敷居を跨いでも姦しい二人だったが、俺のスマホに着信が着ていると知ってすぐに押し黙った。
電話だった。相手は…学年主任。
五月は口元に指を添えて、黙ってますのでどうぞ、とジェスチャーを送ってきた。空気読めるのなら最初からしてくれ。
「はい、上杉です」
俺は携帯を片手にベランダへ出た。二人の前で仕事の話は避けたかったのでな。
ぶっ倒れた俺を心配して一言報告が欲しかったようだ。昨晩は飯や仕事の面で世話になったのでお礼を伝えた。
そして大事な話があると前置きして、嫌な予感がする俺に同情するように上司は通告した。
「とりあえず、先日の件はあっちに伝わっている
元よりうちの推薦だったから、隠ぺいがあったと思われる訳にもいかんからな
特に…去年あちらさんは一人亡くされているんだろ?」
「…
返答、ありましたか?」
「安心していい、上杉先生が良ければ予定通り4月から着任してほしいとのことだ
一度健康診断を受けるようには言われたが、先月受けた結果を伝えると納得はされていた
…これでいいんだな?」
「はい、お手数おかけしてすみません」
「月曜は出るのか?」
「はい、きっちり休んで必ず」
「それでご家族の方は納得されたのか…?」
「…ええ、ひとまずは」
痛いところを突かれてしまって今一度考えなおしたが…らいはは呆れつつも認めてくれた。
親父も無理はするな、金のことなら俺も手伝えると言っていた。一度顔見せに来いと言われたがな。
…肝心の五つ子に関しては賛成を得たとは言い切れない。というか教えてない。というか大反対される気しかしない。
俺からの報告、学校側からの通達を終えて電話を切る。
ベランダから部屋に戻ると、二乃と五月が台所に立っていた。
「あんたが勘違いするのは無理なかったとは思ってるけど
上杉疲れてるんだから、少しは落ち着いた対応をしなさい」
「す、すみません…
…
疲れてる人に何をさせてるんですか、と疑問に思うのは特段おかしくはないですよね?」
「あんた、もう今日は黙ってなさい」
「横暴すぎませんか!? 何をしていたんですか二乃は!?
事と次第によっては3人に通報しなくてはなりません」
「こ、こうしてご飯作りに来たんじゃない
あー忙しいわー 肉まんおばけまで来ちゃったら3人前ぐらい追加になるしー
お姉ちゃんが余分に買ってくれて良かったわ」
「ちなみに何作ってくれるんですか?」
「あんた食欲への切り替え早すぎるわ
あんたは所詮おまけよ、上杉の好きなの作るわ」
姉と妹が互いの主張を巡って牽制しあっていた。狭い台所で姉妹喧嘩しないでくれ。
家主が対応せずとも好き勝手している来客に肩の荷が下りて、風太郎は自身の寝床に寝転がった。
…ひとまず、4月からの予定が帳消しにならずに安堵した。
俺が戻ってきたことに気づいた五月が、二乃の料理の手伝いを中断して駆け寄ってきた。
「すみません、上杉君
体調を崩していたというのに、騒がしくしてしまい」
「…それはいいが
ベッドの真横にひっついて沈痛な顔されると落ち着かない
少し離れろ」
「何かあれば言ってください
お詫びも兼ねて、家事の手伝いはお任せください」
「離れろと言っている
臨終を看取られているようで、夢見が悪くなりそうで怖い」
「う…すみません…でも頼ってくださいね
いつかの看病のお礼ですから」
「お、おう…」
気にし過ぎだという注意も含めて、五月の過剰な看病を追いやった。
五月と見つめあっているこの状況。ふと視線を変えれば二乃がこちらを見つめていた。
俺が昨日、倒れたことは五月は知らない。俺が話すのかと伺っているようだ。
…視線を逸らす。この無垢な信頼を寄せる瞳を曇らせる趣味は、今の俺にはない。
チキンな俺にため息をついて、二乃は五月の肩をぽんぽんと叩いた。
「私が言えた口じゃないけど、あまり神経質になると上杉の負担になるわ
寝とけば治るんだから、そっとしておきましょ」
「それは…はい」
…散々駄々こねてたくせによく言う。抱きしめてくれ、なんて慎ましさのない女は現状おまえだけだぞ。
一花にも伺える共通点でもある。姉として妹の前では律した振る舞いを見せるが、単体になるとダメになる奴。
…それ言うと兄である俺も同じか? この度の不始末、仮に実家で暮らしていればまず起きなかっただろう。
同じ年下、妹分にあたる五つ子の前でも同じ。考えると憂鬱になるので思考を止めて目を閉じた。
「上杉君、眠いのですか?
二乃がご飯作ってくれてるのですが」
「ああ、食べる
それまで少し休ませてくれ」
「そ…五月、あんた暇なら消耗品の減り見といて
後で買い物いきましょ」
「あ、はい
えーと…洗剤は…
トイレットペーパーとティッシュは…」
「…あんた、よく保管場所知ってるわね どんだけ泊まってたのよ…
少しくっついてただけで、あんたからとやかく言われたくなかったわ」
「へっ!? も、もういいでしょう、その話は!」
「一緒の布団で寝てたりして…」
「からかわないでくださいっ」
「あんた、上杉がチクるまで隠してたわよねー そういえば
なーにが泥棒猫よ、あんたのほうが手出してるじゃない、三玖に言ってやろっと」
「もう蒸し返さなくていいじゃないですかっ
散々三玖から言われたんです、もう解決したんですからっ 携帯は触らないでくださいぃ」
姦しい。寝ようとしているってのに女子高生の声が耳に響いて時たまに眠気を妨害してくる。
一度体調を崩しただけで、こうまで世話を焼きにくるとは…恩師を通しての縁はあるとはいえ他人でしかないのに。
俺があの時。高校3年の3月。先生と別れを告げなかったとして。
住む場所は変わったとしても、こうしてあの五つ子は何度も遊びに来たんだろうな。
目を閉じる。二人の喧騒がどことなく心休まる騒音に聞こえなくもなかった。
…正直超うるさかったが、ご愛敬ということで…意識を手放して眠ってしまった。
目を覚ませば、目の前にはぴょこぴょこ揺れる緑の物体が。
揺れる様をぼーっと眺めていたら、蒼い瞳がこちらを見上げていた。
「あ、こっち見た」
「…」
確か、二乃の昼飯を食った後にもう一度休ませてもらったんだ。
時刻は15時頃。合間を挟んではいるが合計の睡眠時間は余裕で2桁。寝すぎて体が凝ってきた。
そんなけだるさと時計の針を見た思考に耽って…ようやく目の前の存在に疑問が湧く。
「…おまえまで来たのか、四葉」
「3週間ぶりですね、上杉さん
一か月超えなくて良かったですよ」
「3週間か、あっという間だったな」
「上杉さんはそうかもしれませんが、私にとっては長く長ーく感じていました
何度土日に足を運ぼうか迷っては、一花と二乃に止められてしまいましたからね」
「…心配かけたな」
「いえいえ、私たちも気にし過ぎたって自覚してますので」
四葉の笑顔が眩しい…これで昨日俺が倒れる程疲れていたと知ったら、一転して曇るんだろうな。言いづらい。
凝り固まった体を起こして、水でも一口飲もうと起き上がる。
すると四葉が、既に用意していたオレンジジュースのペットボトルを献上してきた。
「どうぞどうぞ」
「あ、ああ…悪い、気が利くな
そういえば二乃と五月は…?
あいつら出かけちまったか?」
「いえ、まだいるわよ
今は会議中」
「会議って…
…は?」
四葉の気配りに礼を述べつつ、寝るまでいたはずの次女と五女を確認して気づく。
手前のテーブルに着く二乃と五月はいい。その奥にもう2人いるように見えた。
眠気眼をこすって改めて見直すと…どう見ても残りの五つ子の二人である。
「おっはー フータロー君 お邪魔してるよ」
「起こしちゃ悪いと思って…上がらせてもらってるね、フータロー」
「…」
「中野家5人全員、上杉家に集合しました!
上杉さん、ご命令を!」
「狭い家に五人もくるな…」
「撤退は片道2時間かかるので受け付けませんので!」
「おまえは楽しそうだな」
二乃から始まり五月、四葉、一花と三玖。3週間ぶりに見る顔ぶれに眩暈がした。
独り身の家に女子高生が5人。五つ子全員が我が家に来訪していた。人が寝てる間に同じ顔が五つも並んでいたら夢だと疑うわ。
この家には5人もの来客に対応できるだけの備えはない。テーブルにはコップなど用意されておらず、五つ子はペットボトルで喉を潤していた。
…どの道、近々五人とは面会しないといけないと思っていた。向こうから来てくれたことに感謝するべきか。
テーブルの椅子は全部埋まっているので俺はベッドに腰かけたまま、四葉は床に座り込む。移動するのに手間のかかる流れだ。
「会議って何を話し合っていたんだ」
「フータロー君、世間はもうじき3学期の終業式だよ
春休みはどうしよっかって話」
「ああ…
…待った、それには俺も含まれているのか?」
「いけませんか?
できれば2年に進級する前にお爺ちゃんに会いに行こうかと
その際は上杉君も一緒がいいのではないかと思って
「…フータローは忙しい?」
「ほら言ったじゃない、上杉は無理だって
それに…や、休むのもいいじゃない、お爺ちゃんも長期の休みは旅館忙しいし
遊びに行くのはゴールデンウィークとかで十分よ」
「…昨日まで春休みはフータローに車出してもらって買い物するってうるさかったくせに
急にどうしたの」
「や、やー 社会を嘗めてたというか
私もバイトあるし」
「二乃ってばさっきから挙動不審だよ
上杉さんと何かあった?」
「…そうです、さっき二乃が上杉君とベ――」
「あんたは黙ってなさい」
二乃…俺が過労で倒れたことを唯一知る次女はどうにかフォローを差し込もうと必死になってくれていた。
春休みか…すまんが春休みは総じて教師は忙しい。そもそも社会人に春休みなどない…お盆休みと正月休みしかないのだ。
爺さんの元へ行くと言っていたが俺が不参加となってはキャンセルになった。ゴールデンウィークで温泉に浸かりにいくか、と話をしつつ。
…俺がいない間寂しがってたとか、らいはや一花が言っていたが…案外しっかりやっているじゃないか。明るく談笑していた。
そんな様子が垣間見えたから、それとなく伝えるのもアリかと思って口火を切った。
「そういえば言い忘れていたが、昨日ついうっかり倒れちまってな
湯治と言ったら大袈裟だが、ゴールデンウィークに温泉は行きてえな」
「…あの、すみません
うっかり、何ですか?」
「…
ぶ、ぶっ倒れた…仕事中…」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…あんた、ちょっと雑過ぎない?
らいはお姉ちゃんは懇切丁寧に話してくれたわよ
健康診断は受けてきなさいよ、若くないんだから頭も看てもらいなさい」
「俺はまだ20代だ」
先まで和気藹々と話していた女子5人全員が首を曲げてこちらを見ている。薄暗いのもあって正直不気味だった。
テーブルの3人の視線が気まずくて反対側を向くと、いつの間にかベッドに座った四葉と目が合った。
俺と目が合うと四葉はにっこり笑った。怒ってるのか悲しんでるのかよくわからないが、俺に言いたいことがあるのは間違いない。
「フータロー君、お仕事大丈夫なの?
辛いのなら一旦お休みしよ?」
「それ、私も散々言ったけど、首を縦に振らなかったわよ
まあ連絡をよこさなかったことに関しては反省はしてるみたいだから
そっと見守りましょ、逆に責め立てちゃ逆効果よ」
「そうだけど…倒れるくらい働くなんておかしいよ
お母さんだって、もっと早く止めてたら…」
「様子見よ、様子見
次があったらこうして押しかけて、病院に連れていきましょ」
説得を断られた二乃が俺に代わって一花を宥めてくれた。助かるぜ二乃、おまえを抱きしめてやった効果がここにきて現れるとはな。
長女の不安は姉妹共通のもの。一花の決定権は覆しにくいものだが、二乃なら一花を納得させた上で説得できる。この上ない落としどころの付け方だ。
「上杉さん、隠し事はするなって私に言ってたじゃありませんか…
言いたくない気持ちはわかりますけど、命に関わる大事なお話はちゃんと教えてほしいです」
「悪い、せめて落ち着いてから…4月には話そうとは思っていたんだが」
「遅すぎると思います」
「すまん…もう2度としないと約束する
「四葉、あんたもほら
上杉だって私たちが言うまでもなく、ママのこと分かってるんだから」
「…うん」
四葉の心配を完全に払うことはできそうにないが、ひとまず押し留まってくれた。
言いたいことを言わせない、封殺するやり口は卑怯だ。それでも、五つ子が揃う今は不安が不安を助長させるだけ。
後に四葉個人と話を交えなければならない。この子がまた間違えないように、開き直ったりしないように。そういった意味での謝罪をした。
二乃の援護もあり、四葉は矛を収めてベッドから降りた。床にしゃがみ込んで、残る姉妹の行く末を見守っていた。
「フータロー…お仕事も大変だけど
私たちに付き合うのも大変だったよね…やっぱり迷惑かけてる」
「それ込みでおまえらの面倒を看ると言ったんだ
今回は俺の管理不足が原因だ」
「ううん、フータローは私たちにいっぱい尽くしてくれてた
甘えてばっかりだったから…フータローが辛い目に」
「その点心配してるんだったら簡単じゃない
あんたが立派になれば解決、上杉も心置きなく仕事に専念して自分の時間を確保できるわ」
「…
一番フータローの時間奪ってるのは…二乃と五月のはず」
「わ、私は…ご飯作ったりしてるし
差し引き合わせたら少ないほうよ、たぶん」
「第一、何で二乃は知ってたの、フータローが倒れたの」
「それは…らいはお姉ちゃんと今日会って、教えてくれたから」
「その時点で私たちにも共有すべき」
「ひ、人のプライベートをそう簡単に話せるわけないでしょーがっ!」
「立派になる云々の話なら
成績悪い四葉と二乃…一花が改めるべき」
「私は女優の仕事してるからノーカンね、五人の中で一番稼いでるし」
「四葉も陸上部で成績上げてますので」
「ちょっとあんたたち、そういう問題じゃないでしょ!?
私を生贄にして逃げようたって、そうはさせないわよ!」
三玖は俺を咎める以前に二乃との姉妹喧嘩にシフトしていった。
こればかりは狙ってやったんじゃないだろうな。とことん主張がぶつかり合いやすい二人だった。
そして最後に、先程から黙っている末っ子。
「…」
「…おい、五月」
「そんなところまで、お母さんに似ないでください…」
「…」
五月の一言で、4人の姉妹も押し黙る。
それが五つ子全員の本音だったのか。誰一人否定しなかった。
…先生だって、五つ子を置いていきたいと思って去っていったわけない。
死ぬはずがない。まだ大丈夫だと思い込んで…余命宣告を受けた。
どんな思いで父親に打ち明けたのか。娘に隠し生きてきたのか…それを考えれば俺も軽視はしてはならない。
返す言葉がない。大丈夫だと言い張ることもできず。仕事を休むとも言えず。お互いが意地を張り合うだけ。
「…
買い物、いかない? 足りないものあるし」
結局助け舟を出してくれたのは二乃だった。
「今日は泊まっていきます」
「…」
とうとう許可すら求められなくなった…
早めの夕食を終えて、日も暮れて真っ暗となった夜空には星々が散らばっていた。
狭い家での空間や匂いが五つ子で満たされてしまい、少し温まった身体を冷まそうと家主はベランダに出ていた。
隣には五月。恩師の娘から告げられたのは大胆かつ拒否を許さない宣言だった。
金曜と土曜は風太郎が中野家に泊まることが多い日だ。男女が泊まるなと指摘するのも今更だった。
「…おまえ一人か?
4人が止めないのなら構わない」
「はい」
「…怒っているのか?」
「いえ、もう諦めました
後は次がないことを祈るだけですから
…怒っているというより、ただ
このまま上杉君を一人にはしたくない、そう思っただけです」
「それで泊まりか
これじゃあ立場逆だな」
「でしたら私が大人になったと誇って良いですか」
「俺がガキに落ちぶれただけだろ」
「大人になっても甘えるべき時は甘えるべきですよ
それは幼稚になったとは言わないと思います」
寒い風が身に染みる。五月はお互いが冷めないようより近くに寄ってきた。
「お昼に電話されていましたが
月曜日、出勤するのですか?」
「ああ、そのつもりだ」
「…もう少し休んでからが良いのでは」
焦りすぎだ、疲弊した体が追いついていないと五月は忠告する。
他校の生徒から見ても、俺の仕事量が多いと危険信号を感じ取っている。五月はやや食い下がった。
今日はもう3月の半ば。来週は3学期の終業式がある。
その後は学生は春休み。4月からは新学期となり、俺が受け持つ2年の教え子は3年に進級する。
「…」
「…大事、なんですよね
ご自分の生徒が」
「…見損なうか?」
「いえ、母もそうでしたが
…もしかしたら、家族や大切な友人よりも尊重したい仕事があるとしたら
それはとても有意義なんじゃないかと…一概に否定してはいけないと思っています」
「物は言い様だな」
五月は諦めに似た苦笑をして、俺からの返答を聞いた最後、部屋の中へ戻って行った。
…けじめをつけると、二乃には話した。五月が知ったらどう思うだろうか。
過剰な労り、好意の押し付けだと俺は昨日の一件から抱かれた五つ子の優しさを無碍にした。
とても言えたもんじゃない。だからこれもまた、隠し通す他なかった。
「あと1年違ったらな…」
卒業を見届けたかった。心残りは消えず、俺も五月に続いて温かい部屋へ戻った。
戻ると五つ子たちは帰り支度をしていた。もう20時過ぎ。帰宅すれば23時になってしまう。遅くまで付き合わせてしまった。
…流石にこの家で5人も泊まらせるのは無理だ。中野家のあの値の張るマンションが憎い。五つ子から引っ越ししろと散々文句言われた。
「じゃあ、フータロー君の監視は五月ちゃんに任せて帰るよ」
「監視…?」
「明後日は働くんでしょ
五月に見定めてもらおうって話」
「そういう話になったのか…
五月が泊まることに対しては何もコメントなしか」
「………」
「三玖が何か言いたそうですが
拗れるだけなので私たちは帰るとしますっ
上杉さん、来週はうちにいらしてくださいねっ
お泊りもOKです!」
「ああ、今度こそな 泊まらねえけど」
「またまた」
夜道には気をつけろよ、と見舞いに来てくれた4人を玄関から見送った。
…来週の金曜日は行かないとな。ここまでされて何も返せないでいるとあいつらと向き合えない。
五月と並んで玄関のドアを閉じると、押しかけてきた教え子は湯船に湯を溜めると言って風呂掃除を買って出た。
病人扱いされてしまい、俺を差し置いて家事を全て引き受けるつもりでいるらしい。
「五月、おまえ泊まりの用意はしてあるのか?」
「先程買い物に出た時に諸々買ってきましたよ」
「…おまえのバイト代、こういうところから地道に削られてるんだろうな」
「…もう、私の私物を常備しておいていいですか?」
「どういう開き直り方だ…
今は都合が悪い、また今度な」
「す、すみません…
そういえば上杉君
どことなく私物が片付かれていますが…荷物整理ですか?」
「え…ま、まあな、12月の大掃除の名残だな、ははは」
「?」
まだ全ては終えていないが、作業の途中だと見破られて多少焦った。家に出入りしているだけある…侮れないぜこの五女。
五月の手伝いから俺は思う存分休ませてもらい、風呂に入ってからは少し仕事に手をつけた。
俺が倒れた翌日に仕事をする様に、風呂上がりの五月は顔をしかめたが、俺の仕事机を見て別の物に興味を向けた。
整理が行き届いて、私物が減った机には小さな籠があった。
「これは片づけないのですか?」
「あ、ああ…それは最後にな」
「…」
五月は視線だけ送る。
その訴えに苦笑して、風太郎はそれを手に取って、五月の手の平に乗せた。
古いお守りだった。
五月も、五つ子全員が知っている。俺の宝物だ。
仕事で辛い時、悩んだ時はそのお守りを手に考えに耽る時間が増えた。
思い返すことは目標に向かっていく上で道標を正すのに重要なもの。
もう間違えないように、恩師からの最後の贈り物だ。
「…身につけておいたらどうですか?
健康祈願ですよ、これ」
「…失くしたら嫌だし
ボロいから壊れそうでな」
「では仕事が落ち着く時まででいいので
何かと心配なので、お母さんに上杉君を守ってもらいましょう」
「…」
「…お母さんが寂しがってたら、連れてかれてしまいそうな気もしますけど」
「怖いこと言うな…
そもそもあの人の謙虚さを考えたら、まずないな」
「そうかもしれませんね」
二人して苦笑い。困った人だと憧れる人を思って。
五月はお守りだけでなく、籠にある宝物に触れていく。
その中には三玖から貰い受けた赤い花の栞もある。
「三玖には悪いことしてしまいました」そう言って手を離し、五月は布団を床に敷いて寝る準備を始めた。
寝るには少し早いか。もう3学期の期末は終えてしまったが、勉強くらい見てやろうか。
思いつきから腰を上げると、準備を終えた五月は敷いた布団ではなく俺のベッドに座っていた。
「…今日はそっちで寝るか?」
「い、いえ、私はお布団で
それよりも上杉君
ひ、一つやってみたいことがあって」
「?」
「えっと…こちらにどうぞ」
どうぞと言われて、五月は手を広げて膝を見せつけてきた。
何もありはしない。五月の目を見返すと…頬がほんのり赤く、視線を逸らされた。
…もしや、膝枕のつもりか。
いや、何のつもりで。俺は足を止めた。五月は俺が制動をかけたことに硬直する。
寝るなら枕で寝かせろ。おまえの膝より余程眠れるもので。
「い、今は何も言わず、こちらに頭を乗せて寝てください
いいじゃないですか、膝枕されるの嫌いですか?
このままでは泊まった意味がなくなってしまいます」
「あ?」
「上杉君には、私たちがいつまでも子供じゃないということを知っていただきたいんです
でなければ、上杉君は繰り返すでしょう」
俺が五つ子に隠し事をしたこと、まだ根に持っていたのか、こいつ。監視役を担うだけある。
それが子ども扱いしたことに結びつくかは定かではないが、五月は子供として見なされたことが原因だと考えたのか。
しかし、だからって五月の膝に寝かされるのは抵抗がある。そう渋っていると、五月に手を掴まれた。
強制的に座らされ、頭を掴まれて膝に押し付けようとしやがる。やり方が既に子供じみていないか、五月。
仕方なく抵抗をやめて、五月の膝に頭を乗せた。
「ど…どうでしょうか」
「どうって…」
「安心して眠くなったりしませんか?」
「寝すぎて眠気はない」
「ね、寝てくれないと困ります…」
「…」
「…あの、頭…撫でてみていいですか?」
「俺は珍獣か何かか、勝手にしろよ
俺も断りなくおまえの髪触ったしな」
「で、では」
十も年下の女に膝枕されている状況に羞恥心よりも戸惑いしか湧かない…一体何が目的なのやら。
そわそわと五月の指に髪を撫でられ ぎこちなくも子供をあやすように撫でられた。
過去に五月に膝枕してやったことがあった。その真似か、もしくは母との思い出にあるものの真似か。
五月が満足したら辞めようと思っていたが、もう少しこのままでいるのも悪くなかった。
俺が脱力して五月の膝に頭を置いたことが伝わったらしい。五月は少し笑って俺の頭に触れていた。
「自分と先生を比べるなと、らいはに叱られたな」
「…」
「…悪いとは思っているんだ…だが謝り方が…わからない
許しを得ようと得なかろうと、俺は努めなければならない」
「はい」
「…五月、来月まで待ってくれ」
「来月はお仕事が落ち着くのですか?」
「恐らくはな、おまえたちとの時間もより多く作れる」
「…わかりました、期待して待ってますね」
「…随分と物分かりがいいな」
「上杉君が約束を守ろうと破ろうと
私は上杉君を支えて、自分の夢を叶えるだけですから」
「…そうか、俺に関係なくか
そのほうが頼もしいな」
眠りはしなかった。それでも遥かに心休まる時間だった。
倒れて窮地に立たされて、五つ子の将来を不安視した自分に、五月はこの一時で教えてくれた。
随分と逞しくなってくれたもんだ。男一人膝に抱え込むその懐の大きさに少し感銘したほどだ。
しかし、これに至るまでの過程が慎重過ぎないかとも思った。
「わざわざこの為に泊まりに来たのか
2人で会話する時間ぐらい、昼に作れたのに」
「だ、だって…」
「…」
「ひ、膝枕、してみたかったんです…
皆の前でできるわけないでしょう」
「…真似事が好きな点は子供のそれだな」
「もう真似事ではなく、私だけのものですから」
部屋の明りを後ろに、膝の上から五月を見上げる。
長い髪と、もう子供とは言ってやれない胸の奥から、五月は俺を見下ろして微笑んでいた。
五月はあの人によく似ている。
今は違って見える。五月の愛らしくも女性として魅力的な微笑みに気恥ずかしさが蘇った。
五月が恐れていたテストの後。
高校1年の二学期の中間テスト。その答案用紙が全て返された。
その日、五つ子それぞれかがテストの成果を知らせるメールが送られてきた。
「期末に乞うご期待ということで…お仕事いってきまーす」
一花は赤点は回避できなくても、数学や他数科目は平均点程。
心置きなく女優業に着手して良いよねと言われたが、平均点以上取ってほしかったぞ。
「さ、流石にそんな簡単に点数上がんないわよ…」
二乃は他姉妹程勉強会には参加していなかった。友達との交友を優先していたこともあり赤点多め。
2年から頑張れと言いたいが、後に担任から俺へ相談を持ち掛けられた。本人の知らぬところで大人は頭を悩ませている。
「…頑張った、フータローのお陰だよ」
三玖は休日と金曜の夜、俺の勉強会にほぼ参加していたこともあって全科目赤点脱却。その懇親っぷりに何か礼を弾むと話した。
喜んでくれた三玖だったが、冷やかしを飛ばす二乃と口論が激化し、三玖と俺の二人きりで行動するにはまだ早いとのことで一花が同行していた。
「お、お…お許しください…部活、部活がぁ…」
二乃よりも成績が悪かった最下位が四葉。こいつは自分の意思に関係なく部活で多忙だった為致し方なし。
部活を理由に成績を下げて受験で苦労しても、誰も同情はしてくれない。と説教してやっても良かったが…部活での成績が凄まじい為見送った。
「…」
そして五月の報告が一番最後に届いた。
五月の点数は…一科目だけ、理科だけ赤点だった。得意分野の科目で。
それ以外の科目はどれも高め。80点を叩き出したものもあって見違える成績だった。
だが、五月が目指した…補修を受けない点数は果たせなかった。
それもよりによって、一学期は赤点など取らなかった理科で。
…理科だけは、俺は五月に教えていなかった。本人が自分で点数を取れると言い張ったから。
俺はそのメールを確認した後に、彼女に電話をした。他の四人は律儀に電話してきたのに末っ子だけ雑だったのだ。
「惜しかったな」
「…」
「…」
電話に応じはしても気落ちした心境では、ろくに返事も出せないらしい。
赤点を取っていた生徒が二か月で成績をここまで改善させた。理科以外は。その努力は褒めても良いはず。
だが、気休めなど求めていないだろう五月に、その言葉は不要にも思えた。
紙に書かれた二桁の数字。その結果だけで心を苛み悲観する様は大げさにも見えるだろう。
テストの成績が高校生の全てではないし、まだ高校1年生だ。後に挽回すればいいだけのこと。
しかし、そんな軽い言葉で踊らされる程の、軽々しい誓いではなかったのだ。
己の不出来が、怠惰と自己嫌悪を突き詰めた象徴だとしたら。その人生は落胆続きの虚しいものになるかもしれない。
だから言ってやった。当然の結果だと。身勝手に希望を抱いて絶望するなど馬鹿がすることだと。
「そりゃあ、おまえ…俺の家に来ては飯を食い
あまつさえ泊まったり、夜泣きしては添い寝をねだって
勉強時間を別のものに割いてた奴が、どこに自信を抱いていたんだ、勉強甘くねーぞ」
「…うッ」
「外に連れ出せばパフェをごねたり」
「そ、それは…甘い物は疲れた頭に効きますし」
「家に来ても、台所をジロジロと覗いてきて集中してねーし」
「…し、自然と見たくなってしまうものなんです」
「…俺が教えた教科は見事赤点回避したのに
余裕綽々だと言い切って任せっきりにしてた理科で落とした、と」
「…り、理科はいけるはず…だったんです…ギリギリ」
「馬鹿か、余計な見栄張らずに俺に言えばこうはならなかったぞ
おまえのプランは最初から見通しが甘いんだよ
パフェなんて食ってるから頭も甘くなるんだ、水で我慢しろ」
「う、ひぐ…も、申し訳ありませんでした…」
失敗した生徒をフルボッコにする教師。もはや虐めである。五月はボロ泣きしていた。
真剣に勉学に取り組んでいた五月だが、思い返せば無駄な時間が多かった。
それは無意識にテストへの不安から脱しようとする現実逃避だったのかもしれない。
こいつの精神力は極めてポンコツだ。
甘ったれで。泣き虫で。早とちりばかりで。意地っ張りで。とことん馬鹿不器用だ。
だが…そんな短所が勉強に費やすことで改善されてしまうとしたら…天国の母親はきっと泣いて悲しむ。
「楽しかったぜ」
「…ぇ」
「だから、楽しかったと言った
おまえは?」
「わ、私は…
今となってはこんなこと言うのもおこがましいのですが…
…私も…楽しかった…です…上杉君との勉強…本当に…」
「そうか」
ならそれで良かったんじゃないか。口にはできない慰めだった。
五月は少し感じ取ってくれたようだ。ぶっちゃけおまえが赤点取ろうが0点取ろうが大して怒るつもりはない。
ただ、それでうじうじ悩んで…後に大きな過ちに踏み出そうとすれば全力で止める。罵詈雑言ぶつけてでも。
目標に届かなかったことに悔しい思いはしても後悔はしなくていい。これ以上責め立てるわけにはいかず電話を切ろうとした。
「…上杉、君
私…悪い子、ですよね
あんなに後悔していたのに
また同じ失敗をしたのに」
「それを決めるのはおまえだ
親子として一緒に過ごしてきたおまえ達だけが、答えを持っているはずだ」
「…ずるい人
貴方が教えてくれたことじゃないですか
忘れたわけじゃないんですよ、私が今までお母さんにしてきたこと
確かに赤点を取って補修を受けたせいで、お母さんを一人にしてしまった
かといって、その為に得たお母さんとの時間は失いたくありません」
五月は心の内を吐露する。
それは諦めでも懺悔でもなく。
「でも、私は
両方欲しかった
もう間違わないように…私」
誰かの祝福を求めての宣誓を。
「ねえ…上杉君
今ね、一つ…思い出したんです、小学生の頃」
子供の小さな意気込みを他人は聞き入れはしない。
「私、馬鹿だから…賞状なんて貰えなかったんです
でも…一つだけね、貰えたの
お母さん、凄く喜んでくれて」
「ああ」
その声を聞いて、気持ちに喜んで、努力を応援するのは家族であり友達で。
俺とあの人は、心からこの子を歓迎していただろう。
「皆勤賞
毎日休まず、学校に通って
誰だって取れる、そんな物にお母さんは…頭を撫でて褒めてくれました」
健やかに、幸せであってくれることを望んでいた。
もう叶わない願いだったが、俺は十年…先生とおまえたち5人が幸せに生きてくれることを願っていた。
その欠片を叶えようと、五月は教師に道標を願う。
「上杉君
我侭を言っていいですか?」
「ああ」
一度失敗したくらいで落ち込んでいては、あの母親の娘らしくない。
涙は零れず、静かに伝っていく。
その涙が前を向いて努力するきっかけとなるのなら。その滴の跡は忘れられないものになる。
「勉強教えてください」
「勿論だ」