声高々に明るく返事を返してやった。
五つ子を説得するべく長女の一花と交渉する。俺全然元気有り余ってるよアピールをせねば。
「一花…こう言ってはアレだが
このくらいの労働、社会人からしたら珍しくはない
公務員の教師は残業代出ないと言うが、うちは私立で手当てもちゃんと出る
多少マシな環境だ、働かないとおまえら全員養えないしな
こっちは平気だから、気に病まないでいつも通り過ごしてくれ」
「それ、無理って分かってるでしょ」
「…」
社会人の男としてこの上なく身内を甘やかす台詞に、女優の卵から駄目出しをくらった。
「…ねえ、私たち…変かな…?
ちょっと会えないだけで怖がってる
依存してるって、距離を取って改めるべきかな…」
「…いや、責め立ててるわけじゃない
ただ、本当に気にかけてもらう程の事じゃない
先生を亡くした後にこの仕打ちは酷だと思っている
すまない、一花」
「…うん」
「…俺もできれば、おまえとは会って話したい」
「っ
私だって会いたいもん
呼んでくれれば行くよ…どこまでも」
「ははっ 存外、臭い台詞でも言われると嬉しいもんだな」
「…馬鹿」
一花からの返事はしょんぼりと、いつもの溌剌としたものではなかった。
嘘偽りなく一花に本音を伝えると、照れて怒られるかと思いきやノリの良い返事で困った。こっちが恥ずかしい
多少は気を紛らわせたかもしれないが…これは放置すると後に綻びになりそうだ。
会話を切り上げないでいると、一花は食い下がってきた。
「休みも仕事してるの?」
「…あ、ああ…」
「何でこんな急に…
事前に教えてくれれば、私たちだってこうまで慌てたりしなかったよ」
「…色々とあるんだ、色々と」
「…来週の金曜はうちでご飯食べよ?
これは本気で 駄目ならフータロー君の家の近くで外食しよ
約束、いい?」
「ああ、分かった、必ずな」
「はい、それなら私も五月ちゃんと三玖が迷惑にならないよう全力で止めるからさ
こっちのことは心配しないでいいよ」
「悪いな、おまえにばかり負担をかけて」
「こっちこそ、いつもごめんね
…私たちから伝えたい事は、無理だけはしないで
…それだけだから、いつか絶対恩返しするんだから」
「ああ…その日を楽しみにしてるぜ」
「…じゃあね、フータロー君
ちゃんとご飯食べてしっかり寝るんだよ」
どっちが保護者なのやら。一花の労わりに感謝しつつ通話を切った。
一花の協力を得られたことで、午後からはより一層仕事に専念した。来週の金曜はちゃんと五つ子との時間を確保できるように。
一花が疑問視していた、なぜ急に多忙になったのか。その理由は。
別に急でもなかったのだ。前々から申告していたもので、4月が近づいてラストスパートといったところ。
ただ、俺の業務の引継ぎが上手くいかずに手こずっている…主に対人関係。
うちの学校、生徒に飽き足らずその保護者も一癖二癖ある連中で困ったものだ。金持ちエリートと貧乏人は相容れない関係にある。
「…優先順位はしっかりするのは良しとして…いかにも冷め切った鉄仮面って感じだな
4月に抗議の電話こなきゃいいんだが…
…それでも、優柔不断な男にはなりたくねえな」
来年も見届けるつもりでいた。
口ではあまり表現できなかったが、俺にとって大切な教え子たちなんだ。
こんな俺にも気にかけている困った生徒がいる。そんな奴らを支えてほしくて、我侭を通そうと必死に働いている。
…残された時間を有用に使わなければ。風太郎は休憩を終えて業務をこなしていった。
それから体を休めることなく休日を挟んで、数日経った。
朝の職員会議を終え、HRの為教室へ向かう途中…廊下にて異変を感じた。
「…ッ…」
体が…重い…鉛のように重く、徐々に体が異物に変わっていく。
眩い陽光も、廊下に吹く冷たい風も、床のコンクリートの硬さも認識できなくなっている。
視界も、意識も、感覚も…どんどん錆びれていって、動けなくな――
「…お、れは…
ま、まだ…この程度で…ッ」
倒れかけている。
死にかけている、とは…恐怖よりも自尊心が認めようとしなかった。
己を奮い立たせる独り言は空しく、ただでさえ底を尽きかけている余力を失うだけだった。
呼吸が、呼吸に意識を向けなければ息が止まってしまいそうな感覚に悪寒が止まない。
壁に手を付き、廊下に膝を着いてしまう。そのまま前のめりに倒れたい衝動に駆られる。
(先生…あの人には、まだ会えねえ…)
まだ動けるはず。働けるはずだった。失望させたくなかった。
先生は、もっと長く、強く努力し続けたというのに…俺だけ、こんな――
「上杉先生ッ!」
声が聞こえて顔を上げる…ことはできず、視線だけ向ける。
俺が向かうはずだった教室、そこから一人の生徒が走ってきた。
女生徒の声だった。学級長で、真面目で、こいつもまた何かと気にかけていた生徒の一人で。
俺の教え子が慌てて駆け寄ると、彼女の悲鳴を聞きつけて教室から数人やってきた。
男子生徒にゆっくりと横に寝かされる。汗をかいていて、寒いのか熱いのかよくわからなかった。
「先生、苦しいのか?
救急車呼んだほうがいいのか?」
「救急車は…いい…休めば回復するはずだ…から…」
「で、でも…上杉先生」
「学級長、誰か他のクラスの先生にこの事教えてきてくれ
ひとまず、俺たちで先生を保健室に運ぼう」
担任が普段冷め切った態度を取っていたからなのか、俺が受け持つ教室の生徒らは落ち着いた対応をしてくれた。
俺が体調不良で倒れたことは教師に伝わり、HRは代役の先生が担い、俺が受け持つ授業は自習となった。
あの鬼教師が倒れた。そんな噂がたちまち広がったのは致し方ないこと。俺が死んだらあることないことニュースで語られそうだ。
一方で俺は男子生徒二人に抱えられて保健室送りとなった。運動部に所属する彼らは汗を垂らしながらも運んでくれた。
迷惑をかけた謝罪をすると、二人はいつかの礼だと言って退室して行った。
そして、俺が倒れたことで保険医から幾つかの質問に答えていくと…怖い顔されてしまった。
若い女医で男子生徒に人気のある先生なんだが…この顔で睨まれたら二度と保健室に通いたくなくなるぞ。俺はもう帰りたい。
「過労だね、上杉先生
言っとくけど、意識はあるからって救急車を呼ぶ生徒を止めないことね
何かあってからじゃ遅いわよ」
「はぁ…ですが、過労でしょう?」
「…」
「…すみません、軽率でした」
「それと…一度病院の診察を受けて、休職することを勧めます」
「休職…ですか、それはいくらなんでも」
「この半年の間に限らず、上杉先生は働きすぎ
随分と人気ですもんね、上杉先生は…放課後も業務外で生徒の勉強見て上げてたりして
生徒が大事なのは分かるけど、そんな無理が長くできるわけないでしょう?
ただでさえ忙しいのに、少しは妥協しなさい」
「…」
「…後もう少しだから、わざわざ私から言わずに済むと思ってたんだけどね
このままじゃ、ただの厄介払いと同じじゃない? 向こうの人が困るでしょ」
「申し訳ありません」
「病院は? 連絡するよ」
「…行きません、まだ」
「…ご家族の方には学年主任から一報入れてもらうよ」
「なぜ学年主任…」
「先生を気にかけてたから
確か妹さんかお父様がいらしたね」
親身に…と言えばお調子者だと思われてしまいそうだが、年上からの説教にほんの少し張り詰めたものが抜けた気がした。
…正直、俺の職場は恵まれているほうだと思う。死ぬまで働いても、評価されない職場があると聞く。上司が動いてくれるそうで申し訳ない。
怪訝な顔をされたが、保険医の忠告を受け止めながらも医者の診察を蹴った。
休職だけは困る。去年だったらまだ受け入れられたかもしれない。中途半端な状態で3月を終えたくはない。
いや、今はそんなことに考えを巡らせている場合じゃない。もっと優先すべき、死活問題に発展してしまっているのだから。
俺が倒れたことを、妹と親父に知られるのはまずい。
そこから…あの五つ子に知れ渡ることが一番、まずい。
まずい、正直に言えば押しかけてくること間違いない。まずいどうすれば。
保健室のベッドの上で悩んでいるうちに、状況はいとも手早く進んでしまい。
「ご迷惑をおかけしました
兄は私が家まで連れて帰ります」
休んだら一人で帰ると言ったのに…うちの上司は聞き入れず、病院か身内を呼ぶか選べと強要された。
その結果、俺は妹を呼んでもらった。腰を低くする学校側の対応に、妹も頭を下げて俺の不手際を謝罪した。
学校側に迷惑を被るだけなんだから、放っておけばいいってのに…無駄に責任感があって恨みそうだった。
大学は休みだった妹が俺の勤め先に来訪。俺の鞄と俺の手を引いてタクシーに乗ることになった。
「…らいは?」
「…」
「…」
終始無言。妹は黙ったまま。車が走行する音だけが耳に残り…自宅に辿り着いた。
一度保健室で休んでからは体調が回復したのだが、妹は俺の手をしっかり掴んでは離さず、部屋に戻るまで介護されてしまった。
自室は…帰りが遅く休日も時間が割けなかった為小汚かった。妹にも顔をしかめられて嫌な汗が流れた。
カーテンを閉めた薄暗い部屋で、俺は乱暴にベッドに押しやられた。倒れた人間にしていい仕打ちじゃねえ。
文句と謝罪を言おうとして、よろよろとベッドから上半身を起こす。
「…っ…う、ぅ」
…らいはは、テーブルの椅子に座って静かに泣いていた。
ひとまずの責務を終えて、緊張の糸が切れたんだろう。
…心配、かけてしまった。
らいはが泣き止むまで、俺は待った。それが最低限の労りだと思った。
少しして妹は立ち上がり、洗面台へ向かうと水音が聞こえた。泣き腫らした顔を洗っている。
戻ってきた頃にはきつく兄を睨んでいた。久方ぶりのお説教モードである。
「五つ子ちゃん達から苦情が来てた
最近会ってあげてないんだってね」
「…」
俺の過労の件よりも、五つ子との顔合わせが果たせていないことを第一に問い質したかったらしい。
最近と言っても2週間だぞ。友人知人だって2週間顔を合わせないことだってざらにある。
かといって、言い返せない理由が今日起きた事件の原因だと分かってしまえば…妹が怒るに決まっていた。
自己管理ができない大人が、どうやって高校生の保護者を名乗れるだろうか。
人の厚意に甘えてばかりでは、大人にはなれない。
「…過剰に会うのも変だけどさ
会いたいって思ってくれる女の子、無碍にしちゃダメだよお兄ちゃん
今日のこと、なんて話すつもりなの?」
「…」
「…お兄ちゃん、あの5人のこと嫌いになった?
重いって思っちゃった?」
「馬鹿言うな
俺だってあいつらに会いたいとは思ってるんだぞ
まだ心配事は尽きない連中だからな」
「だったら
お仕事よりも大事な物があるのなら、何で倒れるまで放置したのさ」
「…」
ド正論で何も言い返せない。愛情だけ一人前な分、性質が悪いかもしれない…
体調不良を言い訳にして物事を疎かにして良いのは子供だけ。体調管理まで徹底するのが社会人である。
そして、一人で抱えられる量も限られていることを忘れてはいけなかった。
一人では無理だと分かれば報告、連絡、相談する…問題が起きる前に。社会人の常識だ。一部の職場はこれが効かないらしいが例外としておく。
少なくとも、俺の職場は相談すれば改善できていたと思う。それ故に俺に落ち度があったことを否定できずにいる。
「…おまえにも前に話しただろ、この時期はどうしても忙しい
まだ大丈夫だと思っていたんだが…見込みが甘かった
…情けないな」
「…お兄ちゃん」
「…」
「…いつかはこうなるんじゃないかって思ってたよ」
「そうか」
「お兄ちゃん、絶対さ
自分をお父さんや零奈さんと比べてるでしょ」
長年、拙い兄を見守ってきた妹には何もかも看破されてしまっていた。
その通りだ。今も俺は倒れてしまった事に反省しているよりかは…なぜあの二人と違うのか、その差に落ち込んでいる。
俺の知る大人は俺と同じくらいに…それ以上に波乱な人生を歩んでいたはずなのに。俺は耐え切れずリタイアを余儀なくされた。
それが無性に悔しい。虚無感さえ抱いている。
「あのさ…
零奈さんのことは…私もそんなに言えないけど
零奈さんだって、一花ちゃんや二乃ちゃん、五つ子の皆に支えられて暮らしてたんだよ」
兄は勘違いをしている。ベッドに座り込んで膝の上に置いた俺の手を、らいはは膝を付いて掴んできた。
俯いた視界に、妹が見つめてくる。その素振りは見覚えがあった。
今まで言えなかったことなのか、口にすることに多少の勇気がいったのか。
「お父さんだって、私やお兄ちゃんが家の事…
私の面倒を看てくれたから、お仕事に専念できたの」
「…ああ、そうかもな」
「…ッ!
今のお兄ちゃんは一人でしょ!!
ずっとお仕事で、独身なのに5人も女子高生の面倒看て
家も遠いのに呼ばれたらすぐに飛んで行って!
倒れるに決まってるよ! 独り身なんだから!」
「…俺はあいつらを守ると
迎えに行くと約束したんだ」
「…関係、ない…ッ
お願いだから無茶しないでよ、ねぇ…
零奈さんみたいに、一人で我慢しないでよ…
私、助けられないよ…助けられなかったんだよ…!」
泣き縋れてしまった。震えを隠して、俺の手の甲に涙を押しつけては、やめてと懇願している。
…もしかしたら、らいはからしたら、この状況は既視感のある出来事だったのかもしれない。
俺は虚偽の慰めはできずに、らいはの頭を撫でてあやすことしかできなかった。
「…今日はもう帰るね
夜に、5人にはそれとなく伝えておくから」
「…隠し通す方針で…」
「は?」
「何でもないです…続けて下さい」
「分かってるよ、私だってあの5人には笑っていてほしいから
今日、金曜日でしょ…どの道連絡取らないと
朝貧血になって、大事を取って休んでるって伝える…嘘になるけど」
「…悪い」
「…」
そういえば、今日は金曜だったか。大事な日に倒れてしまったことに罪悪感が一気に押し寄せてくる。
暴露するのなら俺から詫びの一言を伝えようとしたが、らいはにきつく止められた。反省しろってことらしい。
俺は横になり、多少眩暈がする体を休ませる。体がまだ休めと促していた。
…もし一人だったら、先生が亡くなった8月のように心を病ませていただろうか。会話できただけ幾分か心が楽になった。
「その前に…何か作っておこっか?
明日はこっちに来るから
またご飯作ってあげるからね」
「マジ助かる…休日に意地でも回復して月曜には出勤したい」
「…しばらく通おうかな…
冷蔵庫の中身は…
…雑炊くらいは作れるかな、血肉になるもの買ってきてあげないとね
お夕飯はどうする?」
「…なんか、上司が来てくれるらしいから…
奥さんの料理持ってきてくれるらしい」
「…もう、色んな人に迷惑かけっぱなしじゃん」
「面目ない限りだ」
「…でも謝るの禁止
お兄ちゃんは悪くないよ
学校の人も、頼りにしすぎたって頭下げてくれた
だからお兄ちゃんも、自分のこと大事にしてあげて」
「…」
労わられることに気恥ずかしさが湧く。職場に迷惑をかけることに億劫な気持ちもあるが。
それに…先から携帯の通知がうるさい。俺の生徒からのメールである。後で返信するから代表一人にまとめてくれ。
らいははこの後バイトがあって、雑炊を作って部屋を出てしまった。
残って看病すると言い出さなかったのは、兄の心情を察してのことだろう。
妹が作った玉子の粥は俺が作ったものより遥かに美味だった。
正直食欲はあまりなかったが、無理矢理食べて横になった。
「…はぁ…
この体たらくじゃ、あいつらに説教できねえな」
深い溜め息。風太郎は心底後悔していた。落ち込んですらいた。
敬愛する恩師の愛娘が負った古傷を無闇に開かせてしまうことに。
正直、自分は教職に向いていないと思っている。
中野零奈が目指した道だから。そんな後先考えずに手に入れた職は甘くはなかった。
憧れた人を目標に生きてきた努力が砕かれてしまったことで、今優しくされればころっと気持ちが変わってしまいそうだ。
それほど、自分が倒れた今日の事故が、風太郎には受け入れ難いものだった。
「情けな…」
翌日。土曜日の昼に来客あり。
不甲斐ない兄を気遣う妹の登場かと思いきや…五つ子の一番槍担当が我が家まで襲来していた。
「よりにもよって二乃…!」
「心の声がだだ漏れなんですけど」
うるさい、こっちは寝起きで頭が回ってねえんだよ。起きたら11時過ぎで自分でも驚いてるくらいだ。
非常事態発生中。打開策が練られないままラスボスとエンカウントしてしまっている。王手である…
万全じゃない体から力が抜けて、玄関のドアを閉じかけたが…バンッと足をねじ込まれてギギギとこじ開けられた。
俺に付きまとう死神がいたのなら喜んで代役を譲り渡しただろう。俺にとって唯一の天敵である。
「昨日、倒れたそうね?
別に勝手にすればって感じなんだけど
私たち5人、誰一人にも連絡よこさないって保護者としてどうなの?
死ぬまで黙秘するつもりだったのかしらねー?」
「…」
「そうまでして隠し事なんて、私たちのこと本気で疎ましく思ってるのかしら
ねえ、お兄様?」
「…俺の実の妹はどこいった…」
中野二乃。五つ子の次女が代表となって真相を突き止めに来たらしい。応接役のらいははどうした…
俺が手を伸ばすより先にドアが一層開かれて、二乃とは反対側からひょっこり顔を出してきた。
俺の待ち人はテヘペロと言いたげに、こてんと自身の頭をつついて舌を出す。死神は2人いた。
「ごめんねお兄ちゃん、二乃ちゃんにバラしちゃった」
「らいは…よりによって何でこいつに…」
「随分な言い草ね
まあ…こっちとしてはこの数週間
口うるさい保護者に見られなかっただけ、羽を伸ばせて清々した気分だったわ
うちは元々女しかいなかったし、男が家にいると肩凝るのよね」
「…」
「…お昼ご飯、まだ食べてないわよね?」
「お、おう」
「昨日、蚊帳の外にされた身で差し出がましいけど
よろしければ、作ってあげましょうか?」
「い、いただきます…存分に作ってくれ…」
「ふんっ 台所使わせてもらうから」
やっぱりこいつ苦手だ。他の四人なら到底できやしない特攻をかけられ、二乃を家に通してしまった。
二乃は買い物袋を引っさげていた。電車でこっちに着いてから、スーパーで買ったのだろう。
そして妹のらいはにも同じようにビニール袋が。つまり二人して同じ量の買い物をしたわけで。
ここで一つ違和感が。これほどの量は一人暮らしには多すぎる。家事を担う二人が容量を見誤るとは思えない。
「おい、らいは…どういうことだ」
「二乃ちゃんとはここに来る途中でばったり
一緒に来るつもりはなかったんだよ、純粋にあの子の善意」
「棘だらけの善意はお断りしたい」
「…二乃ちゃん、お兄ちゃんが倒れたと知って来たんじゃないよ」
「…?」
「私が二乃ちゃんに白状したのは、ここに来てから
二乃ちゃんは怒る気なんてなくて、ただ心配だったから来てくれたんだよ」
「何? じゃああいつ、単に飯を作りに来ただけか」
「買い物だけじゃないよ
見せてくれたよ、朝作った料理をタッパーに詰めて持ってきてくれたんだ
お兄ちゃんが元気出るように、精がつくものばかり
お兄ちゃんに迷惑じゃないかなって、私に確認取ってさ
…迷惑になるわけないのに、ここに来るまで本当に来ていいのか不安だったんだよ」
「…そうだったのか」
「…流石にもう隠せないよ
話したら二乃ちゃん、やっぱり悲しんでたよ…騙されたことにね
私も謝ったよ
子供扱いしてた、一番嫌なことしちゃった」
…俺が見栄を張りたいがばかりに、嘘をついた妹は後悔したと明かす。
らいはから事情を伺い、俺は玄関から居間のほうを見やる。
買った食材を冷蔵庫にしまっているのだろう。こっちに見向きもせず二乃は忙しなく動いていた。
あいつの世話好きを甘く見ていたかもしれん。わざわざ押しかけてまで見舞いに来るとは思いもしなかった。
…人の世話になることに慣れていない。妹相手なら別だが…やはり今とは逆に、面倒を看てやっている時が一番気楽だった。
らいはを家に上がらせようとしたところで、妹は手に持った袋を俺に手渡してきた。
「お兄ちゃんの看病は二乃ちゃんに任せるよ」
「…帰るのか」
「まあ…ね
私がいると二乃ちゃんも素直になれないだろうし」
「…俺としてはあの子との間に入って、緩衝材になってもらいたいんだが…」
「そう言われても、今の私はお邪魔虫かな
ちゃんと話したほうがいいよ
不安にさせたまま帰らせないで、二乃ちゃんに限らずね」
「…
ああ、今日は悪いな」
「…」
「…いや
ありがとな、気をつける」
「うん」
お役目御免だと妹は別れを告げる。
謝るのは禁止。その言葉を思い出して礼を述べると、らいはは笑って手を振って帰ってしまった。
…この恩返しは必ずしないといけない。だから倒れたままではいられない。
玄関のドアを施錠し、台所に顔を出すと二乃は手際よく昼食の準備に取り掛かっていた。
俺はらいはからの贈り物を冷蔵庫に詰める。その横で二乃から報告が上がる。
「…五月が後で来るわ
今まで行くなって引き留めてた張本人の私が、今日ここに来てちゃ止まるはずないわ
ここの合鍵持ってるのもあの子だし」
「五月を止めておいて、よく来る気になったな」
「…うっさい
あんたが倒れてたなんて、あの子も、皆も知らないわよ
あの子にもちゃんと言いなさい」
「…」
再度、隠し事をしていたことにきつく睨まれてしまった。視線は交えず、言葉だけで胸を突き刺してきやがる。
淡々と物を冷蔵庫や棚に放り込んで、全て仕舞い終えたことを見届けてから…逃げるように台所を離れてベッドへ座った。
ベッドに寝転がり、カーテンを開けて極力日向に身を晒した。
一日休んで体力は回復したが、どうもだるい。子供たちの前で血の気のない顔を見せたくはない。
だというのに…俺の跡をついてきた二乃に腕を叩かれた。
「…」
「…っ…」
とん、とん。叩かれて、二乃がきつく結ぶ唇から吐息が漏れる。
怒りと葛藤をぶつけられ、何も言えずされるがままだった。
二乃の拳が下りていき、袖を掴まれた。
「ねえ…上杉
ほんとに大丈夫…?
辛いなら、お仕事休めたりしないの?」
二乃は涙ぐんでいた。
不器用な気遣いに心が安堵するも、恩師の娘の要望には応えることはできなかった。
返答のない風太郎に、二乃は追いすがる。
「お金より命の方が大事よ
私達だってバイトしてる、少しくらい…」
「大げさだ、今はただ疲れているだけだ
…休むことはできそうにない、だいぶ前から職場に迷惑かけちまっている身なんだ
けじめとして、今は忙しくてもやり遂げなければならない」
「…」
「おまえ達にも迷惑をかける…
もう少しだけ待ってくれないか
来週は必ず顔を出すから」
「そんなの私たちは求めてないッ!
…あんたも、ママと同じで…自分の教え子が大事なんでしょうけど
私たちの我侭、聞いてほしいわ…」
「…すまん」
「…何よ、教師って皆そうなの?
ママも口では謝ってても、私たちのお願いに応えてくれなかった
…嫌いよ、先生なんて…辞めてしまえばいいんだわ…っ」
「二乃」
俺の不出来な振る舞いのせいで、母親にまで飛び火してしまった。流石に焦った。
優しさを武器に責め立てられてしまっては言い返せない。
身勝手な返答では二乃は納得しない。形振り構っていられず…縋る二乃の頭を抱き寄せた。
長い髪が俺の衣服にかかり、二乃はぎこちなくも体重を俺に預けてきた。
「…貸しに、しといてくれ
おまえらを放って死ぬようじゃ、あの世で先生にぶん殴られるからな
もうおまえらを泣かせたまま去ったりしない
俺を信じてくれ、二乃」
「…何よ、そんなんじゃ認めてやんないんだから」
「…おまえはほんと手強いな
仕事を辞める以外で…どうして欲しいか、教えてくれないか」
降参して二乃の意見を再び伺ってみる。仕事辞めたら五つ子を養うことなんてできん。
実家の借金もあるし、俺が中野家の資産を食ってしまっては本末転倒。だから金以外で解決できる策を探った。
しばし無言、もとい二乃が思案する時間が過ぎた。
お互いの呼吸、上下する胸をお互いに押し付けあう、物静かな一時だった。正直目のやり場に困っていたが堪えた。
とうとう答えが決まったようだ。二乃は俺から離れる…ことはなく、一層きつく服を握ってきた。
「…弱い」
「あ?」
「抱きしめるの、力が弱いって言ったの」
「あ、ああ…え? どういう意味だ?」
「もう大丈夫って証明したいのなら
も、もうちょっと頑張ってみなさいよっ 男でしょっ」
「…
強く抱きしめればいいのか…?
痛くないか? つーか、これ以上近いとほぼ密着するっつーか…」
「い、いいから…つべこべ言ってないで早く 立証はよ」
「犯罪の立証にしかならない気がするんだが…」
こいつ自爆してないか。羞恥を覚悟でねだる様は導火線に火がついた爆弾のようにしか見えん。もしくは暴走機関車。
抱けと急かされる割に、二乃はこれ以上俺に寄り付く気はないらしい。俺からやれと所望している。恐ろしい女だぜ。
渋々と…そんな感情はすぐに悟られて文句言われるので、顔を見る暇を与えずに強引に抱き寄せた。
指が二乃の服に食い込む程肩を抱いて、腰にも手を回した。二乃の胸も俺の体で押しつぶれて形がくっきりと見えてしまう。
際どい、あらゆる意味で危険だった。とっとと満足してくれ。
「…もう、泣き止んだか」
「うっさい、こっち見んな」
「…素直じゃねーな
心配してくれてサンキューな、少し元気出た」
「…うん
あの、タッパー…冷蔵庫に
ご飯作って持ってきたから、夜に食べて」
「ああ…
昼飯に限らず、夕飯もおまえが作ってくれ
もう3週間もおまえの飯食えてねえからな」
「わ、わかった…作る…」
ツンデレめ、こういうところは昔から変わってないんだな。抱きしめてやると安心して大人しくなったものだ。
らいはが教えてくれたタッパーの件、裏事情を知ってしまっては、その小さな優しさに無情に嬉しくなってしまう。
気は済んだかと思って抱きしめる力を緩めれば、二乃は座り直して俺に寄りかかる。
結局この子の我儘が満たされるまで、兄らしく慰めてやる他なかった。兄らしく。
「………」
「…」
「…」
ギギギ… そんな玄関のドアが軋む音が聞こえ、俺と二乃は揃って玄関を見やる。
…そういえば、後から五つ子の一人が来ると言っていた。
合鍵を持った末っ子が来ると。
「い、五月…来てたのか」
「………」
「…」
「…」
「…お、お邪魔しました…」
明かりのない暗がりの向こう。玄関には五月が棒立ちしていた。
抱き合う俺と二乃を見て固まっていた末っ子は、触らぬ神に祟りなしと言いたげに、そそくさと出て行った。
突如、俺は突き飛ばされた。暴走機関車が大慌てで五月を追っていった。
「ちょっと、誤解! 誤解だから五月!」
「二乃が頑なに私をここに向かわせなかった理由が今わかりました
二人の関係を知らずに無粋なことをしようとしていたんですね、私…!
二次被害が出ないよう、私から3人にそれとなく伝えて…!」
「いいから話を聞けー!」
「み、三玖にはなんと言ったら良いのでしょうか…
何年も上杉君を慕っていたのに、二乃が泥棒猫したと知ったら…
か、家庭崩壊でしょうか…最悪別居…」
「ちょ、馬鹿馬鹿ッ! 洒落になんないからスマホやめなさい!
というか何で、私が三玖からあんな男を寝取った流れになるのよ!? 私そんな趣味ないから!」
「だってあんなに強くお互いに抱き合っていたじゃないですか!? ベッドの上で!
付き合ってないんですか!?」
「なわけないでしょ!」
「付き合ってないのに抱き合うのも変ですよね!? ベッドの上でしたし!」
「ベッドベッド連呼すんなー!」
「おい、頼むからマンションの廊下で不穏な単語を叫ぶな」
廊下で姉妹喧嘩をし始めた次女と五女を無理矢理黙らせて自室へ連行しに急いだ。無駄に体力使わせやがって。
隣人に二股とか畜生だとか思われたくなかった…のだが。
後に話を伺えばだいぶ前から疑われていたことが発覚し、早く引っ越ししたい衝動に駆られるのだった。